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2004/04/30

横書き登場 日本語表記の近代

 屋名池誠『横書き登場 日本語表記の近代』(岩波書店岩波新書, 2003)を読了。『季刊・本とコンピュータ』2004年春号で、著者のインタビューを先に読んでしまったので、慌てて積読本を捜索した結果、無事発見されたもの。
 何というか、単純に、誰もやっていなかったことをやってのけるというのはすごい。著者は、右から左への横書きというのは一行一字の縦書きだ、という通説を確認しようとするところから出発して、近代日本における「書字方向」(縦か横か、右から左か、左から右か)の変遷を厖大な資料群を渉猟することで、実証的かつ理論的に語ってみせてくれる。巻末には、調査対象になったコレクションのリストがあって、全国の図書館、特殊コレクション、自筆原稿、マイクロ版集成などを駆使したことがわかる。圧巻。
 右から左に書く横書き(これを、「右横書き」という、とのこと)、というのは、日本に伝統的にあったものであるかのように思われているけれど、右横書きが存在したことを立証するためには、縦に二文字以上入る場合でも横方向に文字が並ぶ(縦二文字の縦書きにならない)という例が発見されなければならない。ところが、こうした例が存在するのは、幕末期になって以降であり、日本の文字を使いつつ、西洋風の雰囲気を出そうとした場合に使われ始めたことが実証的に語られてしまったりする。本書の中身は、一事が万事、こんな具合。
 戦前には左横書き(左から右へ書く横書き、つまり今の普通の横書きのこと)は、ほとんどなかったかのように思われているが、実際には、科学技術系の文献を中心にして、実務的な文書全般に広がりつつあった(が、戦中期には、右横書きこそ日本の伝統、という発想が強くなり、一時的に拡大が抑えられた)なんてことも、明らかにされてしまったりするし、さらに、戦後の左横書きの普及は、別にGHQや政府の圧力ではなく、民間の自主的な動きで広まった、という話もあったりする。
 とにかく、トリビア的な楽しみに満ちていて、日本の「伝統」と思われていることの多くが、いかに西洋との接触によって生まれてきたものなのかを確認することができてしまう一冊。簡単に「伝統」や「通説」を鵜呑みにしてはいかんということを改めて痛感させられる。やっばり、同時代資料は重要だなあ。
 西洋文化の衝撃を日本語はどのように受け止めて変化してきたのか、という論考としても読める仕組みになっているので、日本語を通じた日本文化論をやりたい人も読んでおいたほうがよいかも。

2004/04/29

文化財報道と新聞記者

 中村俊介『文化財報道と新聞記者』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー, 2004)を読了。
 遺跡などの埋蔵文化財を中心に、新聞報道と文化財との関わりを、様々な事例を通じて語る、という趣旨の一冊。新聞報道されたことによって発掘後、保存が進められたものもあれば、新聞報道されなかったことによって、学術的には重要だった遺跡が保存されることなく破壊されていくこともある。朝日新聞の記者である著者の視点から、そうした事例の背景や課題が、要領良くまとめられていて、そういう意味では、便利な一冊なのだが、バランスがとれすぎていて物足りないような気も。
 ただし、終盤の聖嶽(ひじりだき)洞穴問題についての記述は、結果として一人の老研究者の自殺に至ってしまったという経緯や、その問題が混乱していく過程に著者自身が記者として関与していたという事情もあって、本書の中では突出している。正直、この問題だけにしぼって、一冊にするべきだったのでは、と思ってしまった。
 聖嶽洞穴についての詳細は前期旧石器論争indexなどを見てもらったほうがよいと思う。簡単にまとめると、例の旧石器遺跡の捏造が明らかになったその時期と、1960年代初頭に旧石器時代の人骨が見つかったとされていた聖嶽洞穴の再調査の実施がたまたまぶつかり、それに併せて週刊誌がこれも捏造だったのではと、におわせる(かのような?)記事を掲載した、というのが発端。マスコミが騒ぎたてた結果、当初の発掘に参加した研究者の一人が自殺し、遺族は週刊誌を訴え……という経緯をたどった。
 著者は、本書の中で、繰り返しマスコミの限界や問題点を語りつつ、同時に必要性や積極的な役割を強調しているのだけれど、結局、一人の研究者の自殺という結果に対して、マスコミがどうあるべきだったのか、という問題については、明確な答えを示していない。ここに課題がある、ということを示しているというだけでも、もちろん、意味はあるとは思う。けれども、例えば、読者の側のメディア・リテラシーの問題を含めて考えるとか、記者という提供側の視点から離れた、別の視点も意識して組み込まないと、この問題は解決の方策が見つからないような。現役の新聞記者に、そこまで要求してはいけないのかもしれないけど。

