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2005/03/29

季刊・本とコンピュータ 2005年春号

 『季刊・本とコンピュータ』2005年春号(発行:大日本印刷 発売:トランスアート, 2005)をちょっと前に読了。
 これで終刊まであと1号を残すのみとなった。今回の特集は「出版再考 このままでいいのか、わるいのか。それが問題だ!」。というわけで、出版を巡った議論が展開されている。
 この特集については、「ひつじ書房房主の日誌」の「2005年3月8日 「出版再考このままでいいのか、わるいのか。それが問題だ!」という特集」での「どうも大状況として語ることには白けて」しまう、という批判(?)が、結構的を射ている気がする。
 巻頭の討論「出版再考 日本の出版業は、このままでいいのか、わるいのか?」は、紀田順一郎・鷲尾賢也・佐野眞一・小田光雄・永江朗という錚々たるメンバーなのだけれど、なるほど、こういう見方は新鮮、といった感じはあまりない。まとめの特集だから、しかたないのかもしれないが。
 それに、インターネット関連についての論考が、事実上、枝川公一「〈パブリッシュ〉としてのインターネット」での、WAVEtheFLAGを巡る実体験を通じた議論しかない、というのは、ちと寂しい(あとは、津野海太郎「自動翻訳とデータベース 私の週間日記」で、自動翻訳による東アジア圏の交流の可能性が若干論じられている)。確かに、電子本は連戦連敗という感じではあるけれど、せっかくのまとめなんだから、もうちょっと取り上げてほしかったような。もしかすると、次でやるのかな?
 結果として、いわゆる大手出版社とは別の場・形態での出版活動関連の記事が、印象に残ることに。
 植田実「メセナ的出版になにができるか』は、鹿島出版会や住まいの図書館出版局(後者は積水ハウスが関連)といった、企業が関係した出版活動に関わった(ている)経験から、その限界と可能性(と面白さ)について、語っている。
 辺見じゅん「私はなぜ「小さな本屋」をはじめたのか(インタビュー)」は、角川源義の娘であるインタビュイーが、幻戯(げんき)書房という小出版社を始めた経緯を語る一編。実は、父親の出版思想を最も忠実に受け継いでいるように思えてくるところが、何とも面白い。最初の本の帯に入れた「著者は種おろしであり、出版者は苗をそだてる人、書店は摘みとった糧(かて)をひろく播き、古本屋と図書館は刈り入れて、整理し、保存する人である。そして読者によって世界の貌(かお)は変わってゆく」という言葉がいい。
 四釜裕子「ミニマム出版でいこう 自主制作本の作り手たち」は、通常の商業出版とも、いわゆる自費出版とも異なる、新しい出版形態、自主制作本を巡る最近の動向をレポートする一編。MacPower2005年4月号でも紹介されていた、「d long life design」(そういえば、東京都現代美術館のミュージアム・ショップでも売ってたなあ)などが取り上げられている。
 それと、特集外の連載、山崎浩一「雑誌のカタチ エディトリアル・デザインの系譜 第7回 小学館の学年誌 平面を立体にする「お家芸」」は、誌面の分析は物足りない気がするけれども、小学館の学年誌編集の、熱い現場リポートとして一読の価値あり。この連載も、あと一回で終わりか……。

