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2004/07/08

帝国日本と植民地都市

 橋谷弘『帝国日本と植民地都市』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー, 2004)を読了。
 朝鮮の京城(現・ソウル)、台湾の台北などを中心に、「大日本帝国」および「大東亜共栄圏」内の都市の形成や、都市化プロセスの特徴、そして、戦後の発展などについて論じた一冊。
 日本の植民地都市の特徴が、色々論じられていて、例えば、台湾や満洲(特に新京(現在の長春))などでは、住民の反対を押さえ込む強力な権限と、資金と人材を得て、本国よりもある意味進んだ都市建設が行われたケースがあったりした、という、よく言われる話もおさえられている。
 けれども、もっと面白いのは、欧米の植民地では本国人は支配階層のみが植民地にやってきたが、日本の場合は、農民を含め、あらゆる階層が植民地にやってきたりした、といった話だったりする。西洋諸国の場合は、産業化が先行して、原材料の供給地/製品の市場として、植民地が存在していたが、日本の植民地の場合には、本国と植民地を同時に産業化する、ということになった上に、本国との距離的な近さから、移民政策の一環としての植民地開発が進んだという側面も大きいらしい。遅れてきた植民地帝国、日本の状況がほの見える。朝鮮と台湾では都市計画のあり方が大きく違った、とか、京城のスラム街の話とか、あまり読んだことのなかったネタも色々あり。
 日本の植民地都市には日本人娼妓を抱えた遊廓街が必ず形成された、というのが特徴だったりするそうな(あとは神社)。おかげで、欧米の植民地となっていた東南アジア圏では、欧米人は社会的インフラを何か残したが、日本人が最初に作ったのは遊廓だ、と日本人を蔑んでいたという。つまり、アジア諸国にとって、西洋化=近代化は共通の目標(あるは憧れ)だったが、西洋人の文化に直接接触する期間の長かった東南アジアの人たちから見ると、中途半端に西洋化した日本は、あまりモダンには見えなかった、という話。
 日本の植民地時代の朝鮮における代表的建築家が、徹底した本格的西洋建築を指向した、という話も、同じ問題が絡んでいる。より近代的な存在であるという理屈を押し立てて朝鮮を併合した日本の存在を意識しつつ、さらに近代的である西洋そのものを追及することで、その日本を乗り越える(あるいは、通り過ぎる?)、という指向があったのではないか、というのだ。表面的には分かりにくいけれど、これも一つの抵抗の形かもしれない。
 それにしても、こうしてみると、中途半端に西洋化=近代化されたアジアとしての日本が、「遅れた」アジア諸国を植民地にすることの無理が、様々な面で現れていたということを、強く意識せざるをえない。キリスト教会は現在も建物が残り各地に信徒がいるのに、日本の植民地各地に作られた神社は、片っ端から取り壊されて跡形もない(もちろん信者などいるはずもない)、ということの意味を、今のうちに噛みしめておいたほうがよさそうだ。
 ちなみに、アジアNIESの発展は、日本の植民地時代の遺産のおかげだ、という議論がよくされるけれども、都市の発達過程をみる限りでは、植民地時代の制度的枠組を脱した60年代後半以降の発達の方がはるかに大きいそうで、そういう議論にはあまり説得力がないとのこと。悪のレッテルを貼って終わり、というのも何だけど、美化した幻想も持ち過ぎないほうがいいってことですな。

(2004.7.17追記)
 斜め下45度から・神社の戦後~南洋神社編などを見ると、現地の日本人二世などによって、神社が再建されるケースも(レアケースにせよ)あるようですね。少なくとも「あとかた」程度はちゃんとあるところが多いようですし。所詮は印象論で書いているので色々脇が甘いなあ。この他、同じく斜め下45度からの「日本のあしあと」というカテゴリーも参照のこと。勉強になるなあ。

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