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2004/11/23

言論統制 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家

 あちこちで話題になっているようなので、今更ここで取り上げることもないような気もするのだけれど、でも面白かったので。佐藤卓己『言論統制 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中央公論新社中公新書, 2004)について一席。
 戦時中の出版・報道、というと、居丈高な軍人に出版物の内容について強圧的な指導を受けて、止むを得ず軍国主義礼賛をせざるを得なかった……というイメージが何となくある。その軍人といえば、文学や学問に対する知識もなく、暴力的で権力を笠に着た嫌なヤツ、というのが定番で、自由主義的なインテリの出版人や執筆者に乱暴を働いたり……と、そんな感じ。
 で、その軍人の代表選手が、本書の主人公、鈴木庫三、ということになる。出版社の社史や出版人の回想に、暴言かましまくって、言論を弾圧した極悪人として登場するこの鈴木庫三、どっから見ても相当の悪、というイメージしか出てこない。ところが、ちょっと突っ込んで調べてみると、いったいどういう経歴、素性の何者なのかさっぱりわからない。というところから、著者の探索の旅が始まる。
 そして、徐々に集まる鈴木庫三が発表した数々の雑誌論文や著書。そこには、粗暴で無知な軍人のイメージとはかけ離れた、雄弁な著述家としての鈴木庫三がいた。いったい彼は何者なのか……。
 著者による資料探しの苦労話は、「あとがき」に詳しく書いてあって、これがまた、資料はそれを求め続ける者のもとにいつか必ず現れる、という伝承を証明する、泣かせる話だったりする。特に近現代史研究を志しているいる人は、あとがきだけでも一読を。
 それはさておき、ついに著者のもとに鈴木庫三に関する超一級資料が現れる。若い頃から書きためた日記や旧蔵書だ。本書は、この鈴木庫三自身の日記を軸に、その生涯を詳細に追いながら、雑誌掲載論文などによってその思想を語る一冊、ということになる。
 それにしても、この鈴木庫三という人はただものではない。少年・青年時代の苦学ぶりといい、陸軍に入って後の士官学校入学のための猛勉強ぶりといい、軍から帝大への派遣学生として研究に邁進する姿といい、その勉強家ぶりは鬼神のごとし。私なんぞの社会人学生としての苦労なんてまったく話になりゃしない。何しろ、その研究ぶりによって、軍ではなく、研究者としての道、という選択肢も、彼には開かれかけていたのだ。
 しかし、鈴木庫三は研究者ではなく、軍人、特に、教育を専門とする軍人としての道を選んでいる。
 時はまさしく、五・一五に二・二六、満洲事変と、大正デモクラシーの時代が終焉し、政党政治は崩壊に向い、軍部の政治への介入が強まっていくまさにその時代に、鈴木は教育学・倫理学の研究に邁進し、その後、軍内部の教育の改革、そしてジャーナリズムや文学を通じた国民の教育へとその活躍の場を移していくことになる。
 数多くの陸軍パンフレットを執筆し、雑誌等の指導、吉本興業など大衆芸能との連携など、七面六臂の大活躍。講演を頼まれることも多かったようで、その合間を縫って自らの論文を執筆していたりする。とにかくその仕事ぶりは凄まじい。
 で、こうやって読んでいくと、どうも悪の強圧的軍人、というのとは勝手が違う。苦労人だけあって、軍隊内部の理不尽な暴力には徹底的に反対し、部下の面倒見は良くて慕われていたようだし。上官に対しても自説を曲げず、信念に従って生きる、純粋というば純粋、窮屈といえば窮屈な人、という感じである。
 著者の検証によれば戦後に語られたイメージのかなりの部分は、記憶の捏造による部分が大きいようで、著者は、特に戦後に民主派に転向した文化人が、鈴木に罪を擦りつけたことへの怒りを露にしている。あまりに感情移入しすぎて、民主主義もファシズムも同じじゃないか、とか、筆が滑っているところもあるが(そこまでいくと贔屓の引き倒しだろう)、著者の気持ちも分からないではない。よく読むと、鈴木がまったく強圧的ではなかったか、というと、そういうわけでもないようなのだが、まあ、戦後のイメージの独り歩きは、やり過ぎであったことは間違いなさそうだ。
 個人的には、それよりも、本書で描かれた「趣味の戦争」の激烈さが印象に残っている。貧しさのために、幾度か進学の道を断念せざるをえなかった鈴木は、労働者や農民、女性といった、社会的な弱者を救うための社会改革を、「国防国家」という枠組みによって実現することを主張していた。教育の機会均等、男女の社会進出における平等、さらには、内地の生活水準を落としてでも植民地との平等化を図ることまで提唱している。これでは、自由主義を奉じる資本家的エートスを良しとするような人たちとは、ソリが合うわけがない。平均的生活水準の高い家庭の出身者が多かった海軍に対する反発も、根は同じだったらしい。むしろ、同じく貧しい階層からの出身者が多かった、共産主義にシンパシーを感じた人たちと、鈴木は協働することが多かったようだ。陸軍内部でも、陸大卒のエリート組と、叩き上げ組とは文化の違いがあって、鈴木は陸大エリートへの反発を日記に残している。
 こうした、「文化」・「趣味」の差異が、現在とは比べ物にならないほど大きかった、ということが、本書を読むとよくわかる。鈴木と歩調を合わせた文化人が結構いたのは、この「文化」を共有していたからだろう。特に、農村部と都市部の差異は、正直なところ、私にはリアルに把握することが難しいほど激しかったようだ。
 話がずれてしまうかもしれないが、戦後の、補助金行政により、都市部から地方への所得再分配を行った、自民党方式は、案外、こうした「趣味の戦争」に対して有効に作用したのではなかろうか。「戦後民主主義」日本の設計に関わった人たちは、おそらく本書で描かれているような、「趣味の戦争」の激しさを知り抜いていたんではないか、という気がする。
 現在、戦後社会を支えてきた所得再分配システムの機能不全から、むしろ、生活水準、「趣味」、「文化」の分割を進める方向に社会が向かっている感じだけれども、本書を読むと、そうした「趣味の戦争」によって生まれた溝は、「愛国心」では埋まらない、ということがよくわかる。「愛国心」による社会的統一性の回復を目指す、新保守主義的プログラムを信奉している人は、本書を熟読して、「趣味の戦争」の激烈さをいかに回避すべきか、研究しておくべきだろう(今の米国の状況との比較も有効かも)。
 それと、最近、増えてきている人文系総合誌は、こうした「趣味の戦争」においてはまったく無力だ、ということも、本書を読むとよくわかる。言論統制を進める側の鈴木庫三が大衆文化の持つ力を理解していて、大衆文化の担い手たちも、鈴木と歩調を合わせていた、ということの意味をじっくりと考えるべき時かもしれない(少なくとも、何か社会全体に影響を与えたいと思うのであれば、だけれど)。
 というわけで、恐ろしく色々な問題が絡み合っている一冊。少なくとも、出版史・ジャーナリズム史、教育史に関心のある人は必読だし、大衆芸能史関係の人も読みのがせないポイントがあるはず。戦前・戦中の社会に関心のある全ての人にお勧め。

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