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2004/06/20

イノセンス INNOCENCE

 昨日、『イノセンス』(東宝のページはいつまであるのかよくわからないので、リンク先はProduction I.Gの方にしときます)を観た。
 都内で唯一、上映が続いていた、メルシャン品川アイマックスシアターも、6/25まで(26日からはハリー・ポッターの新作を上映とのこと)で上映終了とのことだったので、慌てて品川へ。
 で、感想は……何でこれで酷評されるのか、よくわからないなあ。「攻殻機動隊2」としての枠組みをきっちりと守りつつ原作のエピソードを大胆に再構成したストーリー、劇場パンフの石川プロデューサーの言葉を借りれば「狂った」表現、どのカットにも溢れる緊張感と溢れ過ぎて読み取り切れない情報量、人間中心主義を思いっきり否定する主題。それらが微妙なバランスを崩さずに同居していて、傑作と呼ばれてもいいような気がするんだけど。前作を見た人にサービスしすぎなところがいかんのだろうか。よくわからん。
 それにしても、話に聞いていたとおり、確かにこれは日本のセル・アニメ(セルはもう使ってないんだろうけど)表現のギリギリの極限かもしれない。劇場で観ることのできる最後のチャンスかもしれないので(今のところ、DVDの発売は未定だし)、表現としてのアニメーションに関心のある人は今のうちに観ておいたほうがよいのでは。

2004/06/17

STUDIO VOICE July 2004 特集・アニメを見る方法 Animation: Year Zero

 『STUDIO VOICE』2004年7月号(インファス・パブリケーションズ)の「特集・アニメを見る方法」をぱらぱらと見る。
 神山健治×佐々木史郎×佐藤大×藤津亮太というメンバーの座談会(紹介文を読んで、ああそうか、この人か、と思わず納得の人選)が特集全体にちりばめられつつ(ほんとに、ぶつ切りでちりばめてある)、人物・作品・その他色々に関するコラムと大量の図版(STUDIO VOICEなので)で構成。
 こうやって見ていると、もはや知らない人とか作品が多くなってしまい、オタクはもう自称できんなあ、としみじみ。そうか、望月(智充)さん、『ふたつのスピカ』やってたんだー、とか、そんなことに感心してる段階でもう全然駄目ですな。
 コラムでは、声優から見た宮崎・富野比較論、「声優キャスティングのセンスとは!?〜宮崎駿と富野由悠季の場合」に、思わず納得。そういわれてみればそうだよなあ。
 また、「アニメ、20年の呪い論」は、アニメとSFとの関係を、『うる星やつら』と『超時空要塞マクロス』が後の作品に与えた影響と絡めて論じたコラム。「内田樹の研究室」のエントリー、「「オタク」と司法」と併せて一読を。SFが戦後日本のサブカルチャー史において、どのような役割を果たしたのか、誰か実証的に検証してくれんかなあ。もう、歴史的に相対化されてもいい頃合いだと思うのだけれど。

