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2004/03/30

「おたく」の精神史 一九八〇年代論

 大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』(講談社現代新書, 2004)を読了。他にも感想を書きたい本はあったのだけれど、これを先に。
 結論からいってしまうと、これは、大塚英志による「私語り」ではないだろうか。「私語り」というのは、夏目房之介が『本とコンピュータ』2004年春号に掲載されたインタビュー(「マンガを語るための地図をつくろう」)の中で使っていた言葉を借りてきたのだけれど、ここでは、藤本由香里や、大塚英志が表舞台にひっばりだした荷宮和子といった、女性が少女マンガについて語る時に使っていた、作品を語りながら自分が読んできた体験を語り、結局、自分自身のことを語ってしまう、という語りの手法のことを意図している。
 ただし、単純な「私語り」ではないところが、何ともたまらない。この『「おたく」の精神史』の中では、いくつもの「私」(著者の言葉を使えば「ぼく」というべきかもしれない)が重なり合いながら、全体としては時代論を組み上げるような構造になっている。まさに「おたく」的な領域が成立する過程のただ中にいた「ぼく」の発言と、その「ぼく」の行動や言動を客観的に描写しようとする「ぼく」と、さらに、その「ぼく」の行動を現在の視点から反省的に分析する「ぼく」、そして、同時代を経過してきた世代を代表(あるいは代弁)する「ぼくら」が、混在しながら、同時に、一つの時代を再構成している。まるで、本書の中で、重層的な内面表現が分析されている紡木たくの作品を、評論という形で反復しているみたいだなあ、と私には思えてしまった。
 正直、大塚英志の仕事については、少女マンガ論以外のところではあまり接点がなかったし、漫画ブリッコにしても、「これは何だろう」と気になりながらもすれ違っていた(ただ、かがみあきらが亡くなったときに話題になったことは何故か知っていたような気がするが、かがみあきらの作品(あぽ名義も含めて)は実は読んだことがない)ので、本書に書かれている事象そのものについては、実は、そんなに思い入れはない。そのはずなのだけれど、一気に読んでしまったのは、この語りの方法そのものが、自分が慣れ親しんできた少女マンガの方法論の応用だったからだ。……というのは、ちょっと強引すぎるか。でも、そう書きたくなってしまうくらい、この語り口、というのは後を引く気がする。
 意地悪な読み方をすれば、漫画ブリッコ時代の話や、宮崎勤と関わっていく過程など、単純に時代を体験してきたものの証言としての重みはあるにしても、1980年代論としては客観性に欠ける偏った議論でしかない、と切り捨てることは(それなりの知識がある人であれば)簡単なんじゃないか、という気がする(自分でも簡単にできる、というわけではないけれど)。
 けれども、その一方で、本書によって、重層的な「私語り」によって再構築された1980年代の姿は、恐ろしいほどに語るべき問題に満ちたものとして描かれている。ここで提示された「問い」をほったらかして、先にひょいひょい進んでしまえるのは、余程のお気楽ものでも難しいのではなかろうか。とはいえ、本気で、答えようとすれば、さらに徹底した「私語り」で対抗するか、細部の積み上げによって別の形で時代の再構築を図るしかないような気もする。
 本書で提示された論点(そのほとんどが、「ぼく」にとってはこうだった、という形で、確固たる根拠が示されないまま、放り出されている)について、同時代の資料に基づいて(揃えるのは大変だが…)、議論を構築していく、というプロジェクトを実施したとすると、研究者なら10年はネタに困らないに違いない。そのくらい、論じたくなるネタがたっぷりと盛り込まれている。ただし、もし本書における問いへの取り組みをみんながやり出したとしたら、著者があとがきでそうなることを否定している「正史」に本書がなってしまいかねない。というか、なるだろうなあ。
 柳田民俗学の出発点となった『遠野物語』について、柳田が単に聞き書きしたのではなく、自分の視点から再構築したものだ、という話が本書の中で触れられているのだけれど、「私語り」によって時代を再構成した本書自身が、次の時代の『遠野物語』として、正典になってしまったりする危険性を著者はもしかすると、自覚しているのかもしれない。正史・正典にはならない、という可能性に賭けているのか、それとも、そうなってしまったとしても、引き受ける覚悟があるということなのか。著者の立ち位置がどちらなのかはよくわからない。どちらの方向に進むのかは、結局、読者の側に任されている、ということなのかなあ。

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コメント

「週刊ココログ・ガイド」をみてお邪魔しました。80年代のほとんどを地方都市の小・中学生として過ごした僕にとって、大塚さんのこの本で描かれていることがらと、自分の生活世界のあれこれとの距離を感じたことが印象に残っています。「私語り」の手法は、読み手の「私」をも照射するのかもしれません。
 これは宮台真司さんの『サブカルチャー神話解体』を読んだ時にも感じたことなのですが、この種の議論には、自己を際だたせる差異化の身振りが鼻につく気がします(印象論ですみません)。80年代という時代背景がそういうものだった、ということなのかもしれませんが。

 本書で語られていることに、距離感を感じる層と、むしろ強い共感を感じる層がいるみたいです。地域と世代の組み合わせなんでしょうか。学歴など、色々な要素があるのかもしれません(分析してみたわけではないのですが)。
 差異化の身振りについては、同感です。本書は、差異化のゲームの構造を語りながら、同じことを別の形で反復してしまっている、という読み方もできるような気がしてきました。
 大塚英志が指摘する論点自体は重要だと感じているのですが、それを大塚英志と同じ土俵で語るのはうまくない、という気が何となくしています。それも、差異化の反復に巻き込まれそうな感じなのかもしれません。

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