2004/04/25

第11回東京国際ブックフェア

 東京ビックサイトに、第11回東京国際ブックフェア(会期:2004年4月22日〜25日)に出かけてみた。最終日だけあって、それなりの人出。
 りんかい線の国際展示場前駅を降りると、妙に小洒落た娘さんたちがたくさんいるので、なんだろうと思ったら、ビックサイトの西側は、丸井の会員限定バーゲンだった模様。やけに濃い感じのおたくな男子青年たちもちらほらしていたので、こっちはなんだろう、と思ったら、よくわからない美少女キャラクターフェアをやっていたらしい。あと、親子連れが結構いたのも不思議だったのだが、こちらは、ブックフェアの児童書コーナーが目当てだった模様。
 一応、目的はブックフェア内のデジタルパブッリッシング・フェアを見に行くことだったので、最初にそのあたりをうろうろ。マイクロテックのブースで、自動頁めくり機能つきスキャナのデモ(映像だけだったが)を眺めたり、富士通関西中部ネットテックのブースで、マニュアル作成・共有システムのデモを見たりと、一応、仕事モード。
 ふと気がつくと、新潮社、講談社、筑摩書房、NTTソルマーレ、東芝、ボイジャーの共同出展ブースでは、富田倫生が、本をデジタル化し、それを共有するということが、どういう意味を持ちうるのかを、熱く語っていてびっくり。公共性、という意味では、既に青空文庫はこれまで図書館が果たしてきた役割を乗り越えつつあるのかもしれないなあ。などと思いつつ、買いそびれていたエキスパンドブック版『パソコン創世記』が安かったのでつい購入してしまう(MacOS Xでもclassic環境で動くので一安心)。あと、青空文庫専用ビューアーのazur体験版付の青空文庫データ集CD-ROM『これ一枚「蔵書3000」』も応援の意味も込めて購入。
 デジタルパブッリッシング・フェアをざっと眺めたおかげで、携帯電話や独自端末、あるいはPC用の専用ソフトを使用した、各種電子ブック規格が乱立中、という状況なのがよくわかった。図書館屋的には、これではどうにも手が出せんなあ、という印象。独自端末も触ってきたけれど、松下よりソニーの方が出来はいい感じ。ただ、独自の規格とビジネスモデルにこだわりすぎのような気も。何にしても、まだまだどうなるかわからない、ということがわかっただけでも収穫か。とはいえ、電子出版物自体はどんどん出てきてしまうわけで、いったいどう対応すればいいのやら。うーむ。
 あ、それと、凸版印刷とアドビシステムズが、並んで結構いい場所のブースを確保した上に、コンパニオンの娘さんたちを大量投入していたのが印象的(あれ? 大日本印刷もだったかな?)。出版社も書店も青色吐息の一方で、印刷と編集ソフトウェアという、出版のインフラ部分を握っている業界は結構、余裕がある、ということなんだろうか。
 そのあと、ブックフェア本体の方に移って他のコーナーも眺めてみたが、海外からの出展組のところは閑散とした感じでなんだかなあ、という印象。ざっと眺めただけだけど、アジア各国の出版社のブックデザインは、すっかり洗練されていて驚いたり。一方、国内の大手出版社は、軒並み20%引き販売を各ブースで展開。日曜日のせいもあってか、一般の入場者が群がっていた。書店関係の参加者(一応、この東京国際ブックフェアは、出版社と書店との間の商談会を兼ねているはずなのだけど……)は、この状況をどんな気分で眺めていたのやら。自由価格本だけならまあわかるけど、新刊書を20%引きでガンガン売るのはどうなんだろう。
 結局、普通の新刊は(人が多すぎて近づけなかったのもあるが)買わず、日本書籍出版協会のブースで『図録 日本出版文化史展 '96 京都 百万塔陀羅尼からマルチメディアへ』(日本書籍出版協会, 1996)を信じがたい安値で購入。ちょっと得した気分。もう一冊は、文化通信社のブースで、金子晃・他『英国書籍再販 崩壊の記録 NBA違法判決とヨーロッパの再販状況』(文化通信社, 1998)を、これまたすごい安値で購入。どっちもいい本だと思うけどなあ。
 余談だけど、(偉い)関係者のことを「VIP」と呼ぶのはどんなものか。ちょっと感覚的についていけない感じもする。

