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2004/02/29

空のむこう

 遠藤淑子『空のむこう』(白泉社JETS COMICS, 2004)を読了。
 遠藤淑子の久々の単行本であり、短編集。そういえば、花とゆめCOMICSじゃない、というのは初めてかもしれない。
 収録作は、1997年から2000年にかけてのもので、『まんがライフオリジナル』(竹書房)に発表した作品が3作収録されているのがファンとしてはうれしいところ。最高傑作、とはいわないが、ギャグあり、シリアスあり、現代物、時代物、学園物、日常エッセイと、各種とりそろえていることもあって、遠藤淑子入門用の一冊としては、結構いい感じになっている。
 タイトル作ともなった「空のむこう」は、西洋ファンタジー風の設定を使いつつ慣習の力の強さの前に呻吟する若き王の姿を、学園物の「リンク」では友人の家庭の事情というどうしようもない状況に振り回される生徒たちの姿を描くなど、よく考えると、最後までいっても、根本的には何も解決はされていない話が多い。にもかかわらず、どの話もどこかラストはさわやかで、帯に書かれた「涙と笑いと希望と、勇気。」というコピーに偽りはない。
 この、状況としての救いのなさと、読後感とのずれは、遠藤淑子作品に共通するものだ。これはいったい何なのだろう、とずっと思っていたのだが、『文化=政治』を読んで、少し分かった気がする。全てを外部から制御されてしまっている状況の中では、自分が自分のことを決定できる領域を、ほんのわずかな期間、わずかな空間であっても確保する、ということが、諦めと絶望の中で「希望と、勇気。」を確保するための一歩になりうる。遠藤淑子が描いているのは、一見無駄とも思える行動の持つ、こうした意味なのではないか。このことを、必ずしも(というか何というか)美麗ともリアルともいえない、一見、ほんわかコメディーとしか見えない絵柄で、描きつづけているのだろう。
 というわけで、『文化=政治』の/を副読本とするのも、こっそりお勧め。

2004/02/28

文化=政治

 毛利嘉孝『文化=政治』(月曜社, 2003)を読了。
 1999年のWTOシアトル会議で見られたような、旧来のデモや集会とは異なる新しい形態の「いまどきの政治運動」を紹介しつつ、その特徴や問題点、そして可能性を語る一冊。
 WTOシアトル会議における反グローバリズム運動が、マスコミの語る無秩序な暴動、というイメージとは異なり、様々な立場、意見を持ったいくつもの集団が集まり、時間をかけて合意を形成しつつ行われたものだった、という話は、知っている人は知っている話なのかもしれないが、ちょっとびっくりした。
 祝祭的(本当にカーニバルだったり、パフォーマンスが中心だったりする)で、非暴力的で、絶対的な権威を持った指導者が存在しない(そもそも中心がなかったりする)という、そのあり方は、政治的発言権を確保して既存の権力構造の中に入り込んで行こうとする旧来の政治運動とは全く別物。権力の奪取ではなく、その時、その場の空間を奪取する、というと、そんなことをして何の意味があるのか、という気もするが、権力構造の枠組みから排除されてしまった集団・問題が、存在しているということそのものをあからさまにする、というのは、案外効果的な戦略なのかもしれない。とはいえ、シアトル会議のように、マスコミというフィルターを通したとたんに、集団・問題の見え方はまったく別のものになったりするわけだが……。
 というわけで、インターネットというマスコミとは情報ルートが存在していることが、大きな意味を持ってくる。じゃあ、その別の情報ルートで流される情報が正しいのか、というと、そうと決まっているわけでもないわけなので、なかなか世の中難しい。
 日本でも同様の動きが始まっている、という部分が一番面白い。薬害エイズがらみの「運動」の時に指摘されていた生真面目さが薄れているところがいい感じだが、じゃあ自分も何かやってみようか、とまではいかないところが、しんどいところかもしれないなあ。
(どうでもいいが、カウンターが不調。誰かに適当に設定をいじられているような気もするなあ。nifty純正のカウンターをさっさと提供してほしいものだが…)

