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2004/03/30

「おたく」の精神史 一九八〇年代論

 大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』(講談社現代新書, 2004)を読了。他にも感想を書きたい本はあったのだけれど、これを先に。
 結論からいってしまうと、これは、大塚英志による「私語り」ではないだろうか。「私語り」というのは、夏目房之介が『本とコンピュータ』2004年春号に掲載されたインタビュー(「マンガを語るための地図をつくろう」)の中で使っていた言葉を借りてきたのだけれど、ここでは、藤本由香里や、大塚英志が表舞台にひっばりだした荷宮和子といった、女性が少女マンガについて語る時に使っていた、作品を語りながら自分が読んできた体験を語り、結局、自分自身のことを語ってしまう、という語りの手法のことを意図している。
 ただし、単純な「私語り」ではないところが、何ともたまらない。この『「おたく」の精神史』の中では、いくつもの「私」(著者の言葉を使えば「ぼく」というべきかもしれない)が重なり合いながら、全体としては時代論を組み上げるような構造になっている。まさに「おたく」的な領域が成立する過程のただ中にいた「ぼく」の発言と、その「ぼく」の行動や言動を客観的に描写しようとする「ぼく」と、さらに、その「ぼく」の行動を現在の視点から反省的に分析する「ぼく」、そして、同時代を経過してきた世代を代表(あるいは代弁)する「ぼくら」が、混在しながら、同時に、一つの時代を再構成している。まるで、本書の中で、重層的な内面表現が分析されている紡木たくの作品を、評論という形で反復しているみたいだなあ、と私には思えてしまった。
 正直、大塚英志の仕事については、少女マンガ論以外のところではあまり接点がなかったし、漫画ブリッコにしても、「これは何だろう」と気になりながらもすれ違っていた(ただ、かがみあきらが亡くなったときに話題になったことは何故か知っていたような気がするが、かがみあきらの作品(あぽ名義も含めて)は実は読んだことがない)ので、本書に書かれている事象そのものについては、実は、そんなに思い入れはない。そのはずなのだけれど、一気に読んでしまったのは、この語りの方法そのものが、自分が慣れ親しんできた少女マンガの方法論の応用だったからだ。……というのは、ちょっと強引すぎるか。でも、そう書きたくなってしまうくらい、この語り口、というのは後を引く気がする。
 意地悪な読み方をすれば、漫画ブリッコ時代の話や、宮崎勤と関わっていく過程など、単純に時代を体験してきたものの証言としての重みはあるにしても、1980年代論としては客観性に欠ける偏った議論でしかない、と切り捨てることは(それなりの知識がある人であれば)簡単なんじゃないか、という気がする(自分でも簡単にできる、というわけではないけれど)。
 けれども、その一方で、本書によって、重層的な「私語り」によって再構築された1980年代の姿は、恐ろしいほどに語るべき問題に満ちたものとして描かれている。ここで提示された「問い」をほったらかして、先にひょいひょい進んでしまえるのは、余程のお気楽ものでも難しいのではなかろうか。とはいえ、本気で、答えようとすれば、さらに徹底した「私語り」で対抗するか、細部の積み上げによって別の形で時代の再構築を図るしかないような気もする。
 本書で提示された論点(そのほとんどが、「ぼく」にとってはこうだった、という形で、確固たる根拠が示されないまま、放り出されている)について、同時代の資料に基づいて(揃えるのは大変だが…)、議論を構築していく、というプロジェクトを実施したとすると、研究者なら10年はネタに困らないに違いない。そのくらい、論じたくなるネタがたっぷりと盛り込まれている。ただし、もし本書における問いへの取り組みをみんながやり出したとしたら、著者があとがきでそうなることを否定している「正史」に本書がなってしまいかねない。というか、なるだろうなあ。
 柳田民俗学の出発点となった『遠野物語』について、柳田が単に聞き書きしたのではなく、自分の視点から再構築したものだ、という話が本書の中で触れられているのだけれど、「私語り」によって時代を再構成した本書自身が、次の時代の『遠野物語』として、正典になってしまったりする危険性を著者はもしかすると、自覚しているのかもしれない。正史・正典にはならない、という可能性に賭けているのか、それとも、そうなってしまったとしても、引き受ける覚悟があるということなのか。著者の立ち位置がどちらなのかはよくわからない。どちらの方向に進むのかは、結局、読者の側に任されている、ということなのかなあ。