2004/04/24

倫理21

 イラクでの人質事件に対する議論を眺めていて、柄谷行人『倫理21』(平凡社, 2000)を思い出してしまった(平凡社ライブラリー版もあり。2003年刊)。
 どこかの国家や文化に属していることからは逃れることはできないが、それを「括弧に入れる」ことを意志することが、パブリック(公的)であることだ、というカントの議論を柄谷行人は紹介している。同時に、日本の社会においては、「国家」や自分の属する「世間」を括弧に入れて、自分の行動を決める(これが倫理的である、ということだ、というのが、『倫理21』のポイント)と、家族や社会からは排除される、ということも、少しだけ論じている。今、起きているのはそういうことなのかもしれない。
 イラク人質事件と『倫理21』を結びつける、というアイデアを思い付いたのは自分だけかと思っていたら、当然ながらそんなことはなくて、「悠梨のつよがり」(「『倫理21』/柄谷行人」)でも触れられていたり。他にもありそうだけど、見つけられず。
 以下、人質事件に関するメモがわり。

萬晩報
ジョー・ウィルディング「ファルージャの目撃者より(2004年4月11日)」
園田義明「ふたつの日本/イラク日本人人質事件編」
成田好三「イラク人質と韓国総選挙報道で露呈したメディアの欠陥」
中野 有「非政府個人 (NGI)の活動が世界を翔る」(2004年5月1日追記)
美濃口坦「日本国民の「人質バッシング」」(2004年5月1日追記)

内田樹の研究室
イラク
Liberationを読んでみる
『ル・モンド』の日本青年論

JMM
・冷泉彰彦『from 911/USAレポート』 第140回「自衛隊は即時撤退しても日米同盟は壊れません」(2004年4月9日発行[JMM 265Ex])
・冷泉彰彦『from 911/USAレポート』 第141回「流血と殺気が引き裂く社会」(2004年4月17日発行[JMM 266Sa])
・ふるまいよしこ『大陸の風−現地メディアに見る中国社会』第18回「混乱する社会に生きる」(2004年4月29日発行[JMM268Th])(2004年5月1日追記)

2004/04/22

デスマーチよ!さようなら!

 深沢隆司『デスマーチよ!さようなら!』(技術評論社, 2004)を読了。
 この種の情報システム開発方法論ものに万能の妙薬(あるいは銀の弾丸)はない、というのが定説だとはわかっちゃいるが、ついつい、なるほど、ふむふむ、などといいつつ読んでしまう。
 特にIT業界の現状として、改善すべきなのはプログラミング技術ではなく、マネジメントである、ということを(当たり前といえば当たり前かもしれないけれど)きっちり、主張しているのがすばらしい。と同時に、現場におけるモチベーションや、コミュニケーションの問題などを論じた部分は、システム開発という題材を通じて、一般的なマネジメントを論じたものとしても読める。プロジェクト・マネージャーの仕事は、実作業者の重荷を排除することだ、という言葉が、胸に突き刺さったり。部下に残業させておいて、こんなものを書いている私はいったい……。
 後半は、より詳細な開発手法(「スペックパターン開発プロセス」と呼ばれている)についての解説になるので、私のような発注側の立場の人間には少々実感が湧いてこない面もあり。それにしても、著者の主張する議事録の作り方はすごい。会議に議事録作成のためのPCと、会議参加者が議事録をその場で読むための複数のモニターを持ち込んで、その場で議事録を作成し、(表現なども含めて)出席者全員で内容を確認してしまう、ということを徹底すべきと主張している。後々、言った言わないの論争にしないために、個々の発言は、ICレコーダーで録音して、ファイルとして残す、という方法も併用。議事録は会議における決定・合意事項を確認するための記録であるべき、というのはその通りだと思うが、それをここまで徹底してやるべきだ、といわれると、ちょっと真似できない、という感じではある。といいつつ、確かに、ここまでやれば、後でもめることはないかもしれない。ちょっと真似してみたい誘惑に駆られるなあ。
 全体として、システム開発の過程で、発注側が仕様を確定できないことも含めて、開発側(受注側)の問題として捉える、という、ある意味で、私のような発注側の人間にとってはありがたい組立てになっている。このために、発注側のスキルが低過ぎる(私自身を含めて)という問題は、見えにくくなってしまうきらいもあるような。現実には、発注側のための開発方法論の方が、より必要とされているのでは、というか、ほしい。
 そういう意味では、ややフラストレーションがたまらないでもないが、マネージする側に立ったときに、どう行動すべきか、という意味では、勉強になった気がする。実際にできるかどうかは、また別の話だけど。

