2009/06/07

思想(岩波書店)2009年第6号(no.1022)

 岩波書店の『思想』2009年第6号(no.1022)の後半が、グーグルブック検索裁判和解問題特集になっていたので、難波に出てジュンク堂で購入。田舎の普通の本屋じゃ、売ってないのだった。
 中身はこんな感じ。

福井健策 「グーグル裁判」の波紋と本の未来 (p.143-146)
宮下志朗 作者の権利、読者の権利、そして複製の権利 (p.147-156)
長谷川一 〈書物〉の不自由さについて: 〈カード〉の時代における人文知と物質性 (p.157-165)
高宮利行 書物のデジタル化: グーテンベルクからグーグルへ ダーントン論文への重ね書き (p.166-172) 
ロバート・ダーントン著、高宮利行訳 グーグルと書物の未来 (p.173-185)

 最後のダーントン論文は、冒頭に編集部が断り書きを入れているとおり、ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年3月号に掲載(配信)された、「グーグル・ブック検索は啓蒙の夢の実現か?」と、ほぼ同内容である。ル・モンド・ディプロマティーク版はフランス語から、思想は英語版(New York review of books. vol.52 no.2 (Feb. 12, 2009))からの翻訳とのこと。
 「インターネット上ですでに公開された論文とほぼ同じ内容のものを、紙媒体で後追いして掲載することについては、編集部でも議論があった」そうだが、議論するまでもないような気もする。後追いだろうが何だろうが、特集(と、銘打たれているわけではないが)として必要なものであれば、転載してでも何でも載せるべきだろう。そこに「編集」の意味があると思うのだが。
 ちなみに、編集部としては、「物質としての永続性を持つ紙媒体での提供を選択し続けている本誌がもちうる役割と機能に鑑みたとき、本稿を掲載することには一定の意義があると判断」して、掲載に踏み切った、とのこと。いかに『思想』とはいえ、雑誌が「永続性」を看板にするのは、違和感があるが……。

 宮下論文は、ヨーロッパ中世の写本時代について論じ、活版印刷の誕生と普及を待つまでもなく、著作者の「著作権」意識は誕生してきたいた、という議論を展開。
 長谷川論文は、〈カード〉と〈書物〉をめぐるここ数年の著者の論を展開したもの。今進んでいるのは、〈書物〉を〈カード〉に分解する、というよりも、テキストを物理的媒体から分離しようとする動きのような気もするので、今ひとつ、しっくりこなかった。が、自分の読みが浅いかも。
 グーグルブック検索裁判和解に関して直接論じているのは、福井論文と、高宮論文と、ダーントン論文。
 福井論文は、「書籍の再流通モデルとして、グーグルのビジネスが成功するのか」という点と、書籍のネット配信の流通チャンネルを握るのは誰か、そして、「デジタル化された膨大な情報の権利を誰が管理するのか」という3点が、今後の問題ではないか、と問いかけ。
 高宮論文は、ダーントン論文を補足する形で、慶応のHUMIプロジェクトによるグーテンベルク聖書デジタル化事業などを紹介。しかし、「中国、韓国、日本のいずれの場合にも、印刷は国家の統治者の肝いりで行われた」(p.169)という記述は、誤解を招くのでは。韓国の出版史についてはほとんど知識がないので何ともいえないが、中国と日本に関して言えば、寺院や民間による出版の活発さは、別にヨーロッパに劣らないと思うのだが。あと、「情報に関する優れた記憶力で図書館利用者に尊敬されていたレファレンス担当者の主な仕事は、コンピュータ検索のためにキーワードを打ち込むだけになってしまった」(p.172)といった記述もあって、それはちょっと違うのでは、という気持ちに(というか、もともと日本ではほとんど尊敬されてなかったのでは、という話もあるが)。まあ、細かいところにこだわってもしょうがないのだが、現役図書館長でもある、ダーントン氏の論文と比べると、変に気になってしまうのだった。
 ダーントン論文については、ル・モンド・ディプロマティーク版でも、ほとんど書かれている内容は同じなので、そちらを見てもらった方が早いといえば早い(オープン・アクセスの訳語が、それぞれ違ってたりして、比べて読むのも一興)。グーグルの独占によって、電子ジャーナルと同様の価格の高騰が引き起こされる危険性がある、という指摘は、さすが図書館長、という感じ。図書館を啓蒙主義プロジェクトの末裔として位置づける視点は、要求論優位の日本では、批判的に読まれてしまう可能性もあるが、こういう長いスパンで、図書館の役割を見直す、ということも、やはり必要ではないだろうか。出版関係者よりも、図書館関係者こそ必読かと。