2004/03/28

東アジアに新しい「本の道」をつくる

 「本とコンピュータ」編集室編『東アジアに新しい「本の道」をつくる』(大日本印刷ICC本部(発行)・トランスアート(発売), 2004)を読了。
 中国・韓国・台湾・日本の「四つの国」(微妙な表現だなあ)の出版人、編集者たちによる、「東アジア共同出版」の日本語版。この後、各国語版と英語版が予定されている。
 基本的にはそれぞれの国ごとのパートに分かれていて、各パートはグラフ記事と論説記事とを組み合わせるという構成。特に、ビジュアル重視のグラフ記事の部分は、各国ごとのレイアウト感覚の違いが出ているのか、バラエティに富んでいて楽しい。そして、杉浦康平・呂敬人・安尚秀という日中韓のブックデザインの重鎮鼎談と、各国の論者によるコメントが集められたパートが最後を締めている。
 巻頭に置かれた韓国パートでは、朝鮮戦争、軍事独裁政権の時代を経てきた韓国の現代出版史が語られている。とにかく熱い。その熱気には当てられてしまう。中国、台湾も程度の差こそあれ、出版が自由化されてきたのは比較的最近(台湾の戒厳令解除は1987年、中国の改革開放路線も1980年代(ただし1989年の天安門事件で一時後退)以降)のことであり、商業化の波に戸惑いながらも、新しい可能性に闘志を燃やしている様子が伝わってくる。
 中・韓・台湾の出版事情については、あまり情報が入ってこない(取りにも行っていないような気もするが)ので、非常に貴重な情報であることは間違いない。ちなみに、各国におけるマンガ出版の位置づけなどについては直接の言及はないが、ここで論じられている出版状況全体を踏まえて考えた方がよいのでは、という気もする。
 それにしても、全体を通して見ると、日本が近代化・自由化の先頭を走ってきた結果、一番最初に近代的出版システムが老いを迎えてしまっている、という印象はぬぐい難い。国民国家(Nation State)としても、日本は最も先にそれに飽いてしまうところまで行き着いてしまったのでは、という気分すら感じてしまう。日本パートだけが、第二次大戦以前の図版を多用する構成となっているために、そのズレが強調されているように感じてしまったのかもしれないが……。
 日本の出版は、近代化の先頭ランナーとして、新しいあり方を自力で見つけ出すしかない時代に来ているのかもしれない。図書館もその枠組みの一部であることを自覚しないといかんのだろうなあ。

2004/03/27

漢籍事始

 大倉集古館の展示会、「漢籍事始 宮廷を楽しむ『国宝 随身庭騎絵巻』特別展示」(会期:2004年2月17日〜3月28日)を終了間際に見に行ってきた。アメリカ大使館が近いせいか、やたらと警官の姿が目に付く。
 大倉集古館の漢籍コレクションは約1千部、3万5千冊に達するというが、絵画や工芸品に比べると展示される機会は非常に少ない。前回やったのはいつだったか、確かまだ改装工事前で、空調設備もなかったような気がする。
 今回は、漢籍のみではなく、国宝『随身庭騎絵巻』などの和本も展示。漢籍だけでは客は呼べない、という判断だろうか。確かに、漢籍ファンが世の中にそれほど多くいるとは思えないが……。漢籍についての基礎知識の解説パネルなどもあり、何とか、取っつきにくい漢籍に関心を持ってもらうおう、という意識は強く現れてはいたような気がするのだが、いかんせん、展示点数が物足りない。宋版・元版だけでも相当数所蔵しているのに、もったいないという感じ。和漢を取り混ぜるなら、漢籍と日本の知識人層との関わりをもう少し紹介するという手もあったような気もする。
 とはいえ、こういう機会がないよりはあったほうが圧倒的によい。ぜひ続編を期待したい。折角のコレクションを生かしてほしい、と切実に思う。
 また、大倉集古館のコレクションの基礎を築いた大倉喜八郎(1837-1928)についての紹介にもスペースが割かれていたのだが、そのアジア主義者的側面(だからこそ、漢籍も収集の対象となったのではないか)は曖昧にされていた。まあ、しかたのないところか。
 ちなみに、展示に関しては、慶應義塾大学附属研究所斯道文庫の指導を仰いだとのこと。折角だから、解説目録も作って欲しかったなあ。
 それと、財団(大倉集古館を運営するのは、財団法人・大倉文化財団)の運営が苦しいのはわかるが、次回はぜひ、解説パネルの製作経費の増額を。スタッフの苦労が偲ばれてしまった。

2004/03/23

親指からロマンス(1)

