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2005/04/29

メディアの未来に灯をともす

 4月27日の夜は、第6回新宿セミナー@Kinokuniya「水越伸×岩井敏雄 メディアの未来に灯をともす」を聴きに、紀伊国屋ホールへ出かけてきた。先日感想を書いた、水越伸『メディア・ビオトープ』(紀伊国屋書店, 2005)の刊行記念のイベントでもあったりする。
 当日の昼に、席があるかどうか(全席指定だったので)電話で確認してみたところ、その場で予約できる、とのことだったので、実は行こうかどうしようか迷っていたのだけれど、行くことに決定。で、実際行ってみると、結構、席には余裕があった感じ。もったいない。
 開演19時、とのことで、その前に紀伊国屋書店の地下で軽く腹ごしらえ、と思ったら、久しぶりに来たら、店が随分変わっていた。釜揚げうどん屋があったり、バスタ屋が何軒もあったりとか。で、釜揚げうどんを食す。
 対談の中身は、まず水越さん(以下、敬称は「さん」で統一。直接面識があるわけでもなんでもないですが、そういう雰囲気の対談だったのですよ)が、『メディア・ビオトープ』の要点を、本の中で使っていたスケッチをスクリーンに映写しながら説明。例の杉林の比喩とかですな(わからない人は買って読むように)。
 現実のメディア関連の活動、例えば、メディア・リテラシーに関する地域の活動とか、すごく面白いことをやっている人たちはあちこちにいるのだけれど、その結果として残る記録は、マニュアル的な、カリキュラムはこうするのがいいとか、そんな無味乾燥なものになってしまう。その一方で、学問の世界でメディアについて論じられていることは、細かい細工もののようで、実際に子供たちが触ったら壊れてしまいそうものになってしまっている(要するに、現実の問題解決には応用しにくい、ということでしょうね)。その両者をどうやってつないでいくのか、ということを、水越さんはずっと考えてきていて、その結果として生まれたのが、この『メディア・ビオトープ』だった、という話があったりして、聴いていて、問題意識がより明確にわかったような気になる。あと、状況がまったく楽観できないからこそ、読むと(見ると)元気の出る本を作りたかった、という話が印象的。確かに、元気が出る本になっていると私も思う。
 そして、メディアを巡る活動が広がって定着していく最初の段階で最も重要なのが、メディア遊び(メディアを使って何か今までにやらなかったことをやってみて楽しんでみる)で、その達人が、岩井さん、という流れから、話の主役は岩井さんへ。
 岩井さんについては、私もよく知らなくて、ウゴウゴ・ルーガの人、くらいの認識しかなかったり。お二人の著書を売っていた売り子の人が、「あ、この人、ウゴウゴ・ルーガやってた人だったんだ、サイン会できるんじゃないか」とか、もう一人に話しかけていたのが(私も人のことはいえないけど)妙におかしかった。
 で、その岩井さんが何故ここで登場かというと、実は、二人は筑波大の同期だったとのこと。学群は違ったけど、学生時代、既に接触があって、その後も、長期間一緒に何かをする、ということはないけれど、時々、すれ違ったり、一緒に何かやることがあったり、という関係だったりするらしい。活動のフィールドは違うけれども、どこか問題意識を共有しながら、それぞれ独自に進みつつ、時々並走するような関係、という印象。