2004/02/25

しにか 2004年3月号

 大修館書店の『しにか』2004年3月号を読了。
 実は、他にもいくつか読み終ってたりするのだが、書く方が追いつかない……。
 『しにか』は、中国を中心とした、東アジア文化/漢字文化をテーマにした総合誌という、ちょっと他に類を見ない雑誌だったのだが、本号で休刊。毎号買っていたわけではないが、時々、特集によっては買って拾い読みしていたので、なんとなく寂しい。創刊は1990年。この十四年を長いと見るか短いと見るか。
 特集は「漢字の将来ーどうなる?どうする?」と、「中国学・韓国学の〈十年後〉』の二本立て。それぞれ、関係する各分野の専門家によるエッセイをいくつか集める、という趣向になっている。
 「漢字の将来」の方は、コンピュータ(特にワードプロセッサーとしての)が漢字を容易に扱えるようになったことを、どう捉えるのか、という問題が(結果としてだと思うが)中心に。樺島忠夫「これからの漢字政策を考えるー外来語に語彙を占領されないために」では、読める漢字(=ワープロで書ける漢字)と、手書きで書く漢字を分けて考え、教育の中で、前者の数を増やすことを考えるべきと主張する。一方、読める漢字を増やすべきという点では共通するものの、小林一仁「漢字教育をどう変えるべきかー国語科の科目を抜本的に改革した上で」では、書くことも含めた漢字の使いこなしを重視している。こうした、いくつかの立場の違いはあるものの、漢字を読む力が失われれば、過去の文化(近代を含む)との接点も失われるという危機感の深さは共有されている。
 一方、「中国学・韓国学の〈十年後〉」では、各分野の専門家が、それぞれのスタイルで、十年後を予測したり、希望を述べたりしているのだが、ここでも、コンピュータの影響は大きく、人文諸学各分野で、恐ろしい速度で進む電子テキスト化の影響が大きいことがうかがえる。と同時に、中国・韓国ともに、人的交流が進んでいることの影響や、以前は不可能に近かった現地調査が容易になったという変化の意義が、様々な視点から語られていて興味深い。
 中国については、「党国体制」の変化の可能性を語る、小島朋之「現代中国 政治解放が焦点に」、韓国については、北朝鮮との統一が将来的にあるということを前提として今後の東アジアの将来像を考えるべき、とする、小針進「現代韓国 GDP二万ドル時代と南北統一を迎えるか」が示唆的。手近に仮想敵国がないと生きていけない人たちにとっては、大変な時代が来るのかも。
 が、そういう時代が来るかもしれない今、『しにか』のような雑誌がなくなる(ということは、きっとそれほどは売れていない)というのは、将来を楽観しにくい状況ではあるなあ。
 ちなみに、本号の『しにか』の表紙は赤(炎という文字がデザインされている)だったりする。かつて80年代に『遊撃手』が使ったネタ(雑誌の最終号は何故か赤い表紙が定番)を思い出したのは、私だけだろうか。

2004/02/22

第13回サンシャインシティ大古本市

 池袋サンシャインシティ・ワールドインポートマート4Fで開催中(会期:2004/02/20〜2004/02/29)の第13回サンシャインシティ大古本市に出かけてきた。主催はサンシャイン古書の会。規模としては、いわゆるデパートの古書即売展、という感じだが、同時開催のCD/レコード市も含めると、結構ボリュームがあるかも。古本市の方だけなら、ざっと全部見て二時間くらいか。
 全体として、フィギュアや、ムック、雑誌を中心にしたサブカル系の躍進(?)が著しいのが印象的。一方で、マンガの占めるスペースは確実に小さくなってきているような気がする。ちなみに、当然ながら、和本はほとんどなし(和装本のほとんどは近代以降のもの)。本道楽の時代は遠くになりにけり……。
 今日は、戦前ものを中心に何か面白いものはないかなあ、とふらふら。斎藤茂吉の句集や、軍人向け訓話集とか、普段なら手にとらないようなものを、パラパラとめくって楽しめるのは、手軽に手に取れる即売展の雰囲気があってこそ。今回、試しに、背にタイトルが入っていない薄いものを丹念に見てるようにしていたのだけれど、変なものが混じっていて楽しい気がしてきたなあ。…とはいえ、見て楽しむだけで、買ってないのだが。
 結局、購入したのは、『新京案内 康徳六年版』の復刻版(アートランド, 1986)と、デヴィッド・カスバートソン『書物の世界の三十三年間の冒険』(図書出版社, 1991)の二冊のみ(どっちも安い!)。あまりいい客ではなかったか。

2004/02/21

デザインは言語道断!