 『ぱふ』の2003年まんがベストテンで、新人賞1位、というのにつられて、椿いづみ『親指からロマンス(1)』(白泉社花とゆめCOMICS, 2004)をぱらぱらと読む。どうもやたらと推しているページもあるようだし。
 それはさておき、なんちゅーか、多少、ギャグで薄められてはいるものの、基本はベタ甘のラブコメですな。わしらのような年寄りには、糖分が多すぎて、ちと体に悪いかも。
 とはいえ、マッサージというネタの使い方は巧い。天然ぼけだが、マッサージについては天才、という主人公の女の子のキャラクターもおいしいし、変人揃い(?)のマッサージ部、という舞台作りにも活用するあたりもなかなか。一気に色んなキャラクターを出し過ぎているような気もするけれど、きっちりシリーズ化してしまったわけだし、まあ結果オーライか。あとは、頬染め女の子と、頬染め男の子のキュートっぷりがポイントかなあ。
 それにしても、別に本書に限ったことではないのだけれど、当然のように家族(特に親)が最も近くの「他人」として登場するようになったのは、いったいいつごろのことなんだろうか、と、何となく考えこんでしまった。もはや、無条件に親が味方になってくれるような話は、時の流れを止めてしまったかのような、やまざき貴子『っポイ!』(白泉社花とゆめCOMICS)くらいかなあ。
 というわけで、親や姉妹との関係が一つの引っ掛かりどころになっていて、単なるラブコメで終らないかもしれない、というポイントでもあったりする。ただし、そこが今後膨らまされていくのかどうかは1巻の段階では未知数。はてさて、この先、ラブコメ要素とギャグ要素と、家族再構築もの(親は再構築の中には入らなさそうだけど)要素のどれが中心になっていくのだろうか。まあ、一応2巻も買うリストに入れておこうっと。

2004/03/20

InterCommunication No.48 Spring

 『InterCommunication』No.48 Spring(NTT出版, 2004)の特集「大学 21世紀の知のシステム」を読了。通巻だと49号なのか……差が出た1号は何だろう、と余計なことが気になってしまうが、それは置いておく。
 いち押しは稲葉振一郎黒木玄「対談 いかにして自分(と世の中)を変えるか 教養について」。黒木玄という名は「黒木玄のウェブサイト」に設置された「黒木のなんでも掲示板」(そういえば最近、ほとんど見ていないなあ)の主宰者として、ぼんやりと頭に入っていたので、表紙に名前を見つけて、おお、という感じ。対談中でも、「2ちゃんねる登場以前の一つのモデル」として、「なんでも掲示板」が取り上げられている。黒木氏の「ネットで掲示板を始めた当時僕が非常に嬉しかったのは、世の中に小難しい話を普通に面白がってくれる人がものすごくたくさんいるということなんです」という発言から、掲示板開始当初の昂揚した気分が伝わってきて、ぐっとくる。
 巻頭の生駒俊明・橋爪大三郎「日本の大学は変わることができるか グローバル化の中で考える大学の原点」が、「こうすべきだ」「いや、ああすべきではないか」式なのに対して、稲葉・黒木対談は、明確なロードマップを示すこともないし、「こうあるべきだ」という像を示すわけでもない。互いに、手探りでの模索の過程を報告し、分析しあっている感じがある。それでも、自分たちの限界をある程度見据えた上で語っている分、稲葉・黒木対談の方が、より、これからの「知」のあり方という問題に寄り添っている感じがする。
 この他、NPO法人サイエンス・コミュニケーション副理事の林衛「『学術研究』が支持される理由 理化学研究所とソニーCSLから見た日本の科学五十年史」は、戦前の理化学研究所と現在のソニーCSLの両者について語りつつ、社会が学術研究を支えるというのはどういうことなのかを語っている。市民・科学者コミュニティ・政府・産業界の四つを頂点間の相互のコミュニケーションが必要とする四面体モデル、というのは、分かりやすいけど、実際にやるのは難しいだろうなあ。だからこそ、NPOという形の組織が必要だと考えたのだろうけれど。
 ところで、特集中に、「偏差値50からの大学選び」というコラムがあるのだが、冗談かと思ったら結構本気の内容なので、びっくり。誰が読むんだろう……。
 特集外だが、佐倉統「生命と文化のはざまで 7(最終回) 文化のグローバリズムとローカリズム、そして国立大学法人化」も大学ネタ。著者自身が総長補佐として法人化に必要な検討のために走り回っている経験の一端が書かれていて興味深い(ちなみに、前半の、文化の国際化と自立化をどのように両立するのか、という問題について実体験から語る部分も面白い)。そうか、独立行政法人じゃなくて、国立大学法人という別の名称(中身はやはりよくわらかんが)の法人なのか。全然わかってなかった。
 この他、書評である坪内淳「『国際関係』の荒波の中で…… 『新「帝国」アメリカを解剖する』など」がいい感じ。最近異常にはやっている「アメリカ」本に対して「いったい何の目的と存在価値があるのか」と一刀両断(ただし、佐伯啓思『新「帝国」アメリカを解剖する』については褒めてます)。とはいえ、「若い世代に構想力のある議論が見られない」「他国の大統領のアホさ加減を笑っている暇はない」といわれてしまうと、ちと、いたたまれない感じではある(こっちももう「若い世代」ではなくなってきているのだが)。
 巻末のICC Reportには、2003年10月10日〜11月24日にかけて開催された「記録と表現 アーカイヴを作る、使う」と題したワークショップ、シンポジウムについてのレポートを掲載。短いレポートだが、デジタル・アーカイブを含めた、アーカイブについて関心のある人は押さえておいてもいいかもしれない。
 それにしても、『InterCommunication』はいつからこんなに読みやすくなったのか。以前は、『現代思想』なみに読みにくかったのに。しかし、これでは、単に、ややとんがったレイアウトのちょっと左ぎみ総合誌、という位置取りになっているような気も。まあ、買っても読めないより、読みやすい方がいいか。