 さて、肝心の話の中身なのだが、てっきり、岩井さんは、メディア・アーティストとしての活動の話をするのかと思いきや、そうは問屋が卸さない。いきなり、岩井さんの生い立ちから話と映像は始まった。1962年生まれ(だったかな?)の岩井さん、集英社が1970年代半ばに出していた理科学習漫画(正確には、「なぜなぜ理科学習漫画」というシリーズ名らしい)の「光・音・熱の魔術師」に夢中になったり、お母さんがもうおもちゃは買いません宣言(!)をして以降は自分で自作のおもちゃをテレビや雑誌からネタを集めて作ったり(このネタ帳がまたすごかった)、学研の前の元祖電子ブロックを持っていたり、ラジカセで録音して、ワイヤレス・マイクを使った簡易ラジオ放送を友達とやったりとか、自分で録音する趣味のための雑誌『レコハン』(だったかな?)を持っていたりとか(これがまた驚愕もの)とか、まさに、メディア遊び人生(?)まっしぐら、という経験を、モノや当時の自分の姿の写真をスクリーンに映写しながら語っていく。
 で、岩井さんの話はこれでは終らない。今度は今の話。娘さんと、様々な手作りおもちゃや自分で考えた遊んでいる、という話が続く。絵描き歌遊び(2歳くらいだと、真似しては描けなかったものが、絵描き歌風に一緒にやるとそれなりにカタチが描けたりするらしい)からはじまって、面白くなって色々やりはじめた、とのこと。
 単に絵を描いてあげてもあんまり反応示さなかった娘さんが、厚紙を組み合わせて、羽根の部分が動くペンギンとか、首の部分が動くキリンとか、そういう自分で動かせるものを作ってあげたところ、目の色が変わった、という話が印象的。水越さんの「多孔質」というのと、多分、この話はつながっていて、ただの平面ではなくて、自分で動かすことができて、しかも複数のキャラクターを組み合わせて遊ぶことができる、というところが、何かを活性化したんじゃなかろうか、というのは、私の勝手な憶測。
 その後も、トイレがうまくできたら、シール(もちろん岩井さんお手製)を貼っていいとか、三画クジが引けるとか、生活の中に、様々な仕掛けを、岩井さんは組み込んでいく。これも、写真を中心に紹介。会場に娘さんも来られていたそうで、時々、照れ臭そうな笑い声が会場に響いて、ほのぼの。
 岩井さんは、いきなりコンピュータや携帯電話ではなく、手で触れるもの、自分の手で描けるもの(引っ越した友達とのやり取りは、メールではなくFAXを使うとか)という、メディアの原点的なものを与えていく、ということを意識している、とのこと。自分たちは、様々なメディアやテクノロジーが誕生して普及していく過程に居合わせた、ラッキーな世代だけれども、これから後の世代にとっては、そういったものが、あって当り前のものになってしまっている。だから、同じ経験はできないのだけれど、自分が経験してきたことを、何か別のカタチで伝えていきたい、と(いうようなことを)岩井さんは語っていた。
 大ざっぱにまとめる、日本のメディア状況などのマクロな話を水越さんが語り、親子二人という最小単位のメディア・ビオトープの実例を岩井さんが見せてくれた、という感じ。
 で、最後の方で水越さんがこんなことを語っていた。非常に面白いことをやっているメディアの中心には、球根になっている面白い人が必ずいて、その人が周りに球根を増やしていったりする。けれども、それだけでは、広がりがなくなっていくので、種を広くばらまく、といったことも必要なんじゃないか。
 もしかすると、今回の対談は、岩井さんという球根が家族の中で(あと、近所の人くらいには広がっているのかな?)咲かせている本当に小さな(けれども、なんとも面白い)花の種を、今回、対談という形で(そんなに広くではないかもしれないけれど)、ちょっと播いてみた、という感じのイベントだったのかもしれない。
 その他、色々面白い話があったような気がするのだけれど、メモをとってなかったこともあって既にかなり忘れてしまった。記録、出してくれないかなあ。
 終了は21時過ぎ。待っていれば、著書にサインをしてくれる、という話もあったのだけれど、ちょっと疲れ気味だったこともあって、直ぐに帰路へ。ちょっともったいなかったかも。
 あ、そうそう。司会をしていた、『メディア・ビオトープ』の担当編集者の方が、この本にほれ込んでいることが伝わってくる語りっぷりで、なんとなくうれしくなってしまった。作り手が、思い入れを持って送り出した本ってのはいいもんだなあ。