2004/06/13

経済学という教養

 稲葉振一郎経済学という教養』(東洋経済新報社, 2004)を読了。
 帯に「「人文系ヘタレ中流インテリ」に捧ぐ」とあって、そりゃ私のことかいな、と思ったら、「『現代思想』の、熱心な読者ではないまでも気にしていた人たち」や「「ポストモダン」だの「社会的構築主義」だのについて読みかじったことのある「人文系読書人」」がターゲットとのこと。あー、ストライク・ゾーンばっちりですな。
 近代経済学の現状を踏まえつつ、不況・不平等・構造改革の三つのキーワードを軸に、議論は展開。パレート最適(市場がうまく機能して、少なくとも誰も損をせずに効用が最大化された状態……でいいのかな?)という概念はどこかで聞いたことがあったような気がしたけど、すっかりわすれていたなあ。市場経済は、(うまくいっているときには)「弱肉強食」ではなく「共存共栄」を可能にするシステム、というのが、近代経済学の前提だ、というのはうかつにも認識してなかったので、思わず読みながら反省。先入観とは恐ろしい。
 では、市場がうまく機能していない場合(要するに不況の場合)は、というわけで、ケインズが登場。市場における個々のプレーヤーが合理的に判断すればするほど景気が悪くなる状態というのはありうるし、それは個々のプレーヤーがどんなにがんばってもどうにもならない「景気」という領域であって、それこそ公共的な領域なのではないか、という議論が展開されていく。この議論は、間接民主制の理論的基礎の問題にまで届いていて、その射程の長さに思わずうっとり。では景気をどうよくするのか、という点については、いわゆるリフレ派の立場を取っていて、そこでの賛否は分かれるのかもしれない。が、個人的には経済政策という問題が間接民主制システムの存立と密接に関連している、という論点だけでも大収穫だったりする。(余談だけど、第二次大戦終結時のケインズ晩年の苦闘を描いた、谷口智彦「円・元・ドル・ユーロの同時代史」の第24回から第28回(まだこの話は続くのかな?)をついでに読むと、ケインズが生きた時代の様子が窺える、という意味では参考になるかも)
 日本における経済論戦史や、そこで展開された議論が現在の構造改革論者とリフレ論者にどのように引継がれてきているのか、という歴史的視点も巧みに組み込まれているところも人文書読みにはぐっとくるのでは。
 議論の端々には、戦線を縮小、あるいは構造改革論にのめり込んでいく旧左翼への叱咤激励も。とはいえ、労働問題については、何となく物足りないなあ、経済取引の問題だけではなくて、個々の「人格」として扱われるかどうかの問題とかもあるような、と思っていたら、「労使関係史から労使関係論へ」という論文で既にしっかり論点は整理されていたりする。我ながら読み方が甘いなあ……。

2004/06/08

STSバブル?

 STS(科学技術社会論)の研究者である平川秀幸さんのblog、What's New & Occasional Diaryに、「平成15年度「科学技術白書」〜思えば遠くへ来たもんだ」なるエントリーが(ついででなんですが、トラックバック、ありがとうごさいました)。
 STSという学問(であり、一つの運動でもあるのかな?)が日本に根付いて、政府機関の公式な見解の中にその成果が(部分的なのかもしれないけれど)取り入れられるようになった現在までの経緯を、簡潔に回顧したもの。一日前のエントリー、「市民参加型TAワークショップ」と併せて読むと、STSの手法や考え方が様々な場面に応用されつつある様子がうかがえて、なるほどこうなってきているんだ、と思わず納得。
 「STSバブル」という言い方がSTS関係者の仲間内で語られていたりする、という話が紹介されているのだけれど、それだけ急激に必要性が認められてきた、ということなのでは。
 こうなってくると、図書館にもやれること、やるべきことがあるような気がしてくるのだけれど、今一つ具体的な方策がつかめないなあ。うーむ。

2004/06/07

テーブルの上のファーブル

 クラフト・エヴィング商会『テーブルの上のファーブル』(筑摩書房, 2004)を読了。読む、だけではなくて、見て、肌触りまで楽しむ、というのが正しい一冊かも。
 テーブルを舞台に繰り広げられる企画会議をネタにした冒頭部(table of contents!)に始まって、次々繰り広げられる幻想的小ネタの数々。文庫化された『クラウド・コレクター』や『すぐそこの遠い場所』のように、緻密に組み立てられた「嘘」世界を期待すると裏切られるが、ちょっとした「嘘」世界の断片を贅沢に楽しめる。雑誌的に組み立てられた単行本、という仕掛けもいい感じで、「本」をネタにした現代美術的な色合いも(それにしては、異様に取っつきやすいけど)。印刷と製本(と製紙?)の技術を駆使した造本もいい。この価格でこんな贅沢な造りの本が出せるんだなあ。
 ちなみに私のお気に入りは「ゆっくり犬の冒険 レインコートの巻」。他にも『ないもの、あります』や『ア・ピース・オブ・ケーキ』などの新作というか番外編がちょろっとあったりするのが、クラフト・エヴィング商会ファンにとってはぐっとくるところでは。ある意味、これまでの総まとめをしつつ、次の展開を模索する、という性格もあるかもしれないので、今後のクラフト・エヴィング商会の展開に期待する向きは必読かと。