2004/03/17

出版と知のメディア論

 長谷川一『出版と知のメディア論 エディターシップの歴史と再生』(みすず書房, 2003)を読了。これが(いかに「全面的な改稿を施した」と著者が書いているにせよ)、修士論文だとはなんたることか。去年まで自分が書いていたのはなんだったのだ、という感じで、かなり落ち込む。特に文系で、これから、修士論文を書こうと思っている人は、読まない方がいいかも。変にプレッシャーになってしまうかもしれない。東京大学大学院情報学環・学際情報学府では、これが当たり前のレベルなんだろうか。おそるべし。
 まあ、それはさておき、本書は、いわゆる「人文書」の終焉を語りながら、新たな方向性をさぐる、という趣旨の一冊。そのために、学術出版の一つのモデルといわれている、米国を中心とする欧米の大学出版局の歴史と現状を分析し、さらに、電子出版の動向を押さえている。大学出版局の歴史の部分は、単純に栄枯盛衰の過程や、登場人物の思想や戦略が面白かったりするが、その一方で、学術書を商業ベースで刊行することの困難さそのものが浮き彫りにされていて、なんとも難しい気分にさせる。国内の大学出版局関係者は必読だろう。電子出版の動向の部分は、特に国内の先駆的な試みについての記述が興味深い。
 といいつつ、一番面白いのは、日本の「人文書」出版の歴史と現状を論じた部分だろう。純粋な学術論文ではなく、かといって、一般的な娯楽書でもない。そして、近年、その没落が多くの知識人によって嘆かれている「人文書」が持つ、独特の地位、というか、位置が、どのように成立したもので、それを支えてきたのは何だったのかが語られている(著者は、「人文書」を支え、そして「人文書」が支えているその構造全体を指して、「人文書」空間と呼んでいる)。結論としては、「人文書」空間を支えていた、教養主義とその下部構造であった農村型社会と学歴エリート主義が崩壊していった後に、その社会・文化構造の変化を捉えることなく、「人文書」復興を唱える、空回りする言葉だけが繰り返されている、という現状が浮き彫りにされていく。しかし、著者は絶望するのではなく、エディターシップの復権を唱える……のだが、最後の部分は、やや議論が抽象的になってしまっているかもしれない。
 むしろ、メル・プロジェクトのサブ・プロジェクトの一環として行われた「本作りとメディアリテラシー・プロジェクト」、オンデマンド出版のリキエスタ・プラス(むむ、独立したページはないのか? とりあえず、メル・プロジェクトのメールマガジン『メルの環』2003年2月号にリンクしておく)など、著者がその後関わったプロジェクトそのものが、本書の最終章の展開部になっているのかもしれない。
 それにしても、「人文書」の終わりを告げている本書自体は、完璧なまでに「人文書」として出版されているというのがなんともいえない。出版社は「人文書」の雄、みすず書房だし。それに、修士論文が出版につながった、ということについても、本書が今(比較的)売れる出版危機本の一種としての市場を持っているという判断が出版社側になかったとは考えにくい。いや、修士論文が出版されたことをねたんでいるわけではないのだが……。
 純粋な学術論文としてではなく、もう少し広がりを持った読者を対象とした「人文書」として、本書は成立している。そうした成立のしかた、というのは、今後変わっていかざるをえないのだ、ということを、踏まえた上で読むと、さらに味わい深い。
 とはいえ、「あとがき」を除けば、書きっぷりは「論文」なので、少々取っつきにくいかもしれない。その硬質さも含めて、「人文書」というイメージそのもの、という気がする。

(2004.03.19追記)
 bk1の新しいサイト(今のところブリーダー向けらしいので、リンクははらない方がいいのかな?)の機能を使って、書名からリンクをはってみた(書名のリンクから行くと、これまでのbk1とは違うところに連れていれるのでご注意)。Weblogを意識していて、トラックバックもできるらしい(のでやってみることに。さて)。

2004/03/15

ジョージ・ハリスン、ダークホースレーベル時代再発追伸

 先日、ジョージ・ハリスンの『ライヴ・イン・ジャパン』にかこつけて、コピーコントロールCDについていちゃもんを付けたのだが、その蛇足。
 何のことはない、米国Capitol版はコピーコントロールが施されていないそうな。ちなみに、欧州(EU)版はコピーコントロールがほどこされているが、MacOSでの再生に一応対応、日本版はWindowsのみ一応は再生可能で、MacOSは対応せず、と、いうことになるらしい。何だかなあ。
 なるほど、これがグローバリズムにおけるランク付けというものか。あまりにも分かりやすい構図に正直うんざり。今は亡きジョージ・ハリスン本人は、こうなることを知っていたのだろうか。

