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2004/05/22

談 no.70 特集・自由と暴走

 『談』no.70(たばこ総合研究センター, 2004)を読了。特集は「自由と暴走」。
 この『談』というのは、JT関連の財団法人で、たばこの塩の博物館の運営などもやっているたばこ総合研究センターの機関誌。たばこは別に好きではないのだけれど、ちょうど、池袋のリブロでこの本を見かけたのが、『メルの本棚』さんで「ほどほどな「自由」がいい」という話が、森村進『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』(講談社現代新書, 2001)をネタに書かれていたのを読んだ直後だったので、こりゃ何だか読めと言われている(誰にだ?)違いない、というわけで購入。
 対談とインタビューで構成される誌面に、注記かな、という感じで、しゃべっているメインの人の著作のおいしいところが小さい字で引用されている、という独特の紙面構成。著作のハイライトと対談またはインタビューでしゃべっていることを組み合わせて読むことで、語られていることの理解を深めましょう、という意図なんだろうけど、単純に、こういうことを書いている人がしゃべっているのか、ということがわかって便利だったりする。
 大澤真幸と廣中直行の対談「「人間的」自由と「動物的」自由」は、『快楽の脳科学 「いい気持ち」はどこから生まれるか』(NHKブックス, 2001)を書いた廣中直行に自然科学的な視点から見た「自由」を、大澤真幸に社会科学的な視点から見た「自由」を代表させた、という趣向、かな? かみ合っているのかかみ合っていないのかよくわからないものの、科学は「第三者の審級」(神様みたいな絶対的な判断の基準)にはなれない、という議論や、インフォームドコンセントのように情報を与えるから「自由に」判断せよといわれることが増えているけど、実際には判断するだけの知識がないままに判断を強要されているだけ、という形で、「自由」が形骸化しつつあるんじゃないかとか、面白い論点はぽこぽこ登場。
 『自由はどこまで可能か』の森村進のインタビュー「リベラリズムからリバタリアニズムへ」では、徹底した自由主義(でも無政府主義ではない)であるリバタリアニズムに関する分かりやすい紹介と、「自分のからだ」を自分は自由にできる権利がある、という自己所有権テーゼなど、リバタリアニズムの基本概念を紹介している。要するに、最低限のルール(人の身体を拘束して強制労働させたりは駄目、とか)を守りつつ、みんな好きなようにやればあとは市場でうまいことバランスは取れていくはずだ、ということみたいなんだけど、あまりに素朴に市場を信頼しすぎなのでは。カール・ポラニー『大転換』(東洋経済新報社, 1984)を学生時代に読んで以来、近代的な市場経済というのは、各地域ごとに存在していた多様な財の再分配システム(贈与とか交換とか…)を破壊しながら拡大していく悪魔の挽き臼だ、というイメージ(日本だと「おしん」の少女編のころに起こった事態ですな。アジア各国で「おしん」が受けたのは、時期はずれるにしても、挽き臼に挽き潰される経験は共通のものだった、ということなのかも)があまりに強烈に焼き付けられてしまったので、どうもこういう単純な市場至上主義(う、オヤジギャグのようだ)には、拒否反応が……。
 むしろ、稲葉振一郎のインタビュー「自由主義の課題 個人と公共政策をリンクさせる」のように、市場がうまく働かなくなることはある、という前提のもとに、国家の役割を規定していく考え方の方が、どちらかというと納得できる。その他、「ナショナル・ミニマム」(国家が最低限やるべき領域)ならぬ「ナショナル・マキシマム」(これ以上国家が踏み込んではいけない領域)という問題を考えるべきではないか、といった、様々な問題提起が刺激的。不況で働き口がない状況で、学校に行かなくてもいいんだ、というのは駄目だろう、といいつつ、ちらっと宮台真司批判もあったり。最後に「教養や公共性という問題は、エリートレベルの問題というよりは、中間層、庶民の問題」という話が出てくるのだけれど、だから『教養としての経済学』なわけか。なるほど。
 結局、一番しっくりきた議論は、仲正昌樹のインタビュー「虚構としての〈自由な主体〉 人間性の限界」かもしれない。「自由」というのは、「虚構」であって様々な形で作り出され維持されてきたものだ、という歴史的な議論を踏まえた認識をベースに話を展開。既存の制度や秩序に対抗して、より自由な社会を作ろうとする人たちが、(マルクス主義も含めて)あるべき人間の姿をより強く規定して、その規定に縛られてしまう、という逆説について説明したくだりには思わず納得。よりよい世の中にするためには、反戦運動をしなければならない、環境保護活動をしなければならない、と、思ってしまった瞬間に、より不自由になってしまうわけで、そうではなくて、なんとなーくより集まって、なんとなーくバラバラに行動して、なんとなーく解散するような、曖昧なつながりの中で生じる動きの方が可能性があるんじゃないか、という話は、毛利嘉孝『文化=政治』とも通じるようで面白い。この人の『「不自由」論 「何でも自己決定」の限界』(筑摩書房ちくま新書, 2003)が読みたくなってきたなあ。
 何にしても、あまりにも「自由」である、ということは、かなりしんどいことだ、というのは(リバタリアニズムの人たち以外には)結構、共有されている認識みたいですな。

(2004.5.24追記)
 リブロ系以外にも、青山ブックセンター、八重洲ブックセンター、ジュンク堂などの系列の書店でも扱っているようです。取り扱い書店リストには往来堂書店が入っていたりするのが、何となくなるほど、という感じでしょうか。地方・小出版流通センター扱いだそうですので、書店に注文される方はご注意を。

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