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2014/08/31

最近読んだ本(2014年8月)

 最近読んだ本の感想をまとめて。

笹山敬輔『幻の近代アイドル史 : 明治・大正・昭和の大衆芸能盛衰記』彩流社, 2014. (フィギュール彩 ; 14)
http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-7014-0.html

 明治・大正・昭和初期の代表的女性アイドル(特に男性から熱狂的に支持された若い女性芸能人、くらいの感じか)を紹介しつつ、今と変わらぬかつてのアイドルヲタの生態もまた紹介する、という一冊。
 ヲタ芸的な、観客側が客席から何らの形で参加する、という行動は、明治期から熱狂的ファンの間で連綿と続いており、それに対して、芸そのものを楽しむべきとする「正統派」からの批判もまた繰り返されるという構造が、極めて分かりやすく示されている。初期宝塚が、AKB的な感じで受容されていた、というのは、全然知らなかったので、ちょっと驚いた。外には、娘義太夫、奇術、浅草オペラなどが取り上げられているのでが、何というか、男子学生のジャンルと時代を超えた駄目っぷりがたまらない感じである。
 とはいえ、出征を前に、新宿ムーラン・ルージュのアイドル明日待子に客席から自分の思いをぶつけた学生を、笑うことはできないのだが……。そういえば、戦後(特に1960年代)の新宿と、こうした戦前の新宿とは、どうつながっていて、どうつながっていないんだろう、なんてことも考えさせられたりした。
 本書が恐ろしいのは、徹底して現代との類似性という観点から語っているところ。後書きで「この本自体が「際物/キワモノ」だ」と言い切り、賞味期限が短いことを宣言する、著者のただ者ではなさっぷりが素晴らしい。確かに、10年後には、かなりの現代の用語に注釈が必要になるかもしれない。歴史を語ると同時に、その語り口そのものが現在を語っている、ということについて、自覚的に書かれている、希有な一冊。

木田元『ハイデガー拾い読み』新書館, 2004.
https://www.shinshokan.co.jp/book/4-403-23102-0/

 著者が先日(2014年8月16日)に亡くなられたニュースが流れてきた際、そういえば、これを何となく買って積んだままになっていた、ということにふと気付いて、発掘して読んでみた。追悼読書といえばいえなくもないが、著者が死ななきゃ読まんのか、と言われるとぐうの音も出ない。
 本書は、今はなき『大航海』の連載(43号(2002年7月)〜52号(2004年10月))をまとめたものとのこと。そういえば、先日感想を書いた富士川義之『ある文人学者の肖像 評伝・富士川英郎』( http://tsysoba.txt-nifty.com/booklog/2014/08/post-dcfa.html を参照)も『大航海』連載だった。考えてみると、良い雑誌だったんだなあ。
 ハイデガーといえば、ナチスに協力したり、なんとも評価に困る印象だが、著者自身も「この人の人柄どうしても好きになれないのだ」(p.10)とか、「その人柄を知れば知るほど、私はこの人が嫌いになる」(同)と、いきなり書いていて驚いた。しかし、著者がすごいのは、返す刀で「だからといって、この人の書いたものを読む気が萎えるかとというと、そんなことはない」(同)と、人柄と研究・業績とを分離して考えて構わないではないか、と言い切ってみせるところだろう。
 日本においては、儒教の伝統から「言行一致」の建前が未だに尾を引いて、無理にハイデガーの行動を擁護するような論が展開されたりしているが、そんなのしなくても、書いたものがすごければ、それはそれで評価すればよいではないか、と割り切ってみせているのがまた痛快。
 そういえば、「言行一致」問題は、意外と根が深い(文学など創作系でも同じような話があるような)気がするんだけど、誰か他に論じてたりしないのかな、と余計なことを考えたり。
 本書で取り上げられている、ハイデガーの講義録の内容について、何か言えるだけの知識は自分にはない。アリストテレスの著作の精緻な(文字通り逐語的な)読みを通して、西洋哲学の根本に迫る問題提起をするハイデガーもすごいが、断片的な記述からその切り口の鋭さを読み解いていく著者もすごい。ドイツ語版の全集を隅から隅まで読みこんでいる感じ。ちなみに日本語版全集に対する批判(p.21-23)が喧嘩腰でまた面白かったりする。
 〈デアル〉という意味での存在〈本質存在(エッセンティア)〉と、〈ガアル〉という意味での存在〈事実存在(エクシステンティア〉という二つの存在概念をめぐる、プラトン、アリストテレスからカントまで続く議論(ハイデガーが分析し、それを著者が解説するわけだが)を、よく分からないなりに眺めていると、内容(テキスト)と媒体を分離し、かつ内容を重視する、という発想が、欧米から出てきて、発展したことの根は深いのかも、などと思ったりも。まあ、こういう俗流理解はきっと間違ってる気がするけど。
 ちなみに本書は今では新潮文庫にも入っている( http://www.shinchosha.co.jp/book/132082/ )。そちらは未見だが、三浦雅士氏による解説がついてる模様。