2004/03/14

ターミノロジー学の理論と応用

 岡谷大・尾関周二『ターミノロジー学の理論と応用 情報学・工学・図書館学』(東京大学出版会, 2003)を読了……せずに、途中で挫折。こりゃ、全部頭から読もうとしたのが無謀だったかも。
 「ターミノロジー学」といっても聞きなれない人が多いと思うが(と書いている自分自身、この本の存在を知るまでは全く知らなかった)、要するに、専門用語、といった場合の「用語」を対象にする学問である。
 例えば、普通の語学研究だと日常会話や文学が主な対象になる。一方、ターミノロジー学は、技術文献や科学技術系の論文などに登場する言葉、特に「用語」と呼ばれるような言葉を対象にして、その定義付けや用語間の関係(例えば、「タイヤ」や「エンジン」とは、意味の中身は全然関係ないが、両方とも自動車の部分を構成する、という意味では関係づけられている、とか)を分析し、体系化していく学問……ということらしい。「テクスト」ではなく、「ドキュメント」を中心的な対象にしている、という感じではないかと思う。
 当然のことだが、特許や、自然科学系の論文で、専門用語の意味をみんながバラバラに使っていたのでは話にならないし、各国語の用語間の関係も整理されていないと、翻訳もままならない。ターミノロジー学は、こうした課題に立ち向かっていく学問……ということらしい。全部は読んでいないので、いま一つ自信がないなあ。
 本書は、そのターミノロジー学の理論から応用、そして、隣接諸分野との関係までを概説してしまおう、という贅沢な一冊だ。
 そんな学問、自分には関係ないわい、と思う人も多いかとは思うが、実は、「用語」の問題は、組織横断的なプロジェクトなどの場面で、日常的に発生している。同じ言葉が、部署が違うと異なる意味で使われていたり、同じ作業が違う呼び方をされていたり、ということは、多くの組織で起こっていることだろう。別々にやっていて問題がない間はそれでもいいが、共通の課題に一緒に取り組もうとすると、そもそも話がちぐはぐになって進まなくなったりする。そういう意味では、程度の違いこそあれ、「用語」というのは意外に身近な問題なのだな。
 それにしても驚くべきは、このターミノロジーの理論も方法論も、ほぼ、ヴュスターという一人の人物が基礎を築いた、ということである。おそるべし、ヴュスター。本書の第2章「ターミノロジー学の理論」は、ほぼ、このヴュスターの理論の解説だったりするので、詳細はそちらを見て欲しい。
 が、問題は、この理論の部分が一番分かりにくい、ということだ(実は、私が挫折したのはここだったりする)。むしろ、これから手に取ろう、と思う人は、第3章「ターミノロジー活動のアウトライン」、第4章「ターミノロジー学の知識への応用」あたりから入るのが正解だろう。具体的なターミノロジー学の応用について頭に入れてからでも、理論に挑むのは遅くはない。ISOなど、国際規格への応用も進んでいることなどが書かれていて、正直、驚かされる。
 もう一つ、本書の問題をあげるとすれば、本書が紙の形態で出版されたことではなかろうか。本書内部での参照や、各種関連諸機関等やその活動についての言及が多く、「ああ、ここがハイパーリンクになっていれば……」と思ったのは一度や二度ではない。各種団体へのWebサイトや、より詳細な解説、関連する論文など、様々な情報への参照がハイパーリンクの形で組み合わされていれば、ずっと理解しやすいものになったのでは。参照先を省いて、骨組みだけが提示されてしまっている感じ、といえばいいかなあ。まあ、単に、分かっている人にとっては当たり前のことが省かれてしまっている、ということなのかもしれないが……。
 というわけで、本書のハイパーテキスト版か、あるいは、「理論と応用」ならぬ「入門」が別途必要……なのは、私の読解力の低さ故、かもしれないが、もっと普及してしかるべき学問の入り口となる一冊にしては、やや敷居が高いのではなかろうか。
 それでも、機械翻訳や、シソーラス、図書分類などに関心のある向きは、目を通しておいた方がよいかもしれない。あ、ソシュール好きの人も(ヴュスターはソシュールを批判していたりするので)、見ておくと面白いのでは。
 余談だが、先日から、bk1ブリーダープログラムに参加していたりする。自分で買って自分でためるポイントばかりになりそうな気もするのだが……。