2005/03/26

万博幻想 戦後政治の呪縛

 無事(?)、愛知万博も始まったようだし、万博関係でもう一冊、吉見俊哉『万博幻想 戦後政治の呪縛』(筑摩書房ちくま新書, 2005)を。
 吉見俊哉で博覧会、とくれば、名著『博覧会の政治学 まなざしの近代』(中央公論新社中公新書, 1999)[中央公論社版は1992年刊]の続編か、と思わず期待してしまったのだけれど、実はちょっと違った。あとがきの著者の言葉をそのまま借りれば、『博覧会の政治学』は「博覧会場で作動する文化政治学を考察した」もので、今回の『万博幻想』は「万博を開催させる政治的エージェントの間に交錯する理念と欲望、抗争と連携」を描くもの、ということになる。無理やり言い換えると、前者が万博が開かれた結果として表れてくる様々な文化的・政治的な意味を解きほぐすことが中心で、後者が万博を開こうとする(あるいは開催に反対する)様々な個人・集団の持つ意図や活動の絡まり合いを描くことが中心、という感じ。
 分析の対象となっているのは、1970年の大阪万博、1975年の沖縄海洋博、1985年のつくば科学博、そして今回(2005年)の愛知万博。1990年の大阪花博が落ちているのだけれど、基本的な問題はこの4つの万博で押さえられる、という判断らしい(新書というフォーマットに分量的に合わせたのかも)。この4つの万博について、企画段階の議論から、開催決定までの紆余曲折、用地選定を巡る駆け引き、パビリオンで展開された企画の内容など、様々な角度からの分析が行われている。
 それにしても(そういう風に著者が強調して書いているからでもあるのだけれど)万博を開こうとする側の論理の驚くほどの変わりのなさを痛感する。要するに、公共事業を呼び込むための仕掛け、だったりするわけだ。国家的事業だけに、未開発の里山を開発し、交通網などのインフラ整備を行う予算を獲得するための呼び水として、万博という仕掛けは最適と考えられてきた。しかし、実際に実現したのは(インフラは整備されたにせよ)、自然と地域経済の破壊だったりする。その姿が繰り返し本書では描かれている。
 特に悲惨を極めるのが沖縄海洋博。本土復帰後初の大イベントとして、地元も経済的自立に向けて投資を呼び込むものと歓迎ムードで進みながら、実際には短期間に急激な資金が投入されたためにインフレが進行、しかも、おいしい仕事は全て本土の企業に押さえられ、地元の企業には仕事が回ってこない。結果として、むしろ地元経済は破壊され、本土への経済的従属が進むことになったという。
 地元の企業にお金が落ちない、というのは、『虚飾の愛知万博』でも、指摘されていたことだけれども、沖縄だけではなく、つくばでもそうだったとのこと。ここでも地元経済はむしろ(期待値が大きすぎて、投資が回収できず)荒廃している。万博を経済振興という視点から観ると、少なくとも地元の経済については旨みはないようだ。にも関わらず、地域振興につながる、という主張が繰り返される、という構図がなんともいえない。こうも過去の失敗から学ぶことができないとは……。
 愛知万博について指摘されている、参加国数を日本側が経費持ち出しで無理に増やしている、という問題についても、大阪から繰り返されていることで、別に今回が始めてではない、というか、長年のノウハウによって確立した方法論のようだ。何だかなあ。また、パビリオンの中身は、つくばで完成された、映像とロボットの組み合わせの延長線でしかない、とか、いかに愛知万博が、これまでの万博から脱することができていないかが、本書を読むと浮かび上がってくる仕掛けになっている。
 が、一方で、愛知がこれまでとまったく同じか、というと、そういうわけでもない、というのが、著者の主張。
 沖縄やつくばでもまったくなかったわけではないのだけれど、役所や企業、知識人といったこれまでの関係者とは異なる、自然保護を巡る様々な団体(地方・全国・国際それぞれのレベルで)などのプレーヤーが、大きな影響力を持つようになった、というのが、愛知万博開催までの経緯における大きな特徴として描き出されている。「市民参加」という言葉は、「市民」という何か一体のものを想像させてしまうけれども、実際に本書で描かれているのは、多様な立場の様々な意見を持った人たちが、様々な形で情報を発信し、国際的なルートを含め、様々な形で影響力を行使していった、という感じ。
 ただ、愛知万博に関する記述は、著者自身が、愛知万博の企画段階の検討に加わったり、その後も反対・推進双方の立場の人たちと関係を持ちながら、関係者として関わってきた、という経緯があるだけに、時々思い入れが強く出ているところがある。『博覧会の政治学』とは随分と印象が違う感じ。あるいは、若干、割り引いて読む必要があるのかもしれない。
 それに、著者が感じた可能性は、「歩行と思索」のエントリー「開幕するらしい 」でも指摘されている「最近のメディアの「盛り上げっぷり」」を見る限り、旧来の万博盛り上げ策(メディアでとにかくひたすら取り上げる、という作戦は、大阪万博で成功した方法論)の中で、埋没してしまっているように見える。なるほど、こうやって過去は忘れられていく(地元以外にとっては、盛り上がって人が沢山来ている様子しか見えない)のかもしれない。このままだと、これが最後の大阪型万博、という著者の予想に反して、これから先も、まだまだ同じことを繰り返しそうな気が。

