« 2004年8月 | トップページ | 2004年10月 »

2004/09/28

CM原版の廃棄問題

 『Copy & Copyright Diary』や『広告業界就職ノススメ』などでも触れられているが、1985年以前のCM原版の廃棄が進められている。(2004年9月22日の朝日新聞、およびasahi.comで報道あり)
 9月26日(日)には、この状況を受けて、広告労協(全国広告関連労働組合協議会)主催で、「倉庫で眠る"お宝"CMの戦略的活用に向けて〜CM原盤廃棄問題を契機に、CMアーカイブの必要性を考える〜」と題する公開ディスカッションが行われた模様(所用で参加できず。残念)。反響はどうだったのか……。
 廃棄が行われた背景や、問題点については、「テレビCM史研究拠点」の「CM原版の廃棄問題について」が参考になる。このページで紹介されている、東京国立近代美術館フィルムセンターへの移転の提案に対するJAC(日本テレビコマーシャル制作社連盟)側の反応は、著作権意識の歪みを象徴しているようで、なんとも。作品に関する権利を守るために、当の作品を廃棄してしまう、ということに何の矛盾も感じないのだろうか。
 いきなり趣味に走った話になってしまうのだけれど、CMフィルムが、日本のアニメーション史にとっても重要な資料であることは、例えばWEBアニメスタイル平田敏夫インタビューや、小原秀一インタビューなどを読んでも明らかだろう。単に、CMとして「名作」と認定されたものだけに価値があり、他は捨てていいというロジックでは、多様な角度からの研究の可能性は閉ざされることになる。今後の研究がいかに貧弱なものになってしまうかを考えるとかなり暗い気分。何とかならんものか。

2004/09/24

季刊・本とコンピュータ 2004年秋号

 ああ、書く速度より読む速度が、読む速度よりさらに買う速度が速すぎて、更新が……。
 というわけで、ちょっと前に読んだ『季刊・本とコンピュータ』2004年秋号発行:大日本印刷 発売:トランスアート, 2004)。なんだか、やたらと読みやすかった記憶があるのだけれど、その代わり、いつもより情報量的には物足りない感じが。この号から、「総まとめ特集」ということで、第二期の特徴だった子雑誌もなくなり、レイアウトもシンプルになったからだろう。メイン記事とコラムを一つのページ内で組み合わせるような複雑な構成は影を潜め、徹底して記事のみで勝負している。ある意味で、山崎浩一「雑誌のカタチ エディトリアル・デザインの系譜 第五回 『ワンダーランド』新聞+雑誌のハイブリッド」で紹介されていた『ワンダーランド』的なレイアウトの対極といってもよいかも。この号でこういう雑誌を取り上げる、というのは意図的なのかな?
 その他の記事では、元木昌彦・矢野直明・龍沢武「雑誌と百科事典と新聞が、電子化の大波を受け止めた」が、一九八〇年代半ば以降の電子化の流れを現場(朝日新聞・講談社・平凡社)で受け止めてきた人たちの証言として興味深い。失敗した部分も含めて率直な話が読める。
 同様に、中尾勝・後藤光弥「マルチメディアでわれわれは何をしようとしたのか」も、同時期のCD-ROMを中心としたマルチメディア作品に関わった人たちの証言。全然懲りてない、というか、まったく前向きさを失っていないところがすばらしい。
 廣瀬克哉「技術よりも人が見えてきた 電子テキストの八年」も、www.honya.co.jpの変遷を回顧する内容。売れたのはテキストではなく、そこを発表の場をとした「人」だった、という話がぐっとくる。機能は引継がれないが、データそのものは意外に残る、という指摘も重要か。
 二木麻里「この先は「検索」を捨てよ」は、インターネット上のリソース、特にハブになるサイトを「歩いて探す」ことの重要性を主張していて興味深い。結果として、それがインターネットの多様性の力を回復することにつながっていく、という指摘は重要だろう。特に、インターネット上のリソースを評価しなければならない図書館員は必読。
 それにしても残り3号か……。第3期って話はないんだろうなあ。

