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2004/07/31

ITマネジメントの常識を疑え!

 角田好志『ITマネジメントの常識を疑え!』(日経BP, 2004)を読了。日経BPのWebサイト、nikkeibp.jpに連載されていた(当時は日経BPのサイトはいくつかのグループに分かれていて、これはBizTech、というところに掲載)、「検証:ITキーワード」を加筆の上で単行本化したもの。
 Windows、JAVA、Webサービス等について批判的な(オープンソースには基本的に甘いけど)視点からの検証を加える、という一冊、なのだけれど、最大の特徴はWebでの連載時に読者から寄せられたコメントをそのまま単行本に収録しているところ。賛否両論、激しい意見のやりとりが行われているテーマもあれば、ちょっとした感想だけ、という場合もあって、精粗の差はかなり大きい。とはいえ、全体として、コメントとしての質が異常に高いのがすごい。もちろん、取捨選択も加わっているせいもあるだろうけれど、日経BPというブランドと、コンテンツとして再利用される可能性がある、という前提がそれなりにものをいっているのかもしれない。コメントの質の高さは、日経BPのWebサイト全体にいえることのような気がするのだけれど、とりあえず、その見本としては、本書は最適。
 内容的には、「ブラックボックスによろしく」、「e-Japanラプソディー」あたりが、挑発的でコメントも読みがいがあるかと。「情報システムを知らない経営者は、会計を知らないのと同じ」も、コメントは今一つ少ないが、内容的には結構刺激的。
 そんなもん、Webで読めばいいじゃないか、という話もあるかもしれないが、紙のみの加筆部分もあるし、正直なところ、まだ紙の方が読みやすい(画面でも読めなくもないけど)。まあ、こういう感覚の人がそれなりの人数いる限りは、Webで公表されたものを紙で出版する、というモデルは当分生き残るのかもしれない。出す方はそんなことは何も考えていないかもしれないけど、図書館屋的には紙の方が後世に残りやすい、というメリットもあることだし。

2004/07/22

謎のプロジェクトその2

 前に書いた話とはまた別の話。
 それにしても、プロジェクト実施のための権限を確保するためだけのために、ここまでえげつないことをしなければならないとは……。汚れ役を見事に演じ切ってくれた上司には感謝の言葉もない。自分が同じ立場に立ったとき、ここまで徹底的に汚れ仕事をやりきれるだろうか。
 とはいえ、状況はかなり絶望的で、関係各セクションに権限委譲をしてもらえる可能性は極めて小さいまま。どうしたものか。
 今回はかなり露骨に(とはいえ間接的な表現で)、権限よこせ宣言もしてみたのだが、予想以上に凄まじい反発。自分たちの仕事には一切口を出すな、と逆に宣言されてしまい、ありゃまあ、という感じ。肝心なポイントは自分たちの権限として押さえたままで、サービスの中身を決めるのは自分たちではない(=責任は自分たちにはない)、という立場を守ってみせるとは。うーむ。
 以前書いた方の話は、今後やるべき事、やりたい事を好きなように提案してほしい、実施するかどうかはこっちで決めてあげよう、でも、実際にやれる体制が作れるかどうかはわからないよ、という展開。ということは、結局、やるのは自分で、ということになる可能性が高いわけで、当然、安全を見たスケジュールや内容を提案することになるのだが、そうすると積極的でない、と責められるのがなんとも。自分の墓穴を掘れ、といわれて、やる気が出る方がどうかしていると思うのだが……。

2004/07/20

S・A スペシャル・エー (1)

 南マキ『S・A スペシャル・エー(1)』(白泉社花とゆめCOMICS, 2004)をバラバラと読む。なんというか、お話としては、桜井雪『ショート寸前!』(白泉社花とゆめCOMICS)のエリート優等生版、という感じ……といっては身もふたもないか。鈍い女の子と、優位に立っているようで実は振り回されている男の子、という組み合わせは、ある意味ラブコメの王道ですな。
 これが初コミックスとは思えない非常に緻密で完成度の高い絵柄と、情報量の多いコマ割り(1ページに6コマ7コマは当り前)、崩すときにはうすた京介ばりに崩してくる表情豊かなキャラクターが魅力か。精神的な屈折、みたいな話を期待するむきには物足りないかもしれないが、話作りはしっかりしてるし、動きのあるシーンもしっかり描き込める力もあり。あとは今後もこの情報量の多い画面構成を維持し続けられると、(個人的には)結構いい感じでは。人によっては、ごちゃごちゃしているように見えるかもしれないが、特に突っ込み的な効果で使われる崩し表情のアップを描いた細かいコマの使い方が絶妙。この技は今後も極めてもらえると嬉しかったりして。