2005/04/24

mixiの日記を別に書いてみる

 mixiを始めて、いくらかたってきて、なんとなく、mixiの面白さ、というか、知ってる人をゆるく繋ぐ仕組みの面白さを感じられるようになってきた気がする。
 で、マイミクシィとやらも、何人か(今のところ職場関係ばかりなのが、自分の人間関係の狭さを物語っているような)できてきたので、数日前から、日記をこのブログとは別にmixi独自の仕組みで書いてみることにした。
 知っている人が定期的にチェックしてくれていることがわかるとなると、何となく、独自のコンテンツがないと悪いかな、という気がしてしまったのがその理由。
 ……はっ! これがmixiの罠なのか?
 なるほど、よくできてるなあ。
 ちなみに、mixiの日記は本当に日記なので、(知り合い以外には)ほとんど付加価値はなかったりする。

2005/04/23

将軍のアーカイブズ

 先日、仕事帰りに国立公文書館「将軍のアーカイブズ」展(会期:2005年4月5日〜4月24日)を見に立ち寄った。展示会については、木・金のみ8時まで開館(他の曜日は5時まで)、というのはなかなかいい作戦では。
 今回の展示は、内閣文庫所蔵の紅葉山文庫旧蔵資料のうち、特に、家康、吉宗、綱吉といったメジャーな(?)将軍関連の資料を中心に紹介する、というもの。
 例えば、家康周辺では、秀頼版『帝鑑図説』、直江版『文選』、伏見版『貞観政要』、駿河版『群書治要』といった、幕府成立前後の出版事業の成果や周辺の関連資料が。これはおいしい。
 漢籍関連では、吉宗の時代を中心とした漢籍輸入関連の記録類や、中国では失われた明・清代の地誌(いわゆる佚存書、というやつですな)など、渋いセレクション。
 で、個人的に一番印象に残ったのは、実は、青木昆陽が関わった資料だったりする。各地に伝来する古文書の写し(というよりは複製に近い)である『判物証文写』『諸州古文書』や、様々な金・銀・銭の考証と図解を集めた『国家金銀銭譜』といった資料を見て、サツマイモ栽培を幕府に進言して取り立てられた「甘藷先生」であり、蘭学の先駆者という自分が持っていたイメージと全然違う側面を見せられてびっくり。
 週末になって、自分の青木昆陽についての情報源、木村陽二郎『日本自然誌の成立 蘭学と本草学』(中央公論社自然選書, 1974)をひっくり返してみた。すると、青木昆陽は、商人(魚問屋)の出身だったとか、伊藤東涯の門下で古義堂で学んだとか、全然頭に残っていなかったことが次々出てくる出てくる。
 昆陽が借りていた借地の地主の親戚に、大岡忠相(大岡越前ですな)の部下がいて、その人(加藤枝直)の骨折りで、飢饉の折りに昆陽の書いたサツマイモの栽培法に関する書物(『蕃藷考』『甘藷記』)が大岡忠相ルートで吉宗まで届き、取り立てられるきっかけとなった、とか、吉宗に勧められてオランダ語を学んだといわれているが、実はそうではなく、自分の興味からオランダ語の学習を進めていた、とか、色々知らない(というか、忘れていたというべきか)ことばかり。展示解説にも登場していた深見有隣(『大清会典』や、漢訳洋書の和訳に関わった)が吉宗に最初にサツマイモのことを吹き込んだ(?)とか、そんなエピソードもあったり。
 その上、昆陽による古文書調査(その時点で寺社奉行だった大岡忠相に命じられた、という記述になっているが)の話も、ちゃんと書いてあって愕然。いったい何を読んでいたのやら。
 ところで、この『日本自然誌の成立』を読むと、展示解説ではあまり書かれていない(まあ、字数が限られているからなあ)、大岡忠相の果たしていた役割がなかなか印象深かったりする。吉宗周辺の知的ネットワークの中枢(の一つ?)に大岡忠相がいて、青木昆陽もそのネットワークの中で活躍していた、ということらしい。
 ちなみに昆陽の晩年の弟子が、『解体新書』翻訳に大きな役割を果たした前野良沢だったりして、この知のネットワークは、江戸における蘭学・洋学の発達にもつながっていくのだった。
 うーむ、蘭学と本草学の流れでしか、このあたり捉えてなかったけど、もう少し広い分野横断(というか分野無関係)的な枠組みで見ると、めちゃめちゃ面白い話になりそうだなあ。誰かそのあたりのことを書いてないものか。
 ところで、「将軍のアーカイブズ」っていうタイトルなのだけど、図書館屋的には「将軍の図書館」だよねぇ。まあ、公文書館だからそうなるんだろうけど……。

2005/04/22

MacPower 2005年5月号

 『MacPower』が2005年5月号(16巻5号)で全面リニューアル。ロゴも表紙デザインも中のレイアウトも、完全に変わった。
 正直、パソコン誌の善し悪しは、コラムの質と量で決まる、と勝手に思っているので、その点からは「文字が足りねぇ…(字数というより面積が)」という感じではあるのだけれど、現代美術というかアート、それからデザインへの接近、というのは、世の中的には正しい方向かもしれない。ただし、たくさん売れるかどうかは私にはよくわからない。生き残ってほしい、とは思うけれど。
 MacとiPodと生活とアートとデザイン(とファッション?)、なんて、胡散臭いような気がしてしまうも事実なのだが、コンピュータが世界を変えるのではなく、世界を変えていくのはコンピュータを道具として、あるいは、コンピュータなしで、作られる/届けられる表現なんだ、という感じは、案外悪くない。
 連載「Power of Japanese Arts」の第1回に山口晃、というのもうれしいし、突然現れる巻末の和菓子特集(?)ページもたまらない。
 とはいえ、これまでの連載ページの大部分が消えてしまったので、なんというか、まだしっくりこない、というのも事実。あと数号様子を見て、買い続けるかどうかが決めるつもりだけど、ちょっと私にはお洒落すぎる雑誌になってしまったかもしれない。泥臭い側面ももう少し残して欲しかったような。
 あ、あとCD-ROMをなくしたのは、英断かもしれないけど、コスト面からいっても正解なのでは。この内容なら、確かになくてもいいよね。

