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2004/05/31

国立情報学研究所(NII) オープンハウス

 今日は、趣味と仕事を兼ねて国立情報学研究所のオープンハウスに出かけてきた。本来は明日6月1日の方が主なイベントが集中しているのだけれど、今日の夕方しか時間がなかった。結局、発表展示(ポスターとデモ)だけを見ただけだったりする。それでも、さすがに色んなことをやっていて何だか楽しい。
 図書館屋的には、書棚のメタファー(現実の配置と、検索結果集合を表示する仮想の書棚を行ったり来たりできる)を使った図書検索システムを卒論で作って、修士の研究ではより抽象的な関連性表示のインターフェースを研究している人がいて、なるほどなあ、と関心したり。ただ、抽象度が上がれば上がるほど、とっつきは悪くなってしまうような気もする。抽象度の高いインターフェースが受入れられるには、もうしばらく試行錯誤の時間が必要なのかも。
 その他、図書館関連では、ディジタル・シルクロード・プロジェクト(特に東洋文庫所蔵貴重書ディジタルアーカイブ)が、おお、こんなことをこんなに進めていたのか、という感じでちょっとびっくり。
 研究部門以外にも、プロジェクト/開発・事業部の発表では、引用文献文字列の自動解析から始まって、引用文献の記述がバラバラなものを自動的に高い精度で同定し、引用文献によって関係付けられた論文間の関係をビジュアルに見せる、という一連の流れについての研究開発に関しての発表があったり。実用化まであとどのくらいまでのところまで来ているのかなあ。
 汎用連想計算エンジン(GETA)を使った検索が、色々なところに取り入れられていて、文化遺産オンライン(どこが開発したのかと思ったらNII絡みだったのか…って、URL見ればわかることだったか)の連想検索もこれだったことが判明。また、夏に向けて、分野ごとの関係性をビジュアルに見せる、というインターフェースのプロトタイプとして、入手可能な新書(岩波新書、とかの「新書」)数千冊にキーワードと書評を(オリジナルで)付したデータを使った「新書マップ」の公開の準備を進めているとのこと。将来的にはWebcat Plusとも連携させたい、といった話も飛び出していて、今後の展開が楽しみだったりする。
 図書館と直接関係のないところでは、国産のポータルサイト構築システムNet-Commonsのデモ(遠隔教育への応用が一つの柱になっていることが特徴)が面白かった。でも、NTTデータポケットとの共同開発なので、最終的には有償販売になるらしい。このあたりが、企業との共同開発の難しいところだなあ。あんまり高くなければいいけど。
 雑多といえば雑多だけれど、一ヶ所で作られた成果が他の試みや事業にどんどん取り込まれていくあたりは、研究部門と事業部門が一つにまとまっている強みなのかもしれない。全ての研究が事業として生き残るわけではない、ということを、ちゃんと金を出す側(文部科学省?)が理解していれば、当分の間は楽しませてくれそうな気がする。
 あ、そういえばセマンティック・ウェブの発表は英語のみだったので、詳細はよくわからず。なんだか面白そうだったんだけどなあ。

(2004年7月1日追記)
 上で触れている新書マップが6月30日に公開された。デモの時には、自分で触ってみたわけではなかったので、インターフェースが結構新鮮。
 同時に新書マップと連動した(を補完する、かな?)Webマガジン「風」も公開されている。本読みにはこっちの方がより面白かったりして……。

2004/05/30

これであなたも狩野派通! 正信から暁齋まで

 読書はろくにしていないのだが、昨日は、板橋区立美術館「これであなたも狩野派通! 正信から暁齋まで」(会期:2004年5月22日〜7月4日)に出かけてきた……のだけれど、周辺を散歩しつつ遠回りして行こうとしたら見事に迷って閉館直前の到着に。ざっと見た、という感じになってしまった。東京大仏も見逃してしまったし……。そのうち再挑戦せねば(今度は地図を用意して)。
 今回の展示は、板橋区立美術館所蔵の狩野派作品を展示しつつ、狩野派(特に江戸狩野派)って何?ということを説明してしまおう、というもの。狩野派とはいっても、ピンからキリまであるわけだが、板橋区立美術館はまさにマイナーどころからメジャーどころまで、狩野派関連の作品を広く収集する、という方針を取っているらしく、次々と狩野○○、という名前が並んでいる。
 面白いのは、各展示作品に付けられた解説で、身もふたもない突っ込み(鳥に比べて花がでかすぎないか、とか…)がびしびし付けられていて、最高。狩野派の魅力と形式化が進んでいく面での限界とを、くだけた調子のコメントで楽しく解説してくれていた。もともとのタイトルの他に、分かりやすいキャッチコピーが付けられている(というか、そっちの方が字がでかい)のも楽しい。作品を軽く扱いすぎではないか、という批判もあるかもしれないが、むしろ、作品をいかに見る人に近づけるか、というきっかけの作り方として評価されるべきだと思う。
 展示点数はさほどでもないけど無料だし、会期は結構長いので、ご近所の方はぜひ自分の目でご確認を。この痛快な(?)解説をそのまま収録した図録がないのがちょっと残念なほどなので。
 余談だけれど、板橋区みやげには、「板橋お伝え最中」がお勧め。五種類の餡が甘いもの好きにはたまりません。
 ……なんか、今回は板橋区の回し者みたいだなあ。

2004/05/26

チキンパーティー(1)