2004/09/18

国家と祭祀

 しばらく前に読み終っていた、子安宣邦『国家と祭祀 国家神道の現在』(青土社, 2004)の感想を書いてみる。正直、どうも書きにくい。
 『現代思想』の2003年7月号から2004年4月号にかけて連載されたものを一冊にまとめたもの。結構、新しい最近のネタも含めて論じられている。
 書きにくいのは、いくつかの論点が、並行して論じられているためかもしれない。中心になる議論は、1980年代後半から現在まで続く、「国家神道見直し論」の論理構成を明らかにする部分。GHQによって作りあげられた「国家神道」像を否定する事により、結果として、真の国家神道の復権を訴える、という「見直し論」に対して、徹底的な批判を加えていく。
 もう一つの柱は、国家神道が成立する過程を、江戸後期の水戸学の儒学的な鬼神(霊魂のこと)論を鍵として、論じていく部分。以前から鬼神論について論じてきた著者だけに、読んでいて、何となくこの部分が一番のっている感じがする。
 さらに、靖国神社・伊勢神宮の現在的な意味を論じる部分や、靖国神社における祀りと、沖縄における追悼の違いなど、現在の状況に対する言及がある。
 正直、靖国神社を「日本古来の伝統」などという輩には、坪内佑三『靖国』(新潮社, 1999・新潮文庫版, 2001)を対峙させて、招魂社・靖国神社が正に日本の近代化の装置であったことを明示した方が有効ではないか、という気もするし、伊勢神宮に古代日本からの一直線の連続性を見てしまう人には、神仏混淆の長い歴史を思い出して貰ったほうがよいような気がするのだけれど、著者はそういう戦略はとらない。「国家神道」を巡る言説にこだわっているようにみえる。その議論を通じて、総力戦による厖大な犠牲の前には、「国家神道」という思想はもう無効だ、ということが論じられているのだけれど、どうも何となくおさまりが悪い気がするのは何故だろう。「国家神道」を巡る言説が、観光資源や文化財化という形で神社の復権が進んでいる状況に対して、有効な批判(論理的に、という意味ではなく、政治的な影響力、という意味で)になりきれていないからかもしれない。
 今一つまとまりが感じられない点と、例証としてあげられる例が偏っている(本当は色々読んでいるのに、特定の例を繰り返し使うのがこの著者のいつもの癖のような気もするけれど)点で、評価が難しい面もあるけれど、国民が兵士として安心して死ねるための精神的な支えとしての祭祀システムが、どのような思想史的な流れの中で完成されていったのかを論じている点はめちゃくちゃ面白い。これは国民をコントロールしたい側にとっては、禁断の果実でしょう。総力戦の状況で、一度使ったら(国民がみんな自ら進んで死んでしまうまで)やめらんなくなるのはよくわかる。
 また、文字通り日本文化の精髄として神格化されている、伊勢神宮の式年遷宮が、多くの変化を経て、現在の形に復古されていった、という話など、結構、「へぇ」度の高い話もあり。
 とはいえ、イラクの混乱についての報道などを見ていると、例え「幻想の共同体」であったとしても、共同体は必要ではないか、という気もしてくるので、気分はちょっと複雑。そのために死ぬ事を強制されず、なおかつ、同じ共同体に属するものとしての対話の基盤になりうる、そういった「幻想」はないものだろうか。そういう意味では、文化財化される神社のことを、頭から否定する気にはなれないんだよなあ。うーん、こういう発想は甘いのか……。

2004/09/15

小島憲之と東京図書館増築書庫

 『学士会会報』2004-V no.848をパラパラと見ていたら、杉山英男「埋没した建築留学の先駆者」なる論考が(pp.121-129)。何となく気になって読んで見た。
 小島憲之という、明治10年代に米国コーネル大学で建築学を学びながら、様々な時代背景(学閥やら東大の建築学系の研究室の変遷やら)から、建築家としてはあまり活躍の場を得られなかった人物について紹介する一文なのだが、図書館屋的にちょっと気になる記述が。
 この小島が設計した数少ない建築の一つが、明治19年(1886)竣工の東京図書館の増築書庫・閲覧室であり、しかもその建物は現存していて、現在も東京芸術大学の大学院美術研究科・文化財保存学研究室によって利用されているそうな。
 また、明治18年(1885)、ちょうど小島がこの設計を請け負う事になる直前に、東京図書館(後の帝国図書館)が、教育博物館と合併して湯島から上野に移転することが決まっているのだが、その決定の前後、小島は関係者(東京図書館長平山太郎、文部省の会計局長、文部省書記官手島精一など)と相次いで会っている。そして、合併後の教育博物館・東京図書館の館長となった箕作秋坪は、小島の親友であった箕作佳吉(小島と同期の米国留学組の一人)の父親で……、という話も。どうも、東京図書館と教育博物館との合併の動きの中心に近いところに小島はいたらしい。
 図書館史の専門家であれば、普通に知っていることなのかもしれないけれど、佐藤政孝『東京の図書館史』(新風舎, 1998)などを見てもこういう話は出てこないようなので、一応メモ。

