« 河野有理 編『近代日本政治思想史 荻生徂徠から網野善彦まで』 | トップページ | 日本古書通信 2015年2月号 [1027号] »

2015/02/21

山下祐介『東北発の震災論 : 周辺から広域システムを考える』

 山下祐介『東北発の震災論 : 周辺から広域システムを考える』筑摩書房, 2013(ちくま新書)を読了。

 東日本大震災発災後、約1年半後の時点で書かれたもの。積ん読になっていたのを何となく掘り起こした。
 中心(東京)—周辺(地方)と、個人で全体を把握することが不可能ほど拡大・複雑化した「広域システム」、という二つの概念モデルを用いて、東北(各地)と(様々なレベルの)「中央」の関係を分析する部分は、正直、かなり議論が荒っぽい。近世から近代にかけての歴史的分析、地方における世代論も単純化しすぎではないか、という気がする。が、被災地の状況分析の部分は色々示唆的。
 特に、東京電力福島第一原子力発電所事故によって、避難対象地域の住民を支えていた様々なシステムが破壊され、同時に住民それぞれの選択と、復興を急ぐ様々な主体の活動が、様々なレベルの分断をもたらしているという分析は、おそらく現在も有効性を持つのではないだろうか。
 また、次の段落が強烈に印象に残った。

「確かに人々がつながり、集団化することで何かが生まれるかもしれない。しかし、「つなぐ」とか、「絆」とか、「連帯」とかの言語が、この震災下の状況を非常に難しくしている現実がある。実際、この震災で現れてきているのは「分断」ではないか。この震災で、我々はみバラバラであることが分かった。首都圏の人間は地方のことを理解していない。西日本の人間は東日本のことは分からない。福島と宮城は違う。岩手も違う。それどころか、仙台と石巻は違う、中通りと浜通りは全く違う。隣の町村でも違うし、もっといえば、人それぞれ全く状況は違うから、そこで絆だの、何だのといわれても、むなしいだけだ。日本は一つ、東北は一つといわれても、我々は決して一つにはなれない。これはこの震災で出てきた重要な真実だ。」(p.275-276)

 こうした視点を持ちつつも、なお周辺の側の主体性を立ち上げることの可能性を本書で問いかけた著者が、その後、「地方消滅」論批判を展開することになるのは、なるほどという感じである。

« 河野有理 編『近代日本政治思想史 荻生徂徠から網野善彦まで』 | トップページ | 日本古書通信 2015年2月号 [1027号] »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/10435/61173848

この記事へのトラックバック一覧です: 山下祐介『東北発の震災論 : 周辺から広域システムを考える』:

« 河野有理 編『近代日本政治思想史 荻生徂徠から網野善彦まで』 | トップページ | 日本古書通信 2015年2月号 [1027号] »

2016年10月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

Creative Commons License

無料ブログはココログ