 金田一蓮十郎『チキンパーティー(1)』(秋田書店PRINCESS COMICS, 2003)が何故か増刷されて(3版だそうな)近所の本屋で平積みされていたので、買ってみる。『ハレグゥ』とはまた違った印象ですな。
 事実上一人暮らし状態の主人公の中学生女子(14歳)の家に、謎のトリの着ぐるみ(?)野郎が突然現れてなし崩しで同居することに……という話。トリの前向き思考の違和感と、人とトリの絵としての文法(というか、画法というか)の差異をネタにしたギャグといえばいいのかな。
 キャラクターが増えていくにつれて、何となく疑似家族的なつながりが描かれるようになっていくのが、個人的にはポイント。母親の不在という設定と、こういうキャラクターが違和感なく組み合わさってしまうところが、時代なのかもしれない。まあ、家族の中に猫型ロボとかお化けとかが入り込む、というのは昔からあるわけだけど、家族不在のところに入り込んで家族になっていく、といくところが、今の作品、ということなのかなあ。
 なんことを考えていたら、『pass the note around』さんの「大草原の小さな家を出て、魔女の奥さまがいない世界で生きる」(いつもタイトルのつけ方がかっこいいなあ)で、家族というつながりが「公的なるものの私的領域への介入と平行して生み出されたフィクション」だという話が書かれていて、フィクションにおいて家族的なつながりが、異形のもの(?)との間で描かれる、というのが、今の様々な制度のあり方とどうリンクしているのだろう、とちょっと考えたりして。

2004/05/24

逝きし世の面影

 渡辺京二『逝きし世の面影(日本近代素描1)』(葦書房, 1998)を、数日前に読了。先日、所用で東京駅に行った際に、八重洲ブックセンターの歴史棚で平積みされていた上に、ポップが立てられていたので、何となく気になって手に取ったら、これがやけに面白そうな代物。というわけで即購入。どうもいろいろ賞も貰っているらしいし(今まで知らなかったのが恥ずかしい…)、amazon.co.jpや、八重洲ブックセンターのオンラインショップでは購入可能になっているのに、bk1では検索に引っ掛かってこないのは何故だろう?
 それはさておき、日本近代素描、と題するシリーズの一冊目として書かれたものでありながら、実際にここで描かれているのは、近代化によって失われた、江戸期の「文明」、特にその明るく、魅力的な側面だったりする。著者がいう「文明」というのは、「ある特定のコスモロジーと価値観によって支えられ、独自の社会構造と習慣と生活様式を具現化し、それらのありかたが自然や生きものとの関係にも及ぶような、そして食器から装身具・玩具にいたる特有の器具類に反映されるような、そういう生活総体」(p.7-8)のことであって、謎の巨大建造物とか、そういう話ではない。江戸の隅々、あるいは農村にまで浸透した園芸とか、職人が作る日用品とか、今からすれば精神を病んでいたと思われる人たちの社会の中での位置づけとか、死に対する感覚とか、動物に対する共感とか、そういった日常の生活全体を構成するような全体的な何か、といったものを、「文明」と著者は呼んでいる。
 その失われた「文明」について語るために著者が採用したのが、幕末から明治初期にやってきた西洋人たちによる旅行記類を渉猟する、という方法である。もちろん、欧米からやってきた人だけに、西洋が進んでいて他は遅れてるぜ幻想をばっちり身に付けていたりする人も多いのだけれど、そういう人でも、思わず江戸時代人の屈託のない好奇心や、人好きの良さ、あるいは、日用品の質の高さを褒めずにはいられなかったりするし、モースのように、江戸時代の名残を徹底して褒め称え、愛した人もいる。そんなのは、西洋人の勝手な感傷だ、というのは簡単だし、所詮は西洋人による「オリエンタリズム」の反映の結果でしかない、という批判もありうる。著者は、そんなことは承知した上で、「オリエンタリズム」的な、失われた楽園を日本に見る、という幻想のフィルターの存在を認めつつも、それでも、西洋人たちの記述には何かが残されているはずだ、という立場を取っている。
 実際、時期も地域も出身国も異なる様々な異人たちによる記述なのに、江戸期の「文明」を褒めるポイントは奇妙なほどに重なっていく。そうした記述を幾重にも重ねつつ、江戸末期から明治初期を生きた女性の回想や日記などの資料を補助線に描き出される「文明」の姿は、圧政に苦しめられた暗黒時代とはほど遠い、奇妙に明るく充実した民衆の生き生きとした様子に満ちたものだ。
 ただ、正直、本書を読みながら、「江戸時代って素晴らしい! 日本って素晴らしい国だ!」という気分になるのを避けるのは難しいことに気づいた。所々に留保を加える一節が加えられていて、何でもかんでも全部明るい、ってことはないんだ、ということが強調されているものの、全体としては、能天気なほどに明るい印象は強烈だ。さらに本書は、「江戸時代」と「近代日本」との差異を強調する出発点として書かれたはずなのに、その断層の深さを感じることが意外に難しかったりもする。
 ちゃんと読めばわかるはずだが、ここに描かれた「文明」は、現代の日本の「文明」とはまったくの別物だ。はっきりいって、今こんな国があったら、世界ウルルン滞在記が黙っちゃいないだろう。そのくらいには間違いなく「異国」である。にもかかわらず、「懐かしい」という一種の「錯覚」から、連続性を「幻視」してしまいたくなる、という誘惑は強烈だ。
 本書は、明るい江戸、という、ある意味現代的な近世像を、西洋人による記述を集積することによって描き出すことに、見事なまでに成功していて、どこを読んでも大興奮なのだけれど、その興奮が、「日本って素晴らしい!」という、妙な感覚(だって、今の日本は、江戸期の「文明」を消し去ることで成立しているのだから)に引きずられてしまうことに戸惑ってしまう。これはいったい何なのだろう。
 続編である、『日本近世の起源 戦国乱世から徳川の平和へ』(弓立社, 2004)も出ているようだが、タイトルからわかるように、何と、さらに時代を遡ってしまっているらしい。いつか、著者が近代を正面から語った時には、懐かしさを幻視してしまう理由がわかるだろうか。

