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2004/12/30

コミックマーケット67

 昨日は、東京ビックサイトにコミックマーケット67に出かけてきた。今回は二日間のうち、初日の12月29日(水)のみの参加。二日目の今日は、歴史系があったのだけれど、諦めてぐーすかとゆっくり。
 前回と同様に「十二国記」を中心に……と言いたいところだが、三日から二日間に圧縮された影響でサークル数が少ない、ということを割り引いても、勢いの衰えは隠せない。それでも、新規参入サークルがコピー誌を出していたりすると、何となく嬉しくなる。
 あとは「マリみて」。相変わらずの人気で、一通り眺めるのも一苦労。結果的に、混んでいるところは避けて虫食い的に見ただけなのだけれど、「男性による乙女ちっく」が多数を占める中で、創作系からの参入組にちょっと他とは違う切り口の本があったりして、ぐっときてしまう。全体としては、カップリング(?)による系統分化が完成して、組み合わせによる定型ができたところで、今度は定型を崩しにかかるところが出てきている感じかなあ。ちゃんと見てないけど。
 ついでに、「指輪物語」をちらちらと見るが、平均レベルが高過ぎて、買う/買わない、のラインの設定が難し過ぎる。というわけで真剣に見るのは断念。映画も完結してしまった以上、DVDが全部出てしまった後、どうなるかがちょっと気になるところ。
 ……あれ? 結構時間をかけて見たわりには、こんなものだったかな? とにかく寒くて寒くて。こんなに雪が降ったコミケは何年ぶりかなあ。

2004/12/24

20000

 またも雑談。
 22日の夜から、ウィルス性の急性腸炎とやらで、吐き気と下痢と高熱に冒され祝日が寝たきりでつぶれる。現在、とりあえず順調に回復中(早く寝ろ)。しかし、(ほんとに)眠ってると、せっかく休んでても本が読めない……。
 それはともかく、カウンターのユニークビジター数合計が、いつの間にやら20,000を超えている。ブログを始めてほぼ1年。最初のころ、一回カウンターをリセットしちゃっているので、正確にはもう少し短いのだけど、そこは気にせず。それなりには人の目に触れているようで、何ともありがたい限り。これからも、たまには覗いてやって下さい。
 といいつつ、年末年始はあんまり更新できないような気も。まあ、あまり無理せず、ちょいとばかり気張りつつ、続けていくことにいたしましょう。
 まずは、さっさと寝て、回復回復。

2004/12/21

雑談

 ちと不調というか、何となく気力が……という感じなので、一休み中。文章書こう、って気にならないとは、我ながらどうしたことやら。
 というわけで、とりあえず愚痴。基礎を固めることをせずに表面的に見栄えの良いサービスを積み上げていくってのは、公共機関としては駄目でしょう、ちゃんと足下見ようよ、ということを主張しているだけのつもりなのだが、針の筵。久々に本気で切れかけてしまった。いかんなあ。平常心平常心。しかし、ただでさえ調子がでないのに、どうもなあ。
 というわけで、『蒼穹のファフナー』を見て、心を落着か……って、こんだけ盛り上がってんのに、落着くもなにもないわな。よくここまでテンションも質も落とさず来たなあ。やおい的な要素を餌にしつつ、コミュニケーションの不可能性と可能性を軸にして、日本の現状を暗に象徴させるという社会風刺風の要素も組み込んで物語を構成するとは、ちょっとびっくり。キャラクターのデザインはそんなに好きではないんだけど、日常芝居がいい感じなので、苦にならないし。すっかりやられましたな。最終回が楽しみ。
 アニメで思い出したけれど、先日、一人で『月詠』を見ていたら、相方が途中で帰ってきて、「私より猫耳のほうが好きなのね〜」と遊ばれてしまった。でも妙なレイアウトとか、舞台的な表現とか、結構好きなんだよなあ。後は、『巌窟王』ですな。次回は来年だっけ? DVD、どうすっかなあ。原作も読み返したいし。
 雑談ついでに書いておくけど、小学館のコミックスは、いつから、連載時と単行本の編集者名を明記するようになったのだろう(初出の表示も他社と比較すると比較的詳細でよいですな)。マンガにおける編集者の果たしてきた役割の大きさは、つとに言われていたことだけれど、こういう形で記録に残るようになったのは、後の世のためにもよいことではないかなあ。そのうち、通は編集者でマンガを選ぶ、ってなことにもなるのかも(今も達人はそうなのかもしれないけど)。