2004/04/18

国立公文書館所蔵資料特別展 激動幕末−開国の衝撃−

 国立公文書館所蔵資料特別展「激動幕末−開国の衝撃−」(会期:2004年4月3日〜4月22日)を見に行ってきた。
 相変わらず入場無料で解説目録も無料。独立行政法人化されたことで、変化があるかと思っていたのだけれど、広報の一環として、所蔵資料展示の重要性は増しているのかもしれない。
 会期中最後の週末だったせいか、かなりの盛況。新撰組がNHK大河ドラマに取り上げられている今、「幕末」というテーマ選択も、時宜を得た、ということかもしれない。
 解説には書誌的な記述がないのでわかりにくいが、内閣文庫の資料だけあって、刊本も写本も状態のよいものが揃っている(……と思う)。『環海異聞』『海国図誌』『万国公法』といった、外国船来航や海外情報収集に関する著名な資料群を中心に関連する資料群を紹介すると同時に、小笠原諸島の「回収」(イギリス人が入植していたが、領有を主張できる歴史的根拠を踏まえて、日本の領土とした)関連資料や、吹き荒れたテロの様子を伝える資料(新撰組関連の文書もあり)なども展示。幕末の状況を多面的に表現しようとする意図がうかがえる感じ。
 個人的には、洋学の勃興によって危機を迎えていた昌平坂学問所(幕府の学問所)関連の文書に興奮。当時の試験問題など、あまり知られていない(というか、私が知らないだけかもしれないが)、江戸期の学問の実態を伝える資料群が展示されていた。こんなものが残ってるんだなあ。
 ちなみに、何故か内閣府賞勲局による「我が国の栄典制度」も同時開催。何故、今? 正直、意図がよくわからないのだけれど……。それにしても、「文化勲章」の制度が制定されたのが昭和12年(1937)というのは、時代状況を考えると意味深だなあ。
 あ、あと、『内閣文庫蔵書印譜 改訂増補版』(国立公文書館, 1981)がまだ購入可能というのにびっくり。慌てて購入。ちなみに、今回の展示でも、様々な蔵書印(って何? という方は国立国会図書館の電子展示会「蔵書印の世界」をどうぞ)を見ることができた。いくつか読めなかった印文も、この蔵書印譜を見れば一発で解決。ありがたや。書誌学に関心があって、財布に余裕のある人は、入手しておくべし。

2004/04/17

続・情報基盤としての図書館

 根本彰続・情報基盤としての図書館』(勁草書房, 2004)を読了。「図書館の現場」シリーズとして出たこともあって、装丁もシリーズに合わせたものになっている。
 内容は、タイトル通り『情報基盤としての図書館』(勁草書房, 2002)の続編。前作では、米国の状況を参考にしつつ、図書館は情報のフローではなくストックを重視すべき、という議論が展開されていたが、今回は現在の日本の状況を踏まえて、より具体的な提言が展開されている。
 公共図書館の世界では、図書館は、利用者から要求された資料をとことん提供することに徹するべきである(「要求論」と呼ばれる)、という議論が盛んだったりする(でも、こんなことは、図書館界以外ではあまり知られていない事実かもしれない)。
 ここ最近、公共図書館によるベストセラー小説の貸出が著者・出版社に経済的損失を与えている、とか、新しい本ばかりではなく、文化的ストックとしての図書の蓄積をするべきではないか、という議論(と、同時に、著作者に対して何らかの形で金銭的補償が行われるべきだという主張)が盛んだったりするのだが、一部の(?)図書館関係者は、こうした批判に対して猛烈に反発をしていたりする。反発している人たちの意見を読むと、大抵の場合、ベストセラーであっても、利用者が要求するものであれば、あまり長く待たせることなく提供するべきである、という「要求論」的発想が根底にある。利用者の要求に応えることが図書館の役割なんだから、ベストセラーだろうが何だろうが、複数買ってどんどん貸し出すことに何の問題があるのか、というわけだ。