2005/04/19

古義堂文庫展が5月15日から

 天理ギャラリー第125回展「古義堂文庫展−伊藤仁斎没後三百年を記念して−」のお知らせ葉書が届いた。それにしても、古義堂って明治まで続いてたのか。知らなかった。
 批判対象とした朱子学よりも実際には新しい学派なのに、自分たちの方が古い、だから正統である、という論理構成によって自らの学統を根拠付ける、というのは、古医方なんかと同じロジックなんだろうなあ。
 伊藤仁斎・東涯の自筆資料もたくさん出るようだし、同時に古義堂旧蔵資料ということで、元和勅版とか五山版、漢籍では宋版なんかも出るらしい。これは見に行かねば。

2005/04/17

ホンネで動かす組織論

 太田肇『ホンネで動かす組織論』(筑摩書房ちくま新書, 2004)を読了。
 公務員批判をする側は、公務員がいかに駄目かを指摘しつつ、その一方で、公務員の待遇を下げたりしても国民・住民に対するサービスは低下しない(どんなに叩かれても公務員はまじめに働く)ということを実は前提にしている、という話が、公務員の端くれとしては、やたら面白かったりするのだが、もちろん、本書の趣旨はそういうところにあるわけではない。
 かつては、会社としてのタテマエ(お客様第一、とか)とホンネ(やっぱり儲けが第一、とか)、働く側のタテマエ(会社に忠誠を、とか)とホンネ(出世すれば元がとれる、とか)が、それなりにうまく回っていた。しかし、今は、会社側はタテマエ(業績で評価)をホンネ(人件費削減)のために使い、働く側もタテマエ(会社に尽くします)をホンネ(首になるよりぶら下がっておいたほうが得)のために使う状況になってしまっていて、これでは、効率も上がらないし、やる気も出るわけがない。
 だから、これからは、ホンネを基礎とした働き方の再構築が必要なのだ、というのが本書の趣旨、という具合。
 具体的な提案としては、例えば、組織で仕事をするのではなく、仕事の成果について個人の名前を公開していく、そのオーブンにされた成果を評価のベースにする、といった、実践に基づく提案がなされている。基本的には、客観的、つまり、誰もが検証できる基準に基づいた成果主義、というのが必要、というのが著者の主張だ。(先日紹介した、『学士会会報』No.851の、渡辺穰二「日本の中の非効率:「人基準」から「仕事基準」へ」と基本的な発想は同じだと思う)
 というと、今はやりのことをただ繰り返しているだけにみえる。正直、ホンネとタテマエの乖離を分析する前半はなるほど、という感じで読ませるものの、結論そのものにはあまり新味がないような気がしてしまう。とはいえ、bk1(リニューアル、成功してよかったよかった)のオリオンさんの書評のような評価もあるので、働く側にとっての働くことの意義をどう回復するのか、という視点を中心にして読むべきものなのかもしれない。管理する側の視点だけではなく、働く側にとっても働く喜びを回復するための処方せんとして、ホンネによる働き方の再構築が必要なこととしているところが肝か。
 とりあえず、個人の名前を仕事の成果とセットで外に出していく、というのは、組織を変える一つの方法かもしれない。でも、自分のやったことがどんどん剥き出しになっていくことに、人は本当に耐えられるのだろうか、という疑問も浮かぶ。いわゆる「引きこもり」とか「ニート」とか呼ばれて、社会的・政治的「対策」の対象にされている人たちは、自分の名前を前面に出して仕事をする、ということについて、どのように感じるのだろうか。やりがいを感じるのだろうか、重荷と感じるのだろうか。
 マネジメントする側の立場としては著者の主張に共感しつつも、マネジメントされる側の立場としてはどこかひっかかってしまう。うーむ。

2005/04/15

mixiに参加してみる

 知人に誘われて、mixiに登録してみた。
 多分、コミュニティとしては、一番面白い(あるいはサイズとして分かりやすい)時期を逃してしまったのだろうなあ、と思いつつ、SNSって実際にはどんな感じなのだろう、と思っていたので、ほいほいと誘いにのってしまった。
 とりあえず、日記としてこのブログを登録してみたりするが、正直、今一つ何がどうなっているのか、どうもよくわからない。
 しかたないので、「コミュニティ」とやらで「図書館」関係のところを覗いてみたりするが、なんだか昔のニフティサーブのフォーラムみたいな感じがしなくもなし。そういえば、加入しないと発言できないとか、システムも似ているような。そういうところがいいのかなあ。
 と、同じ職場の人間が図書館関連のコミュニティで発言しているのを発見。知ってる人をマイミクシィとやらに登録するといいらしいので、ほほう、と思うが、しかし、部下を登録するのは何となく心苦しい気がしてしまう。とりあえず、忘れないうちにお気に入りに追加、とやらをやっておいたが、よく考えるとこっちがその人のページを訪問したのはバレバレ、というシステムなのであった。むう、何だか妙に気を使うぞ。
 まあ、mixi世界のルールが見えてくるまでは様子を見るか……。