2004/03/13

図書館の学校 2004年3月号

 『図書館の学校』2004年3月号をパラパラと見る。
 木野修造「図書館のユニバーサル・デザイン」と、「リサーチ大作戦 ネットと図書館、どっちが強い?」の二つの連載が最終回。現在、1号32頁だが、これでさらに8頁減って24頁になってしまうのだろうか……。どんどん薄くなってきた『図書館の学校』だけに、冗談にならないかもしれないと、少々心配だったりする。
 「図書館のユニバーサル・デザイン」では、「ユニバーサル・デザインを適用して空間の汎用性を高め、さらにその使い方を利用者に委ね、空間稼働率を向上させることはこれからの図書館の大きな課題である」という主張が最後に展開されている。「使い方を利用者に委ね」る、というのがポイントで、手取り足取りいちいち干渉されることなく、自分の責任と判断でその空間(座っている机と椅子だったり、検索ブースだったり)を利用できる条件を整えていくことで、「個」の確立を促す、という主張になっていたりする。また、いわゆる「多目的」な部屋が、実際には有効には活用されていない、という実態を指摘して、「多目的の無目的」という言葉の意味を理解すべきだ、というあたりは、箱物全てに当てはまることだろう。
 「リサーチ大作戦」は、同じ質問(今回は、「蛍の光」の封印された三番・四番の歌詞、というお題)を、図書館担当の人は図書館だけを使って、ネット担当の人は、Webだけを使って解決して、お互いにその回答を採点しあう、という連載企画。調べる人は、特に司書でもサーチャーでもなく、フリーライターだったりするので、徹底的に対決、というわけでもないのだが、それぞれの特徴はなんとなくわかるし、なんともとぼけた文体がなかなかいい感じ……だったんだけど、連載終了とは。
 といいつつ、一番びっくりしたのは、松本功「21世紀パブリックライブラリー」(ちなみに、以前の連載は、『税金を使う図書館から税金を作る図書館へ』(ひつじ書房, 2002)にまとめられている)で紹介されていた、人文書の売り上げが前年比20%減(大学生協東京事業連合調べ)、という話。大学生協だけの数字で全てを代表させるのは無理があるかもしれないけれど、年に市場が5分の1ずつ縮小している業界で踏ん張り続ける、というのは、ちょっと想像するだけでくらくらしてくる。
 本来は、大学図書館を中心に、図書館が買い支えるというのが理想なのだろうけれど、大学一般に人文系への風当たりは強いし、国立大学なんて独立行政法人化でどこも目の色が変わっているし……。多くの人文系の研究が、書籍の形では出版されないままに終っていくのが当たり前の世の中になるのかも。何というか、ふるいにかけるための枠組みが、個人消費者+市場の組み合わせによる選別「だけ」しかない、というのが、本当にいいことなんだろうか。松本功が問おうとしているのも、ある意味でそういうことなのかもしれない(けど、ちょっと曲解かもしれない)。

2004/03/11

2003年度マンガBEST100

 『2003年度マンガBEST100』(G.B. GagBankSPECIAL001, 2004)をパラパラと見る。
 先日、『ぱふ』のベスト10についてごちゃごちゃと文句を書いてしまったが、学生時代からの友人に「『NANA』が37位に入っている方がおどろきだ」とたしなめられてしまった。反省。まあ、確かに、『NANA』読者のコア層は、『ぱふ』は読まんわなあ。
 というわけで、『2003年度マンガBEST100』なのだが、何というか、呆然とするほど、何も引っ掛かってくるものがない、という、不思議な(というか、異様に普通の)ランキングリストになっている。メジャー作品も、マニアックな作品も適度に入っているのだが、んん? こりゃなんだ? という違和感を感じさせないところが、ものたりない感じ。こうして比べてみると、『ぱふ』の方が「変」で、楽しいような気がしてきたなあ。
 とはいえ、現在の状況をうまく切り取っているかどうか、という資料的な見方をすると、『ぱふ』よりも、この『2003年度マンガBEST100』の方に軍配が上がるのでは。売れている作品がちゃんと入っているのはこちらの方だ。一方、雑誌どころか、作品ごとに読者層が分離してしまっている現状を素直に表しているのは『ぱふ』かもしれない。
 後の漫画史研究者は、両方のあまりの差異に頭を抱えることになるのだろうなあ、と想像しながら、見比べていると、結構、楽しい。