2004/06/06

サイエンス・コミュニケーション 科学を伝える人の理論と実践

 S・ストックルマイヤー・他著 佐々木勝浩・他訳『サイエンス・コミュニケーション 科学を伝える人の理論と実践』(丸善プラネット, 2003)を、だらだらと読了。
 サイエンス・コミュニケーションというのは、メディア関係者、科学館スタッフ、科学ジャーナリスト、科学者自身(講演したり一般向けの本を書いたりする場合)などが、科学技術に関して一般の人に何かを伝えようとする行為全体のことをさしているらしい(日本では科学者どうしのコミュニケーションのことを指すことが多いような気もするけど)。
 本書は、そうした行為に関係する様々な人たちに対して、理論的側面から、あるいは、実践家の体験から解説する、教科書的な一冊、といった具合。オーストラリア国立大学科学意識向上センター関連の研究者等が中心になって書いたものらしく、事例についてもオーストラリアのものが中心になっている。
 実は、科学意識向上(Public Awareness of Science)であって、科学「知識」向上ではないところがミソ。1990年代までは、一般の市民には科学知識が欠けている、だから科学知識を分かりやすい方法で伝えることが必要だ、という「欠如モデル」が中心だったのだけれど(日本はまだこのモデルをベースにしているみたいだなあ)、90年代後半から、知識そのものを教え込むよりも、むしろ、科学技術に関する関心を呼び起こすことが重要である、という流れが、英国・豪州では強まってきている、ということらしい。
 例えば、「異文化理解としてのサイエンス・コミュニケーション」といった章では、科学技術研究を(日常的なものや、様々な各地の文化におけるものとはまた別の)独自の論理や語彙や慣習や判断基準を持った文化として位置づけ、様々な文化的背景を持つ市民がこの異なる「文化」と出会って、正面から向き合うようになるためには何が必要なのか、といった問題が論じられている。
 また、参加体験型の科学館については、各アトラクションなどによって伝えようとした知識そのものが伝わるわけではないことが、追跡調査によって明らかにされたり、その一方で、あれは何だったんだろう、と考えるきっかけを与えることには結構成功していたりすることが論じられたりもしている。
 こうした考え方は、「学力崩壊」と「理系離れ」が議論となっている今の日本では到底受けられなさそうな気もするのだけれど、少なくとも、あまりにも日常的な場から遠ざかってしまった科学技術という営みを、どう日常と結びつけるのか、ということは、もう少し議論されてもいいのでは。
 理論的話はどうも、という人には、「サイエンス・サーカス:大学院生によるコミュニケーションの試み」がお勧め。サイエンス・サーカス(サイエンス・コミュニケーションを学ぶ学生の実習として、いわゆる科学マジックのようなショーを、オーストラリア各地で行うイベント)に参加した学生の体験をまとめたもので、学生の回想とかが結構熱くていい感じ。個人的な試みから始まって国立の科学館にまで成長したクエスタコン草創期の経験を、設立の中心になった人物が語る「クエスタコンの話」も、涙あり、笑いありでぐっとくる。教科書的な一冊ではあるけれど、こうした経験談の部分は読み物気分で読める。
 訳語や表記の不統一はあるものの、まあ、そんなに目くじら立てるほどのことはないか(編集が甘い、といえば甘いような)。実際に「サイエンス・コミュニケーション」に関わっている人はもちろん、科学教育一般に関心のある人も、一見の価値はあるんじゃなかろうか。通勤電車で読むにはちと重いけど。

(6月7日追記)
 平成15年度 科学技術の振興に関する年次報告(いわゆる科学技術白書)を見たら、第1部が「これからの科学技術と社会」となっていてびっくり。Public Awareness of Scienceについてもちゃんと触れられている。日本でもこういう議論が盛んになってきたからこそ、『サイエンス・コミュニケーション』のような本も翻訳される、ということなのかも。

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