(2005年10月11日補記)
 本書『逝きし世の面影』が平凡社ライブラリーで再刊され、入手しやすくなった。めでたい。
 平凡社ライブラリー版の後書きを立ち読みしたところ、著者は、近代はもういい、という気分だとか。というわけで、「日本近代素描」というシリーズは続かない模様。

2004/05/23

妙なプロジェクト

 今回は全然「読書日記」じゃなくて、単なる仕事の愚痴(兼、この時点で何を考えていたかのメモ)。最近、更新が進まない(ついでに眠りも浅い気がする)原因の説明でもあり。自己防衛と組織防衛、両方考慮して曖昧な表現だったりもする。請う、ご容赦。

 先日、以前から関わることになっていた新プロジェクトが(かなり遅れて)立ち上がったのだが、これが最初から妙な展開になっている。
 プロジェクト、といいながら、プロジェクトにおいて、何を達成することが求められているのかがよくわからない。どうも人によってマチマチ、といった体である。
 かなり上位のステーク・ホルダーからのプレッシャーを受けて、新しいサービスの具体化に向けて何かする、という、という点では一致している。ところが、将来のあるべきサービスの全体像を描くことに重点を置く、という話と、予算関係の日程に合わせためちゃめちゃに短いスケジュールに従って予算獲得のための準備を進める、という話と、プロジェクト・リーダーに組織上層部から与えられた別の課題もここで一緒に片づけてしまおう、という話がこんがらがっていて、めちゃめちゃ短期間での作業であるにも関わらず、どれが最も優先順位が高い課題なのか、さっぱりわからない。その結果、全部やれ、という話になってしまっているのだが、やる側としては、いくらなんでも、はいそうですか、というわけにはいかない。
 その上、上位のステーク・ホルダーから与えられている課題とは、基本的にまったく別の領域のサービス拡大にリソースを投入することを、我らが組織上層部は以前から決定していて、現場もその方向で突き進んでいる。プロジェクト関係者には、組織上層部よりも上位にあるステーク・ホルダーの意志に乗っかることで、状況を一気に変えようという意図があるのかもしれないが、プロジェクト・リーダーはというと、組織上層部から与えられた別の課題の話ばかりで、わけがわからない。
 もちろん、上位のステーク・ホルダーからの圧力への対応は、組織上層部も必要としているところなのだが、そのためのリソース投入(というか再編成)を組織上層部が了解するかというと、また別問題だったりしそうなところが難しい。組織上層部には、総論では提案者(主に現場)に賛成しつつ、細部に注文をつけることで、実態としては自分の意図の通りにものごとを動かしていく、というのが得意技という人もいるし(そういう人が決定権を持つポジションにいると、根本的には手の打ちようがないので、現場側は条件闘争を中心とした消耗戦を強いられる)、今回の件についても同様の手法が使われる可能性は高い。
 プロジェクトのオーナーである某セクションは、方針は決めるけど実行するのは現場でね、というのがポリシー、というので知られていて、たとえあるべき姿を描いて、それに向かって進もう、という話になっても、リソースの確保や政策・方針の転換まで、全部、現場に丸投げになる可能性も想定しておかないといけないらしい。こうなると、うかつな将来像を描くと、さあ、早く全部実現しろ、という話がいきなり落ちてきて、まったく別の方向に全力投球している現場はパニックになりかねない。組織上層部まで含めた組織全体の意識改革と、全体としてのリソースの再編成が、政策・方針の変更とセットになって行われるようなプログラムを作って……と、いきたいところだが、そのプログラムを実行するセクションがないんだっけ。
 自分の所属する現場側でも、関連するプロジェクトを立ち上げることを考えていたのだけれど、こうなってくると、どう進めるのか、かなり神経をすり減らすことになりそうだ。
 いやはや、考慮すべきリスクが多過ぎて、どう軽減・回避すればよいのやら。ああ、太い神経が欲しい……。
 結局、一番いい選択は、「逃げる」ということのような気がするのだが、今更、逃げるに逃げられない。考えられている目標を全部達成せよ、というなら、スケジュールをなんとかしろ、という話をしているのだけれど、押し問答になって進まない(こうしてさらにスケジュールは泥沼に……)。権限よこせ、といったところで、結果として何を出そうが、最後はプロジェクト・リーダーが組織上層部の望む方向に転換を迫ってくるのは目に見えているしなあ。うーむ、どうしたものか。