 こうした「要求論」的な考え方に対して、著者は実証的な批判を加えていく。特に、いわゆるベストセラーの内、公共図書館でよく借りられているものは、小説に偏っている(実用書やビジネス書におけるベストセラーなどはほとんど含まれない)という分析はかなり痛烈で、公共図書館が情報提供機関ではなく、娯楽提供の場と化してしまっている実態を浮き彫りにしてしまっている。
 また、「要求論」においては、要求されたら何が何でも提供する、という面ばかりが強調されるが、実際には、限られた予算で資料を購入していく時に、図書館側が何を選ぶのか、ということによって、利用は大きく変化していく(どのような資料があるのか、という例示効果がものをいう)、ということを著者は指摘している。つまり、単にニーズに応えるだけではなく、図書館側としてどのようなニーズに応えられるのか、ということを事前に示していくという作業が必要なのに、そのことが、「要求論」では見えなくなってしまう。と、いった理論的な分析も行われていて、ふむふむという感じ。
 他にも色々な論点が提示されているのだけれど、著者による「要求論」批判の中で最も強烈なのは、公共機関として、図書館が何のために無料で本を貸しているのかを説明する責任がある、ということを指摘したくだりだろう。「要求論」では、図書館という存在は社会にとって必要なものであり、本を貸すことは良いことである、ということが、往々にして自明のことにされてしまいがちだ。でも、そんなことは全然(図書館界の外側では)自明ではないわけで、税金を使って無料で本を貸す、ということが、地域社会にとってどのような役割を持つものなのか、住民に対して説明されなければならない、という著者の指摘は圧倒的に正しい。
 そこをまともに考えないと、単純に、貸出の冊数が多いから、あるいは、たくさん人が訪れるから役に立っているんだ、という、ひたすら数を追い求める運営に簡単に堕してしまう(まあ、全然使われないのは問題外だけど)。そうなれば、地域にとって必要な資料・情報とは何か、ということよりも、読みたいというリクエストが殺到する資料(公共図書館の場合には、それが往々にして小説だった)に重点が置かれてしまうのは当然のことだろう。かくして、著作者側の経済的利益とぶつかることに……で、現在の状況に至るわけだ。
 ところで、本書を読んでいて、著者が、何回か「前川恒雄」の発言を引いて、それを論拠に議論を展開する、というパターンを繰り返していることに、何となく違和感を感じてしまった。
 前川恒雄は「要求論」的なサービス論の元祖のような人で、一部で神格化されている。この人の主張に反対する議論を展開しようとすると、論理的にどうこういう前に、感情的に受け付けない、という人が、図書館界では結構な割合でいたりするくらいだ。そうした人たち向けの、著者の配慮なのではなかろうかと、個人的には邪推していたりして。成功体験(70年代から80年代に公共図書館が発展した時の理論的基礎を築いたのが前川恒雄)の呪縛は、恐ろしいなあ。
 何にしても、公共文化施設の中では、比較的うまくいっているように見える公共図書館の世界にも、様々な問題がある、ということがよくわかる一冊だと思う。そういう意味では、博物館・美術館・文書館の関係者にもお勧め。本書を読んで、公共サービスや生涯学習について考えている人に、図書館についての議論に参加してもらえると、個人的にはうれしかったりして。