(余談)
 「みうらじゅんと行く愛・地球博」、本当にどっかでやってくれないかなあ。めちゃくちゃ面白そう……。

2005/03/23

嗤う日本の「ナショナリズム」

 北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(日本放送出版協会NHKブックス, 2005)を読了。
 全然中身と関係ないのだけれど、著者の生年を見て、自分より若いことに気がつきしばし感慨にふけったり。アイドルが年下ばっかりになっていた時も、妙な感慨があったけれど、論壇で活躍する人たちが年下になっていくのもまた、何ともいえないものがあるなあ。
 きっと、あちこちで感想が書かれているんだろうなあ、と思いつつ、GoogleとかYahoo!とか検索してみると、意外に上位には出てこないような。本書の原形となった「嗤う日本のナショナリズム 「2ちゃんねる」にみるアイロニズムとロマン主義」(『世界』2003年11月(720号))が、やたらと議論を読んでいたらしい(ARTIFACT —人工事実—「嗤う日本のナショナリズム」反応集を参照)のと比べると、あんまり盛り上がってない気が。まあ、本書全体からすれば、2ちゃんねるや、その他ネット上の「ナショナリズム」が扱われているのは、ほんの一部でしかないし、議論のネタにしにくくなっているのかなあ。
 60年代から70年代初頭は、過ぎ去った過去(あれ? 同語反復?)のように見えて、現在、社会の中で生きて、活躍している(現役世代の中では)年長の世代が、「若者」として、時代の最先端を生きた時代でもある。その時代から始めて、現代まで、イデオロギー的な枠組みをいかに脱するか、という試みが、繰り返し、形式主義に堕していく過程を、あさま山荘の連合赤軍、糸井重里、田中康夫、ナンシー関、小林よしのりらに代表させながら語っていく。こうした本書の方法論は、実は、現代を生きる複数世代の青年期を縦断していく試みにもなっているんじゃなかろうか。
 今のネット上の「言論」だけが特別に問題だというわけじゃない、というようにも読めるし、あるいは上の世代がさらに前の世代の試みを乗り越えて(というか、前の世代の試みの形骸化したものをずらし直して)きた歴史をちゃんと見ておいたほうがいい、というようにも読めなくもない。別に世代を超えた連帯の書、というわけではないのだろうけれど、まあ、一回り、あるいは二回り上の世代が若者だった時代も、今と地続きなんだ、ということが、結果として描かれてしまっているのが妙に面白かったりする。
 アイロニズムとシニシズムという対立(?)概念を使った分析そのものについては、私にはうまく要約できないのでパス。というか、終章で要約されているので、お急ぎの方は、そこだけ立ち読みを。何はともあれ、常に待ち受ける形式主義の罠(というか運命?)が恐ろしい。あとは、終章の宮台真司の亜細亜主義への関与と大塚英志の戦後民主主義への関与の対比の話が面白かったなあ。褒めておいてその後若干の批判、という展開がさすがというか。