2004/05/22

談 no.70 特集・自由と暴走

 『談』no.70(たばこ総合研究センター, 2004)を読了。特集は「自由と暴走」。
 この『談』というのは、JT関連の財団法人で、たばこの塩の博物館の運営などもやっているたばこ総合研究センターの機関誌。たばこは別に好きではないのだけれど、ちょうど、池袋のリブロでこの本を見かけたのが、『メルの本棚』さんで「ほどほどな「自由」がいい」という話が、森村進『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』(講談社現代新書, 2001)をネタに書かれていたのを読んだ直後だったので、こりゃ何だか読めと言われている(誰にだ?)違いない、というわけで購入。
 対談とインタビューで構成される誌面に、注記かな、という感じで、しゃべっているメインの人の著作のおいしいところが小さい字で引用されている、という独特の紙面構成。著作のハイライトと対談またはインタビューでしゃべっていることを組み合わせて読むことで、語られていることの理解を深めましょう、という意図なんだろうけど、単純に、こういうことを書いている人がしゃべっているのか、ということがわかって便利だったりする。
 大澤真幸と廣中直行の対談「「人間的」自由と「動物的」自由」は、『快楽の脳科学 「いい気持ち」はどこから生まれるか』(NHKブックス, 2001)を書いた廣中直行に自然科学的な視点から見た「自由」を、大澤真幸に社会科学的な視点から見た「自由」を代表させた、という趣向、かな? かみ合っているのかかみ合っていないのかよくわからないものの、科学は「第三者の審級」(神様みたいな絶対的な判断の基準)にはなれない、という議論や、インフォームドコンセントのように情報を与えるから「自由に」判断せよといわれることが増えているけど、実際には判断するだけの知識がないままに判断を強要されているだけ、という形で、「自由」が形骸化しつつあるんじゃないかとか、面白い論点はぽこぽこ登場。
 『自由はどこまで可能か』の森村進のインタビュー「リベラリズムからリバタリアニズムへ」では、徹底した自由主義(でも無政府主義ではない)であるリバタリアニズムに関する分かりやすい紹介と、「自分のからだ」を自分は自由にできる権利がある、という自己所有権テーゼなど、リバタリアニズムの基本概念を紹介している。要するに、最低限のルール(人の身体を拘束して強制労働させたりは駄目、とか)を守りつつ、みんな好きなようにやればあとは市場でうまいことバランスは取れていくはずだ、ということみたいなんだけど、あまりに素朴に市場を信頼しすぎなのでは。カール・ポラニー『大転換』(東洋経済新報社, 1984)を学生時代に読んで以来、近代的な市場経済というのは、各地域ごとに存在していた多様な財の再分配システム(贈与とか交換とか…)を破壊しながら拡大していく悪魔の挽き臼だ、というイメージ(日本だと「おしん」の少女編のころに起こった事態ですな。アジア各国で「おしん」が受けたのは、時期はずれるにしても、挽き臼に挽き潰される経験は共通のものだった、ということなのかも)があまりに強烈に焼き付けられてしまったので、どうもこういう単純な市場至上主義(う、オヤジギャグのようだ)には、拒否反応が……。
 むしろ、稲葉振一郎のインタビュー「自由主義の課題 個人と公共政策をリンクさせる」のように、市場がうまく働かなくなることはある、という前提のもとに、国家の役割を規定していく考え方の方が、どちらかというと納得できる。その他、「ナショナル・ミニマム」(国家が最低限やるべき領域)ならぬ「ナショナル・マキシマム」(これ以上国家が踏み込んではいけない領域)という問題を考えるべきではないか、といった、様々な問題提起が刺激的。不況で働き口がない状況で、学校に行かなくてもいいんだ、というのは駄目だろう、といいつつ、ちらっと宮台真司批判もあったり。最後に「教養や公共性という問題は、エリートレベルの問題というよりは、中間層、庶民の問題」という話が出てくるのだけれど、だから『教養としての経済学』なわけか。なるほど。
 結局、一番しっくりきた議論は、仲正昌樹のインタビュー「虚構としての〈自由な主体〉 人間性の限界」かもしれない。「自由」というのは、「虚構」であって様々な形で作り出され維持されてきたものだ、という歴史的な議論を踏まえた認識をベースに話を展開。既存の制度や秩序に対抗して、より自由な社会を作ろうとする人たちが、(マルクス主義も含めて)あるべき人間の姿をより強く規定して、その規定に縛られてしまう、という逆説について説明したくだりには思わず納得。よりよい世の中にするためには、反戦運動をしなければならない、環境保護活動をしなければならない、と、思ってしまった瞬間に、より不自由になってしまうわけで、そうではなくて、なんとなーくより集まって、なんとなーくバラバラに行動して、なんとなーく解散するような、曖昧なつながりの中で生じる動きの方が可能性があるんじゃないか、という話は、毛利嘉孝『文化=政治』とも通じるようで面白い。この人の『「不自由」論 「何でも自己決定」の限界』(筑摩書房ちくま新書, 2003)が読みたくなってきたなあ。
 何にしても、あまりにも「自由」である、ということは、かなりしんどいことだ、というのは(リバタリアニズムの人たち以外には)結構、共有されている認識みたいですな。

(2004.5.24追記)
 リブロ系以外にも、青山ブックセンター、八重洲ブックセンター、ジュンク堂などの系列の書店でも扱っているようです。取り扱い書店リストには往来堂書店が入っていたりするのが、何となくなるほど、という感じでしょうか。地方・小出版流通センター扱いだそうですので、書店に注文される方はご注意を。

2004/05/16

(雑録)出版差し止めとマスコミ/古本屋とインターネット/ほか

 うーん、読書が進まない……。というわけで、気になったネット上の文章についての雑録。

「暴露本出版社」が「言論の自由」と「報道被害」について考える

 版元ドットコムの出版社リレーエッセイから。実は「出版差し止め仮処分」というのは、既にレアケースではない、ということに一番びっくりした。『週刊文春』のケースでも、司法の側は日常的な判断をしただけ、ということなのだろうか。
 マスコミがらみでは、萬晩報の「アテネの空を覆うテロの脅威」も、うーむ、という感じ。出版されたものが情報として偏ってしまっていては、図書館が偏らない情報を提供しようったってどうにもならないからなあ(図書館がちゃんとやっているかどうかはまた別の問題だけど)。