2004/07/17

青山ブックセンター全店閉店

 Love Books・青山ブックセンターが閉店…!経由で知ったのだけれど、新文化などでも短報が出てますね。青山ブックセンター全店閉店とはびっくり。16日午後に自己破産の債権者申立てが行われ、同日夕刻に全店閉鎖、とのこと。
 ☆21st Century Comedy・青山ブックセンターが潰れた・・・の本文やコメントで指摘されている通り、出版業界に与える影響が心配。
 と、他人事のように書いてしまったけれど、多様な本(雑誌も単行本も)が流通するからこそ、多様な情報へのアクセスを保証する図書館が機能しうるんだけどなあ。出版(とその流通)に多様性がなくなってしまえば、新しい情報に関しては、図書館は機能しなくなっていくのではなかろうか。ネットだけに頼ってどうにかなる、というわけにもいかんだろうし……。うーむ。

(2004.7.17追記)
 雑誌『談』編集長によるBlog・青山ブックセンターが閉店!によると、以前紹介したことのある『』は、青山ブックセンターで直販していたために、販売に影響がありそうな様子。ここは頑張って乗り切ってほしいです。新しい号、リブロで見つけたら買いますので。

(2004.7.17さらに追記)
 まんぷく::日記・青山ブックセンター、ルミネ2店は明日も営業によると、全店が16日に閉店した、というわけでもないらしい。店頭在庫の取り扱いとか、どうなっていたんだろう……。

(2004.7.18追記)
 ABC閉店の件を、図書館と関連させた議論としては、MIZUKIさんの日々記―へっぽこライブラリアンの日常―・青山ブックセンター閉店と、G.C.W.さんの愚智提衡而立治之至也・青山ブックセンターが参考になります。(G.C.W.さん、MIZUKIさん。引用、トラックバック、ありがとうございました)
 ところで、G.C.W.さんの「図書館=水道の蛇口」論は、非常に示唆的だと思うのですが、蛇口の見かけが、水が出るかどうかもわからないようなものだったりすると、顧客の側はひねってみようとは思わないのではないか、という気もちょっとしました。蛇口をひねらせる気をおこさせるための、プレゼンテーションとしての蔵書構築、という視点も必要なのかもしれない、などと、もやもやと考えていたりします。
 それが、MIZUKIさんの指摘する、独自であることに甘え過ぎない情報の品ぞろえ、という話につながると面白いかなあ、などと妄想してますが、今のところまさにただの妄想です……。