2005/04/14

インターネット情報の収集・利用に関する意見募集

 あんまり話題になっていないようなのだけれど、国立国会図書館が、

インターネット情報の収集・利用に関するご意見の募集

を開始。平成17年4月14日(木)から平成17年4月27日(水)まで。「インターネット情報の収集・利用に関する制度化の考え方」についての意見を求める、というもの。

 実は、これまでの著作権法の枠組みにはなかったような、著作権の権利制限に関する項目が含まれているところがポイントのような気も。

アニメ最終回&新番組雑感

 最終回の嵐が過ぎ去ったと思ったら、続いて新番の嵐が……。

 とりあえず、終了した方から。
 『BECK』『舞−HiME』『ファンタジック・チルドレン』『魔法少女隊アルス』は何とか最後まで見た。1月スタートのものは、結局何も残らなかったか……。
 『BECK』は当り外れが激しかったけど、当たった回は鳥肌ものだったなあ。『舞−HiME』は、ちゃんと大団円、という感じで終らせてましたな。賛否あるんだろうけど、変にひねったラストにしなかったのは、正解だったのでは。『ファンタジック・チルドレン』は、心の動揺を描く時の粘着質な演出がたまらず。結局前世に縛られている、というラストはバッドエンドだよねぇ。『魔法少女隊アルス』は最後舌足らずになった気が。ちょっともったいない感じだけど、画的に面白かったのでまあいいのかな。

 新しい方は、今のところは順不同で、『英國戀物語 エマ』、『エルフェンリート』、『創聖のアクエリオン』、『甲虫王者ムシキング 森の民の伝説』、『アイシールド21』、『極上生徒会』、『LOVELESS』といったところかなあ。あ、あと、『ゾイドジェネシス』が予想外にいい感じ。
 それにしても、『LOVELESS』はすごいですな。PTAから放映中止を要請されても驚かんわ、という感じ。『英國戀物語 エマ』は、それが大事なんです、な感じが伝わってくる設定とCG班の仕事がすばらしい。
 すでにDVDで見ちゃっている『攻殻機動隊S.A.C. 2nd GIG』は、あのかっちょいいオープニングの代わりに地上波用に新作(?)オープニングを付けてきたのには、ちょっとびっくり。この調子だと第1シリーズみたいに、タチコマの歌が変わっているとか、中身にも地上波用に手が入ったりするのかなあ、とつい気になってしまう。
 まだ、『ハチクロ』とか『エウレカセブン』とかもあるので、最終的にどれを継続して見るか、なかなか難しいところ。悩むなあ。
 その他、『おねがいマイメロディ』も強烈な違和感があって、何だか気になる。『ふしぎ星の☆ふたご姫』は、クレヨン王国+プリキュア?という目でつい見てしまうけど、クレヨン王国の頃と比べると、デジタルの使い方の進歩がよくわかって面白かったりして。
 どの作品も、背景から効果まで画面作り全体にデジタルを使うことが当り前になっていて、その上でどう表現を深めていくか、という段階に踏み込んでいってるんだなあ(そんなのもっと前からだ、といわれそうだけど)、というのをしみじみ感じる今日この頃。しかし、作る側のノウハウの進歩の早さに、見るこっちがついていけていないような気も。