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2009/03/01

近世版木展

 今日、じゃない、もう昨日か。2009年2月28日(土)に立命館大学アートリサーチセンターで開催されている「近世版木展」(2009年2月16日〜3月6日。ちらしPDF)を見てきた。
 奈良大学が所蔵する竹苞楼など由来の版木4,000点をデジタル化するプロジェクト(立命館大のグローバルCOEプログラム「日本文化デジタル・ヒューマニティーズ」拠点・日本文化研究班によるもの)に関連して、その版木自体を展示する、というもの。実際には奈良大学だけではなく、アートリサーチセンター所蔵の版木などもあり。
 版木の構造など、基礎的な解説から、版木における様々な技法、虫害により痛んだ版木や、版下を貼付けて途中まで彫った状態の版木(何故か作業が中断したようだが、それによって、どのように彫っていたかが、ちょっとだけ伺える)などなど、小さい展示スペースながら内容は充実。複数の版元による共同出版の場合の版木の持ち合いの仕組みなどを現物に即して分かりやすく解説してくれるなど、近世出版史入門編の趣も。
 それにしても、版木におけるレイアウトの自由度には驚愕。入木や埋木といわれる、版木の一部を削って、新たに別の文字や言葉を入れる(版元が変わったりするケースでよく使われる)という手法くらいは知っていたものの、パーツごとに分割できる版木を組み合わせて、大判の一枚ものを摺ったり、枠からはみ出した頭註の部分だけちょこっと継ぎ足したりと、ここまで自由自在に対応していたとはまったく知らなかった。
 枠があってその中に文字という部品を詰め込んでいく、活字印刷系の発想とはまったく別の本の作り方があった、ということを痛感。版木的な発想のDTPソフトとかあったら、面白いかもしれないなあ。
 ああ、それにしても、図録がないのがもったいない。この展示自体をデジタルアーカイブ化しておいてもらえないものか。
 会場では、版木を様々なライティングで撮影したデジタル画像を検索できるデータベース等も触れるようになっていたけれど、さすがにこれは研究者向け、という感じ(版木自体を分析することを目的としたものなので)。何をやっているのかが、より広い層に分かる、という意味では、今回の展示は実は重要なのでは、という気も。
 ちなみに、同じキャンパス内でDH-JAC2009 第1回 日本文化デジタル・ヒューマニティーズ国際シンポジウムをやっていたのも知っていたのだけど、諸般の事情でパス。大英博物館とか、ボストン美術館の話はちょっと聞きたかったかも。