2004/07/16

〈意味〉への抗い

 北田暁大〈意味〉への抗い メディエーションの文化政治学』(せりか書房, 2004)を読了。
 『大航海』(新書館)no.49 「特集 ファンタジーと現代」と、『ユリイカ』2004年3月号(青土社)「特集・論文作法 お役に立ちます!」に掲載されていた論考が収録されていたので、他のはどんなかな、と思い、気軽に読み始めたのはよかったが……こういう文体は久しぶりだったので(ということにしておこう)、少々(?)頭がついていけなかった。
 「メディエーション」という言葉にはまったく馴染みがなかった(業界(?)では普通なのかなあ)のだけれど、「媒介性」とやらのことらしい。
 リアルタイムでやりとりするコミュニケーションというのは、こちらが投げ掛けた何かに対して相手が何かの反応を見せ、その反応を受けたこっちがまた何かを返す、というやり取りの連続からなりたっている。「何か」が相手に届いているかどうか、自分が受け取った「何か」は相手の意図した「何か」なのか、というのは、相手の反応と、相手の反応に対するこっちの反応に対する相手の反応、そしてさらに……というやり取りの中で、互いに読み取っていくしかない。というか、そういうやり取りを互いにできるからこそ、コミュニケーションが成り立っているのかどうかを、お互いに判断することが(何となく)できるようになっている。
 ところが、メディアを通じたコミュニケーションというのは、ちょっと違う。コミュニケーションが成り立っているのかどうか、メディアを通じて何かを投げ掛けてられてきたものかどうかを、何となく確認する回路が切れちゃっている。じゃあ、どうやって受け手の側は、「何か」を読み取ることができるのか。そこでメディアそのもののあり方が、その「何か」の「読み取り方」を規定する、という(「メディアはメッセージである」)というところにつながっていって(このあたりのことが「媒介性」なのかな?)、でも、それって技術的に決まるものっていうよりは、むしろ社会的に決まるものだよね、という話とか、映画(特にサイレント時代の)に関しては、社会的に見方が決まる前の段階の、何だかよくわかんない観客の共通体験みたいなものについて論じたりとか、そういう話が色々。ロジェ・シャルチエの読書論が出てきたり、中井正一(図書館屋的には、国立国会図書館の初代副館長で印刷カード配布を推進したりした人なんだけど)の映画論が出てきたりと、論文/エッセイ集だけあって、バラエティに富んでいる。
 そういえば、先日、PanasonicのDVD/HDレコーダーのE200Hとやらを現品処分で買ってきたのだけれど(BSアナログチューナー付の製品を探したらほとんどなくってこうなってしまった)、こりゃテレビ(というかほとんどアニメばっかりだけど)の見方が変わるなあ、と実感。SPモードくらいで録画すると、画質面では放映時と区別がつかない、というのも何ともいえないが、録画に失敗したり、面白くなかったりした場合には、その場ですぐに消してしまえばよい、という感覚は、デジカメで多少わかっていたつもりだけど、何だか不思議な感じである。そして、多分、いつの間にかこれが不思議ではなくて、当たり前になっていくのだろう(多分、もっと若い世代にとってはもう当たり前のことなんだろうし)。
 DVD/HDレコーダーを前提にしたテレビの見方は、街頭テレビの時代とも、テレビが三種の神器だった時代とも、まったく別物のはずだ。見方が変わっていることに応じて、作り方が変わっているだろうし、語られ方も変わってしまっているだろう。という具合に、メディアについて考える時には、今のあり方を自明視するんじゃなくて、もうちょっと違う見方をしましょう、そうすると、何か別のものが浮かび上がってくるんじゃないの……というようなことが、一冊通してのテーマなのかな?
 正直いって、実はよくわかってないので、あまり信用しないように。
 収録されている論考の中では、「ポピュラー音楽にとって歌詞とは何か」がいち押し(というか、一番分かりやすいような)。歌詞の意味を過剰に大きく評価するのも、軽く評価するのも、どちらも、ある特定の構えに捕われているのではないか、という議論は、問題提起でしかない、といえばそれまでだけど、とてもいい感じの問題提起だと思う。でも、この話を実際に突き詰めていくのは、えらく大変な気もするなあ。

2004/07/12

水鏡綺譚

 ちょっと前に、近藤ようこ『水鏡綺譚』(青林工藝舎, 2004)を、高橋留美子のコメント付の帯と、装丁の南伸坊のコメントが書かれたポップ、そして、表紙に惹かれて衝動買い。近藤ようこは、あまり(というかほとんど)読んだことはなかったのだけれど、ついつい買ってしまった。長く未完だった物語に、描き下ろしの完結編が、というのに弱いだけかもしれないけど。
 巻末の初出を見ると、1988年から91年にかけて、『ASUKA』(と一話のみ『ファンタジーDX』)に掲載されたことになっている。『ASUKA』と近藤ようこ……今となっては、なんだかよくわからない組み合わせだが、連載打ち切りになったところを見ると、当時もやっぱりなんだかよくわからなかったのかもしれない。その頃、『ASUKA』を読んでいた人たちは、どう捉えていたのやら。
 話は、中世を舞台にして、仏教説話的味付けを施した、流離譚+怪異譚。「玉乗りする猫の秘かな愉しみ」さんの、「中世の説話物語に仮託して語られる怪異譚」という表現を借りるのが一番しっくりくる感じ。「マンガ的」な荒唐無稽さと、主人公たちの微妙な関係の陰影が、なんともいえない……って、そうか、それで『犬夜叉』の高橋留美子のコメント(「長年忘れがたい未完の物語であった」云々)を帯に入れてきているのかも。いや、『犬夜叉』と読者層は重ならないような気もするけど、でも、何となく分からなくもないな。
 完結編として新たに描き下ろされた最後の二話は、明らかに、それまでと絵が違う。「初めは絵が描けなかった。下書きで何ヶ月もかかった。墨を入れた後も何度も描き直した」という作者あとがきの一節を読むと、それをどうこういう気にはなれない。むしろ、少年漫画的な絵を意識していたと思われる1990年前後の絵と比較して、より繊細な線で微妙な表情を描く今の絵の方が、ラストの別れの切なさと清々しさが入り交じったような何とも言えない空気を描くに相応しい。完結までにかかった10数年という時間は、必要な時間だった、のかもしれない。