2005/04/11

学士会会報 2005-II (No.851) と U7 no.1

 時期を外したような気もするが、『学士会会報』2005-II (No.851)が暫く前に届いていたので、ここのところぱらぱらと眺めていた。
 学士会というのは、旧帝大(京城と台北も含む)出身者の同窓会(?)のようなもので、なんとなくエリート主義っぽい匂いを感じないでもない(昔はきっとそういう傾向が強かったんじゃないか、という気もする)。
 その学士会が発行している会報が『学士会会報』で、会員を集めて行われる講演会などの内容をまとめたものだ。
 今回は、その『学士会会報』に加えて、『U7』という雑誌が一緒に送られてきていた。『会報』は文字中心の、ある意味非常に古典的な作りの雑誌(これはこれで案外嫌いではなかったりする)なのに対して、今度の『U7』の方はビジュアル重視。表紙・表紙裏を入れて24頁の中綴じで、開くとA4サイズより若干縦が長め、といった具合(閉じると縦に細長くなる感じ)。柱になるのがインタビューで、今回は、1976年卒の日産自動車の商品企画室チーフ・プロダクト・スペシャリストの湯川伸次郎さんと、1993年卒の女優の葛城奈海さんが登場。現役世代をターゲットにしていることがよくわかる。法人化を受けて、国立大もOBの組織化に必死、ということなのかなあ、としみじみ。
 ちなみに、『U7』というのは、北大・東北大・東大・名大・京大・阪大・九大の国立7総合大学(=旧帝大)のこと、でしょう。『会報』をリニューアルする手もあったんだろうけど、高齢者層に逃げられることになりかねない、ということで、新雑誌という方法をとったんだろうなあ、と勝手に想像。さて、ちゃんと今後も続いて出るのかどうか。
 『会報』の方は、渡辺穰二「日本の中の非効率:「人基準」から「仕事基準」へ」が面白かった。「人」を評価するのではなく、「仕事」を評価する、という発想は、当然といえば当然のように聞こえるけれども、実際には、「仕事」について否定的な評価を下そうものなら人格を否定されたと感じる人が少なくない(結果が何でも「こんなにがんばっているのに!」)。このエッセイでは、「人」を評価する(といいつつ、実際には評価できずに年齢ベースで仕事と賃金を決める)、という日本的なやり方が、うまくいかなくなってきていることを指摘、「仕事基準」の方がうまくいくことが多いことを、例示しつつ説明している。たとえば、今のやり方だと「意思決定の妥当性を議論するよりも、参加者全員の気持ちだけを優先して会議が進められる」とか、思い当たる節がありすぎ。
 評価される「仕事」をする基礎的な能力を得る機会は本当に平等に与えられて(きて)いるのか、という問題もあるので、「仕事基準」が公平なのか、というのは正直、よくわからない気もするのだけれど、こういう文章を読むと、やっばり「仕事基準」の方が仕事はしやすそうだなあ、と感じてしまう。ん? これってエリート主義?
 後は、今村聡子「教育長として義務教育にかかわって」。平成7年卒の文部省職員が、千葉県白井市の教育委員会に出向、教育長(事務方の長、みたいですね)として、どういう仕事をしているのかを語ったもの。もちろん、あくまで概略の話だし、文部省職員としての枠から出ることなく語っている感じなので、教育委員会の現場の問題が赤裸々に語られる、ということはないのだけれど、案外、こういう報告は他では読めないような気がするので、メモ。
  藤井恵介「文化財建築の散歩道」は新連載。渋いなあ。こういう連載ができるのって、出版者のPR誌以外では(PR誌でも難しくなってきたかなあ)、あんまりないような。第1回は、まず関野貞から。今後どういう人物がとりあげられるのか、ちょっと楽しみ。

H-IIAロケット打上げと日本の宇宙政策

 国立国会図書館が主に国会議員向けに提供しているテーマ別レポート、『調査と情報-ISSUE BRIEF-』のNo.471(Feb. 23. 2005)「H-IIAロケット打上げと日本の宇宙政策」(PDFへの直リンク)がいつのまにやら公開されていた。
 以前、感想を書いたことのある、松浦晋也『国産ロケットはなぜ墜ちるのか H−IIA開発と失敗の真相』(日経BP社, 2004)が面白かった方は、お目通しを。ちなみに、『国産ロケットは…』は、このレポートの参考文献の筆頭にあがってます。

2005/04/10

時刻がおかしい… & ecto

 最近、エントリーの作成・投稿には、ectoのMacOS X版を使っているのですが、ココログのバージョンアップ後、どうも投稿した日付と時間が合わなくなってしまった模様(とりあえず、手作業で近い時間に直したのですが)。
 ecto側の設定を直して、ちょっとテストしてみることに。というわけで、このエントリーはテストを兼ねてます。

 ectoはブログのエントリーを書いたり、保存したり、投稿したり、という管理用ソフト、といえばいいんでしょうか。どんなことができるか、ということについては、Features of the MacOSX versionを。
 サイトは英語ばっかりですが、ソフト自体には日本語のリソースも含まれているので、普通にメニューなども日本語で使えます。MacOS X用には、今のところ他に適当なソフトはないような。googleで検索すると、いろんな人が使ってみた感想などが出てきます。
 ただのエディターだと、リンクのタグとか打ち込むのが面倒だし、HTMLエディターを使うほど凝ったこともしないし、直にココログの管理画面で打ち込むと推敲全然できないし(って、こんなので推敲しているのか、と言われそうですが……)、というわけで使っているのですが、案外、細かい設定がよくわからなかったり。でも、ボタン一発で投稿できるのは、楽でいいんですよね。
 さて、これでうまくいくかなあ。

(追記)うまくいったみたいです。これまで、ウェブログ>環境設定>その他、で、「日付を修正」を使っていたのですが、これを「0」に直しました。変にいじらない方がよかった、ということでしょうか。

検索窓をつけてみた

 「いかんともしがたい」のエントリー「Google 検索窓を設置する その 5 完成形」を参考に、検索窓を付けてみました。
 自分で何を書いたかすぐ忘れてしまう上に、いつ書いたのかも忘れてしまうので、人様のため、というよりはほとんど自分のためだったりします。
 書名で検索すると、インデックスされた時の状態によっては、案外ノイズが出たりもするみたいですが、まあ、それなりに使えそうです。
 その他、ココログのリニューアルにあわせて、若干表示の設定などを変えています。各エントリーの下の表示とか、ちょこちょこと調整しているので、はてなアンテナなどでチェックされている方には、何度か無駄足踏ませてしまっているかもしれません。しかし、「Permalink」って言葉は一般的なのかなあ。