2004/09/12

創刊号のパノラマ

 昨日は、うらわ美術館に、「創刊号のパノラマ 近代日本の雑誌・岩波書店コレクションより」(会期:2004年9月4日〜10月11日)を見に出かけた。
 うらわ美術館は、「美術館」とはいっても、独立した建築ではなくて、浦和センチュリーシティビル(浦和ロイヤルパインズホテルなどが入っているビル)の3階にある。ビル自体が結構でかいので、展示面積はそれなりにあり。
 今回の展示は、岩波書店に保管されていた雑誌の創刊号コレクション(2001年夏に岩波書店の図書室で発見)約2,900冊の内、1,500冊を展示する、という驚異的な物量作戦。表紙だけとはいえ、1500点を一気に見るのは相当の集中力を必要とするので、見に行く人は覚悟したほうがいい。壁面に大量の雑誌がぶら下がっている、というのは、ちょっとあまり体験できない空間なのでは(会期中に落ちたりしないことを祈ります…)。
 幸い、たまたまだったのだが、岩波書店編集者でこのコレクションの整理に携わった桑原涼さんによるギャラリートークに途中から合流できたので、まず、桑原さんの説明を聞きつつ全体をざっと眺めた上で、再度最初から見直す、という形で堪能することができた。
 原則として時代順排列(美術雑誌のみ別コーナー)なので、その雑誌が刊行された時代の雰囲気を感じつつ、同時に、同時代であっても分野や扱う主題によって多様性が存在していて、これがまた楽しい。グラフィックデザインやタイポグラフィ、印刷技術の変化などを辿りたい人にとっても、いいサンプルかも。あ、あと、横書きが右からなのか左からなのか、という変化をたどる、という楽しみ方もあり。
 個々の雑誌についてどうこう、というだけの知識はないのだけれど、何故か『南葵文庫報告』とか『国立中央博物館論叢』(満洲国立中央博物館の紀要)があったりするのが、結構気になったり。誰がどういう基準で集めたのかなあ(今のところ謎らしい)。あと、製本業界向けの専門誌が少なくとも二誌あったのが何となく印象的。どういう中身だったんだろう。
 実は、雑誌によっては、ちょっとだけ中身をパネルにして見せてくれているのだけども、もちろん、全体の物量からすれば、ほんのわずかだけ。もっと見たい、というのが本音ではあるけど、この量を見せてくれただけでも感謝すべきでしょう。
 図録は池袋のリブロなどでも販売していたような気が(当然、会場でも購入可)。いわゆる美術館の図録的な解説が主ではなく、文章は紀田順一郎・森まゆみ・原武史・木下直之といった面々によるエッセイが中心。あとはひたすら表紙の図版が並ぶ、という構成(タイトル索引あり)。
 岩波書店の桑原さんの話では、雑誌は、透明な樹脂製(原材料も言っていたような…)のクリアフォルダー(上と脇の二方向が開いているやつ)に挟んで、何冊かをまとめて保存箱に入れて保存しているとのこと。酸性紙だからなあ、この先の保存は気をつけないとまずいかも。それにしても、岩波はこのコレクションをこの後どうするのだろう。このコレクションの整理に、松戸市美術館準備室(松戸市のWebサイトで記述が見つけられないのは何故?)の学芸員の方が、最初から関わっているという記述が図録にあるのだけれど、何か予定があるのかな?
 ちなみに、うらわ美術館は「本をめぐるアート」というのを、収集の一つの柱にしていて、「新収蔵作品展(前期) 本のアート[日本編]」(会期:2004年5月11日〜10月11日)も同時にやっていたりする。小さな展示とはいえ、こちらもお見逃しなく。杉浦非水装丁本とかあり。
 あえて文句をつければ、美術館の責任ではないのだろうけれど、ビルの地下の駐車場に入れても駐車料金の割引とか全然なし、というのは何とかならないかなあ。電車で行け、ってことか……。
 あ、あと、浦和でお茶するなら、伊勢丹・コルソの裏手にある山口屋がお勧め。デザートが絶品でした(食事も旨そう)。

(9月15日追記)
 図録は岩波書店から一般書としても販売されてたんですな(9月12日(日)朝日新聞朝刊書評欄に広告が出てた記憶あり)。でも、会場で買ったものには、岩波の奥付は付いてない、ということは、一般書籍ルートで流れるものと会場で販売されるものと、二種類(中身は同じなんだろうけど)ある、ということなのかな?