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2009/02/23

「ARGカフェ(03)商業利用の是非をめぐって(補足)」をめぐって

 當山日出夫さんが「ARGカフェ(03)商業利用の是非をめぐって(補足)」で書かれている、著作権保護期間を満了し、パブリックドメインとなった著作物における「所蔵者の権利」と「デジタル化した〈引用者注:機関・人の?〉権利」の問題についてちょっと感想めいたことなど。
 国の機関(直営)の場合、資料・史料は、国の財産であり、国の財産は何であれ、商用で利用する際には、何らかの対価を必要とする(国有財産の使用料が必要)という組み立てになっているのでは。公共財たる国の財産を使って、何らかの利益を得るのであれば、それに対して一定の適切な(何が適切なのかがまた難しいけれど)対価を国に対して提供することが必要、という理路だったと思う。おそらく、地方自治体で直営の機関の場合にも同様では。
 デジタルデータも、国(地方自治体)の財産であり、一時期、国のデータベースの無料公開が遅々として進まなかった理由も、ここにあったように記憶している。だとすると、デジタル化を国(地方自治体)の予算で実施した場合には、同様にデジタル画像やテキストデータも国(地方自治体)の財産として扱われ、その商用利用には対価が必要ということになるのではなかろうか。
 逆にいえば、著作権保護機関を満了した資料について、復刻を拒絶する根拠は(適切な対価が支払われる限りにおいて)法的にはないのではなかろうか。少なくとも、自分のところでは、実務的にはそうなっている。
 ただ、著しく公共性を欠く(例えば悪質な複製を作って、不当に高額で売りまくる、とか)場合には、所蔵者として、復刻自体を拒否することも可能な気もする。
 このあたり、本当は会計法とかの知識が必要なのだと思うのだけれど、法律ネタは自分の最も苦手とするところなので、これ以上はちょっとよくわからない。いかん。
 おそらくは、独立行政法人や、国立大学法人などの場合はまた話が違うのだろう。ん? そういえば、国立博物館の所蔵品は国の財産なんだろうか。その博物館を運営する法人の財産なんだろうか。我ながらこういう基本的なことを知らないなあ。
 何にしても、この問題は、所蔵しているのが誰なのか、というところから、その所蔵者の法的位置づけを明確にしていかないと、漠然と、博物館・美術館・図書館・文書館とまとめてしまうと、議論が混乱してしまうのではなかろうか。その点、ちょっと気になってしまった。

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2009/02/22

第3回ARGカフェ&ARGフェスト@京都

 2009年2月21日(土)に、第3回ARGカフェ&ARGフェスト@京都に参加。
 ずっとブログの更新をさぼって来たのだけれど(ここのところ、仕事以外に文章を書く気力が出てこなくて)、岡本さん@ARGが、ブログに書け、と呼びかけていたので、ちょっと乗っかってみる。
 プログラムについては、ACADEMIC RESOURCE GUIDE (ARG) - ブログ版2009-01-18(Sun): 第3回ARGカフェ&ARGフェスト@京都への招待(2/21(土)開催)を参照のこと。
(2/23追記)2009-02-21(Sat): 第3回ARGカフェ&ARGフェスト@京都を開催も参照のこと。特に関連リンクはこっちの方が充実。