(2005.04.10 14:50追記)
 なるほど、時刻の表示言語を日本語にすると「Permalink」じゃなくて、「固定リンク」になるんだ……。というわけで、また変更しました。あんまりごちゃごちゃいじるのはよくないなあ、と思うのですが。

2005/04/09

メディア・ビオトープ

 水越伸『メディア・ビオトープ メディアの生態系をデザインする』(紀伊国屋書店, 2005)を読了。
 例えば、全国紙と各県一つずつの地方紙のヒエラルキーでがっちり固められた新聞、その新聞と密接な関係を持ちつつ東京を中心とした民放5系列とNHKによって全国がネットされているテレビ、といった現在の(マス)メディアの状況は、本当にもう未来永劫変わらないものなんだろうか。
 インターネットが、新しい自分たちが発信するメディアになりうる、という言葉には、もう何のリアリティもないんだろうか。
 そんな疑問、というか、期待みたいものを、かすかにでも持ったことがある人は、本書を読んでほしい。なんというか、泣ける。それに、少し、希望が湧いてくる。
 もちろん、著者は様々な新しいメディア実践に関わってきただけあって、簡単に現在のメディアを巡る状況が変わるとか、インターネットなどの新しいメディアによって、これまでとまったく異なる自由なコミュニケーションの世界が生まれるとか、そんな単純化された物語は語らない。
 著者が語るのは、例えばこういうことだ。実は、現在のメディアを巡る状況は、人為的に作られたものだし、昔からずっとこうだったわけではない。新聞でいえば、地元に根ざしたコミュニティペーパー的な新聞が言論統制の一貫として整理統合されたのは1942年のことだし、テレビでいえば現在の民放5系列が完成したのは1970年代のことに過ぎない。そのことを、著者は平易な言葉で指摘している。
 本書では、メディアは、単に何かを伝える媒体ではなく、コミュニティを支える柱、というかドームとして捉えられている。例えば、新聞の全国紙−地方紙というヒエラルキーは、中央集権的で均一な国家というコミュニティを支えるために作られたものだったりするわけだ。しかし、今のマスメディアのあり方では、受け手と送り手が分離してすっかり乖離してしまい、コミュニティが硬直化してしまっている。
 著者が繰り返し使うのは杉林の比喩だ。人工的に植林された杉の林では、他の種類の植物が育ちにくい。また、あまりに杉ばかりになった結果、花粉症のような弊害も生まれている。現在の日本のメディア状況も同じようなもので、小さなコミュニティを支えるメディアがないわけではないにしても、なかなか根付きにくい状況だし、メディアの寡占状態が続いていることで、様々な問題も生じている。
 一方で、新しいメディアとして登場したはずのインターネットや携帯も、状況はそんなに大きくは変わらない、ということも、指摘されている。最初は双方向のコミュニケーションに重心が置かれるメディアだったのに、今では、どちらかというと、情報や娯楽を受け取ったり引き出したりすることがその使い方の中心になってきているんじゃなかろうか、という具合。
 ではどうすればよいのか。現状を肯定して、一方通行のメディアによって流布される情報や娯楽の消費者である以外に、道はないのだろうか。
 そこで、著者が提言するのが、メディア・ビオトープという隠喩であり、方法だ。ビオトープというのは、もちろん、失われた自然を、人為的に様々な生物が暮らしやすい場を用意することで回復しようとする例のあれである。
 ビオトープは人の生活空間の一部に、自然を組み込んでいく場だ。また、小さなビオトープ一ヶ所だけでは成立しない、複数のビオトープがネットワーク化されることが必要とされてもいる。同じように、人工的・歴史的に作られたマスメディアでガチガチに固められた社会の中に、作り手と受け手が分離するのではなく、相互にコミュニケーションしながら、コミュニティを形成していく、小さなメディアのビオトープのネットワークを作っていこう。一つ一つは小さなメディアであり、そのメディアに支えられた小さなコミュニティであっても、それがいくつか集まってネットワークを形成していけば、簡単に消えていくことはない。
 本書で語られているのは、そういったメッセージだ。
 著者は、メディア・ビオトープが簡単にできるとか、現在のマスメディアのあり方が簡単に変わるとか、そんなことは一切書いていない。それでも、希望はある、と繰り返し語るだけだ。
 実は、こうした主張以上に本書を特徴づけているのは、著者が考えたり、ディスカッションしたりする際に使っている手書きのスケッチ(作画ソフトで清書したりはしないところがいい感じ)だったりする。様々なアイデアをわかりやすくイメージとして捉えやすくしてくれている。本の作りとしても、平易な文章と手書きのスケッチとの組み合わせが、いい感じの一冊だ。
 特に、公共図書館や、博物館、美術館に関係している人は、この本を読んでみてほしい。これから何を目指せばいいのか、どこへ向かえばいいのか、わからなくなっているのであればなおさらだ。様々な比喩・隠喩やスケッチから、必ず何か得るものがあると思う。一時的に消費されるだけのものを利用者に渡して終わり、ではなく、コミュニティを支えるメディアとなる、というのがどういうことなのか。そこから、これからの公共施設のあり方を、組直すことは可能なのではないかと思う。
 と、いいつつ、では自分が何をするのか、というのは、なかなか見えないんだよなあ。でも、(例え良い状況とはいえないにしても)希望がないわけじゃない、ということを、こうやって書いてくれている人がいることは、とてもありがたい。ちょっと勇気が出てきた気がする。
 あ、あと、著者の関わってきたメル・プロジェクトの紹介も少々あり。5年で終わりとはもったいない気がするけれど、存続することそのものを目的にしちゃったら終わりだから、それはそれでよいのかもしれないなあ。