2004/12/13

コバルト風雲録

 今日は、数週間前に読み終わっていた、久美沙織『コバルト風雲録』(本の雑誌社, 2004)を。
 はっきりいって、客観的評価とかそういうのは無理。自分が一番この手のものにのめり込んでいた、その時代の空気が圧縮されて固体化してるようなものを、いったいどう評価できるというのか。
 もちろん、ただのファンの立場でしかなかったわけだけれど、ここに描かれた流れの末端にいたものとしては、ただ、涙、涙。
 ……で終ると、何がなんだかわからないので若干の説明を(最近知人が見てる度がどんどん高くなっているので、多少は配慮しないとなあ)。
 本書は、「このライトノベルがすごい!」(名称変更予定みたいですが)に連載された「創世記」の単行本化。というわけで、最近はやりの、ネットで公開されたものの単行本化の一例ではある。
 著者自身のサイトではないところに掲載された、というところが、ポイントといえばポイントで、現在のライトノベルの源流(の一つ)であるところの、集英社文庫コバルトシリーズの勃興期と、ゲームのノベライズの勃興期について、当時の状況を現場を見てきた作家の視点から回想する、という内容。当時を知らない若い世代に伝える、というのが本来の目的だということもあって、時代状況についての解説が結構細かくて、そこがまた泣かせどころだったりする。
 今ではボーイズ・ラブ系の文庫の一つ、みたいになってしまったコバルト文庫だけれど、1980年代の集英社文庫コバルトシリーズ(1990年にコバルト文庫に名称が変わっている模様)は、旧来の少女小説・ジュニア小説を脱した、新しい形の「小説」が展開される場だった。氷室冴子も新井素子も、そこから出てきた、という本書で書かれている例をあげれば、分かる人には分かるか。本書の著者も、その最前線で獅子奮迅の活躍を……ということになるのだが、そこは読んでのお楽しみ。
 などと偉そうに書いてはいるものの、私自身は、コバルトは結構、後追いで読んだ口で、氷室冴子のコバルト作品も全部は読んでなかったりする。
 なのに、デビュー当初から追いかけていたわけでもない、著者のコバルトシリーズ作品を、私はどうやらほとんど読んでいたらしい。本書に出てくる作品出てくる作品、みんな知ってるとはこれいかに(さすがにデビュー短編までは読んでなかったけど)。そういや、SF大会でサイン貰ったこともあったような……うわ、何か、もっとすごい恥ずかしいことを思い出してしまいそうだから、このへんで記憶を遡るのはストップ、ストップ。
 著者の代表作といえば、再刊されて今でも入手可能な『丘の家のミッキー』シリーズ、ということになるのだと思う。けれども、当時の作品をこれ(「おかみき」)に代表させるのははっきりいって何かが違う。何故なら、著者のコバルト作品は、一作毎にまったく趣向が違う!
 当時の私も、例に漏れず、最初は「おかみき」から入って、そこから他の作品を読んでいった。他の作品に対しても、最初は「おかみき」を期待していたはずだけれど、その期待はあっさりと裏切られてしまった。シリーズものを除けば、一作ずつ必ず期待を裏切ってくれるのが、久美沙織、という作家だった。何か違う、という感じが、必ず読後に残るのだ。
 たぶん、だからこそ、文庫で出ている作品を全部読ますにはいられなかったんだと思う。常に新しいことに挑戦しないではいられない。私にとって、久美沙織というのはそういう作家だった。
 そして、その印象は本書で裏付けられた気がする。激しい、というか、こんな壮絶な戦いが裏では繰り広げられていたのか、と唖然呆然。と、同時に、納得。だから、泣かせるのだ。
 ……結局、あんまり説明になってないな。
 実は、コバルト後の久美沙織作品は、ほとんど追いかけていなかったのだけれど、本書を読んで心を入れ替えることにした。著者の収入に貢献せねば、というのもあるけれど、何よりも、久美沙織という作家が、今でも戦い続けていることが、うれしかったので。
 余談だけど、著者のコバルト時代末期を代表する『鏡の中のれもん』は傑作(フェミニズム少女小説の最高峰……って、何だかわかんないな、これじゃ)なので、何としても読んでほしい。絶版だけど。そういえば、当時、あまりに面白かったので、同人誌に評論まがいの感想文を書いたこともあったなあ。昼の帯ドラマの原作にでもなって(そういう感じのストーリーなんである)、再刊されないものか。