2004/09/06

図書館文化史研究 no.21

 日本図書館文化史研究会の機関誌、『図書館文化史研究』no.21 (日外アソシエーツ, 2004)が届いたので読んでみる。
 田村俊作「基調講演 レファレンスサービスの連続性と断絶(日本図書館文化史研究会2003年度研究集会・総会)」は、日本の図書館におけるレファレンスサービスの歴史区分を試みるもの。講演という性格もあって、問題提起のための試案、という性格が強いものの、一つの提案として、突っ込んだ議論の対象にする意味はありそう。『市民の図書館』を巡って、「読書案内」をレファレンスサービスの側に位置づけるのか、貸出の方に位置づけるのか、という議論があったという話などもあって、色々ヒントが含まれていそうな様子。
 といいつつ、今回の目玉は論文の方ではなかろうか。
 高梨章「ライヴァルは百貨店 1912年の図書館」は、1912年前後に、三越などの百貨店の文化事業に影響を受けた展示会などの新たなサービスと、修養教育とは異なる趣味と娯楽という新たな領域への可能性を探る動きが、図書館界にあったこと論じる。文体まで含めて高山宏の影響丸出しだったりするのはご愛嬌だが、百貨店という当時最先端の文化装置が、図書館にどのような共振を引き起こしたのか、という視点はべらぼうに面白い。もちろん、図書館における「趣味」と「娯楽」はこの後、敗北を重ね、「通俗教育」が「社会教育」に姿を変えていく過程で、様々な可能性を失って貧弱なものになっていく、という話になるのだが、それでも、この一時期に示された可能性の豊かさは、(限界はあったにせよ)再評価するに足る、という気分にさせてくれる。続編希望。
 もう一つの論文、鈴木宏宗「国立国会図書館長としての金森徳次郎」は、日本国憲法制定に関わったことで知られる金森徳次郎のその後、つまり、初代国立国会図書館長としての業績を追ったもの。衆議院・参議院の事務総長経験者以外で国立国会図書館長となった唯一の人物である金森の活躍に焦点を当てていること自体が珍しいが、さらに画期的なのは「春秋会事件」を正面から扱っている点。国立国会図書館の外郭団体であった春秋会の成立から、その活動が国会で問題になり、解散となるまでの経緯が語られている(事件の余波を受けて金森も館長を辞任し、その約一月半後に死去)。国立国会図書館の正史からはほぼ抹殺された存在になっている春秋会だけに、この論文は日本の国立図書館史を語る際には欠かせないものになりそう。

2004/09/05

すばらしき愚民社会

 小谷野敦『すばらしき愚民社会』(新潮社, 2004)を読了。『考える人』の連載「大衆社会を裏返す」の単行本化(大幅加筆ありとのこと)。
 ありゃ? また「2ちゃんねる」ネタがあるなあ。別に意図して選んだわけではないのだけれど、そういう巡り合わせなのかも。
 2ちゃんねるに関しては、徹底して批判的。「大きな現実を動かすことはできない」という視点は、『談』no.71に掲載された斎藤環・北田暁大の対談とも通じるものがあるような。そこを、文化文政期の「頽廃した町人文化」と比較して語るところが、小谷野敦らしいところかなあ。といいつつ、むしろ、指摘としては、2ちゃんねるで叩かれるのを恐れるマスコミにとって、2ちゃんねるが一種の抑圧的な権力として作用している、という点の方が重要かも。
 フェミニズム&ポストモダン批判も相変わらずで、両者の持つ強い政治性に対して、学問はそんなものではないだろう、的なポジションから、上野千鶴子、宮台真司、金森修といった論者を切り捨てていく。実際の学問が政治的なバイアスを持ったものだ、と主張する事と、だから学問は政治的なものであって構わない、とすることは別物だ、ということなのかな?
 その他、禁煙ファシズム批判などもあるが、やはり、学問の世界における近世の軽視を批判した部分がいい。それと、大衆論の文脈で、10万部売れても日本人の0.1%、という指摘をしていて、当り前といえば当り前なのだけれど、おお、と思ってしまった。こういう感覚は、本というものの持つ影響力を、実感として把握するためには重要なもののような気がする。
 あとがきでは、イラク戦争についてアメリカ支持を鮮明に打ち出すとともに、例の人質に対する非難の声も、愚かな知識人に対する、「一般国民の良識」として評価する姿勢を明確に打ち出している。うーん、軍事的・地政学的状況をリアルに認識せよ、というのはわかるのだけれど、強引に政策的選択肢を狭め過ぎているという印象も。潜在的に敵/味方となりうるものを意識しつつ判断を行うことと、最初から敵/味方を固定して判断を行うこととは違うことのような。