 まずは第1部について。それぞれ持ち時間5分でのライトニングトーク。
 冒頭、岡本さんから京都の飲み屋の紹介文化(どこの飲み屋でも、「○○を飲めるいい店はないか」と聞くと教えてくれる)を題材に、ARGカフェ&ARGフェストも、人脈を独占する場ではなく、互いに広げ合って行く場であってほしい、といった感じ(ちょっと違うか?)の趣旨説明があり。
 トップバッター當山日出夫さん「学生にWikipediaを教える−知の流動性と安定性」は、Wikipediaの陵墓(天皇陵)の履歴などを参照させつつ学生に課した課題を題材に、Wikipedia等のインターネット情報について、完全性・安定性と流動性の観点と、信頼性の観点がどう関係するのか、ということを問いかける内容。
 続く小橋昭彦さん「情報社会の“知恵”について」は、メールマガジン「今日の雑学」シリーズの経験を通じて、情報でも、知識でもない、「知恵」というある種の善悪判断を含んだものをどう伝えて行くのか、ということを問いかけ。あと、「今日の雑学」への参加も呼びかけ。
 小篠景子さん「「中の人」の語るレファレンス協同データベース」は、国立国会図書館のレファレンス協同データベース事業の理念と課題を分かりやすく説明しつつ、事例提供館の偏りという課題にどう取り組むべきかを問いかける、というもの。手書きのスケッチブックによるプレゼンという技が光った。
 三浦麻子さん「社会心理学者として、ブロガーとして」は、ブログでは議論はしない(それはアカデミックな場でするもの)という姿勢の話が印象的。あと、心理学系の学会誌のネット公開が全体として遅れている状況なども。出たばかりの著書(共著)『インターネット心理学のフロンティア』(誠信書房, 2009)についても紹介あり。
 谷合佳代子さん「エル・ライブラリー開館4ヶ月−新しい図書管理システムとブログによる資料紹介」では、大阪府からの補助金の全額廃止という逆境の中にあって、図書管理システムの更新や、ブログを活用した資料紹介などの取り組みを紹介。あと、サポート会員募集中とのこと。
 村上浩介さん「テレビからネットへ」では、とあるテレビ番組をきっかけとしたカレントアウェアネス・ポータルへのアクセス集中と、その際のアクセスの傾向(検索エンジン経由のアクセスが多い、とか、ケータイを使ったアクセスが結構多い、とか)について紹介。ちなみにアクセスが集中した記事は図書館猫デューイの記事とのこと。
 後藤真さん「人文「知」の蓄積と共有−歴史学・史料学の場合」では、人文科学とコンピュータ研究会の紹介や、情報歴史学という自らの専門分野を通じた、歴史資料の共有と、単なるデジタル化だけではなく解釈や構造までデータ化することが重要との問題提起も。上田貞治郎写真史料アーカイブのためのシステムを開発中との話あり。
 福島幸宏さん「ある公文書館職員の憂鬱」は、館数の少なさなどからくる情報の少なさや、情報技術に関する関心の低さなど、文書館/公文書館界の問題点を指摘しつつ、世代交代を危機であると同時に機会としても捉える視点を提示。
 中村聡史さん「検索ランキングをユーザの手に取り戻す」では、ヒューマン・コンピュータインタラクションにおける研究成果でもあるRerank.jpを紹介しつつ、人によるインタラクションの重要性について指摘。
 岡島昭浩さん「うわづら文庫がめざすもの−資料の顕在化と連関」は、青空文庫ならぬうわづら文庫における、画像によるデジタル化(テキストでなく)を個人で行う活動を紹介。文学史上の重要文献が以外に入手困難なままに置かれていることや、校訂者の権利の問題などについても。
 嵯峨園子さん「ライブラリアンの応用力!」は、企業ライブラリアンからの転職の経験を踏まえて、ライブラリアンとしての基本的な姿勢や技術が、実は様々な場面で応用可能であり、非常に優れたものである、ということを紹介。ちなみに、現在はヒューマン・コンピュータ・インタラクション分野で活躍中とのこと。
 最後の東島仁さん「ウェブを介した研究者自身の情報発信に対する−「社会的な」しかし「明確でない」要請?」は、ネット上の眉唾もの情報に対する、研究者に求められる対応についての問題提起。同時に、研究者から見た「分かりやすさ」と一般の人から見た「分かりやすさ」の差(例えば、専門用語に対する意識とか)が大きい、といった話も。

 質疑では、一番乗りで人文系の学会誌のデジタル化が進まない理由を質問してみたり。その他、(古)写真のデジタル化の課題や、今後の文書館/公文書館に必要な人材像、JCDL (Joint Conference on Digital Libraries)、ECDL (European Conference on Digital Libraries)、ICADL (International Conference on Asian Digital Libraries)などに(あるいは、せめて日本の情報系の学会に)日本の図書館員も参加すべしといった意見、人文学の危機に対して国としてどう取り組むべきかといった問題提起など、さまざまな話が展開して、短い時間ながら何と言う情報量。おそるべし。
 第1部全体としては、ライトニングトークも質疑も、その場で議論が深まる、というのではないものの、様々な問題意識が次々と展開して、頭の中がシャッフルされるような感じ。こりゃ面白い&刺激的。ただ、ちょっと今回は図書館系の人が多かったかなあ。

 続いて、会場を移しての第2部ARGフェストにも参加。要は飲み会なのだけれど、とにかく色々な人とお話しするのが眼目(あんまり一人の人を独占しないように、と、岡本さんからお達しあり)。
 第1部の発表者の何人かとお話したり、図書館雑記&日記兼用の中の人や、Lifoの中の人たちとお話したり、とにかく、いろんな人と飲んだりしゃべったりした。
 特に、京都大学の松田清先生とお話をすることができたのは、洋学史を少しかじった身としては、何と言うかちょっと感激。来年、小野蘭山没後200年なので(そういやそうか)、何かできないか、とかそんな話を聞いたりも。
 ただ、Wikipediaの中の人と話しそこねてしまったのは我ながらうかつ。せっかくの機会だったのに。あと、名刺はもっと大量に持って来ておくべきでした。
 とかいう感じで、個人的には反省点はあるものの、密度が高くて楽しい会であったことは間違いなし。ぜひ、次回があればまた参加したいもの。
 後は今回お話できた方々と、今後につながる動きが何かできれば。まあそれはまたこれから考えよっと。