2004/12/12

日韓近現代歴史資料の共用化へ向けて─アーカイブズ学からの接近─

 ああ、読んだ本が(読んでない本も)たまっていく……。
 といいつつ、人間文化研究機構 国文学研究資料館アーカイブズ研究系が主催の国際シンポジウム「日韓近現代歴史資料の共用化へ向けて─アーカイブズ学からの接近─」(2004年12月11日(土)〜12日(日) 会場:学習院大学北1号館401教室(11日) 同大学百周年記念会館小講堂(12日))に出かけてきた。
 プログラムは、Daily Searchvistのエントリー「国際シンポジウム「日韓近現代歴史資料の共用化へ向けて」【12/11-12】」を参照のこと。それにしても、二日間みっちり、というのはきつい。聞いてるだけで、結構ぐったり。雑用もたまるし。
 とはいえ、韓国における文書・記録資料の公開の状況を聞くことができたのは収穫だった。既に、韓国では、国・地方公共団体における記録・文書の作成の義務化、そのアーカイブズへの移管の義務化、アーカイブズの制度化、といった法制度の整備と、文書を作成時点から電子的に管理するシステム化の進展によって(実際には色々問題があるにせよ)、記録管理システムとしての整備が(少なくとも日本よりははるかに)進んでいる。情報公開をインターネットを通じて申し込むことが可能で、その申込み後の処理状況もインターネットで確認できるというからびっくり。
 金 翼漢(キム・イッカン)氏は、こうした記録管理の進展が、市民の歴史資料への要求の高度化につながり、それが歴史資料の組織化に対する要求を高めると予想。同時に、合法的に廃棄され続ける歴史資料の現状と、失われた資料を補うためにも民間に散財する資料の収集が重要であることなどを指摘していた。日韓で歴史資料を共用するためには、所在情報の徹底的な調査と、記述やデータベース化の標準化が必要であるが、それはまた極めて困難な課題であるという結論には思わず頷いてしまう。
 李 炅龍(イ・ギョンニョン)氏は、朝鮮総督府文書の現状を韓国側に残存する資料から検討。戦後も公文書再分類などの影響で、大量の文書が廃棄された、といった歴史的家庭を辿りつつ、解題集の編纂刊行やデジタル化への対応など、最近の動向をレポートしていた。しかし、朝鮮総督府自身が組織的に文書の廃棄を行っていた可能性が高いこともあって、欠けた部分は大きく、それを埋めるためには日本側に残存する文書の探索と公開が必要と指摘していた。レジュメの最後は、そうした努力が「韓日両国の歪曲された記録管理体系を革新(改革)するための下地となるであろう」と結ばれている。
 李 承輝(イ・スンヒ)氏は、植民地期の記録資料は、旧植民地側に残された資料だけでは完結せず、本国側の意思決定過程の記録と組み合わさることで、初めてアーカイブズとして完結する、ということを強調し、日本側の文書・記録が、韓国にとっても極めて重要であることを示した。また、韓国の市民にとっては日本語で残された資料が障害となることによって、歴史資料が限られた専門家に独占されてしまうという問題を提起。「民主社会において、市民は歴史記録物であれ現行記録物であれ知る権利があり、その記録文化を共有する権利がある」という一言が、重い。
 許 英蘭(ホ・ヨンナン)氏は、データベース化によって、歴史研究の状況が一変したことを指摘するとともに、韓国内の植民地期関連資料を中心とする、各種のインターネットで提供されているデータベース類を紹介。結構、イメージまで入手できるのも多いなあ。色々紹介されていたのだけれど、特に、韓国歴史情報統合システム(http://kh2.koreanhistory.or.kr/)が充実。が、全部(検索語も)ハングル。勉強しないと駄目か……。自身が関与したデータベースか事業において、統合的に検索できることを重視するか、資料の特性にあったこまやかな記述のデータベース化を重視するか、という議論があり、その時点では資料の特性にあわせることを重視したものの、結果的には統合的な検索が効果的な面もあった、という話は示唆的。一部のデータベースでは、日本語原文がなく、韓国語訳のみで全文を提供、というものもあり、研究者としては、原文が見たいが……と、いう話もあり。うーむ、色々考えさせられる。
 日本勢は若干簡略に。
 安藤正人氏は、今回のシンポジウムが、三ケ年にわたる研究プロジェクトの一環であり、当面は東アジアを対象とするが、最終的にはアジア・太平洋地域全体のアーカイブズのネットワーク化を目指したい、と、趣旨と目標を提示。また、旧植民地地域で問題となっているarchival claim(記録資料の返還を求める運動)などを通じて国際的動向を解説するともに、戦前の日本側の史料収集・整理についても略述していた。
 林雄介氏は、韓国における朝鮮総督府文書の現状を、日本側研究者の視点からレポート。データベース化の進展を評価するものの、ハングルが障壁になってはいるという問題提起も。ただし、技術的解決は可能ではないか、という示唆もあり。
 加藤聖文氏は、朝鮮総督府文書の現状と問題点を分析。失われた部分の大きさを示しつつも、個人文書による復元の可能性を語る。
 辻弘範氏は、学習院大学東洋文化研究所所蔵の「友邦文庫」の概要を紹介。朝鮮からの引き上げ者から収集した資料を中心としたもので、関係者による談話録音もあったりするところがポイント。
 竹内桂氏は、日本における朝鮮総督府関連資料の状況を、個人文庫などを丹念に探索して紹介。EAD化による総合的な検索システムの構築の可能性を示唆する。
 最後の討論においては、日本側の文書管理法制や、アーカイブズの整備の遅れの問題がクローズアップされた。韓国において、状況が動いたのは、市民による情報公開への要求(表面に出てこない特別な経費に関する問題がきっかけだったとのこと)と、それに答えたアーカイブズ研究者との動きが組み合わさったことによる、とのこと。必要なのは「運動」だ、という韓国側研究者の発言は、民主化運動の成果に対する自信を感じさせた。
 残念なのは、国立公文書館など、日本側のアーカイブズの現場の参加がなかったこと。来年に期待。