2004/09/01

談 no.71 特集・匿名性と野蛮

 『』no.71(たばこ総合研究センター, 2004)を読了。特集は「匿名性と野蛮」。この特集タイトルからわかるように、「2ちゃんねる」が特集のキーワードの一つになっている。
 巻頭は、斎藤環・北田暁大の対談「匿名化するメディアからメディア化する匿名性へ 2ちゃんねる、Blog、チャットのディスクール」。北田暁大が『世界』2003年11月号に「嗤う日本のナショナリズム」を発表し、それを踏まえつつ、斎藤環が『Inter Communication』no.48に「メディアは存在しない? メディアのオートポイエーシス(前編)」を発表した、ということを踏まえての対談。もちろん、両論考からポイントになる部分が注記代わりに引用されているので、両方読み逃していた私のような無精者でも大丈夫。2ちゃんねるとBlogに関して、斎藤・北田両者による様々な論点が提示されているので、特に「2ちゃんねる」論とかをやりたい人は読んでおいた方がよいのでは。
 「2ちゃんねるにおける批判は内容とは無関係」であって、批判している自分の批判内容については「懐疑の欠如」が徹底している、という話から、コンテクストを自己生成していくところが2ちゃんねるの特徴、という方向に話を展開していくあたりとか、2ちゃんねるに書き込むことも匿名性というよりは固有性への欲望の現れではないか、とか、2ちゃんねるに思い入れが特にないポジションで読んでいると、ふむふむ、という感じ。ただ、こうも観察者然、とされてしまうと、思い入れのある人はちょっとひっかかるかもしれない(二人ともそれなりに量を読んだ上で語っているんだけど)。個人的には、2ちゃんねるにしてもBlogにしても、書かずにただ読んでいる層というのが、かなりの数いるはずなのに、その存在が議論からこぼれ落ちてしまっているような気がするのが、少々不満ではあるかなあ。あと、Blogを第二世代システム(解放系)、2ちゃんねるをオートポイエーシス(第三世代システム)の比喩で語る部分があるのだけれど、システムの構成要素が異なるだけで、どちらもオートポイエーシス・システムとして記述できそうな気も。誰かやらないかなあ。
 小泉義之「ゾーエー、ビオス、匿名性」は、「生-政治」をキーワードに、社会性を超越した肉体であるゾーエーという場から、社会的な身体であるビオスを立ち上げ直そう、ということを提言……しているのかなあ。いかん、語られている概念がよくわかってない。ノーマライゼーションとか、バリアフリー、といった形で、政治的・道徳的に正しい施策が実施されればされるほど、隠れた形で排除が進行する(例えば、結果として家賃が上昇して低所得者層が住めなくなるとか)のだから、むしろ、肉体的な差異は徹底的にむき出しにすべきだ、とか、利用される存在として排除される胚の問題を取り上げて、中絶は一切禁止すべきだ、といった主張が展開されていて、結構過激。権力のあり方が変化していくのに対して、どう対抗するのか、という視点と論理は一貫しているが、それだけでは、政治的・道徳的な「正しさ」には抗しきれないような気もしてしまう。色んな意味で難しいなあ。
 酒井隆史「匿名性…ナルシシズムの防衛」は、ニュー・ヨークで展開されたゼロ・トレランス政策(犯罪の兆候と思われるもの(ホームレスとか、売春婦とか、低所得層の黒人とか)は全て地域から排除するという、疑わしきは隔離か追放、という政策)などを題材に、徐々に閉鎖的な共同体が強化されてきている状況を分析。養老孟司『バカの壁』を「暴言」だらけと切り捨て、これまでは自己の捉え直しの契機として捉えられてきた他者の根本的な不可能性を、ナルシシズムの強化の方向で語ってしまっている、と分析するあたりは痛快。石原某都知事をはじめとする暴言政治家については、「子どものような」、他者との倫理的緊張を失った人間が父親として振る舞っている、と容赦がない。最後に語られた、「迷惑」をかけないように、つまり他者との摩擦を回避するナルシシズムに耽溺するのではなく、「迷惑」をいかにかけあうのかを互いに考えつづけることが重要、という指摘がぐっとくる。
 今回も池袋リブロで購入したが、雑誌フロアではなくて、人文フロアで探すのが正解なので、入手したい方はご注意を。

« 2004年8月 | トップページ | 2004年10月 »

2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

Creative Commons License

無料ブログはココログ