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2005/03/23

嗤う日本の「ナショナリズム」

 北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(日本放送出版協会NHKブックス, 2005)を読了。
 全然中身と関係ないのだけれど、著者の生年を見て、自分より若いことに気がつきしばし感慨にふけったり。アイドルが年下ばっかりになっていた時も、妙な感慨があったけれど、論壇で活躍する人たちが年下になっていくのもまた、何ともいえないものがあるなあ。
 きっと、あちこちで感想が書かれているんだろうなあ、と思いつつ、GoogleとかYahoo!とか検索してみると、意外に上位には出てこないような。本書の原形となった「嗤う日本のナショナリズム 「2ちゃんねる」にみるアイロニズムとロマン主義」(『世界』2003年11月(720号))が、やたらと議論を読んでいたらしい(ARTIFACT —人工事実—「嗤う日本のナショナリズム」反応集を参照)のと比べると、あんまり盛り上がってない気が。まあ、本書全体からすれば、2ちゃんねるや、その他ネット上の「ナショナリズム」が扱われているのは、ほんの一部でしかないし、議論のネタにしにくくなっているのかなあ。
 60年代から70年代初頭は、過ぎ去った過去(あれ? 同語反復?)のように見えて、現在、社会の中で生きて、活躍している(現役世代の中では)年長の世代が、「若者」として、時代の最先端を生きた時代でもある。その時代から始めて、現代まで、イデオロギー的な枠組みをいかに脱するか、という試みが、繰り返し、形式主義に堕していく過程を、あさま山荘の連合赤軍、糸井重里、田中康夫、ナンシー関、小林よしのりらに代表させながら語っていく。こうした本書の方法論は、実は、現代を生きる複数世代の青年期を縦断していく試みにもなっているんじゃなかろうか。
 今のネット上の「言論」だけが特別に問題だというわけじゃない、というようにも読めるし、あるいは上の世代がさらに前の世代の試みを乗り越えて(というか、前の世代の試みの形骸化したものをずらし直して)きた歴史をちゃんと見ておいたほうがいい、というようにも読めなくもない。別に世代を超えた連帯の書、というわけではないのだろうけれど、まあ、一回り、あるいは二回り上の世代が若者だった時代も、今と地続きなんだ、ということが、結果として描かれてしまっているのが妙に面白かったりする。
 アイロニズムとシニシズムという対立(?)概念を使った分析そのものについては、私にはうまく要約できないのでパス。というか、終章で要約されているので、お急ぎの方は、そこだけ立ち読みを。何はともあれ、常に待ち受ける形式主義の罠(というか運命?)が恐ろしい。あとは、終章の宮台真司の亜細亜主義への関与と大塚英志の戦後民主主義への関与の対比の話が面白かったなあ。褒めておいてその後若干の批判、という展開がさすがというか。

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