2005/04/03

美術館商売

 安村敏信『美術館商売 美術なんて…と思う前に』(勉誠出版智慧の海叢書, 2004)を少し前に読み終わっていたのだけれど、感想を書きそびれていた。
 著者は、板橋区立美術館の学芸員。以前、「これであなたも狩野派通!」の感想を書いたときに、妙に楽しい解説(というかコメントというか)のことをちょろっと書いたのだけれど、本書によって、その仕掛け人が著者であることが判明。なるほど、自分自身の考えや意見を率直に述べたり、切れ味鋭く現在の美術館業界の状況を語ったりするあたり、あの解説の人か、という感じで思わず納得。
 美術館という場に、どう人を呼び込むのか、そして、来てくれた人たちに、どう楽しんでもらい、さらに関心をもってもらうのか、自らの実践も絡めながら、具体的に解説する、という一冊。コレクションの構築から、展覧会の企画、宣伝、展示レイアウトや解説などなど、美術館体験を楽しく盛り上げていくための様々な試みが、てんこ盛りである。
 「美術館の「ためになる」は、学校での成績が上ったり、お金儲けが出来たりという実利的な面は全くないだろう」(p.151)ということを前提とした上で、一見、無駄なものに思える美術館での美術との出会いをいかに豊かなものにしていくのか、現場での試行錯誤が語られていく。
 著者の担当分野が日本美術ということもあり、もともとは生活の中で使われ活かされてきたものが、現在はケースに押し込められ高尚な作品として位置づけられてしまっている、という問題意識が、様々な試みに結びついていく。ガラスケースに入れずに直接作品を間近で見られるようにするとか、作品を傷める可能性と背中合わせだったりすることでも(そもそもただ展示するだけでも、作品は少しずつ傷んでいくのだが)、挑戦したりもしている。
 展示と保存のバランスをどうとっていくのか、見にきてくれる人たちと展示されているモノとの距離をどう縮めていくのか、というのは、図書館でいう、利用と保存のバランスをどうとっていくのか、という問題と共通する問題かもしれない。そもそも、見せ方が全然違うので、やり方を直接真似できるわけではないけれど、考え方、というか思想のレベルでは、図書館などの他の文化機関でも参考にできる部分があるような気がする。
 そういえば、図書館でも、展示を行ったりするけれども、展示を見る、という体験を豊かにするための仕掛けについては案外無頓着だったりするような。そういう意味では、美術館に関心のある向きだけではなく、何かを展示して見せる、ということに関係する人全てに参考になる一冊かもしれない。

2005/04/02

マリア様がみてる 妹オーディション

 今野緒雪『マリア様がみてる 妹オーディション』(集英社コバルト文庫, 2005)を読了。
 一人称的三人称文体が使われているのはご存知の通りなのだけれど、今回は結構、視点の移動が頻繁。一連のシーンの途中で視点を切り替えるのは今まであんまりやっていなかったと思うのだけれど、今回はちょっと多いような。基本的に時間軸どおりに話を進めている(視点が変わっても時間軸を遡ったりしない)から、そう感じるのかな? そういう意味では、ちょっと書き方がいままでと違う一冊なのかも。アニメを意識しているという可能性もあるけれど……。
 何を書いてもネタバレになってしまうので、これ以上は書くことがないのだが、思わぬ伏線(?)が回収されたり、1年生についても関係の整理が。これはそろそろシリーズも終盤か、と思わせておいて、いきなり3年生編もありそうな展開を用意しているあたり、何ともしたたかだなあ。
 まだしばらくは楽しませてもらえそう。

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