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2006/08/26

天理図書館教祖120年祭記念展特別展示・8月

 今日は猛暑の中、「教祖120年祭記念展特別展示・8月 奈良絵本/一般展示 近世名家の自筆本」(会場:天理大学附属天理図書館2階展示室 会期:2006年8月24日〜30日)を見にでかけてきた。正直、昼のめちゃめちゃ暑い時間帯に出かけたのは無謀だったかも。えらく体力を消耗。というわけで、ついつい帰りに天理市の商店街で喫茶店に入ってわらび餅など食してしまう(特にきな粉がうまかった)。
 それはさておき、今回のテーマは奈良絵本。実はそんなに得意ではなかったりする(というと得意な分野があるみたいだが)。確かに絵はきれいで見栄えがするのだけれど、その分、どこが見所なのか、わかりにくい気がしてしまう。もちろん、絵が見所なのだけれど、その絵の、どこをどう見るとおもしろいのかがどうもわかりにくい。顔の描き方とか、いろいろポイントになるところがあるらしいのだが……。
 それはそれとして、さすがは天理図書館。10点とはいえ、室町期から江戸初期の写本をバランスよく展開。大型の冊子本から、横長、枡形、巻物まで、各種形態を取り入れて、かつ、取り上げられているお話も、メジャーどころから、現在元ネタは散逸しているレアものまで、きっちりそろえている。
 気になるとすれば、照明が明るすぎるように見えたことか。彩色資料は、もっと暗い方が(色が飛んじゃうので)安全だと思うけどなあ。あ、あと、『鼠の草子絵巻』に出てくるネズ公たちがキュート。絵はがきにしたら売れたりして。
 それにしても、「奈良絵本」とそうでない絵巻や絵本って、どう区別されるのだろう。時期と絵柄と冊子体であること(いや、でも巻物もありだしなあ)みたいなんだけど、そういえばよくわからん。あれ? 制作地との関係もありなのかな。うーむ。もっと勉強しないとよくわからんなあ。
 ちなみに、一般展示の方は前回と同内容。

2006/08/22

新宗教と巨大建築

 五十嵐太郎『新宗教と巨大建築』(講談社現代新書, 2001)を読了。
 ここのところ、月一回、天理図書館の「教祖120年祭記念展」に出掛けているのだが、毎度毎度、独特の建築と、イベントの規模に圧倒されている。そうはいっても、天理教のことをまったく何も知らないよなあ、と、ふと思ったことろで、本書が積ん読になっていたことに気がついたのだった。
 何とおあつらえ向きに、最初に取り上げられるのが天理教。まあ、新宗教で建築、とくれば、出てきて当然といえば当然か。主題は建築なのだけれど、教団の歴史や教義と建築との関係を論じるために、背景情報が豊富に盛り込まれていて、勉強になる。
 で、さらに読み進めてみると、金光教も取り上げられているではないか。ふーむ、こういう宗教だったのか。実は祖父が熱心な信者だったのだが、我々に押し付けることが全然なかったため、どんな宗教だったのか、これまでまるで知らなかったのだ。今さら悔いてもしかたないが、もっと前に読んでおくべきだった一冊だったかもしれない。
 その他にも、大本教、黒住教、創価学会、パーフェクトリバティ教団(PL教団)、真光教、神慈秀明会(の建設したMIHO MUSEUM)など、それぞれ割かれているページ数の多寡はあるものの、知っているようで知らなかった幕末から近代にかけて創始された新宗教と、その建築の世界が次々と展開される。各宗教から枝分かれした分派教団についての記述があることも特徴で、それによって、教義の差異が建築に与える影響をよりくっきりと浮かび上がらせている。一つの場所を中心に世界(と建築)を組み立てていく天理教を一つの基準点にして、各宗教を比較しつつ論じていることもあって、建築を通じた一種の比較宗教学的な趣も。
 いわゆるポストモダン風、神社建築風に関わらず、それぞれの宗教建築の空間構成には、各宗教独自の世界観が反映されていることが論じられる一方、同時代の建築と比較してこれまで不当に無視されてきた建築群の再評価を図ろうとする姿勢は明解。といっても、近代建築史に不慣れなので、今一つその主張の新奇さがわからなかったりするのだが(いわれてみれば、現代建築の宗教絡み作品として普通に扱われているのは、キリスト教の教会建築だけ、という気はするけど……)。
 本書は、著者の博士論文を元にして、新書向けにまとめなおしたもの、とのこと。文章としてはところどころこなれていない感じが残っていたりするのは、そのためかもしれない。とはいえ、新宗教についての紹介というと、各教団が布教のために公刊しているものか、逆に脱会者などによる批判のためのものかのどちらかばかりになりがち、という中で、どちらにも偏らずに距離感を保ちつつ、各教団が作り上げた独自の建築を評価する、という著者の位置取りは独特のものだと思う。新宗教について知りたい時に、入口としては最適の一冊かもしれない。
 それにしても、天理教による都市計画「おやさとやかた計画」のスケールには驚いた。まだまだあんなものでは終らないのか……。