2004/07/08

帝国日本と植民地都市

 橋谷弘『帝国日本と植民地都市』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー, 2004)を読了。
 朝鮮の京城(現・ソウル)、台湾の台北などを中心に、「大日本帝国」および「大東亜共栄圏」内の都市の形成や、都市化プロセスの特徴、そして、戦後の発展などについて論じた一冊。
 日本の植民地都市の特徴が、色々論じられていて、例えば、台湾や満洲(特に新京(現在の長春))などでは、住民の反対を押さえ込む強力な権限と、資金と人材を得て、本国よりもある意味進んだ都市建設が行われたケースがあったりした、という、よく言われる話もおさえられている。
 けれども、もっと面白いのは、欧米の植民地では本国人は支配階層のみが植民地にやってきたが、日本の場合は、農民を含め、あらゆる階層が植民地にやってきたりした、といった話だったりする。西洋諸国の場合は、産業化が先行して、原材料の供給地/製品の市場として、植民地が存在していたが、日本の植民地の場合には、本国と植民地を同時に産業化する、ということになった上に、本国との距離的な近さから、移民政策の一環としての植民地開発が進んだという側面も大きいらしい。遅れてきた植民地帝国、日本の状況がほの見える。朝鮮と台湾では都市計画のあり方が大きく違った、とか、京城のスラム街の話とか、あまり読んだことのなかったネタも色々あり。
 日本の植民地都市には日本人娼妓を抱えた遊廓街が必ず形成された、というのが特徴だったりするそうな(あとは神社)。おかげで、欧米の植民地となっていた東南アジア圏では、欧米人は社会的インフラを何か残したが、日本人が最初に作ったのは遊廓だ、と日本人を蔑んでいたという。つまり、アジア諸国にとって、西洋化=近代化は共通の目標(あるは憧れ)だったが、西洋人の文化に直接接触する期間の長かった東南アジアの人たちから見ると、中途半端に西洋化した日本は、あまりモダンには見えなかった、という話。
 日本の植民地時代の朝鮮における代表的建築家が、徹底した本格的西洋建築を指向した、という話も、同じ問題が絡んでいる。より近代的な存在であるという理屈を押し立てて朝鮮を併合した日本の存在を意識しつつ、さらに近代的である西洋そのものを追及することで、その日本を乗り越える(あるいは、通り過ぎる?)、という指向があったのではないか、というのだ。表面的には分かりにくいけれど、これも一つの抵抗の形かもしれない。
 それにしても、こうしてみると、中途半端に西洋化=近代化されたアジアとしての日本が、「遅れた」アジア諸国を植民地にすることの無理が、様々な面で現れていたということを、強く意識せざるをえない。キリスト教会は現在も建物が残り各地に信徒がいるのに、日本の植民地各地に作られた神社は、片っ端から取り壊されて跡形もない(もちろん信者などいるはずもない)、ということの意味を、今のうちに噛みしめておいたほうがよさそうだ。
 ちなみに、アジアNIESの発展は、日本の植民地時代の遺産のおかげだ、という議論がよくされるけれども、都市の発達過程をみる限りでは、植民地時代の制度的枠組を脱した60年代後半以降の発達の方がはるかに大きいそうで、そういう議論にはあまり説得力がないとのこと。悪のレッテルを貼って終わり、というのも何だけど、美化した幻想も持ち過ぎないほうがいいってことですな。

(2004.7.17追記)
 斜め下45度から・神社の戦後~南洋神社編などを見ると、現地の日本人二世などによって、神社が再建されるケースも(レアケースにせよ)あるようですね。少なくとも「あとかた」程度はちゃんとあるところが多いようですし。所詮は印象論で書いているので色々脇が甘いなあ。この他、同じく斜め下45度からの「日本のあしあと」というカテゴリーも参照のこと。勉強になるなあ。