日本の古本屋メールマガジン 2004年1月28日  第11号

 日本の古本屋では、参加古書店の在庫データを集約したデータベースを検索して、各古書店に購入を申し込む、という仕組みがある。それを使って購入した利用者から、参加古書店を評価する仕組みを導入してほしい、という希望が寄せられていることに対する反論など。
 「ほとんどの参加店がインターネット専業ではなく」、「「日本の古本屋」上で評価されれば、あたかもそれが、その古書店全体の評価であるように見えてしまう」という危険性は確かにある。「インターネットという媒体に慣れていない古書店も多い」のもそれはその通りだろうと思う。
 ただ、だから評価は導入できない、というのではなくて、客と古書店の間でのやり取りを、インターネット上でどう確立するのか、ということを考えた方がいいような。まあ、それは「日本の古本屋」という仕組みの中でやるというよりは、個々の古書店の経営方針に応じて、ということなのかもしれない。

内田樹の研究室 無印良政治家(2004年5月15日)

 最近、MacOS Xに移行したらしい内田樹のWeblog。年金未納問題を入口に、求められている政治家像に関する議論を展開。相変わらず、ポジションの取り方が絶妙。「せめて、「よりましな制度を作る」ために鋭意努力をしている姿勢くらいは示してもよろしいのではないか」という発言にはぐっとくる。前日の「無印の悪いおじさん(2004年5月14日)」も併せて。

nobilog2 ビル・アトキンソン講演:私の人生とMacintosh(2004.5.13)

 Macコミュニティの底力というか、業の深さというか。Macユーザーである私は、こういうのって、いいなあ、と思ってしまうのだけれど、そうでない人にとってはどうなんだろう。オープンソース系のコミュニティともまた違うんだろうか。よくわからない。
 Smalltalkネタでコメントが異様に盛り上がった「Mac(Lisa)誕生の背景をアトキンソン氏が明かす(2004.5.9)」も、よくわからないがすごい。ただ、MEMEXのビジョンに、今の電子図書館像は縛られすぎているような気もしているので、個人的にはちょっと複雑。

(追記)
山形浩生「自由には必ず責任伴う」(Be on Saturday 2004.5.15)

 asahi.comなので、リンクはそのうち切れてしまうかもしれないけれど、一応。(紙の朝日新聞土曜版Be businessにも掲載。縮刷版にも入るのかな?)
 以前から半端なNGO/NPOに批判的だった(ような記憶があるんだけど、根拠の文章が見つからない……)山形浩生ならではの愛の鞭。なるほど、まっとうなNGOというのは、こういう厳しい認識の上で活動しているものなのか。
 ちなみに、個人的には、どうしてみんな自己責任論と自己責任否定論に(簡単に)熱くなったのか、という分析が読みたいのだけれど、誰か書いてないのかなあ。