 川崎和男『デザインは言語道断!』(アスキー, 2004)を読了。
 デザイナーである著者によるMacPowerの連載エッセイの単行本化もこれで四冊目。今回は、1998年5月号から2001年1月号掲載分までが収録されている。
 挑発的な発言(初代iMacを批判したのもこの時期)は相変わらずだが、名古屋市立大学の教授として多忙を極めた時期だったせいか、体調の不調について触れている文章が多い。世紀の変わり目を前に、(これまでの三冊と比較すると)どこか重苦しさがただよう。著者の父親の死に際して書かれた一文も、あまりに痛々しい。
 にもかかわらず(あるいは、だからこそ、かもしれないが)、デザイナーとして、教育者として、成すべき(成したい)ことがある、という意志が強烈に文面に現れている。この強烈さこそが、著者のエッセイの魅力ではなかろうか(強烈な分、嫌いな人は嫌いかもしれない)。
 「ユニバーサル・デザイン」という言葉が流行り出した時期でもあり、著者のユニバーサル・デザイン観が(断片的にではあるが)書かれている文章も多い。自らが障害者であることを強く自覚しつつ、それを売り物にすることはしない(喧嘩の武器にはしているようだが…)著者ならではの視点は、ユニバーサル・デザインに関心がある向きには参考になるのでは。
 ちなみに、タイトルの「言語道断」は、もともと仏教用語として持っていた「言葉で説明しつくせない」という意味で使われている。あえて挑発的なタイトルに見えるように計算されているところが、心憎い。

2004/02/17

本道楽

 中野三敏『本道楽』(講談社, 2003)を読了。
 近世文学や近世文人伝研究の泰斗、というよりも、むしろ、愛書家・集書家・蔵書家として知られているような気もする著者の自叙伝である。
 本自体が凝った作りだったりするところがさすがだが(書店で見かけたら、カバーをちょっとはずしてみてほしい)、中身がまたなんとも。東京、名古屋、九州と、移り住んだ土地での古書店との出会いと、個性的な古書店主たちの生き生きとした挿話もいいのだが、特に著者若き日の思い出が、伝説の世界を垣間見るかのようなきらびやかさ。
 そもそも、森銑三を中心とした三古会や、藤波剛一を中心とした掃苔会(著者が関わったころには未亡人の和子夫人が中心となっていたとのこと)が、昭和40年ごろまでは活動していたということに呆然。おそらく、山口昌男が『内田魯庵山脈』(晶文社, 2001)で描いたような、江戸の知的伝統を引継いだ趣味人的サークルを実地に体験しえた(そしてその伝統を継承しえた)、著者が最後の世代なのではなかろうか。
 その粋のかけらの持ち合わせもないこちらとしては、ただ、その輝きのあまりのまぶしさに、目もくらまんばかり。
 さらには、反町茂雄、長沢規矩也、横山重といった、古典籍界の重鎮が次々と登場し、様々な横顔を見せてくれる。近世文学にはとんと疎いので、登場する研究者の名前には今一つぴんとこないのだが、その筋の人が読めば、それはそれでまた楽しめるはず。『国書総目録』刊行の衝撃などは、その時代を経ているからこその証言だろう。今、当たり前にあるものが、いかに衝撃的なものであったか、よくわかる。
 一方で、和本が大量に流通していて、当たり前のように古書店に並んでいた時代は、もはや完全に過去のものになってしまった。著者が書いているような武勇伝の数々は、現在ではちょっと考えられない。かつては当然だったものが、失われてしまったことも、よくわかる。
 自叙伝だけに、客観的な記述、とはいかないが、近世古典籍資料に関心があるのであれば、こんな時代があったのか、と、ため息がでること必至。