内山奈月, 南野森『憲法主義 : 条文には書かれていない本質』PHP研究所, 2014
http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-81913-6

 憲法入門書としてできがよい、と人から勧められたので読んでみた。
 憲法は国家権力を縛るためのもの、とか、そのくらいは耳学問である程度知ってはいたが、人権概念を改めて明確に説明してもらって納得したりと、改めて教えられること多数。違憲立法審査権の民主的正当性について議論とか、全然考えたことなかったので、えらい勉強になった。GHQの草案作成者が米国憲法の問題点を踏まえていた、というのも本書で初めて認識。
 生徒役の内山奈月氏(AKB48)は、憲法の全条文を暗唱できるというだけあって、高校レベルの公民の知識をしっかり持った上での、見事な受け答えぶり。表現の自由とパパラッチに関するやりとりとか、アイドルをこの企画に持ってきた意義が存分に生かされている。企画と人選の勝利。
 サクサク読めるし、9条問題も含めて、憲法について考える際の基本的論点の解説として、これは確かにお勧め。憲法について、何か言いたい人は、読んでおくとよいと思う。
 そういえば、本書の主権者や9条に関連するところを読んでいて、ふと思ったんだけど、日本国憲法になったら、陸海軍と宮中グループの政治的影響力をほとんど排除できる、ということに気付いて、政策立案・決定がすげーやりやすくなるんじゃね、と思っていた戦後初期の政治家、官僚って、それなりの数いたんじゃないかと思うんだけど、そういう研究ってあるのかな?(あ、本書にはそんな余計なことは書いてないので念のため)

2014/08/11

富士川義之『ある文人学者の肖像 評伝・富士川英郎』

 さて、予告通りに、富士川義之『ある文人学者の肖像 評伝・富士川英郎』新書館, 2014. https://www.shinshokan.co.jp/book/978-4-403-21106-5/について書いてみる。
 困ったことに、自分がどういう経緯で富士川英郎(ふじかわ・ひでお, 1909-2003)という名前を知ったのか、どうしても思い出せずにいる。
 富士川英郎の父、富士川游(ふじかわ・ゆう, 1865-1940)の名は、日本医学史の大家として学生時代から知っていたが、富士川英郎の名を認識したのは、もっとずっと後のはずだ。まだ10年と経ってはいないように思う。誰かのエッセイか何かで紹介されていたのを読んで、興味を持ったのだと思うが、どうにもよくわからない。
 と思ったら、同じようなことを、2010年にも同じようなことを書き出しで書いていた(http://tsysoba.txt-nifty.com/booklog/2010/05/post-900a.html)。我ながら本当に進歩がない。