2004/05/12

ず・ぼん 図書館とメディアの本 (9) 特集・図書館の委託

 『ず・ぼん 図書館とメディアの本 (9)』(ポット出版, 2004)を読了。忘れた頃に現れる、左派系(?)図書館関連雑誌の最新号。特集は「図書館の委託」。
 図書館の委託問題というのは、公共図書館の運営(の一部)を、自治体が企業に委託する、というのが最近増えている、という話。図書館の運営は、図書の購入費や施設の維持費、そして蔵書データベースや貸出管理システム系の開発・維持費を除けば、ひたすらマンパワーが必要=人件費が必要(つまり、自動化・機械化できる業務が案外少ない)という構造になっているので、職員を直接抱え込むより、アルバイト・パートを中心にして、低賃金で夜間・休日も人手を投入できる企業に下請けに出してしまったほうが安くつく上に、開館時間を拡大できる。一部の例外を除けば、どこの自治体も財政は火の車なので、企業に委託して人件費を削り、しかも、開館時間が延長されれば住民サービスの拡大にもなって一石二鳥、というわけだ。
 それってどうなんだろう、というのを議論する、というのが特集の趣旨なのだけれど、委託反対論で埋め尽くされているのかと思いきや、意外に冷静な議論が展開されていて、ちょっとびっくり。委託を受けていた某企業のアルバイトが図書館利用者の個人情報を悪用なんて話もあって、委託に対する批判的な話も結構あるものの、委託は駄目ったら駄目だ、という原則論ではなく、全体としては、条件によっては委託という手段もありえる、という論調。福島聡(ジュンク堂書店池袋本店副店長)が座談会に参加したりして、図書館以外の視点が折り込まれているせいもあるかもしれない。
 でも、それだけではなくて、既に多くの公共図書館を、自治体が雇用する非常勤職員(アルバイト)が支えていて、そもそも正職員だけでは図書館の運営はできないという実態が、こうした、条件によっては委託容認、という論調の背景にあるような気もする。
 ちなみに本書には、ある図書館で、非常勤職員がヤングアダルト(YA)サービスの改革をやってのけた、というレポートまで掲載されていて、こうなると、アルバイトというより、フリーランスの専門職として扱うべきではないのか、という気もしてしまう。その一方で、長期雇用を目指して非常勤職員が組合を作って運動したけど駄目だった、という話もあったりして、やはり非常勤職員は非常勤職員としてしか扱われない、という現実も。ちなみに、企業への委託が実現した場合には、図書館の非常勤の枠はなくなることが多く、図書館で働きたければ自治体非常勤よりもさらに賃金の低い、委託先企業のアルバイトやパートとして働くことを選択せざるをえない、ということになるらしい。うーむ。働く場としての図書館のイメージがどんどんダークになっていくなあ。
 それはさておき、この号の『ず・ぼん』で一番面白いのは、特集とは無関係な、日本図書館協会の元・事務局長、栗原均のインタビューだったりする。若い頃の関西図書館界で活躍した話や、1986年のIFLA東京大会(今もう一回やれといわれてもできないんじゃないかなあ)の資金集めの苦労話、TRC(図書館流通センター)設立の経緯といった話も面白いが、図書館史萌え(日本に何人いるんだ?)の魂に来るのは、「図書館事業基本法」の話が出てきて挫折するまでの顛末。
 「図書館事業基本法」というのは、昭和56年〜57年ごろ、国会議員の超党派の団体である図書議員連盟と各種図書館団体とが組んで、議員立法によって館種を超えた図書館振興の基本法を作ろうとしたもの(というまとめでいいのかな?)。図書議員連盟の裏方でもあった国立国会図書館と、日本図書館協会が推進役になって、色々な図書館関係団体の意見をまとめて法律案を作る運動を展開したのだけれど、結局は頓挫してしまった、幻の法律なんである。
 実は、運動が頓挫したのは、学術情報システム構想によって大学図書館をまとめていこうとしていた文部省の思惑を受けて、国立大学図書館協議会(現・国立大学図書館協会)が反対に回ったためだったのだ!……といった話が、今回のインタビューで語られている。実名がばしばし出てくるので、知っている人は大興奮、知らない人はなんのことやら、という話なのだが、とにかく、めちゃめちゃに生々しくて政治的。図書館界の主導権を巡る、国会図書館と文部省との暗闘(?)の一面を堪能できる。その後、文部省/文部科学省が、図書館に対する熱意を今一つ見せてくれなくなり(学術情報システム構想を受けて設立された、学術情報センターは、その後、NII(国立情報学研究所)に改組、現在、NIIは情報・システム研究機構の下部機構となっている)、国会図書館が大学図書館に対して何となく距離を置いている感じがするのも、なんとなく納得。まあ、インタビューだから、全部鵜呑みにするのは危険なんだろうけど、でも、面白いなあ。……と、思ったけど、ますます図書館のイメージを暗くしてしまったような気も。まずかったかなあ。

2004/05/09

博物図譜展 博物の肖像画

 武蔵野市立吉祥寺美術館に「博物図譜展 博物の肖像画」(会期:2004年4月1日〜5月23日)を見に行ってきた。「美術館」とはいっても、独立した建物があるわけではなく、吉祥寺の伊勢丹新館FFビルの7階に展示スペース等を確保したもの(「シュピール通信」によると美術館建設計画の頓挫という背景があったとのこと)。というわけで、今回の展示についても、点数は50点に満たない。
 とはいえ、高知県立牧野植物園所蔵の関根雲停・服部雪斎・牧野富太郎、独立行政法人国立科学博物館所蔵の中島仰山・平木政次による自筆の博物画をじっくりと間近で見られるのはなんとも幸せ。特に中島仰山画の実物大ウミガメ(「緑亀」)三面図は圧巻。書き込みによると、小笠原から生きたまま送られてきたもので、25日間生存していたらしい。明治初期に小笠原諸島に関する博物学的調査が行われていた、ということか。中島仰山については、高橋由一の作品との関連の有無が問題となっている「大鮭魚ノ図」(塩漬けでサハリン(だったかな? メモを取らなかったのでうろ覚え)から送られてきたもの。これも実物大)も展示。ちょっと照明が明る過ぎる気がしたのだけれど、色あせしたりしないのかな。
 玉川大学教育博物館所蔵の教育用絵図も状態はそれほどよくないものの(もともとの紙質が悪いのか?)、まさに直近から見ることができる。カエルが爬虫類だったりして、面白い。教育用絵図のいくつかは中島仰山や服部雪斎が原図を描いており、木版だけでは画家の力量は測れない、ということがよくわかる。特に掛け図になると、とたんに質が落ちるのが何ともいえない。正確さよりもまずは普及を急いだ結果だろうか。
 展示会の図録はないものの、フルカラーのリーフレットを無料で配布。これで100円とは。ちなみに、科博所蔵の博物図譜に関しては、国立科学博物館編『日本の博物図譜 十九世紀から現代まで』(東海大学出版会, 2001)があるので参考まで(会場のミュージアム・ショップでも販売)。
 入場料100円で、同時に浜口陽三記念室と萩原英雄記念室も見ることができる。浜口陽三記念室では、メゾチントの原版(素人的には、新たに刷り増しできないように意図的に傷がつけられているのが面白かった)と完成作品を同時に展示。銅版画に興味のある人にとっては勉強になるのでは。萩原英雄の方もざっと見てきたがこれで木版とはちょっとびっくり。版画の世界も奥が深い。