(2009/2/27追記)
 小野蘭山没後200年を100年と間違えていたのを修正しました(100年前じゃ江戸時代はとっくに終わってますね……)。
 松田先生、ご指摘、ありがとうございました。

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2008/10/27

今によみがえる林靖一

 たまたま、金沢文圃閣の広報(?)誌(紙)、『文献継承』の第11号(2008年2月発行)を入手。小林昌樹「今によみがえる林靖一(1894-1955)−日本における開架の本当の始祖」(p.1-5)を読んだ。えらく、面白かった。
 盗難があることを前提とした「持続可能な開架」という課題に戦前取り組んでいた林靖一の業績について簡単に紹介しつつ、なぜその業績が忘れられたのかを(そして、それでもなお、林の系譜は戦後の資料保存論につながっていることを)語った小文。戦前の図書館人による蓄積を、戦前だから、という理由で切り捨てることが、いかに愚かなことかが、しみじみとよくわかる。
 林という人は、理想を追いつつも、現実の法制度の中で実在するリスクをどう扱って行くのか、という問題に正面から取り組んだ人なんだなあ。爪の垢が残ってたら、煎じて飲みたい感じ。

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2008/10/07

月光に書を読む

 鶴ケ谷真一『月光に書を読む』(平凡社, 2008)を読んだ。『日本古書通信』読者は必読っていうか、正確に言うと、比較的読者歴の短い読者には必読かと。
 様々なテーマを軸に古今東西の様々な著作をめぐるエッセイである前半「月光に書を読む」や、随筆の名手、岩本素白について語る「素白点描」も味わい深いが、何といっても、本書の後半約半分を占める「読書人柴田宵曲」が白眉。
 柴田宵曲の著作は、最近、ちょこちょことその著作がちくま文庫に入ったりしていて、何となく読んでいたいたのだけれど、いったいぜんたい、何をしたどういう人だったのか、さっぱりわからないままだったのが、ようやく氷解。子規庵との関わりとか、こういうことだったのか。三田村鳶魚の著作とか、ほとんど柴田宵曲が口述筆記してまとめたものだったとか、別の人の名前で著作が刊行されても別に怒るでもなく、淡々としていたとか、そんな話がいろいろ。著作権とか、そんな話は、まったく超越したところにいた人だったんだろうなあ。
 というわけで、柴田宵曲って、何となく名前を見るけど、この人は誰、と思った人は本書を読むべし。
 しかし、初出が出てないけど、この本、全部書き下ろしなのかなあ。こういう本を書き下ろしで出しているとすれば、平凡社(特に担当編集者の方)偉い、と思ってしまった。

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2008/02/11

落ち穂拾い(映画編)

 この間、見た映画は、

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(監督:摩砂雪・鶴巻和哉 2007年)
ジャーマン+雨』(監督:横浜聡子 2007年)
カフカ 田舎医者』(監督:山村浩二 2007年)
ペルセポリス』(監督:マルジャン・サトラピ&ヴァンサン・パロノー 2007年)

だったかな?

 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』は、普通に面白く見られて、何となく安心した感じ。時期的に、新訳『Zガンダム』の影響とかあるのかな、と思っていたのだけど、公式にはそういう発言は作り手側からは出ていないような。はて。
 それはさておき、私の前の席で見ていたカップルの娘さんの方が、終わったとたんに、難しくてよくわからなかった、と、連れの青年に語っていたのが印象に残っている。彼はおそらく、テレビシリーズで直撃を受けた世代なのだと思うのだけど、何とか面白さを彼女に伝えようと熱っぽく語っていた。……のだけど、あまりうまく伝わっていない様子。予備知識なしに見た人を引きつけるのは難しいのかなあ。

