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2005/06/14

思想 2005年5号 科学技術と民主主義

 しばらく前に読み終わっていた『思想』2005年第5号[no. 973]を。特集は「科学技術と民主主義」。目次については、こちらを参照。書きそびれていたら、もう6号が出てしまった……。
 著者の一人でもある平川秀幸さんのブログ「Mangiare!Cantare!Pensare!」のエントリー「岩波『思想』—「科学技術と民主主義」特集」によると、「最初の5論文は、昨年度末で終了した社会技術研究システムの公募研究「公共技術のガバナンス:社会技術理論体系の構築にむけて」(代表:藤垣裕子:東京大学大学院総合文化研究科広域システム科学系 助教授)の最終報告書に書いたものを縮めたもの」とのこと。しかし、こういう公的助成を受けて行われた研究の報告書を公開していく仕組みがないのは、何とかならないものか……などと書くと、他人事じゃないだろう、と突っ込まれそうだけれど。ほんとに何とかできんかなあ。
 さて、余談になるのだけれど、メモも兼ねて「社会技術研究システム」について。「社会技術研究システム」というのは、文部科学省の主導で平成13年7月に設置されたもので、現在はJST(科学技術振興機構)が運営する社会技術研究開発センターという名称になっている模様(ん? それとも「社会技術研究システム」の活動の場が「社会技術研究開発センター」なのかな? 関係がよくわらかない……)。実施する研究活動は、ミッション・プログラムと、公募型プログラムという二つの種類の研究プログラムに分けられていて、今回の特集の元になったものは、公募型プログラムの方、ということになる。もともとは、科学技術庁系の研究助成の仕組みだったようで、ミッション・プログラムは日本原子力研究所、公募型プログラムは科学技術振興事業団、という棲み分けだったみたいだけれど、各種政府系法人の統廃合によって、現在はJSTに一本化されている。ここ数年、国の文書にちょこちょこ(?)と出てくる「安全・安心な社会」という目標実現のための施策の一つ、という位置づけになっているようだ。
 で、本題。この「最初の5論文」は、現在にいたるまでの論点を整理して、問題点を浮き彫りにする、レビュー的な性格が強い。
 小林傳司「科学技術とガバナンス」では、科学の自律性を強調するマイケル・ポラニーの「科学の共和国」論と、その後の科学技術と社会の関係の変化を反映したアルヴィン・ワンバーグ(Alvin M. Weinberg)の「トランス・サイエンス」論を対比的に論じつつ、「統治」から「ガバナンス」への変化を論じている。と、キーワードだけ並べても知らない人にはなんのことやらだが、めちゃめちゃ端折ると、科学技術は社会に対してその成果を提供していればよいのだ、から、科学技術そのものが社会問題の原因となっている以上、科学技術の中身についても様々な社会構成員の協力や合意が必要なのだ、への変化、みたいな感じ。ただし、「新たなガバナンスのもとでわれわれができることは、「納得のいく失敗の仕方」に過ぎないかもしれないのである」と、釘を刺すことも忘れない。
 藤垣裕子「「固い」科学観再考 社会構成主義の階層性」は、「社会構成主義」入門編、という趣もあり。「社会構成主義」というと、ソーカル事件などをきっかけに叩かれたこともあって、特に理系の人には評判が悪いのかもしれないが、ここでは、「社会的に構成される」という場合には、「すべての科学的事実は社会的に構成される」といった認識論上の話から、「事実を記述する変数はどのように選択され、それが固定されているのか」といったレベルまで、様々なレベルが存在することを指摘して、十把一からげに切り捨ててしまうことで、様々な議論の可能性が失われていることが論じられている。欧米の科学論の展開と、日本におけるそれを比較しながら、日本の科学論では、社会構成主義と市民運動論の関係が、欧米とは異なる様相を呈していることを示す、といった部分もあり。
 平川秀幸「リスクガバナンスのパラダイム転換 リスク/不確実性の民主的統治に向けて」では、リスクアナリシス、あるいは、リスクガバナンスについての考え方の変化を、リスクガバナンスの民主化モデルが確立していく1990年代を中心に、米国、FAO/WHO、欧州それぞれにおける代表的な報告書の概要を紹介しつつ、論じていく。市民参加礼賛、といった単純な話ではなく、社会的に大きな影響力を、現実問題として持っている科学技術を、いかに「政治的に捕捉」するのか、という問題が、様々な角度から検討されているのがポイントか。
 杉山滋郎「科学コミュニケーション」は、公衆と科学者との関係を、欠如モデルと文脈モデルという二つのモデルを軸に論じている。その一方で、科学者の間のコミュニケーションも絡めて、より一般化された意味での科学コミュニケーションの問題を、英語と日本語による科学研究とその成果の発表という切り口からも検討。英語での発信が重視されることを踏まえつつも、日本語での発信の必要性についても論じているところが示唆的。
 綾部広則「岐路に立つ科学批判」では、戦後の日本における科学批判の系譜を素描しつつ、その特徴と今後に向けての課題が整理されている。そうか、廣重徹の科学論の歴史的位置づけ(の一つ)って、こうなるんだ、と思わず膝を叩く感じ。民科(民主主義科学者協会)が先行してあった上での廣重科学論というのは、なるほど、いわれてみて初めて納得。
 で、残る二編は、社会技術研究システムとは別口らしい。より各論的な切り口の論文が並んでいる。
 林真理「脳死臓器移植問題の社会的側面 法「改正」論争の周りで」では、「臓器移植法」成立前後から、「改正」に向けての動きが表面化していく過程を、様々な関係者の動きを丁寧に追うことで明らかにしつつ、問題点を指摘している。まだ動き続けている問題だけに、いつ書いても、途中経過的なものにならざるをえないのは止むを得ないのだけれど、この後の、「改正」案が出てくる過程と、その後の動きまで含めた続編が読みたくなる。
 尾内隆之「「円卓会議」の記憶を掘り起こす 原子力政策における「合意形成」問題再考」は、もんじゅ事故をきっかけに設置された「原子力政策円卓会議」の経緯や議論された内容、そしてのその影響などについて、残された様々な資料や証言から、描き出している。いくらやっても無駄だ、と投げ出すのではなく、こうした地道な検証作業が、次につながっていくことを期待。
 全体として、総論・各論織り交ぜた論集と考えれば、何ともお得な一冊(書評も関連のものでそろえられている)。既にバックナンバーになってしまったけれども、恐らく、今後繰り返し参照される号になるのでは。

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