2005/03/21

中国の版本 宋代から清代まで

 今日は静嘉堂文庫美術館に「中国の版本 宋代から清代まで(静嘉堂文庫の古典籍 第5回)」(会期:2005年2月19日〜3月21日)を見に出かける。
 最終日ということで、混んでたらどうしよう、と思ったけれど、やはりテーマが渋いためか、結構、落着いた雰囲気。といっても、貸し切り気分になるほど人がいないわけでもなく、それなりに人の出入りはあったような気がする。
 静嘉堂文庫といえば、東洋古美術品でも知られているのかもしれないけれど、図書館屋的には、やはり漢籍のコレクションがまず頭に浮かぶ。もちろん、日本の古典籍もいいのがたくさんあるのだけれど、宋版・元版といったレアな中国の古刊本のコレクションはとにかく一級品。これまでも何回か展示されたことがあって、ここ数年の間でもこれが何度目かの展示だと思うのだけれど、重要文化財に指定されたものがゴロゴロ並んでいるのは、やはり圧倒的。
 サブタイトルに「宋代から清代まで」とあるとおり、中国において印刷出版の形態がほぼ完成された宋代以降、清代までを中心に、中国における印刷技術の歴史を辿る展示になっていた。活字本や多色刷りなど、多様な印刷技術の成果もあり。例外的に、『永楽大典』や『四庫全書(文淵閣本)』など、王朝による編纂事業の成果を示す写本も展示されていた。
 今回、解説目録はなく、展示品リストが無料配布されていただけだったのだけれど、実は先日刊行された、米山寅太郎『図説中国印刷史』(汲古書院汲古選書, 2005)が、この解説を兼ねている、というか、この本の美味しいところを実物で見せちゃおう、というのが今回の企画だった模様。
 著者は静嘉堂文庫の文庫長で諸橋大漢和編纂にも協力した、という人物。(今は亡き)『しにか』に1992年(平成4)4月から1995年(平成7)3月にかけて連載された(序文による。現物は確認してないです)ものをベースに、慶応大学の高橋智助教授の協力を得て一冊にまとめた、とのこと。『しにか』の連載自体が、「静嘉堂文庫の架蔵披露」も兼ねていたようなので、中で紹介されている資料の大部分が、静嘉堂文庫所蔵なのは当然といえば当然なわけですな。
 ……ということを、行く前に知っていれば、先に入手して読んでおいたのになあ。会場でこの本を購入、家に帰ってからバラバラと見て、やっと気がついたという体たらく。せめて会場で見ておけば……。
 ちゃんと本を事前に読んでいた人は、より深く展示を楽しめたはず。そうか、あのあたりは出版主体別に並べてあったのか、とか、あれで見せたかったのはもしかしてこのことか、とか、斜め読みをしているだけでも、見るべきところを全然見ていなかったことに気付かされてしまって唖然。ああ、もったいないことをしてしまった。というか、そもそもが勉強不足ってことか。あと、開催期間の前半と後半でかなり展示の入れ替えがあったようで、その点でももったいないことをしたかも。
 古典籍関係の展示、次はいつかなあ。今度は(ちょっとは)予習して行きたいものである。

2005/03/20

MOTアニュアル2005 愛と孤独、そして笑い

 昨日は、相方と二人で、東京都現代美術館に、「MOTアニュアル2005 愛と孤独、そして笑い」(会期:2005年1月15日〜3月21日)に出かけた。
 それにつけても花粉がすごかった。マスクをしていてもやはり入り込んでくるらしく、洟をずるずるさせつつ映像系の作品を見たりしていると、何となく周りに申し訳ない気分に。
 今年は女性作家のみの布陣で、フェミニズム的な視点を折り込んだセレクションになっているのが特徴か。ミュージアムショップでもフェミニズム美術批評系の本が並んでいたし。
 分かりやすかったのは、岡田裕子の「SINGIN' IN THE PAIN」「俺の産んだ子」。後で知ったけど、会田誠の奥さんなんだそうで。何となく納得。どちらもビデオ作品で、前者は、「普通の主婦」が傘持って踊りまくって最後に……という話。後者は、子宮移植した男性が妊娠・出産する過程をドキュメンタリー調で。どっちも、テーマの分かりやすさと出演者のノリノリぶりがいい感じ。
 イチハラヒロコは、お馴染の言葉のインスタレーションに加えて、創作メモ(?)を貼り付けたオブジェが出ていて、これがなんだか面白かった。作品ができあがるまでの試行錯誤の過程や、関係ありそうでなさそうな雑多なメモの数々をついつい読みふけってしまう。
 チラシやポスターなどにも使われている、澤田知子の「School days」シリーズもすごかった。学校のクラスの集合写真を、一人で再現(?)する、というシリーズで、もちろん、制服姿なので、髪形や表情や姿勢などで個性があるかのように表現するわけだけど、なんともいえずそれらしい。一つだけだと思ったら、何種類もあったのでびっくり。
 後は鴻池朋子によるアニメーション(絵本になっている「みみお」というキャラクターが主役)作品とか。よく動いてました(感想になってないって)。
 たまたま3月19日は、開館10周年の誕生日だったとのことで、ちょっとしたプレゼントを貰ってしまった。意識して狙ったわけではなかったのだけど、何となく得した気分。こういう地道な宣伝の努力が、実を結んでいってほしいなあ。