 『ジャーマン+雨』は、(私にしては)珍しく実写。デジタルビデオ撮影(上映も)だったこともあって、ちょっと見ていて目が疲れた。が、主役にやられた感じ。父と娘の確執とか、お話の基本構造自体は、実は古典を踏まえているのかもしれないが、主役の性格付けや、キャスティングが見事で、普通ではない作品に。いかにもミニシアターっぽい、という側面も持ちつつ、幅広い層が楽しめる要素も詰め込んであるバランス感覚がすばらしい。
 ちなみに、見たのは京都みなみ会館でのプレ上映。監督と、出演しているひさうちみちおの舞台挨拶とトーク付きでお得だった。そういえば、ひさうちみちお(劇場に自転車で来ていたのがまた印象的)の演技がまたいい味出してた。

 『カフカ 田舎医者』は、一回見ただけだと、よくわからない……。映像として凄い作りだというのはわかる。あえていえば、もっと、映像の力でねじ伏せてくれてもよかった、という気もする(贅沢言い過ぎか)。まあ、何となくすごいものを見た、という感じは残ったのでまあいいか。

 『ペルセポリス』は、イラン出身の女性の半生をもとにしたグラフィックノベルを、その作者自身が監督としてアニメ映画化したもの。てっきり、CGかと思ったら、パンフを読んだら、原画と動画はほとんど手書きだと書いてあって驚愕。
 描かれている時代もあって、相当に悲劇的なエピソードが多いのだが(イラン革命とイラン・イラク戦争の時代だったりするので)、あくまで笑いを忘れない作り。見ている間は、ゲラゲラ笑って見ていられるが、冷静になってみると、原作者兼監督の、自分自身の体験を相対化する力に圧倒される。
 ほとんどのシーンがモノクロでありながら、なんというか一種カラフルな印象さえ残る映像がすばらしい。キャラクターはシンプルなようでいて、きちんと年齢の変化を反映させる芸の細かさ。それぞれのキャラクターの動きの芝居がまたいいのだが(特に子供時代とか)、何と、監督自身が全てのキャラクターを自分で演じてみせたビデオを作り、それを参考にアニメーターが作画したのだとか。また、短いテンポで畳み掛けていくカット割りは、日本のアニメを見慣れた目にも違和感がない感じ。
 今回あげた4本の中では、一番安心して誰にでも薦められる(他は人を選ぶ)。それにしても客が少なかった……。もっと入ってほしいなあ。
 ちなみに、見た後、戦後日本において、軍と国教(国家神道)と王権が、少なくとも政治的な影響力という意味では解体・変質させられたことの「幸運」を、強く意識してしまった、などというと、建国記念日を意識し過ぎか。

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2008/02/09

落ち穂拾い(読書編)

 雪がずっと降り続いていて、何となく引きこもり状態。
 明日から、「てんま天神梅まつり 古書即売会」(会場:大阪天満宮 会期:2008年2月10日〜17日)なんだけど、大丈夫かなあ、などと心配……している暇があったら、ブログ更新しろよ、という話なのだが、なかなか書く気が起きないのが困りもの。
 とりあえず、中断期間中に読んだ本について、時間がたってしまったものについて、メモ書きしておく。

高田宏『言葉の海へ』洋泉社, 2007. (MC新書)
 初の近代的国語辞書『言海』を作り出した大槻文彦の評伝。とにかく熱い。
 国民国家(nation)を生み出すために国語文法と国語辞書を確立しようとする文彦の格闘の軌跡と、そこに重なり合う様々な人々の動きを、明治24年に開かれた『言海』完成記念の宴を結節点として語る一冊。本書第1章がこの宴に割かれている。特に伊藤博文のスピーチは感涙もの。
 ちなみに、大槻文彦は大槻如電と兄弟で、大槻玄沢の孫。文彦の父、大槻磐渓(玄沢の末子)についても本書は多くの紙幅を割いている。磐渓は、仙台藩で佐幕開明派として活躍し、明治維新の過程では結果として賊軍として敗北する側に立つことになる。敗北することで結果として自らの主張していた政策実現の道が開けていくというあたり、旧幕府系の人材の悲哀を感じさせて、記憶に残る。これもまた一つの「敗者の精神史」。