2004/04/13

ユリイカ 2004年3月号 特集・論文作法

 『ユリイカ』2004年3月号(青土社)「特集・論文作法 お役に立ちます!」を(今ごろ)読了(あれ、bk1に在庫がない?)。既に押井守特集の4月号が店頭に並んでいるというのに。たぶん、押井守特集の方が売れるんだろうけれど、この3月号の特集の方が、好み。何となく、内容が「変」だし。
 特集冒頭の蓮實重彦インタビュー「零度の論文作法 感動の瀰漫と文脈の貧困化に逆らって」(聞き手・鈴木一誌)からして、インタビューのようで何か別のものになってしまっている。インタビュアーが、AというところでBと書いていますが、ということはCということではないですか、と訪ねると、蓮實重彦は、ほとんど全ての質問に対して、それは単にXというだけのことでしょう、ただYということはあるかもしれません、と切り捨てる。こうした(かみ合わない)やり取りが延々と続くのである。なるほど、読み手によるテクストの(深)読みというのは、書き手の意図とは関係がないのだ、ということを、恐ろしいほど思い知らされる一編。ある意味すごい。
 ちなみに、浅田彰に言及しているところだけ、妙に蓮實重彦が熱くなっているような気がするのは、これも深読みのしすぎか。ちなみに、蓮實重彦はここで、浅田彰の罪を「柄谷(行人)さんまでは、彼の書物が書きたい欲望の持ち主にとってのジェラシーの対象だったわけですけれども、浅田さんは、無用なジェラシーは持つな、無駄な努力はするな、分かるものは簡単に分かる、お前たち知的貧乏人は書くな、という話です」と表現している。なるほど、後の社会学者系評論家の果たす役割の先取りをしていたみたいなものか(違うかな?)。
 特集タイトルと整合性が(比較的)とれているのは、石原千秋「秘伝 人生論的論文執筆法」、渡部直己「それでも「優」を取りたい人のための五箇条の御託」、池田証寿「文字コードによって人名・題名・引用をいかに表記するか」、村上陽介「MLA方式による出典明示の技術」あたりか。実用的、あるいは、採点する側から見た忠告のようなものなので、学生は目を通しておくとよいかも。ちなみに、MLA方式というのは、参照する文献を注ではなく、著者名(主にファミリー・ネーム)で、本文中に表記してしまう、という方法。これは私もよいとは思うのだけれど、これを日本語の文献にどう適用するのか、という共通ルールがないのが問題、という気も。
 こうした実用系(でもないか?)に対して、小谷野敦「非「科学的」な人文社会科学」は、最近の文学研究の動向に対する愚痴が炸裂。ポスコロ(ポスト・コロニアリズム)、カルスタ(カルチュラル・スタディーズ)ばやりの昨今を嘆いてみせる。「まじめにやってほしいものだ」という結論がなんともいえない。
 小谷野敦に限らず、この特集全体として、ポスコロ、カルスタに対しては冷たい論者が多く、逆に言えば、そういう論文がそれだけはやっていて、そして、みんながうんざりしているのが、よくわかる構造になっている。要するに、そういう論文は書くな、ということか。
 例えば、佐藤泉「〈カルスタ〉の自己記憶・自己忘却」などは、やや遠回しながら、カルスタが行う偶像破壊が、もはやその「偶像」を誰も共有していない状況では、意味を成していないことを痛烈に指摘しつつ、1950年代の労働者サークルにおける文化活動がなぜ忘却されたのかという論を展開したりしている。
 増田聡「ロック論の書き方?」では、カルスタのおかげで注目を浴びているサブカルチャー研究ではあるものの、ロック論がいかに困難なものであるかが延々と語られることになる。『季刊・本とコンピュータ』2004年春号で、宮本大人がマンガ評論には渋谷陽一がいなかったということを問題として提示していたが、佐藤泉の議論を読んでいると将来的には、ロック評論には、マンガの分析言語を提示した夏目房之介のような存在がいなかった、と語られることになるかもしれない、いう気がしてくる。
 その他、長谷川一「棲みつくことと旅をすること 「論文」空間をめぐるメディア論」は、『出版と知のメディア論 エディターシップの歴史と再生』(みすず書房, 2003)のエッセンスを要領良くまとめたもの、という感じ。とりあえず、こっちを読んでしまうのがお勧めかもしれない。短いし、文章もあまり論文論文していないので読みやすい。
 あ、いかん。一番はちゃめちゃなのを忘れていた。高山宏「カタけりゃいいってもんじゃない アルス・アマトリア論文術」がめちゃくちゃ。全然論文を書く参考にはならない。高山宏が論文をどう書いたか、という思い出話が展開されたりするのだが、(相変わらず)話があっちこっちに飛びまくる。面白いけど。ただ、普通はこんなのは真似できませんって。学生の時にこれにかぶれたら、大変だろうなあ。図版として高山メモが紹介されたりしているので、ファンは必見かも。個人的には、ところどころ噴出する、東京都立大の人文系お取りつぶしに対する怒りが印象的だった。この問題については、渦中の研究者の本音の(?)発言が、意外に聞こえてこないだけに、貴重な一編かもれない。

2004/04/11

深海蒐集人(2)

 かまたきみこ深海蒐集人(2)』(朝日ソノラマ眠れぬ夜の奇妙な話コミックス, 2004)を読了。
 かつてのSF少女マンガの伝統は死んでいなかった……という感じ。「古い」と感じる人も少なくないかもしれないが、こういうマンガが今現在描かれていることに、正直いって、救われた気分だったりする。
 舞台は近未来。地球温暖化によって、海中に沈んだ書籍や美術品などの文化財を引き上げる「ダイバー」(海に適応した素潜りが得意な人びと、という設定)が主人公。地上の人間模様と、海底に沈んでしまった遺物とが、微妙な関係を描きながら物語が組み立てられている。例えて言えば『SFマンガ大全集』に収録されていそうな感じ、といえばわかるだろうか……いや、かえってわかりにくいか……。
 絵柄は、巻末の「THANKS FOR」に波津彬子の名前が入っていたりするので、そこから類推すればあまり間違いない……かな? 話の方は、一話完結という形式ということもあって、ストーリー&アイデア勝負、という面が結構強い。重層的な内面描写とかはあまりないものの、コマ割り自体は、24年組以降の少女マンガ的な伝統を引いていて、その手のマンガを読み慣れた目にはとても読みやすい。
 もちろん、単に懐かし系、というわけではなくて、文化財というものが持つ、価値や意味、というものが、過去に持っていた価値とは別に、現在の社会の中で与えられていく、という観点と、歴史を抱え込んだモノそのものが持つ魅力やある種の神秘的な力、という視点が、絶妙のバランスで掛け合わされているところが魅力。少しコミカルで、どこまでも前向きな登場人物たちに騙されてしまいそうだが、ここまできっちり問題が描かれていれば、文化財保護について考える際のテキストとしても使えるのではなかろうか。
 そういう意味では、単純に「SF少女マンガ」というだけの枠では語れないし、語る意味もあまりないのかも。