2004/12/06

評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人に

 小谷野敦『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人に』(平凡社新書, 2004)を読了。
 実は、bk1の越知さんの書評がよくまとまっているので、あまり書くことがない。
 なんというか、『評論家入門』というタイトルなのに、最後はエッセイストのすすめになっていたりとか、少し不思議な本だったりする。ある意味で、最低限のモノを知っている、という意味での「教養」の力を、モノを書くこと、という視点から再構成して論じたもの……というのは、かなり強引かな……。
 柄谷行人『日本近代文学の起源』批判が延々と続いたりするあたりは、(著者がそういう人が多いのでは、と書いている通りに)私も栗本慎一郎『鉄の処女』(光文社, 1985)経由で知った口なので、なかなか身につまされたり。そういえば、私の大学生時代は、高校生の時にはまった栗本慎一郎を相対化していった時期だったのかもしれないなあ、とか、ふと思ったりもする。
 それと、どこかに原稿がちょっと載ったくらいではまったく有名にはなれない、というあたりを読んで、そういえば、自分も就職して直後ぐらいの時に、先生に紹介してもらって某所に原稿を書いたりしたけれど、全然有名になったりはしなかったなあ、とか、そんなことも思い出してしまった。一度、その原稿を読んだどこかのカルチャーセンターの人から、講師の話が来たのだけれど、企画意図につい反論してしまったので、二度と話はなかった(バカだなあ、自分)とか、そんなことも思い出したり。就職しておいてよかったとしみじみとしてしまう。
 ……ような程度の覚悟しかない人は、もの書きになってはいかん、というのが本書の眼目だったりする。
 でも、実は、前半の、学術と評論の差異の話とか、トンデモとちゃんとした議論の違い、という話の方が教育的かつ論争的で、個人的には面白かった。ただし、ここまで書くのであれば、文献のリサーチのしかたや、論文の入手のテクニックについて、ちょっとくらい書いてくれていてもよいのに、という気もしてしまうのは自分が図書館屋だからかなあ。実は、結構そこがポイントのような気がするんだけど。
 著者自らがあとがきで書いているとおり、別著との重複もそれなりにあるので、小谷野ファンはそこはご覚悟を。といいつつ私自身は、最近、内田樹で重複には鍛えられている(もはや、どれがどの本だかさっぱりわからない)ので、ちょっとやそっとの重複は、既視感ですませられるようになっていたりして。
 出版というシステムを通して、売れる文章を書くことの意義を最後に強調していたりもするけれど、それについては、植村八潮さんのblog「ほんの本の未来」のエントリー「出版著作権研究部会 著者による公開」も参照のこと。書き手ではなく、出版という事業の担い手側の視点と比較してみると興味深い(といいつつ、学術出版といわゆる商業出版では、比較にならんという話もあるような気も……)。