 ともかくも、私にとって、富士川英郎は、江戸後期の漢詩人への道案内人であり、また、優れた、かつ、入手困難な(コレクター心をそそる)随筆集の書き手であった。残念ながら、ここ数年は富士川英郎本を入手できていないが、それはまあ、時の運なので、気長に楽しむことにしている。
 そういえば、富士川英郎のご子息である富士川義之氏(ああ、敬称の使い方がなんだかぐちゃぐちゃに…)も学者であることも、どこで読んだのか…猫猫先生のブログだったような気もするが、これまたよく覚えていない。2012年の日本医史学雑誌(58(4) http://ci.nii.ac.jp/naid/40019550492)に、日本医史学会平成24年4月例会 シンポジウム「富士川游先生と富士川英郎先生」の抄録が掲載されており、この中に、富士川義之氏の報告が掲載されていたのは覚えているので、この時には既に認識していたのだろう。
 後書きによると、この『ある文人学者の肖像 評伝・富士川英郎』の最初の部分は、今はなき新書館の『大航海』68号(2008年10月)から71号(2009年7月)に掲載されたものを元に加筆した、というから、もしかすると、それを掲載時に読んで、富士川英郎という名前を覚えたのかもしれない。いや、富士川英郎の名は既に認識していて、こんな連載やってたのか、と驚愕したような気もしなくもなし……うーむ、ダメだ、こりゃ。

 さて、というわけで、本書は、著者の父親の評伝、ということになる。しかも、富士川英郎は、富士川游著作集の編者であり、富士川游の業績の再評価に尽くしたことから、結果的に、祖父についても、本書で多くを語っている。
 そして、本書では、富士川英郎という人物について直接語られるだけではなく、富士川英郎の代表的著作のエッセンスが紹介されている。富士川英郎著作集がもし編まれるとしたら、本書はその格好のガイドブックになるだろう。
 例えば、富士川游と森鷗外(富士川游は、森鷗外の史伝執筆のための調査や資料探索に協力していた)が親しげに話す姿を目撃した幼き日の英郎の印象や、萩原朔太郎の詩と出会って詩に開眼していく青年期の様子などが、英郎自身の筆による回想を見事にまじえながら、丁寧に辿るように詳細に語られていく。特に後半は、代表的著作の内容を紹介しながら、その魅力と、富士川英郎の著作の魅力を詳細に解き明かしていて、まだ見ぬ多くの著作への夢が膨らむ。
 結果として、本書はリルケを始めとするドイツ詩の綿密な注釈・解釈を行い、森鷗外の史伝に傾倒しそしてその方法論を自らのものとしながら、江戸後期の漢文学の最善の部分を現代に継承しようとした富士川英郎の遺したものについての最善の入門書であり、解説書になっている……と思う。そもそも、富士川英郎の著作で自分が読んだことがあるのは、ほんの一部でしかないので、そもそもが判断などできようがないのだけど。
 一方で、評伝にしては、著者の富士川英郎に対する視線はなんとも複雑だ。ところどころに現れる、父と自分との関係を問い直す記述は、自分自身の奥底を見つめ直すかのような、重苦しさを時にまとっている。しかし、そこがまた、本書のおいしいところでもある。本書で語られている、森鷗外の史伝をモデルとしたという、ひたすら事実を積み重ねていく富士川英郎の菅茶山伝のスタイルとは異なり、著者の主観が顔を出し、その主観の向こう側に、ストイックで静かな印象の富士川英郎の随筆とは異なる、語り、生活する富士川英郎の姿が、本の少し、読者であるこちらにも見えてくる……ような気がするのだ。

 それにしても、本書を読んで驚愕したのは、富士川英郎が教養学部の教授として活躍していた、ということだったり(いや、もっと早く認識しようよ、と自分に突っ込んだ)、自分が駒場キャンパスに通っていた間に、退職してずいぶん経った後ではあるが、講演をしていたという事実であった。もったいないことをした、とも思うが、学生時代の自分は、興味は持たなかっただろうな、とも思う。年を食ったから面白いと思うようになるものだってあるんだからしょうがない。
 自分には、富士川英郎のように、「淡々と自分の好むことについてだけ書」(p.387)き、「自然の流れのままに生きる」(p.424)ような、生き方はできそうもない。けれども、富士川英郎が既に失われて久しい江戸期の文人たちの交流をいとおしんだように、本書を通じて、最後の文人の生き方に勝手にあこがれることくらいは許されるだろう。
 そんなこんなで、古書店や古本まつりをのぞきながら、富士川英郎の随筆集を探す楽しみはこれからも続くのである。

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