2004/02/15

本草から植物学へ

 文京ふるさと歴史館の平成15年度学習企画展「本草から植物学へ 岩崎灌園から牧野富太郎まで」(会期:平成16年2月14日〜3月21日)を見に行ってきた。
 正直なところをいえば、さほど期待はしていなかったのだが、予想以上の充実ぶり。入館料100円でこれは激安というべきだろう。
 ただし、平賀源内展のように、レアな超一級品が並んでいるわけではない。
 基本的な資料を一般的な流布本で抑えつつ、要所要所でこれは、というものを繰り出してくるところが渋い。岩崎灌園がらみでは、『本草図譜』の近代の各版を展示したり、『日本古典全集』(日本古典全集刊行会)所収の「本草通串」の附録と間違われて収録された『本草図説』(本草図譜の前身)を展示するなど、おお、そうだったのか、という発見もある。
 園芸関係については園芸書だけではなく、梅屋敷、花屋敷といった江戸期の園芸テーマパークを地図や名所図会等を駆使して紹介する展示を展開。
 個人蔵の馬場大助『蛮産衆英図説』や、高知県立牧野植物園蔵の関根雲停『リュウガン枝写生』など、普段はあまり見られない図も展示されているのも見逃せない。特に、『蛮産衆英図説』は新出資料だったりする。この他、江馬活堂の日記『東海紀行』(『藤渠漫筆』第九編巻三)では、馬場大助との出会いの経緯などが詳細に書き込まれていて、これまた、めちゃくちゃに面白い資料だったりする。
 最後は牧野富太郎まで話をつなげていくのだが、ちょっと無理に引っ張っている感じも……。ただし、文京区に住んでいた植物学者ということで、松村任三、三好学、伊藤篤太郎を紹介しているところがまたまた渋い。
 展示品のかなりの部分を提供している平野満氏と、講演が予定されている磯野直秀氏の協力も得て、本草学史研究の最新の成果が反映されている。単なる一地域館の展示と甘く見ていた私が間違っていた。本草・博物図譜ファンは必見。

2004/02/12

二十面相の娘(2)

 修論の口頭試問も終ったので、マンガをぐーたら読んでいる。社会人大学院生生活は、楽しかったなあ……。アカデミック・ライセンスでソフトが買えるなんて、もう二度とないかもしれん。
 というわけで、小原慎司『二十面相の娘(2)』(メディアファクトリーMFコミックス, 2004)を1巻と一緒にまとめ読み。
 二十面相とはいっても、江戸川乱歩の世界をそのまま再現、というわけではないところがミソで、そもそも世界や歴史そのものを、こちら側とは少しずらしたような設定になっている(らしい)。乱歩の世界、というよりは、江戸川乱歩を材料に、独自の世界を組み上げた、というべきか。その舞台で二十面相に育てられ、鍛えられた、健気で凛々しい女の子が活躍する、というお話……と書いてしまうと、実も蓋もないか。
 伏線が大量にありすぎて、未完の幻の傑作になってしまいそうな匂いがぎゅんぎゅんするし、時間軸通りに話が進んでいかないということもあって、構成としては分かりにくいものになってしまっているが、所謂レトロ・フューチャー的なデザインセンスと、柔らかさと硬さのないまぜになった微妙にぶれる輪郭線が、なんとなくいい感じ。巧い、というタイプの絵ではないし、時々バランスが崩れているような気もするんだけど、なんか、これでよし、という雰囲気にさせられてしまう。うーむ、この感じをなんといえばよいのやら。
 一応、謎また謎、で引っ張っていくストーリーではあるのだけど、伏線の回収はどうでもいいので、破綻してもいいから、絵の力で強引に話を進めてくれたほうが、面白そうな気がしてきたなあ。

2004/02/08

オゾン

 麻生みこと『オゾン』(白泉社花とゆめCOMICS, 2004)を読んだ。
 作者は、白泉社の中堅どころ(ん? もうベテランというべきなのか?)としては、一番とんがった表現のできる作家の一人ではなかろうか。代表作は『天然素材でいこう。』なんだろうけど、最高傑作はまだ描かれてはいない気がする。
 今回は短編集。というか、標題作はシリーズになりそこないではないか、という気も。バンド成り上がりものの、これから成り上がる……んじゃないかな、というところで終っていて、おやおやという感じ。まあ、この人に普通の成り上がりストーリーをやられても拍子抜けなので、これでよかったのか。番外編的描き下ろしの小編が、作者の持ち味をじわりと出していていい感じ。実力はあるんだけど、先頭は走れない、というタイプのキャラクターの屈折ぶりを描かせたら天下一品である。
 標題作関連以外の収録作「SHALL WE DANCE?」は、アイドル(男)と一般人(女)の恋愛をちょっとひねった視点で描いた佳作。『天然素材でいこう。』を描いているときから考えていたネタというだけあって、構成があざやか。読ませるなあ。
 両作品とも、細かくコマを重ねていくシーン、一気に大ゴマでたたき込んでいくシーン、どちらも使い方がうまい。視点の動きのテンポが良くて気持ちがいい、という感じかなあ。構図も考え抜かれているし。うーん、うまく表現できない。しかも、モノローグ的な言葉の使い方とか、トーンを使った雰囲気の作り方とか、読めば読むほど、見事な技がちりばめられていて、お見事。でも、ここまで描けるならもっとすごいものを、と期待してしまうのが読み手の性というものですな。

2004/02/06

大航海(特集 ファンタジーと現代)