2005/03/14

日本の博覧会

 博覧会ついでにこれも。こんなところで取り上げる必要もないのだろうけれど、『日本の博覧会 寺下勍コレクション』(平凡社別冊太陽, 2005)はすばらしい。愛知万博便乗企画、という側面もあるのだろうが、こういう便乗なら大歓迎。
 ディスプレイ関連の仕事に長く関わってきた寺下勍氏が蒐集したコレクション(現在は乃村工芸社に寄贈され、保存されている)の一端を紹介する図録なのだが、日本の博覧会第一号といわれる最初の京都博覧会の資料こそないものの、その後の明治初期の京都博覧会の資料や、湯島聖堂の博覧会の資料、そして、言わずと知れた内国勧業博覧会関連といった、博覧会史の基本資料がずらりと並ぶ。よりモダンな雰囲気を漂わせる大正期の博覧会や、個別のテーマ博が盛んになっていく昭和前期、そして、日本最初の万博になるはずだった幻の紀元二千六百年記念日本万国博覧会関連の資料も。戦後は、復興期を飾る地方博、テーマ博もあるが、本書の図録部分の掉尾を飾る1970年の大阪万博にとどめを刺す。万博グッズの数々が当時の盛り上がりを雄弁に語っている。
 その後の博覧会については、巻末エッセイの一つ、橋爪紳也「博覧会はどこへ? 1970年代以降、二十一世紀への動向を見る」にまとめられているが、やはりモノがないのは寂しい。続編に期待。とりあえずは、私と同じ世代にとっては、万博といえばこれだったはずのつくば科学万博については、『つくば科学万博クロニクル』(洋泉社MOOK, 2005)があるので、本書とあわせて揃えておきたい。
 巻末には、乃村工芸社でこのコレクションの資料管理にあたっている担当者によるエッセイや、寺下勍氏のインタビューがあり、コレクションの成立や現状を知る手がかりになる。また、寺下氏作成の「日本の博覧会年表」は、開会日・閉会日・博覧会名・開催地・会場・主催・入場者数、という簡潔な項目ながら、このためにどれだけの資料探索の時間がかけられたのかを考えると、気が遠くなる代物。すごすぎる。
 もちろん、博覧会に関するモノだけを見ていても、博覧会というイベントの持つ歴史的・社会的・政治的・経済的意味合いがわかるわけではないのだけれど、それでも、その時代にそれぞれの博覧会が持った意味合いの一端を感じることはできるはず。日本近代史の副読本としても、ぜひお手元に。

2005/03/13

虚飾の愛知万博

 どうも色々なことが重なってしまい、更新できず。読むのは読んでいるのだけれど……。
 というわけで、読みやすかったものから、順次、感想を書くことに。まずは、前田栄作『虚飾の愛知万博 土建国家「最後の祭典」アンオフィシャルガイド』(光文社Kobunsha Paperbacks, 2005)。