2004/12/04

反戦略的ビジネスのすすめ

 ここのところ人前でしゃべる機会が続いている。その準備やら何やらで更新がなかなかできず。それにしても、金曜日のはネタの選び方を間違えたかなー。反応が今一つ。もっと精進せないかん、ということか。

 で、本題の平川克美『反戦略的ビジネスのすすめ』(洋泉社, 2004)。先日、内田樹との共著『東京ファイティングキッズ』(柏書房, 2004)が出たばかりで、そっちも読み終わっているのだけれど、はっきりいって、どっちも感想を書きあぐねている。何故かというと、両者とも、要約困難だから。
 もうちょっと細かくいうと、著者自らが適宜それまでの話を要約しつつ、しかも、その要約を受けながらそれをひっくり返していく、という形で、話が展開していくので、「こういう内容の本です」というのが、私ごときでは、どうにもできない。
 あえていえば、『反戦略的ビジネスのすすめ』という本は、「ビジネス」というものを、勝ち負けのレベルではなくて、もう一つ上位のレイヤーから語るための提案を行った一冊、ということになるのだろうけど、それがどうした、といわれると、さて、と困ってしまう。
 たぶん、煮詰まったときに、問題自体のレイヤーを移動してしまって、別の次元で考える、というその時に必要なものを、ビジネスについて、提供しよう、ということなのかなあ。
 無理して中身に踏み込んでいうと、ビジネスというのは、商品(もちろん、モノ以外も含む)を経由して行う、コミュニケーションなのだ、ということが繰り返し語られている。しかもそのコミュニケーションは、直接的にメッセージをやり取りするのではなくて、商売の言葉とルールに則って行われ、それがうまくいったのかどうかは、商品が売れる、という形でしか現れてこない、という、ちょっとやっかいな、でも、実は面白い代物だったりする。
 じゃあ、それがビジネスの全てで、ビジネスってのは複雑だけど楽しいコミュニケーションといってしまえばそれで終わりか、ということもちろん、そんなこともなくて、勝ち負けというのはやっばりある。あるんだけど、でも、勝ち負けのレベルでしか物事を捉えられずにいると、見失ってしまうものもたくさんあるんだ……という、そんな感じだろうか。実際にはもっと話は複雑。でも、文章としてはとても読みやすい。シンプルなようで複雑なようで、うーん、という、なんともいえない一冊だ。
 著者自身がいうように、ビジネスのマニュアルとしては役に立たないかもしれないけれど、仕事をするのが楽しい、と感じる、というのはどういうことなのか、そこから自分の仕事をもう一度考え直してみようとする時には、とても役に立つ一冊のはず。公共サービスのあり方を、本書で提示されている問題意識から考えなおすのも面白そう。
 という具合に、ビジネス・仕事について考える、ということを、何となく引き起こしてくれる一冊。そのことに価値を見いだせる人は、読んで損はないと思う。

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