 『大航海』(新書館)no.49 「特集 ファンタジーと現代」を読了。
 風邪を引いていた(まだ治らない…)ので、更新に間が空いてしまった。『大航海』は別に毎号読んでいるわけではないのだが、某朝日新聞の論壇時評か何かで誰かが取り上げていたので、ちょっと読んでみたくなったのだった。以下、とりあえず、面白かったものだけさらっと。
 一番分かりやすく面白いのは、小谷野敦「ファンタジーは君主制の夢を見るか?」。『プリンプリン物語』を話の枕に、初期ロマン主義、19世紀オペラなどから、現代のファンタジー作品まで、脈々と受け継がれる王子様、お姫様といった「貴種」の物語としての共通性をえぐり出す。要するに、みんな、王子様、お姫様の話が好きだったのだ、ということを比較文学史的に(かなり単純化して、だが)論じる、という趣向。そこに、「民主制に基づく近代社会の構成に対して感じられる違和感」までを読み込んでしまうのは、著者のサービス精神の成せる技かもしれない。ただ、君主制の方が女性の指導者が(民主的なシステムによる指導者選択に比べると相対的に)生まれやすく、「そこに、フェミニズムと君主制の親和性が生まれる理由がある」というのは、なかなか鮮やかな逆説で、やられた、という感じである。
 その一方、小谷野とともに表紙にタイトルの並んだ、荷宮和子「団塊ジュニアはなぜファンタジーにはまるのか?」は、何の根拠も無く、「現実を舞台にしては、「男女平等」に則り、「人間の尊厳」を大切にする作品など作れない」ということが、ファンタジー作家の「最も素朴で素直なモチベーション」だと決めつけて論を展開するという意味不明の思い込みを語りまくる。この文章自体が一種のファンタジーとでもいうべきか。これを表紙にでかくのせる編集者のセンスがわからない。
 井辻朱美「ファンタジーは地底をめざす アリスから恩田陸まで」は、19世紀の地質学、古生物学の登場と発達が契機となって、『不思議の国のアリス』やヴェルヌの『地底旅行』に共通する、地下にもぐっていくことが、時間を逆向きに進むことと結びついていく、その想像力のあり方を生み出した、という議論を展開していて、結構刺激的。知の枠組みが想像力の枠組みと緊密に結びついている、という一つの事例研究としても読めるかも。
 大澤真幸「三つの反現実 理想・虚構・不可能性」は、現実からの逃避の先(反現実)のあり方が、理想・虚構・不可能性という三段階を経てきた、という時代論なのだが、虚構の時代が中心で、しかも、かなりの部分が、森川嘉一郎『趣都の誕生』(幻冬舎, 2003)(しまった、積んだままで未読だ!)を題材として語られるオタク論に割かれている。オタク論好きの人は、一応、チェックしておいた方がよいかも。
 稲葉振一郎「自然状態というファンタジー?」はタイトルだけではなんのことやらだが、実は、小泉義之『弔いの哲学』(河出書房新社, 1997)を、ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル』(以文社, 2003)と対照しつつ批判する、という代物。どっちも読んでないので、よくわからんのだけれど、国家制度の外にある何か別の救済の場として(本来あるべき)宗教を措定してしまう小泉よりも、国家からも宗教からも追われながら国家の領域内を逃げ惑うしかない存在に目を向けるアガンベンの方が鋭い、ということは何となくわかった(気になった)。
 斎藤環・三浦雅士「ファンタジー化する世界」は、インタビューとは銘打たれているが、実際にはほとんど対談。斎藤環のサブカル蘊蓄がところどころで炸裂していて楽しい。といいつつ、精神分析で、男性治療者が女性患者を治療していると、転移性恋愛というのが起こる、という話を、患者の側も情報として普通に知ってしまってるために、「いまは普通の女子高生が「私、先生に転移しちゃった」と最初からいうんです」という状況が起きてしまっている、という話が妙に面白かったりする。「もはや精神分析にならなくて、単なる「精神分析プレイ」にしかならない」とは何とも壮絶だなあ。
 ファンタジーの特集なのだけれど、色々な論者の話の中にキーワードとして登場する「リアリティ・テレビ」(日本でいえば「あいのり」みたいな、素人集めて、一定期間一緒に過ごさせて人間関係の変化を楽しむ、というやつ。欧米だと一時話題になった「サバイバー」みたいなのが多いらしい)について、「リアリティ・テレビ」を題材にした映画について語る、というやり方で語っているのが、北田暁大「リアリティ・ワールドへようこそ リアリティ・テレビの現実性」。日本の視聴者にとって、「リアリティ・テレビ」に映し出されている「現実」がメディアを媒介したものである、ということが当然のものとなってしまっていたために、映し出されている「現実」を生のものとして反応せよ、と迫るような欧米的リアリティ・テレビには、あまりリアリティを感じなかった、という指摘が面白い。
 森川嘉一郎「ファンタジーと環境」は、後半は多分『趣都の誕生』の要点解説(だと思う。読んでないけど)。前半は、建築家が、ネットワーク社会のあり方に対応した建築の姿を提示できずにいる現状を批判する、という話で、なかなか痛烈。現代建築ファンは見ておいてよいのでは。
 特集以外では、連載第一回の御厨貴「天皇の近代」が、「昭和天皇のオーラル・ヒストリー」という題材を扱っているのだが、何だか妙な感じ。敬意を表明しつつ、客観的に描写する、というのは、やはり難しいのでは。