愛知万博中止の会
愛知万博(愛地球博、日本国際博覧会)の失敗を静かに見守るサイト

といった、愛知万博に批判的なサイトが、Googleで「愛知万博」を検索した結果の上位にきてしまうことからもわかるように、この万博には、どうも何かおかしいのではないか、といったイメージがつきまとう。最近、NHKだけではなく、各民放も、やたらと愛知万博を宣伝し始めているのだけれど、正直、ちょっとすっきりしない感じだった。
 というわけで、本書を読んでみたわけなのだけれど、なるほど、これは確かにおかしいかもしれない。要約するとこんな感じ。
 愛知県で万博を開こう、そして会場を、海上の森(かいしょのもり)にしようとした元々の発想は、そこを住宅地として開発することにあった。そこには、元知事やその関係者による土地の買い占めなどの動きもあり、利権が絡んでいた可能性もある。しかし、その後、万博の開催そのものが目的化していった結果、国際的な自然保護の動きの中で、多くの固有種が住む里山が残る海上の森を開発で潰すとは言えなくなってしまい、「自然の叡知」をテーマに加えて自然保護を看板に立てざるをえなくなる。この結果として、開発は(表立っては)できないし、かといって、自然保護をテーマに人を呼べるイベントや施設を作ることもできず、地域の住民や自然保護団体とも軋轢を起こし、しかも、経済的に美味しいところは全部東京の企業にもっていかれてしまい地元企業も元気なし、という状態に……。
 ある種スキャンダラスな視点から、社会的な問題を提起する本をぽこぽこ出している、Kobunsha Paperbacksらしい、というか、ならではの一冊、という感じ。今、こういうネタを正面切って出せる大手出版社はちょっとないような。
 著者の問題提起のポイントは、この万博をめぐるゴタゴタを、「土建国家」日本が抱えた矛盾が噴出したものとして描き出しているところ。他人事だと思って面白がっているかもしれないが、実は大なり小なり、同様の状況に陥っている自治体は多い、だからこそ、問題をよく知るためにも、今、愛知万博に注目すべきなのだ、といった問い掛けが、本書では繰り返されている。単なる愛知万博潰しではなく、愛知万博を透かして見える日本の現状を掘り下げようとした、というところか。
 それにしても、この万博を巡る愛知県と万博協会の右往左往ぶりは、ヘルガ・ドラモンド『プロジェクト迷走す ビッグバン〈トーラス〉システムの悲劇』(日科技連出版社, 1999)で提起されていた、「意思決定エスカレーション」を思わせる。部分部分で見れば誰もが合理的な決定を行っているのに、全体としては間違った方向にどんどん進んでしまい、止めた方が全体として損害を小さくできるプロジェクトを誰も止められなくなってしまう、という状態を、「意思決定エスカレーション」と呼ぶ(実際には、こんなにいい加減な話ではなくて、もっとちゃんと定義されているので、詳しくは前掲書を参照のこと)のだけれど、正にそんな感じ。
 ぜひ、事務局である財団法人2005年万博博覧会は、全ての文書(メモ、内部資料等も含めて)を保存しておいてくれないものか。何だったら、公開は20年後とか30年後でも構わない。この万博を巡って起こったことは、全ての組織(特に、いろんな団体から寄せ集められた混成組織)において、貴重な教訓となるはずだ。本書で書かれていることが全て事実なら、恐らく、万博が終了した途端に、全ての資料を廃棄した方がいい、と関係者の方々は思うのだろうけれど、何とかして遺してもらえないものだろうか。無理かなあ。