2004/03/09

ジョージ・ハリスン/ライヴ・イン・ジャパン

 あんまり音楽ネタを書くつもりはなかったのだけれど……。
 何故か、某CD屋がジョージ・ハリスン祭状態だったので、何だろう、と思ったら、ダークホース・レーベル時代のアルバムがリマスターされて再発されていた。こりゃ素晴らしい、と喜んだのだが……何で、コピー・コントロールCDなんだ? 結局、買ったのは、SACD(SACDのプレーヤーを持ってないのに)とCDのハイブリッド版『ライヴ・イン・ジャパン』だけ。これだけ、ちゃんと「compact disc」のロゴが入っていて、コピー・コントロールではない。とはいえ、家のDVD/CD兼用プレーヤーでは、SACDとのハイブリッド版はかからないらしく、しばらく取り出せなくなって、ヒヤヒヤするはめに。結局、まともに聞けやしない。
 輸入物のダークホース・レーベル・ボックス(The Dark Horse Years)も、国内ものと方式は違うようだが、コピー対策がとられているらしい(故に、「compact disc」のロゴは入っていない)。悩んだ末、結局、買うのはやめた。
 ふと気がつけば、CD屋の店頭に並んでいるCDのかなりのものが、コピー・コントロールが施されている。こうして見ると、『Let It Be…Naked』がとどめを刺した、という気もする。もはや、この流れは止まるまい。CDからiTunesに取り込んでiPodへ、そして、通勤時間に聞きまくる、という楽しみ方は、許されないということなのだろう。
 ウォークマンに始まった、好きな音楽をいつでも持ち運ぶ、という楽しみ方は、iPodで完成して、そして、終わりを迎えるのかもしれない。
 これからは、AppleのiTunes Music Storeのような、特定の流通ルートで著作権管理の仕組みが組み込まれたものだけを、持ち運んで聞くことを許されるのだろう。しかし、各社が互換性抜きで流通面での囲い込みを進めている現状では、選択肢が狭くなってしまう。それに、売れなかったレコードやCDが、後に再発見されてブームになるようなことは、オンラインでの音楽販売では考えにくい。売れない曲のデータは、販売サイトとの契約期間が過ぎれば、何の痕跡も残さずに消えるだけだろう。わずかに購入した人の手元に残ったデータも、コピーが繰り返せないようになっているのだから、(コピープロテクトを外さない限り)そのうち消えるしかない。
 シグマブックのような手軽に持ち運べる電子書籍も、著作権管理の仕組みが組み込まれているようだが、やはり互換性のないまま流通の囲い込みが起きれば、同じように、選択肢の狭さと、売れない著作が本当に何も残さずに消えていく、という事態が待っているのではなかろうか。
 全てをデジタルにして、その全てを身に付けて持ち運ぶ(あるいはどこからでも呼び出す)、という生活は、確かに実現するかもしれないが、何だかとても貧しいものになりそうな気がしてきた。とりあえず、せめてもの反抗として、コピー・コントロールCDは、今後も買わないことにしておこう(お金の節約にもなるし)。
 あ、書くまでもないので、ぐだぐだ書かないけれど、『ライヴ・イン・ジャパン』はいいですな。エリック・クラプトンのファンも必聴。

2004/03/08

ぱふ 2003年まんがベストテン

 さすがに、「日刊ココログガイド」に紹介されると、アクセス数がいつもと違う。ちとプレッシャーですな。
 といいつつ、『ぱふ』2004年4月号の特集「2003年まんがベストテン」をパラパラと見る。80年代終盤から年間ベストテンの号だけは買いつづけていたりするのだが、もはや読者層が偏りすぎて、順位そのものにはほとんど意味がなくなってしまった感じ。長編で、二ノ宮知子『のだめカンタービレ』が29位、矢沢あい『NANA』が37位というのは、ちと何かがずれてしまっているような……。森薫『エマ』とか100位だし。
 長編については、少数派でも投票するファンがついている、という視点で見ると、これから単行本を見かけたらチェックしてみようかなリストとしてある程度は使えるかもしれない。しかし、少女マンガは白泉社ばっかりだなあ。一方で、もともと投票数の少ない短編や新人賞は、相対的には偏りが少ない(ような気がする)。
 ついででなんなのだが、新人賞4位に入った宮本福助『拝み屋横町顛末記』(一賽舎)は1巻が出たばかり。じじいばっかり出てきてなんともいい感じ。懐かしい日本の風景を手間をかけて描いている、という意味では、(対象も主題もまるで違うが)『エマ』と通じるものがなきにしもあらず。幽霊ものだが、暗さが皆無なのは、過去への回路としての霊、という扱いだからなのかもしれない。掲載誌は『ZERO-SUM』だから、きっと投票した人は、『最遊記RELOAD』とか『LOVELESS』とかを目当てに読んでいて、発見したんだろうなあ。ん? そういう意味ではやはり偏っているのか?
 特集末の編集長竹内氏による総括「03年をふりかえって」で、「読者は自分に関係している(と思われる)作品だけを追い求めている」とまとめているが、(自分も含めて)確かに、そうかもしれない。