長嶺重敏『東大生はどんな本を読んできたか 本郷・駒場の読書生活130年』平凡社, 2007. (平凡社新書)
 大学南校、開成学校時代からの、東京大学(東京帝国大学も含む。当たり前だけど)の学生の読書生活について、図書館、書店の両面から探っていく一冊。
 大学図書館史、生協史としての側面もあったりする。そこが逆に「読書」というものが持つ多面性を浮き彫りにしているところがポイントか。学生はただ与えられる本を読む消費者だったわけではなく、流通まで含めて(発禁になった左翼文献を含めて)読みたい本を読むための環境を作り出そうとしていた、という点も興味深い。
 それにしても、大学図書館の仕事をしながら、コンスタントに著作を発表している著者のパワーはすごい。

林屋辰三郎『京都』岩波書店, 1962. (岩波新書)
 読んだのは2005年の53刷。京都の各地域を、その地域と特に強く結びついた各時代と結びつけて紹介する、という趣向。
 京都史としても読めるところが勉強にはなるが、ガイドブックとしては地図がちょっと少ないし、情報が古すぎるかも。1960年ごろから、いかに京都が変わったのかを知るために読むべきなのかもしれないが、変わったところも多いとはいえ、意外に都市としての基本的な構造は変わっていないことにむしろ驚かされる。

エマニュエル・オーグ著,西兼志訳『世界最大デジタル映像アーカイブ INA』白水社, 2007. (文庫クセジュ)
 フランスの放送アーカイブ兼研究所(兼人材育成機関)、INAについての概説。
 日本でいうと、NHKの付属の研究所が、全ての放送(ラジオ・テレビ)の番組のアーカイブ機能を持って独立したような感じか。まあ、フランスの場合、国営放送の独占状態だった期間が長かったということもあるのだろうけれど、1974年から番組そのものをアーカイブする活動が、国主導で行われていたというのは驚き。
 そのアーカイブ機能を担ってきたINAの設立前史から、危機の時代を経て、デジタル化と公開体制の充実に邁進する最近の動きまで、コンパクトにまとめられた一冊。以前は、文庫クセジュといえば訳が悪くて読みにくい、という印象が強かったけれど、本書はその心配なし。
 こういう施策(持続的なアクセスの保証)とセットであれば、コピーワンスもまだ理解できたかもしれない、などと考えながら読むのも一興。

 あー、まだあるんだけど、比較的最近読んだ本についてはまた別途。

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2007/12/09

柳澤文庫「甲斐武田と柳澤氏」展

 大和郡山へ行く用事があったので、ついでに柳澤文庫へ。
 何かやっているかな、と覗いてみたら、'07年度秋季特別展「甲斐武田と柳澤氏」(会期:2007年9月25日〜12月9日)を開催していた。風情のある木造の建物に靴を脱いで入り、廊下奥右手のふすまを開けると、二間の和室があって、そこが展示スペースになっている。
 郡山城の主であった柳澤氏といえば、徳川綱吉の側近であった柳澤吉保(自身は、川越藩主、甲府藩主だったが次の代で国替になって郡山藩主に)が有名なのだけれど、甲斐武田氏と関係があるとは知らなかった。
 何と、柳澤氏は元々武田の流れを汲む家で、武田氏が滅びた後、徳川家の家臣になったんだそうな。そういう背景もあって、柳澤氏は、自らの原点として武田氏関連の資料を蒐集していたようで、それらが柳澤文庫に残されている、ということらしい。武田信玄直筆の手紙なんか展示されていて、おお、という感じ。単なる大河ドラマ便乗企画ではないのだった。
 さらに、今回の展示の裏テーマは、近世大名としての柳澤氏における軍制と、領内統治との関係という点にあったようで、甲府から郡山へと領地が変わっていく過程における、柳澤氏の軍制の変遷に関する資料も展示されていた。
 そういえば、『兵学と朱子学・蘭学・国学』なんて本の感想を書いたこともあったなあ。やはり、江戸期の武士による統治を支えていたのは、軍事的な知と制度だったのか、などと、展示を見ながら考えたり。
 ちなみに、今の大和郡山は、金魚と城趾で知られる静かな町だけれど、かつては大阪の東の守りの要衝で、京都・奈良が大火の際には消火に向かう義務を負った重要な藩だったとのこと。その藩主の家に代々残されてきた資料を引継いだ柳澤文庫には、郡山藩関連の資料だけではなく、今回展示された武田家関連資料のような、様々な資料が残されているようだ。
 私立の図書館・古文書館としての活動もユニークだし(最近では、歴史体験講座や、学習相談も行なっている模様)、配布される観覧の手引き(手作り感溢れる解説目録)も親しみやすい対話体の補足説明を導入していて、工夫が凝らされている。低金利が続く中、財団法人の運営は大変だと思うのだけれど(おそらく文庫自体は極少人数での運営ではないかと)、これからもがんばってほしい、とか、偉そうに思ってしまう。今度行ったら、友の会入ろうかな。