2004/05/07

アメリカNIHの生命科学戦略 全世界の研究の方向を左右する頭脳集団の素顔

 掛札堅『アメリカNIHの生命科学戦略 全世界の研究の方向を左右する頭脳集団の素顔』(講談社ブルーバックス, 2004)を読了。
 久しぶりにブルーバックスを買ってちゃんと読んだような。NIHは、National Institutes of Healthのこと。「Health」とはいっても、実際には応用から基礎まで生命医学関連分野全体をカバー。ちなみに、MEDLINE、あるいは、PubMedで知られている米国の国立医学図書館(NLM: National Library of Medicine)はこのNIHの一機関だったりもする。
 本書は、NIHで研究生活を送ってきた著者が、NIHの歴史や、NIHで生まれた様々な研究成果について解説しつつ、同時に、そのような研究成果の生産を支える研究資金分配の仕組みや、人事システムなどを紹介するという一冊。帯には「研究に携わる人、必読の書」とあるのだけれど、むしろ、科学技術振興策を考える人や、研究機関のマネジメントに携わる人こそ必読なんじゃなかろうか。
 残念ながらNLMについての記述はほとんどないので、図書館屋的には物足りないところもあるけれど、NIHがどのように全米の研究者に研究資金を分配するのか、というシステムの解説は一読の価値あり。NIHの厖大な予算のかなりの部分が,全米(あるいは世界中)の研究者に研究資金として提供されている、というのもすごいが、研究資金を獲得した研究者が所属する機関にも図書館や研究施設を維持するための資金が与えられる、という仕組みがお見事。大学や研究機関は、多額の研究資金を獲得できる優秀な研究者をできるだけ多く確保しようと凌ぎを削ることになるわけだ。さらに、ピア・レビュー(同分野の研究者による評価)と、有識者による審査を組み合わせることで、学閥やなれ合いを排除することにも成功しているらしい。
 ただ、本書は、NIHの良い面だけを強調して書いているところもあるので、考えようによっては人体実験ともいえる治験、ヒトゲノムの活用、ヒトの体生胚細胞を用いた研究の問題などについては、問題点の存在は指摘しつつも、かなり楽観的。そのあたり、賛否の分かれるところかもしれない。
 何にしても、いくら「科学技術立国」や「知財立国」と叫んで、科学技術関係の予算を増やしたり、21世紀COEプログラムのように大学に競争的資金を導入したりしても、研究者と研究機関を支えるシステム全体のデザインのレベルで見ると、米国とはまだまだ比べ物にならない、という読後感は結構強烈。これじゃあ、頭脳が流出するのもしかたないかも、という気分になるなあ。

2004/05/04

24時間戦いました 団塊ビジネスマンの退職後設計

 布施克彦『24時間戦いました 団塊ビジネスマンの退職後設計』(筑摩書店ちくま新書, 2004)を読了。
 うーむ、評価が難しい。一応、団塊の世代以外も読み手として想定されてはいるものの、主な読者として想定されているのは、著者自身が属している団塊の世代。特にその中でも企業に勤めるビジネスマンとして生きてきた男性が想定されている。
 団塊の世代の辿ってきた時代と、前後の世代との比較について触れながら、団塊の世代を悪者にするのではなく、その功績と可能性を語る、というのが一つの柱。その一方で、デジタルの時代に適応できない団塊の世代の限界を指摘しつつ、もう団塊の世代は新しい時代のリーダーにはなれない、下の世代に譲るべきだ、と著者は指摘する。まさに飴と鞭。
 著者自身、入念な準備期間を置いた上でライターとして独立しているだけあって、これまでの企業の中での出世レースとは異なる、別の道(趣味でも起業でも)を確保すべきだ、というのが、著者の主張になる。個人的には、あの世代に多く見られる、組織内における旺盛な出世欲とか上昇志向が、そんなに簡単に解消されるとは思えないような……。とはいえ、退職後の団塊世代の問題は、自分たち自身で解決すべきだ、という主張は、後続世代にも参考になるかも。
 世代論にどれだけの有効性があるのか、という話もあるけれど、それなりにカタマリとして語られ続けてきた団塊の世代が、どのように社会の一線から身を引いていくべきなのか(そして、下の世代はそれにどう付き合っていくべきなのか)、という一つの提案として読むとそれなりに面白い。が、問題は、著者も指摘しているように、団塊の世代のさらに前の世代が企業や団体のトップでありつづけている、というところにあるのでは。
 と、いうところで、終ろうとしてふと思ったのだけれど、むしろ、下の世代に対しては、お前たちは組織をひっぱる側になれるのか、という問い掛けになっているのかもしれない。そう考えると、意外に深い一冊か。

2004/05/03

絶望に効く薬 ONE ON ONE (1)

 連休だというのに、特に遠出もせずに山田玲司『絶望に効く薬 ONE ON ONE (1)』(小学館YOUNG SUNDAY COMICS SPECIAL, 2004)を読んだり。
 山田玲司といえば、娯楽作品に徹しきれずに妙にある種「青臭い」メッセージを作品に(かなり直接的に)盛り込まずにはいられないところが、弱点でもあり、味でもあり、という印象が強い。本作では、その「青臭い」メッセージの部分を前面に出しつつ、かつ、インタビューマンガという形式を取ることで娯楽性をも確保するという主客転倒の荒技がいい感じ。自画像はギャグ調を基本に崩しぎみに、インタビュー相手はシリアス調を基本ににする、という描き分けで、著者自身の視点を相対化してみせる技もきっちり。ちなみに、「革命的対談漫画」と表紙にはあるけれど、手法としてはそんなにめちゃくちゃなことはしていないので、念のため。
 個人的には、みうらじゅん、井上雄彦といった漫画家と、中村征夫(水中写真家)、木下デヴィッド(プロサーファー)といった海関係の人が登場する回が、著者の思い入れが染み出してくる感じで好み。ただ、個々の登場する人物云々(おじさん視点で読んでも変な人ばっかりで単純に面白いけど)よりも、ストレートに自分の言葉で語りたい欲望を抑えて、第三者の「刺激の強い言葉」を通して、どのように生きるべきか、というメッセージを伝えようとする、著者の心意気に涙するのが正しい読み方かもしれない。
 残念ながら、おじさん視点でしか読めなくなってきているので、帯にあるような「刺激の強い言葉」とか、「人生を台無しにしない方法」だとは、あまり感じなくなってしまっているけれど、10代の時に読めば突き刺さることもあるのでは。もはや感受性が鈍ってますな。うーむ。あえて難癖をつけるとすれば、誰もが突出した存在になれるわけではない、ということと、どう折り合いをつけて生きていくのかについては、突出した人にいくら話を聞いても参考にならないのではなかろうか。そんなことは、10代を生き延びてから考えればいいことなのかもしれないが。