おもしろい作品を求めつづける読者は、自分が枠を越えることで、新たな作品と出会うチャンスは確実に増える

という言葉が、なんとも重い。

2004/03/07

昭和史の決定的瞬間

 坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』(筑摩書房ちくま新書, 2004)を(少し前に)読了。
 坂野潤治といえば、昭和の戦前部分、特に日中戦争が始まる前までの段階で、二大政党や議院内閣制も、躍進しつつあった社会民主政党も相当にいい線までいっていた(が、最終的には「失敗」した)ということを論じた、『日本政治「失敗」の研究 中途半端好みの国民の行方』(光芒社, 2001)がべらぼうに面白かった。今回も基本的なテーマは共通だが、特に日中戦争開始直前の昭和11年・12年(1936-37)の「危機」を巡って、様々な政治勢力がどのような背景と見通しの下にいかなる判断を行っていったのか、そして、その間の二度の総選挙(二・二六事件直前の昭和11年2月20日と、蘆溝橋事件(7月7日)の2ヶ月前の昭和12年4月30日)によって示された民意はどのようなものだったのかを、詳細に論じている。
 著者の方法が面白いのは、現代の通説によるのではなく、当時の一流の論客の論説(例えば『中央公論』のような総合誌に掲載されたもの)によって、当時の状勢を見直していく、というところ。昭和11年・12年においても、反ファシズムの論戦がそれなりに公の場で戦わされていたことや、状況を見抜く力のある人は、蘆溝橋事件が単なる局地戦に終らないことを見抜いていたことが、明らかになったりする。と、同時に、陸軍内部の対立や、政党間の対立などが様々な背景を持ち、短い期間でありながら次々と変わる状勢の変化に応じて、実際の政治的な動きに反映されていく過程が、当時の論者の視点を借りつつ、生き生きと描き出されることになる。
 少なくとも、日中戦争突入の直前までは、その後の泥沼への道を回避するチャンスは何度かあったし、そのための動きもあった、ということを知ることは「希望」ではある(当時、総選挙でも、国民はファシズムよりも民主主義を選択していた)。とはいえ、同じように、今、チャンスを逃しつづけているのではないか、という「不安」もまたふつふつと沸いてきたりするところがミソか。
 歴史描写については、賛否両論あるかもしれないが、少なくとも、当時の一流の論者たちが、複雑な政治状況(政党、官僚、財界に加えて、陸軍、天皇、元老といった政治勢力が複雑にからみあっていたのだから、嫌でも複雑にならざるをえない)の中で、いかに状況を正確に把握しつつ(時には判断を誤っていることもあるが)、論陣を張っていたのかを知るだけでも、頭が下がることは請け合い。これが生きた歴史、というものではなかろうか。

2004/03/01

追悼・網野善彦

 「訃報:網野善彦さん76歳=元神奈川大教授、歴史研究に影響」。
 亡くなったのは2004年2月27日午前2時。「遺志により献体する。葬儀は行わない。自宅は公表しない。」(毎日インタラクティブの訃報より)とは、なんという潔さ。
 出世作ともいえる『無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』(平凡社)が1978年だが、私にとっては、阿部謹也との共著『中世の再発見 市・贈与・宴会 対談』(平凡社, 1982)や、他の研究者との共著論集『中世の罪と罰』(東京大学出版会, 1982)、あるいは『異形の王権』(平凡社, 1986)あたりの印象が強い。多分、『無縁・公界・楽』も1987年の増補版で見ていたはずだ(が、よく覚えていない)。
 あのころは、東西の中世史が、異様に知的刺激に満ちて見えた。今やすっかり「世間学」の人、という印象の強い阿部謹也のヨーロッパ中世史についての著作なども、むやみやたらに面白そうだった記憶がある(中身は覚えていないあたりがなんだが)。
 その、とにかく面白そうな中世史の、日本史側の代表が、網野善彦だった。歴史は視点を変えて読み込み直すことで、まったく新しい相貌を見せる、という、歴史研究にとってある意味で根本的なことを、とても分かりやすく示してくれた。さらに、山口昌男の文化人類学などとも共振ししつつ、学問というものが、とてもスリリングで、刺激的だということを、体現する存在の一人だった。後に、宮崎アニメ(『もののけ姫』)のパンフに登場することになろうとは、当時はまったく思いもしなかったが……。
 ただ、その面白い中世史が、実に地味な史料の読み込みの積み重ねの上に成立していることは、勝俣鎮夫『一揆』(岩波新書, 1982)に、というか、勝俣先生の一般教養向けの講義で教えてもらったような気がする。当時は理系だったために、こんなに面白い講義はない!と一人で興奮して、周りから浮いていたような記憶がある。その後、理系プロパーからどんどん外れた道を歩んでしまったのは、そういう時代に居合わせてしまったからだ、ということにしておこう。
 最近の網野善彦の著作では、講談社の『日本の歴史』第00巻として出た、『「日本」とは何か』を挙げるべきかもしれないが(これを読むと「日本古来」とか「日本の伝統」とか「昔から日本は」とかいう表現はうかつに使えなくなる)、個人的には『古文書返却の旅 戦後史学の一齣』(中公新書, 1999)を推したい。漁村文書を集めた文書館設立構想とその挫折、そして借用という形で集めてきた文書の顛末を語りつつ、著者の半生史を語るという一冊。文書史料がなければ(近代史も含め)歴史研究は成り立たないにもかかわらず、史料の散佚、破壊が進んでいるという現状批判もさりげなく盛り込んである。史料に対する姿勢は、すぐにイデオロギー論争にはまりこんで、議論の基礎を置き忘れてしまう癖のある人にも、お勧めだろう。
 さて、最初に追悼特集を組むのはどこの雑誌だろうか。

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