2004/07/05

図書館の学校 2004年7月号

 ここのところまじめに読んでいなかった『図書館の学校』の最新号が届いたのでパラパラと読んでみる。
 3月号で連載が二本終了した話を以前書いたことがあるのだけれど、結論からいえば、別にページ数は減らずに、新連載がちゃんと始まっている。
 新連載の一つ、永井由美子「これからの社会における情報デザイン デザインから生活を見つめ直す」は、この7月号で第4回。メディアが変われば、それに応じたデザインも変わり、それに応じて読み方も変わる、のではないか、という話を、紙の本とスクリーンを対照させながら語っている。まだ実践としては、試行錯誤の段階なんだろうけど、こういう試行錯誤の繰り返しが、新しいものにつながっていく(はず)。
 色モノ系連載の「都市伝説新聞 『ウワサ』の深層」のお題は、「電器製品に仕込まれた静かなる「時限爆弾」! 秘かに機器を破壊する「×××タイマー」は実在するか?」。中身は、まあ、無実である事を検証する、という趣旨なのだが、主な参考資料が傑作。『松下が×××を超える日』(サンマーク出版)/『×××と松下』(講談社)/『青い目が見た×××VS松下』(東洋経済)……って、ばればれですがな(あと、一部書名が不正確なのはいかんですな)。
 とはいえ、一番面白かったのは、今回の巻頭記事、リーパー・すみ子「この頃のアメリカの学校図書館 マナー、リテラシー、オンライン・プログラムなど」。著者はアメリカのアルバカーキー市公立小学校の図書館司書(Media specialist/Librarian)。
 国語教育(アメリカなので、当然英語教育なわけだが)の基本プログラムの紹介では、アメリカにおけるリテラシー教育の基本パターンが紹介されていて、うーむ、ただ読ませて感想を聞くだけのものとはまるで違うなあ、と思わず感心。
 学校図書館の司書が何で教育プログラム? と思われるかもしれないが、アメリカでは学校図書館の司書は教員免許(と修士)を持つスペシャリストであり、各クラス週一回程度の図書の時間は、担任の教師ではなく、司書が生徒の教育の責任を負うシステムになっているそうな。日本の司書教諭と何と差があることよ……。
 また、「リサーチ」と呼ばれるいわゆる調べ学習的なプログラムでは、ProQuestの小学生用データベースなどを用いて、ペーパーを書く訓練などが行われているという。ううむ、小学生からProQuest使っとるのか……。これは差がつくとか、そういうレベルの話ではないような気がしてきたな。ちなみに、著者は、この「リサーチ」では、参照文献の明示を必ず強調して教えているとのこと。
 あと本題とは関係ないのだけれど、「アメリカの男性は日本の男性より、はるかに女性に意見されるのを嫌う」そうな。まあ、アメリカといっても地域にもよるのかもしれないが、ちょっと面白い。

2004/07/03

最新・アメリカの政治地図

 園田義明『最新・アメリカの政治地図 地政学と人脈で読む国際関係』(講談社現代新書, 2004)を読了。
 著者は萬晩報で、明らかにそこらの評論家とは異なる視点からのコラムを連載していて、それで気になっていた一冊だったりする。(国際戦略コラムも参照のこと)
 世の中のよく分からない複雑なできごとを、単純化して分かりやすくするのは、実はそんなに難しいことではない。例えば、○○は「敵」だ、とレッテルを貼ってしまえば、世界は敵と「我々」の二種類になって、とても世の中は分かりやすくなる。○○には、サヨクでも、ウヨクでも、官僚でも、政治家でも、大企業でも、アメリカでも、中国でも、北朝鮮でも、何でも入れることができるので、その場その場で、何が「敵」なのかを語っていれば、大抵のことは分かりやすく説明することができてしまう。
 けれども、ちょっと考えてみればわかるように、「敵」と「我々」の二種類の人間しかいない世界なんて、ちっとも現実的ではない。実際には、世の中は「色々」で、「様々」で、複雑だ。そのややこしい世の中を、複雑なまま、分かりやすく説明する、というのは、並大抵の知力でできることではない。
 というわけで、本書はそれができる著者による一冊だったりする。
 著者がとっている方法は、いわれてみれば単純で、世界のエスタブリッシュメントと呼ばれるような人たち(各国の中枢にいる政治家や、大企業グループを動かしているビジネス・エリート)の、人脈図を描き出すことで、今の世界の動き(の少なくとも一面)を切り取ってみせる、というもの。とはいえ、書かれた本を読むのは簡単だけど、ここまで分析するのは大変だよなあ。
 描き出される人脈図は、絡み合うクモの巣のようで、これぞホントのWWW、という気分になってしまう。その人脈図の中の様々な思惑の中で、いかに日本が翻弄されているか、という分析としても秀逸。経済に加えて、地政学や宗教を通じた様々な人の結びつきも論じられていて、これがまた面白い。
 個人的には、イラクへの自衛隊派遣について、派遣反対でもなく推進でもなく、ここでオランダ・英国との協力関係(米国とではないことに注意)を深めることが将来につながる、という分析をしたりする、この視点の取り方にぐっときてしまった。危機をあおって「敵」を作り出すだけの自称「現実主義者」とは格が違う。
 米・欧の宇宙開発と、(特に米に)翻弄される日本の宇宙開発の状況について論じている部分もあるので、そのあたりに関心のある人にもお勧め。
 選挙前の一冊としてもお勧め、といきたいところだけど、外交政策は(イラク以外は)あんまり論点になっていないような……。