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2007/12/01

東京人 2007年12月号 特集「昭和30年代 テレビCMが見せた夢」

 konoheさんが紹介(というか、執筆)されているというので、『東京人』2007年12月号(22巻14号(通巻248号))を購入、読了。
 こっち(近畿地域)では手に入りにくいかな、と思いきや、なぜかTSUTAYAで売っていてちょっとびっくり。
 特集は『Always 続・三丁目の夕日』公開に合わせて、「昭和30年代 テレビCMが見せた夢」。

・昭和30年代の(ということは、テレビCM草創期の)代表的、または(今から見ると)変わり種のテレビCM紹介
・当時のCMに関係するキーパーソンのインタビュー、エッセイ(柳原良平、山下鈴雄、泉大助、大橋巨泉、小林亜星)
・CMに関するエッセイ
・対談(中野翠×鹿島茂、山川浩二×天野祐吉)

といった内容。
 CM史だけではなく、特に大衆音楽史に関心のある向きも、チェックしてもよい内容ではなかろうか。特に三木鶏郎とその周辺に関する記事や証言が多い印象。一方で、アニメーション史的な記述は薄いような。柳原良平が、アンクルトリスと、桃屋ののり平、シチズン坊やが同じアニメーターだったと語っているくらいか。画面写真が結構あるので、資料的には意味がありそうだけど。
 必読は高野光平「黎明期CMの考古学。」(p.72-77)、山田奨治「なぜ見られない? 昔のCM。」(p.90-91)か。相変わらず、タイトルの最後に「。」が付くのが、『東京人』流。
 「黎明期CMの考古学。」は、初期テレビCMが、現在のように画一化されていない、多様な形式、形態を持っていたことを実例に基づき検証。現在のCMが可能性の一つでしかったことがよく分かる。
 「なぜ見られない? 昔のCM。」は、納品形態の変化に対応して、制作会社の利益確保の方法として導入された、CMの「著作権」という考え方が、今となっては再利用を阻み、また保存の道も狭めてしまっている、という現状を指摘している。
 特集全体としては懐古趣味的傾向が強いものの、一方で、歴史資料/文化史資料としてのCMの意義にも目配りされてるところがありがたい。
 特集以外では、与那原恵「昆虫の世界を自由に生きる、九十六歳の現役生物画家。」(p.110-117)が、『 ファーブル昆虫記の虫たち』シリーズ(ボローニャ国際絵本原画展で入選)で知られる生物画家・熊田千佳慕の生涯を紹介。クマダゴロー名義での絵本作家としての活躍も興味深いが、兄で詩人の熊田精華の友人であった、デザイナー山名文夫の紹介で、名取洋之助の主催する「日本工房」に入社、『NIPPON』のレイアウトを担当したといった話もあったりする(熊田五郎名義)。土門拳と親しくて、土門に「恋のアドバイス」をしたこともあったとか。写真史に興味のある向きは、ちょっと見ておいてよいのではなかろうか。

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«文化資源という思想—21世紀の知、文化、社会/「世界を集める」展/「植物のビーズ」展