2004/04/10

季刊・本とコンピュータ 2004年春号

 『季刊・本とコンピュータ』2004年春号(発行:大日本印刷 発売:トランスアート, 2004)を読了……したのは、結構前のことだったような。忘れきってしまう前に、面白かった記事について覚書。
 仲俣暁生「共有地の開拓者たち 第三回 水越伸さん」は、現在の「ソシオ・メディア論の水越伸」が、どのような経緯を経て形成されてきたのかを、インタビューを元に再構成。実は最初は文化人類学がやりたかった、といった話もあって、「へ〜」度も高かったり。大上段に構えるわけでもなく、細部に捕われてしまうわけでもない、独特の視点の取り方の秘密(?)が、ちょっとだけ見えた気になる。
 屋名池誠(インタビュー)「日本語は横書きに向かうか」は、『横書き登場』(岩波新書, 2003)の著者へのインタビュー(しまった、これ、買ってあるけど読んでないぞ)。消えていった様々な表記の可能性を語りつつ、現在のあり方を固定化してしまうような規格化の危険性を指摘したりと、ある時点の日本語表記を絶対的なものとして讃美するような観点とは無縁だったりするところがいい感じ。と、思ったら、『大阪女子大学蔵 蘭学英学資料選』(大阪女子大学, 2001)に関わっていたりする人なのか(いい資料集です)。横文字との出会いが日本語に与えた影響、というのが、キーワードなのかも。
 あとは、山崎浩一「雑誌のカタチ エディトリアルデザインの系譜 第三回 『ぴあ』過剰な誌面がもたらしたもの」が、『ぴあ』のレイアウトデザインの確立の過程をインタビューを軸に再現。結果として、『ぴあ』成立そのものについての文章にもなっている。
 というわけで、今回はインタビューネタが面白かった、という印象。
 マンガがテーマの雑誌内小雑誌『MANGA HONCO』は、夏目房之介(インタビュー)「マンガを語るための地図を作ろう」がメイン。「熱くはならないけど、ただ「語れる」」という位相からしか語れないことがある、と語っていたりするのだけれど、これって要するに「研究者」の視点なのでは。それと、伊藤剛・小田切博・宮本大人の三人の論者の小論を集めた「マンガ論最新ショーケース2004 だからマンガは面白い」は、何となく物足りない感じで消化不良。それぞれ、もっと長い論考が読みたい。

2004/04/08

国産ロケットはなぜ墜ちるのか

 松浦晋也『国産ロケットはなぜ墜ちるのか H−IIA開発と失敗の真相』(日経BP社, 2004)を読了。
 中身は、日本の宇宙開発の問題点をえぐり出しつつ、残された希望を何とか拾い出そうとする、という趣旨なのだが、結果的に、日本の官僚(的)組織の病理に肉薄してしまっている。
 というわけで、様々な形で病んだ組織の中で、歯がみしている人たちにとって、それでもまだ諦めずにいることができる、ということを示しているというだけでも、本書は、書かれてよかった一冊だと思う。勇気や希望や元気や感動は与えてくれないかもしれないが、ここで冷静に状況を見きらなければもう二度と回復は不可能だ、という状況の中で、腹を据えるためのきっかけくらいは与えてくれるはずだ。
 要するに、日本の宇宙開発関連の組織(役所も関連法人も企業も)が官僚的(かつエンジニア軽視の)運営によってその力を失い、意思決定の決定的貧困が人の意欲を奪い去る、という状況が、これでもかという具合に描かれているわけだが、こうした矛盾がとても先鋭化して見えるのは、宇宙開発が、一見、夢とロマン溢れる世界であるかのように宣伝されてしまっているからなのかもしれない。将来を見据えた政策、技術開発、品質管理、プロジェクト・マネジメント等、様々な領域で極限的なものを要求される以上、単なるロマンでなんとかなる世界のはずもない。むしろ、生臭い国際競争の世界として、宇宙開発を見つめる視点を著者は提供してくれている。と同時に、その現実を踏まえた上で、(子供たちにとっての)「希望」としての宇宙開発を語るあたりは、もはやコメント不能の領域だ。
 状況証拠の積み上げによる議論も少なくないし、実証性には欠ける面もあるような気もするのだけれど(まあ、それだけ情報が公開されていない、ということでもあるだろう)、プロジェクトXに泣いている場合ではない、というのはよくわかる。医療現場もそうだが、必要な領域に必要な人材と資源を投入する、という判断が、社会の様々な領域でできなくなってしまっている、ということが、どのような結果をもたらすのか、というケーススタディとしても貴重な一冊かもしれない。
 ちなみに、bk1に掲載されている、著者と笹本祐一との対談も傑作なので、ぜひあわせて一読を。