2005/03/05

情報センターの時代

 緒方良彦・柴田亮介『情報センターの時代 新しいビジネス支援』(日外アソシエーツ, 2005)を読み終わってはいたのだけど、感想を書くかどうか、実はちょっと迷っていた。なんというか、読み物としての本ではないし、かといって、ハウツー本ともちょっと違う。
 中身は、企業・団体内の図書館(室)・資料室は、その企業・団体内の情報共有に中心的役割を果たす「情報センター」として生まれ変わりつつあるし、生まれ変わるべきだ、という主張をまとめたもの。公共図書館についても若干ページが割かれていて、運営にPFI方式を取り入れたり、ビジネス支援などを取り入れたり、という動きを紹介したりして、さらに、公共図書館と情報センターとのネットワークの形成などを提言したりしている。
 うーん、書いてある中身自体は、まあ、企業内でコストセンターに対する風当たりが強くなっている状況で、「図書館」が生き残るためには、こういう方向しかないよなあ、という感じなのだけれど、どうも企画書とか報告書みたいな文体が、個人的には読みにくかったり。趣味で読む本じゃなくて、仕事で企画書を書いたりするときに使う本なんだろうなあ。
 逆にそう思って見れば、使える部分が大量にあるのかも。論旨の展開は強引というば強引なんだけど、企画書で引用する分には、このくらい明快な方がわかりやすいか。
 公共図書館にしても、大学・学校図書館にしても、地方公共団体や法人組織内の「図書館」としての性格を持つことを考えれば、本書に書かれているような「情報センター」化戦略も意外に他人事ではないような。あと、事業、経営、評価、といった点が重視されるという点も、もうどの館種でも共通の課題だし。企業の図書館・資料室の関係者だけではなく、もうちょっと図書館関係者に広く読まれてもいい本かもしれない。でも、自分のポケットマネーで買うのはちょっとつらいかなあ。買っちゃってからわかっても遅いんだけど。
 あ、余談ながら、トラックバックをもらった「図書館員の愛弟子」のエントリー、「ココフラッシュをサイドバーに」で、「ユーザーカテゴリに「図書館」を作りましょう」という呼びかけがあったので、とりあえず、作成して適用。個人的には「文化・芸術」の一部でもいいような気もちょっとあるような。

2005/03/03

戦後名編集者列伝

 桜井秀勲『戦後名編集者列伝 売れる本づくりを実践した鬼才たち』(編書房, 2003)を読了。
 戦後の出版界を支えてきた各出版社を代表する名編集者を、各社一人ずつ取り上げて、その生涯と業績、成功の秘密を、同じく編集者であった著者(『女性自身』などの女性誌の編集長を歴任)の視点から語る、という一冊。『図書館の学校』の連載の単行本化だが、最後の一節は書き下ろしだし、若干の書き直し部分も含んでいたりする。
 可能な場合には、直接本人に取材して話を聞いているとのこと。情報源が明らかでない話が多いので、出版史研究の参考文献に使おう、という人には、ちょっとつらいかもしれないが、取り上げられている編集者の人間らしいエピソードがふんだんに取り上げられていて、読み物としてはとっつきやすくて面白い。
 光文社(神吉晴夫)、青春出版社(小沢和一)、KKベストセラーズ(岩瀬順三)、祥伝社(伊賀弘三良)、サンマーク出版(植木宣隆)、三笠書房(押鐘冨士雄)、幻冬舎(見城徹)といった具合に、いわゆる一般書のベストセラーを数多く出している出版社の名編集者が多く取り上げられているのが特徴。岩波、みすずといった人文書(著者の言葉を借りれば「良書」)出版社はとりあげられていない(唯一の例外は筑摩書房を再建した布川角左衛門)あたりに、著者の考える「名編集者」のあり方が窺える。
 他にも、ジャンプ王国を築いた集英社・長野規、少年マガジンの講談社・内田勝あたりが興味深かったりしたけれど、個人的には、内部的には組織として崩壊しつつあった『中央公論』をかろうじて支えた中央公論社・粕谷一希のエピソードについつい思い入れてしまう。踏ん張りどころで踏ん張れずにトンズラするトップ、行きすぎた平等主義により崩壊する指揮系統、その中で編集権を編集長の手に維持し、優れた書き手を発掘した……。ううむ、爪のアカを煎じて飲まなきゃいかんな。ちなみに、この粕谷一希という人は、中央公論社を40代後半で退社、その後は、『東京人』を立ち上げている。
 まあ、『図書館の学校』連載としての意図を考えると、戦後の公共図書館の発展期を支えた出版物が、どういう人たちの企画によって生まれてきたのかを知るための手ごろな入門書という読み方をするのが、図書館屋的には正しいか。本はほっといても勝手に生えてくるものではなくて、誰かがその本(雑誌も)を作り出そうとしなければ生まれない、ということを、ちゃんと知っておくためには、いい本ではないかという気がする。

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