2004/02/03

定信お見通し

 タイモン・スクリーチ著/高山宏訳『定信お見通し 寛政視角改革の治世学』(青土社, 2003)を二週間くらいかけて、やっと読み終った。通勤電車でハードカバーは無謀だと思いつつも、なかなか他にじっくりと本を読む時間がとれないんだよなあ。
 何はともあれ、めちゃくちゃエキサイティングな本であった。タイトルの「定信」とは言わずと知れた松平定信であり、この本は「寛政の改革」の時代を扱っている……のだけれど、切り口が教科書的な「寛政の改革」についての語りとまるで違う。全然違う。著者は、「寛政の改革」を、経済的な改革としてよりも、むしろ、文化的統一性を構築するための様々な文化的な動きの集合体として語ろうとするのである。
 もちろん、松平定信が、当時の文化的活動の全てをコントロールできたはずもない。けれども、定信は、文化財の図像・レプリカを収集し、刊行したり、写本を流布させることで、現在の我々が「日本の文化財」と考えるものを組み立てていく。あるいは、京都の大火の後の復興事業を、調査と考証に基づく「復古」事業として行うことで、現在の日本文化の中心としての「京都」像(そもそもそれまでは、「京都」ではなく「京師」という名称の方が一般的だった)を作り出したのも定信だったりする。要するに、定信は、それまで、各地域に政治的にも文化的にも分割された連合国家だったものを、「日本文化」と現在いわれるようなものを作り出すことで、将軍の支配の及ぶ領域として統合しようとした、その活動の中心人物だったのである。
 ちなみに、京都復興の話には、当然ながら天皇(ちなみに、長い間忘れられていた「天皇」号が復活するのは、この時代である)も絡んでくる。江戸城の天守閣を復活させず、民を優先する姿勢を示すことで「徳」による治世の正当性を示そうとする幕府側と、圧倒的に見える形で御所を復興し、王権の権威を示そうとする朝廷側との駆け引きは、面白いなんて生易しいものではない。
 その他、この時代に一世を風靡した円山応挙の戦略などについても論じられている。ちょうど江戸東京博物館で「円山応挙 〈写生画〉創造への挑戦」展を開催しているけれども、関心のある人は展覧会に行く前に必読。応挙の何が新しく、また、何故その新しいものが大流行したのかがよくわかる。他にも、色々な文化的事象について語られているが、とてもではないが、短くまとめられるものではない(あえていえば、この「日本文化」の成立期に、西洋文化の影が様々な面に落ちている、ということが書き込まれていることに注目か)。
 今の「日本文化」が、どのようにして現在のようなイメージを形成することになったのか、その出発点を赤裸々に描き出す、なんとも刺激的な一冊。その上、将軍は生前の名で呼び、天皇は諡号で呼ぶのはおかしい、と、諡号(普通、○○天皇、という場合の○○のこと)を基本的に使わなず、また「天皇」ではなく「主上」と呼ぶ、とか、「日本」ではなく当時の言葉で「天下」と呼ぶとか、その時代に切り込んでいくための言葉の選択の慎重さ(大胆さでもある)が素晴らしい。凡百の歴史相対主義など足下にも及ぶまい。翻訳も名調子(さすがは高山宏)。文句なしである。
 ただ、引用されている図版のいくつかに、でっかく「帝国図書館蔵」というハンコが押してあるのがなんとも……。近代が、近世に対してどのような態度で接したのかを、象徴する図版ではある。

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