2004/07/01

戦後政治の軌跡

 どうも体調がすぐれず。某学会で発表せねばならんのに、準備が進まない。
 とりあえず、先日読み終った蒲島郁夫『戦後政治の軌跡 自民党システムの形成と変容』(岩波書店, 2004)について忘れないうちに。
 帯にもあるとおり、国政選挙の投票結果集計、あるいは選挙時に行った各種調査の成果を元に、20年にわたって、地道に行ってきた分析の成果を一冊にまとめたもの。よくある評論家的な分かりやすい一刀両断的論説を期待する向きにはまったくお勧めしないけれど、逆に、ギラギラした宣伝文句ばっかりでデータも中身もない話にはうんざり、という方には強力にお勧め。
 著者がいう「自民党システム」というのは、相対的に経済発展が進む都市部で得られた税収を、経済発展の遅れた地方へ公共事業という形で分配することで、所得配分の均一化を実現し、経済発展と、国内の政治的分裂を回避することに成功してきたシステムのこと、という要約でいいのかな?
 バブル期くらいまでは、投票率が高い方が、自民党は有利で、他の野党は不利だったくらい、この「自民党システム」はうまくいっていたのだけれど、経済成長が減速してしまったり、都市部への人口集中がどんどん進んでしまったり、地方と都市との間の一体感も失われてきた(昔は、多くの人の故郷は「田舎」だったわけだけれど、今では住宅地が故郷、という人も多いだろうし)りで、システムの変容が進んでいった、というのが大まかな流れ。
 実際には、個々の衆議院・参議院の個々の選挙や、国会議員に対する意識調査などの分析を通じて得られた分析の結果を集約すると、そういう流れにまとめられる、ということなので、個々の選挙の結果だけでは、意外に変化の大きさは見えにくかったりするところが面白い。昔は、党首のイメージとどの党に投票するかは関係なかった、などといっても、実感がわかないかもしれないし、政策が争点にはならない、というのが日本の選挙の特徴だった、といわれても(多少、そういう面が残っている気もしなくもないが)、やっばりピンとこないだろう。20年間の間に、選挙によって選ばれているのが何なのかが、どんどん変わってきているのだ。
 今度の参院選にしても、投票したって何も変わらないや、だったら面倒だから行くの止めよう、と思っている人も多いかもしれないけれど、選挙、あるいは投票というのは、統計レベルで結果が出てくるものなので、(余程劇的な社会的状況がないかぎり)簡単にはコロコロ変わらないのはしかたない。
 けれども、本書を読めば、(時間はかかっているけれど)確実に変化は進んでいることがよくわかる。劇的な変化だけが変化じゃない。アメリカの大統領選みたいに、スパっとすっきり変わらなくても、やっぱり、選挙によって、変わるものはあるのだ。
 というわけで、この先、どういう方向に変化が進んでいくのかは、一人一人それそれの判断の集合としての選挙結果によるのだ、ということを、じっくりと教えてくれる一冊。選挙前に読み終えるのはちとしんどいかもしれないけど、その次の国政選挙(って、解散がなければいつだっけ?)までには、ぜひ。

(7月3日補記)
 カテゴリを付けわすれていたので、付けました。

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