(2005.04.11追記 書名を間違って引用していたのに気がついたので直しました。我ながら情けない……。)

2004/04/05

マリア様がみてる チャオ ソレッラ!(と、ついでにアニメ第1シーズン終了)

 今野緒雪『マリア様がみてる チャオ ソレッラ!』(集英社文庫COBALT-SERIES, 2004)を読了。
 学園物に修学旅行ネタがないなど許さーん、という主義の私としては、当然、マリみてでも修学旅行ネタに期待はしていた。してはいたのだけれど、よく考えたら、学年が違う、というところが、マリみてにおける「姉妹」関係のミソなわけで、1学年単位で行動する修学旅行では、さして盛り上がりようがないのであった。
 まあ、そんなわけで、番外編的な展開になるのは止むを得ないのでは。読んでいる途中で、2年生トリオ不在の間の話を、1年生と3年生の一人称視点の組み合わせでもう一冊、というのも面白いかも、と思ったものの、最後まで読んだところで、それはなさそう、ということが判明。そろそろ1年生視点の話も読んでみたいところなので、自作に期待。
 それにしても、糞を垂れ流しながら歩くダルメシアン、とか、単なる美しいだけのお伽話になりそうなところに、きっちり楔を打ち込んでくるところが、作者のうまいところ。この感覚が作者になかったら、私のようなオッサンにはとても読めなかったかも。(今回、やたらとトイレネタが多いのも同じ狙いか。いや、実は、男性ファン封じだったりして……)
 とはいえ、アニメで同じことをやってしまうと、おそらく生々し過ぎてしまう。どうするのかなあ、と思っていたら、どうにもなっていなくて、結果として、アニメは妙に美化されたお話になってしまったような気がする。不要なほどに多用されていたモノローグも含めて、原作者の監修が裏目に出たのでなければよいのだけれど……。

2004/04/04

アインシュタイン相対性理論の誕生

 安孫子誠也『アインシュタイン相対性理論の誕生』(講談社現代新書, 2004)を読了。部屋中に積み上がるハードカバーを横目に、ついつい新書に手が伸びる今日この頃。いかん……。
 相対性理論ネタで新書といえば、同じく講談社のブルーバックスシリーズを思い出してしまうのだけれど、本書はブルーバックス系の解説本とはちょっと趣が違う。相対性理論の解説が主な目的(解説としても分かりやすい部類に入ると思うが)なのではなく、アインシュタインが相対性理論に至るまでの道筋をたどっていこう、とのが主。というわけで、普通はあんまり知られていない、特殊相対性理論以前の論文や、同時期の書簡、アインシュタイン自身による後の回想などを丁寧に読み解きながら、アインシュタインの思考がどのように展開していったのかが論じられている。
 ちなみに、特に目立って攻撃的な文体、というわけではないのだが、実は結構、論争的な議論が展開されていて、欧米の双子のパラドックスは存在しない(あるいは説明に一般相対性理論を必要としない)という論者を論破したり、物理学史の先駆者としては大御所の広重徹による相対性理論成立に関する議論を批判したりもする。とはいえ、丁寧に原資料(複数の版や言語版があればそれらを比較したり)を読み込んだ上での先行研究批判だ、ということが伝わってくるので、よくある為にする議論とは違って、嫌みな印象がないのがいいところ。
 単なる歴史叙述だけではなく、アインシュタインが相対性理論を確立した時代(20世紀初頭)に至る物理学においては、イギリスを中心とした「粒子力学的伝統」とドイツを中心とした「化学熱学的伝統」という二つの研究の潮流があり、アインシュタインは後者の「化学熱学的伝統」の影響を強く受けていた、という話が展開されていて、これが結構面白い。相対性理論を初期の段階で受容した物理学者や、アインシュタインをノーベル賞に推薦した面々も、「化学熱学的伝統」の研究者が中心だったりする、とのこと。慣れ親しんだ考え方の延長線上にあるかどうかが、新しい理論の受容にも影響を与える、ということか。
 かなり徹底的に数式を排除して、中学生レベルの数学で比喩的に説明されているので、数式嫌いの人でもかなり読みやすいはず(逆にいえば、相対性理論の数学的解説を求めてはいけない)。また、別離を迎えてしまった最初の妻との手紙が、重要な資料として使われていたり、学問的側面と人間的側面のギリギリの接点からアインシュタインの思考が浮かび上がってくる、という展開に、ちょっとぐっときてしまった。
 来年(2005年)は、(特殊)相対性理論を確立した論文の発表から100年で、しかもアインシュタイン没後50年、とのこと。来年読んでもいいかもしれないけど、とりあえず、予習にお勧め。

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