2004/05/01

参謀本部と陸軍大学校

 黒野耐『参謀本部と陸軍大学校』(講談社現代新書, 2004)を読了。
 陸軍を中心に、近代日本の軍と政治との間の意志の統一がどのようなシステムで行われていたのか(行われていなかったことの方が多いのだけれど)、ということと、参謀などの陸軍エリートの育成機関であった陸軍大学校による人材育成の問題を絡めつつ論じる、という趣向。
 日清・日露までは日本の軍隊もまともだった、とはよくいわれる。けれども、実際には、日清戦争の段階で、既に戦争における国家意思の決定システムには齟齬が生じており、そこを強力なリーダーの存在でカバーしていた、というのが実情だった、というのが本書のキモである。昭和に入って、元勲や、日清・日露時代の功労者たちが退場していくにつれて、強力なリーダーシップによって押さえ込まれていた陸軍・海軍間の意志の不統一や、「統帥権の独立」という名の既得権益防衛のための策動があらわになっていく過程が、本書ではこれでもかとばかりに描かれている。システムとしての組織が欠点を持っていても、人材が揃っていればある程度カバーできるが、組織が駄目で人材も駄目になると救いようがない、という現実をまざまざと見せつけられる。
 陸大の人材育成については、明治初期の段階で、即戦力となる人材の養成に主眼を置いたために、戦術偏重の教育となってしまったのが後々まで後をひく、ということが、様々な事例から語られている。当初は参謀の育成が目的だったのに、高級将校の育成まで目的に加わり、でも、カリキュラムはあまり変わらず……というわけで、歴史・外交・経済についての幅広い視野を持った、総力戦時代に対応する人材を生み出すことができなかった、ということが語られる。そういえば、今の産業界も即戦力を求めて、実践的な大学教育を要求したりしているけれど、マネジメントする人間が育たなかったりして。そういう意味でも、やたらと示唆的。
 ちなみに、戦術重視の結果、日露戦争の段階で、兵站の軽視(実際これで好機を逸している)などの弊害が既に生じていたらしい。日露戦争は、日本の近代史のクライマックスとして語られることが多いけれど、その後の失敗につながる種はこの時点で既に蒔かれていたことになる。
 国際情勢などを大局的に見て(未完成かつ不完全ではあれ)国家戦略を組み立て、その戦略に基づいて軍事・政治を統一的に動かしていこうとした石原莞爾が高く評価されているので、石原莞爾ファンは必読かも。陸大時代の石原は、課題を短時間で片づけつつ、カリキュラムとは関係ない歴史の研究に没頭したりしていたらしい。というわけで、陸大の教育は、石原の戦略的思考を育成するためには役にも立たなかった、と著者は結論づけている。むしろ、本書によれば、陸大出身者たちは短期的な戦術論しか語ることができなかったし、外交的駆け引きも理解できず、目先の勝利に簡単に幻惑されるばかりだったようだ。当然ながら、著者は、陸大の教育を失敗だったと評価している。
 石原の構想は日中戦争によって完全に破綻し、石原も陸軍中枢を追われるが、その後は国家戦略とは名ばかりの、陸・海軍と政府の三者の意見を併記したどうとでもとれるような方針(要するに、意思決定の基準にならない玉虫色の方針)ばかりが決定され、最初から勝てないことがわかっているのに、終らせ方も分からない戦争に突入していくことになる。
 また、陸軍・海軍・政府という三者の意見を統一する場がなく、陸・海軍側の既得権益防衛の力が強くてどうにも抜本的対策は取れない、という時に、何が起こったか、というあたりをポイントにして読むと、ビジネス書的にも面白いかもしれない。実は、機能や権限のはっきりしない、調整のための会議がやたらと設置されるのである(そしてうまく機能しない)。そういえば自分の組織でも、と思った方は要注意……って、私のところも……。
 ちなみに著者は、防衛大出身で、陸上自衛隊を経て、防衛庁防衛研究所の戦史部主任研究官となった人物。過去の歴史を美化するだけでは、これから起こるかもしれない失敗は防ぐことはできない、という、リアリズムが背景にあると思うのだけれど、防衛大の教育に対する批判とかも含まれていたりするんじゃ……と余分な勘ぐりへの誘惑も少しあったりして。同じ著者が、国レベルで決定された方針について論じた『日本を滅ぼした国防方針』(文芸春秋社文春新書, 2002)もお勧め。併せて読むと、うんざりしつつも、こんなのをもう一回やられたらたまらん、という気分をたっぷり味わえる。

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