2006/08/14

時をかける少女

 コミケのために東京に出たついでに、『時をかける少女』(監督:細田守,制作:マッドハウス,配給:角川ヘラルド,2006年公開)を見てきた。
 なるほど、ネット上、あるいは各種メディアにおける絶賛の嵐は、伊達ではなかった。実にいい映画である。雷雨にも負けず見に行って、落雷で山手線が止まって右往左往したけれど、それだけの価値はあった。
 とまあ、これ以上は、いろいろ書かれまくっているので、さらに書くことなんてないのだけれど、それでも、これだけはいっておきたい。
 東京国立博物館、グッジョブ!
 見た人はもうご存知のとおり、東京国立博物館(そっくりの)博物館/美術館が、この作品では重要な舞台(の一つ)として登場する。明らかに東博内部を詳細にロケハンした様子がうかがえる上に、エンディングテロップを見ていたら、作品内展示の監修を東博の方がやっている。全面支援、というほどのものではないかもしれないが、東博の長い歴史の中でも、こういう形で映画(特にアニメ)をサポートすることは、あまりなかったのではなかろうか(よく知らないが)。
 とにかくこれで東博はアニメ史にその名を刻み込んだ。羨ましい。ああ、わが社も舞台に使って欲しかった……。
 作品については、語るだけ野暮、ということかもしれないが、細田守ファンにお馴染の手法やモチーフがちりばめられていて(製作費もそんなに馬鹿高くなくて)、しかも分かりやすいというあたり、押井守における『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』みたいな位置づけになるのかな、という気もしなくもなし(でも、続編だけはやめて欲しい)。まあ、全ては、細田監督の今後の作品次第なのだけれど、たとえどんな素晴らしい作品がこの先待っていたとしても、今、この作品を見ることの価値は、まったく減ることはないと思う。傑作。
 京都でも上映が始まったら、また見に行こうかなあ。

2006/08/09

フラット化する世界

 トーマス・フリードマン著、伏見威蕃訳『フラット化する世界 経済の大転換と人間の未来』上・下(日本経済新聞社, 2006)をやっとこ読了(リンクは上巻)。
 原著は2006年4月に出たupdate and expanded edition(アップデート&増補版)だというから、日本語版の出版は驚異的なスピードとしかいいようがない。おそらくそれが可能だったのは本書の主題である「フラット化」のおかげだろう。英語版の印刷本が流通してから輸入で入手して、権利関係の交渉をして契約をして、紙版を見ながら翻訳をして……とやっていたら、2006年5月の奥付、というのはありえなかったはずだ。恐らく、前版が出た段階から、英語圏での評判をネット上で捉え、日本語版出版の権利獲得交渉を電子メールを中心に行ないつつ、アップデート版の情報を得た段階で、それをベースにした翻訳に話を切り替え、英語版の紙版が流通する前に、暗号化された電子ファイルで原稿を入手して、それを元に翻訳を……といったことが、行われていたのではなかろうか(想像だけど)。
 もうちょっと説明すると、これまでなら、物やサービスが流通する単位としての国の内側にいるか外側にいるかは、様々な点で決定的な違いをもたらしていたのだけれど、いわゆるITとブロードバンドの普及によって、それほどは致命的な差がなくなりつつある、というのが、著者のいう「フラット化」(の一つの側面)だ。著者は、様々な距離的、政治的な障壁がなくなった状態を「フラット(flat)」という言葉で象徴させ、どのような要因によって「フラット化」が進んだのか、「フラット化」によってビジネスはどう変わっていくのかを、様々な事例や、インタビューを材料に論じている。
 ビジネス的にわかりやすい現象面を取り出せば、主にモノ(や、その生産)だけが国際的に国境を越えてやり取りされていたのが、いわゆる知識集約型のサービスまで含めてやりとりされるようになって、海外の企業が市場に参入してくる時代がきた(くる)ということになる。
 図書館業界にはあんまり関係なさそうな話のように思うかもしれないが、そんなことはない。例えば、日本語が堪能で、図書館学に関する素養が一定程度ある人材が相当数揃えば、資料の整理や、電話やチャットによるレファレンスなどは、別に国内でやらなければならない話ではなくなってきている、ということなのだから(運営コストの切り詰めが徹底されていけば、どこかの段階でこういう話は出てくるのではなかろうか)。
 それは、仕事を受ける側にとっては、自らの能力を存分に発揮し、生活を向上させていく大きなチャンスである。と同時に、仕事を海外に出す側にとっても自分たちの仕事をより高度化していく機会でもある、と、著者は指摘する。この変化を押しとどめるのではなく、より積極的に受け止めて、どう自ら(著者の場合には、米国)を発展させていくのかを論じるのが、本書の主題だ(と思う)。
 恐らく、今後出てくる後追い解説本は、こうした市場の変化と、これに対して個人がどう対処すべきか、というところを抜き出して強調していくのではないか、というのが、個人的なヨミなのだけれど、本書そのものは、こうした変化によって、社会にどういった影響があるかを、多面的に考察していて、案外奥が深い。単なるビジネス書としては、上巻だけで話が終ってもおかしくはないのだけれど、実は、じっくり読まれるべきは下巻の、「フラット化」のマイナス面と、それにどう対応すべきか、という提案の部分だろう。下巻では、環境問題や、テロ、「フラット化」から取り残された人びとなど、様々な課題が語られている。米国と日本は違う、という人もいるかもしれないが、例えば、次のような言葉は、そのまま日本の状況に当てはめて読むことも可能だろう。

「過去の業績がよかったことばかり話すようだと、その企業は苦境に陥っているとわかる。国でも同じだ。自分のアイデンティティを大切にするのはいい。14世紀には世界を制していたというのは結構なことだ。しかし、それは昔のことで、大切なのは現在だ。思い出が夢をしのぐようでは、終りは近い。ほんとうに栄えている組織の特質は、それを栄えさせたものを捨て、新たに始める意欲があることだ。」(下巻, p.383 組織コンサルタントのマイケル・ハマーの発言)

夢よりも思い出の多い社会では、多くの人が日々過去ばかりに目を向けている。尊厳や自己肯定や自尊心を、現在から探すのではなく、過去にこだわって得ようとする。それもたいがい真実の過去ではなく、想像と憧れから派生した過去である場合が多い。当然ながら、そういう社会は、イマジネーションをすべて費やして、じっさいよりもずっと美しい想像上の過去をこしらえ、ロザリオか触って不安をまぎらす数珠代わりにして手放そうとしない。(下巻, p.383-384)

 著者の分析(というより、「フラット化」に対する評価?)に賛成するか否かは別にして、本書のような著作を書けるジャーナリストが常にいる、という社会をどう作ったら良いのかがを考えるために、本書は広く読まれるべきという気がする。

2006/08/06

ゆきのはなふる

 他の作品を主にした単行本の最後にちょろっと収録されていることの多かった「主様」シリーズが一冊に。しかも完全収録、となれば、わかつきめぐみ『ゆきのはなふる』(白泉社JETS COMICS, 2006)を買わないわけにはいかんわなあ。
 「主様」シリーズは、山、池といった自然物や、雨、風、雪のような自然現象をつかさどる、神様みたいな、妖精みたいな存在を主人公にした、和風ファンタジー。どれも小品で、基本的にはラブコメ(?)。ほんわかした読後感が、他の作品がメインタイトルになった単行本の末尾にぴったりきていた、という印象が強い(といいつつ、平成16年の作品は読んでなかった……)。
 が、タイトル作だけはちょっと違う。まず、104ページもある。しかも単行本描き下ろし(!)。あちこちのブログなどで感想が書かれているとおり、話もかなり重い。
 魂を持つ(?)人形を軸に、ヒトではないが、単なるモノでもない何かという境界上の存在をめぐって、(そもそもが人ではない)様々なキャラクターが、様々な視点で語る。もちろん、わかつきめぐみなので、強引に結論が出るわけがないのだけれど、そこがまた余韻を残して良かったり。それと、これもあちこちで書かれていることだけれど、作中歌の使い方が絶妙。コマ割りと各コマのレイアウトの見事さも含めて、もっと評価されてよいのではなかろうか。
 しかし、恐らくは「主様」シリーズ最後となる作品がこんな傑作になろうとは。これだから同じ作家の作品を、継続して追いかけるのはやめられない。

2006/08/02

Re:s [りす] vol.1

 Re:s [りす]、という雑誌の創刊号。ちょっと気になったので、買ってきてパラパラと読む。
 何が気になったかというと、「いまだからワープロ」という特集(第2特集だけど)。
 たまたま、書物奉行さんも「パソコンに暮らしの手帳はないのか」というエントリーで、現在のパソコンのあり方について「長い文章を読んだり書いたりする物理的環境がなくなりつつある」と批判されているが、この「いまだからワープロ」という特集も、文章を書く道具としてのパソコンに対する不満を出発点としている。だから今、文章を書くための道具・文房具としてのワープロの復活を提唱する、という趣向。
 中身は、中古ワープロ専門店についてのルポや、かつての代表的機種の紹介、柴崎友香・長嶋有という二人の小説家の対談など。そんなに突っ込んだ内容ではないので、ワープロおたく(いるのか?)には物足りないだろうとは思うものの、問題提起としては、正しいと思う。
 そりゃあ、OASYSがハードとして復活して(もちろん親指シフトのちゃんとしたキーボードで設置場所を取らない、というのが条件だけど)、基本的な辞書・辞典類が内蔵されていたりしたら、通信機能とかなくても、買っちゃうよなあ。何かのメモリカードが使えれば、それでMacとのやりとりもできるだろうし。画面なんてモノクロでも視認性と可読性が高けりゃいいんだから。
 引っ越しの際に、数台残してあった古いワープロをみんな処分してしまったのだけれど、あのキーボードの感触はやっぱり違う、という記憶が残っている。今使っているPowerBookG4(チタンの方)も、キーストロークが浅い割にはがんばっていると思うけれど、やはり、あのキーボードとはまるで違う。
 ほんとに、何とかならんものか。
 あ、余談だけれど、このRe:sという雑誌、りそな銀行が中心となって進めているREENALというプロジェクトから派生したものとのこと。ふむ、りそなはこんなことやってたのか。

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