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2018/06/23

デジタルアーカイブの「哲学」概論 ver. 0.1

ある方から、大学の講義で、デジタルアーカイブについて論じる際に、デジタルアーカイブの基本にある考え方・哲学について、最低限知っておいてほしいこと、知っておいてもらいたい取組みを教えてほしい、との相談があって、考え始めたのだけど、とてもじゃないがまとまらないので、暫定版をとりあえず公開しておく。
一応、大学の講義等で活用できるように、ネットで読めたり、現在も新刊で入手できる文献を中心に紹介している。とはいえ、自分の狭い知見の範囲で書いているので、色々と、そこじゃねーよ、とか、むしろこっちだろ、という突っ込み所はあるかと。

1 ハイパーメディア/WWW

明示的に議論されることがほとんどない気がするのだけど、デジタルアーカイブの背景には、アラン・ケイのダイナブックや、ティム・バーナーズ=リーのWorld Wide Webのビジョンが存在している、と思う。何故なら、デジタルアーカイブで、こういうことができるようになったら良いよね、ということのかなりの部分は、彼らのビジョンで既に描かれているから。
デジタルアーカイブには、こうしたビジョンを現実化するパーツの一つとしての性格があることは、もう少し、自覚的に議論されてよいのではなかろうか。
WWWが普及する前に蓄積された知識・文化・情報や、あるいはWWWに残らないデジタル情報と、今ここに存在しているWWWをつなぐ存在として、デジタルアーカイブを考えることも必要だろう。
ということで、やはり、原点を抑えておく必要があるのではないか、と思って確認したら、アラン・ケイも、ティム・バーナーズ=リーも、彼ら自身が書いたものを日本語で手軽に読める状態にないというのはどうしたことか。これで技術者教育や、経営者育成に困らないのだろうか(英語で読むからいいのか?)。

アラン・ケイについては、浜野保樹氏の論考がまとまっていて分かりやすい。

浜野保樹「アラン・ケイ : 未来を見通す力とは何か」コンピュータソフトウェア. 7(4). 1990年
http://id.nii.ac.jp/1141/00287179/
浜野保樹「ハイパーメディアと教育II : アラン・ケイを中心に」放送教育開発センター研究紀要. 1. 1998年
http://id.nii.ac.jp/1146/00001145/

ダイナブックについては、次の記事の説明が簡明かと。

牧野武文 「連載:ハッカーの系譜(4) アラン・ケイ (1/7) 未来を予測する最善の方法は、それ
を発明してしまうこと」 THE ZERO/ONE. 2015年
https://the01.jp/p000966/

ティム・バーナーズ=リーについては、自らがTEDで、リンクトデータについて語っている次の動画を。

Tim Berners-Lee “The nest web” TED. 2009年 (日本語字幕あり)
https://www.ted.com/talks/tim_berners_lee_on_the_next_web

メタデータも、オープン化を求められているデータの一つであり、標準化や、識別子の重要性も、全てティム・バーナーズ=リーのビジョンと繋がっている。
そういえば、画像に関するAPI標準であるIIIFが重要なのは、デジタルアーカイブの画像データを、アノテーション(注釈)を分散的に付与することも含めて、リンクトデータの世界に解き放つ可能性を開いたからだとも言えるかもしれない。

[補足]ヴァネヴァー・ブッシュのMemex、テッド・ネルソンのXanaduあたりから議論すべきなのかもしれないが、現在に直結しているビジョンとしては、この二人が代表ということでどうかと…

2.オープンソース/オープンデータ/フリーカルチャー

インターネット以前のデジタルアーカイブの初期段階では、特定施設の中での利用が主であって、必ずしもオープンであることは主眼ではなかったように思う。とはいえ、現在では、無料で多くの人が、できるだけ制限なく使えるような状態で公開することが重視されるようになってきていて、背景としては、様々な情報や作品のオープン/フリー化を目指す運動が深く関わっている。
とりあえず、こうした運動の概説としては、次の一冊を。

ドミニク・チェン『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック: クリエイティブ・コモンズによる創造の循環』フィルムアート社, 2012年.
http://filmart.co.jp/books/business/2012-5-10thu/
(PDFダウンロードあり)

この一冊で大まかなところはカバーできるが、せっかくなので、オープンの思想の源流としての、オープンソースによるソフトウェア開発文化についてもこの際触れておきたいところ。とりあえず、これは読んでおきたい。

Eric S. Raymond 著, 山形浩生 訳「ノウアスフィアの開墾」1998年
https://cruel.org//freeware/noosphere.html

また、ティム・バーナーズ=リーによるセマンティックウェブと具体的取組みとしてのリンクトオープンデータ(LOD)については、上述のTED動画を参照。ユーザによる様々な加工が自由に可能であることの意義もそこで触れられている。

デジタルアーカイブは、過去の蓄積をインターネットにおける創造の循環に組み込む仕組みでもある。このため、クリエイティブコモンズライセンスと、それを支えるフリーカルチャーの思想は、近年のデジタルアーカイブの動向と深く関わっている。『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』で尽きている気もするが、より手短に、ということであれば、次の記事か。

クリエイティブ・コモンズ・ジャパン事務局「クリエイティブ・コモンズの理念と実践: Web2.0における権利表現という文化について」情報管理. 49(7). 2006年
https://doi.org/10.1241/johokanri.49.387
「ドミニク・チェンとの対話 フリーカルチャーという思想をめぐって」 WIRED(日本版). 2012年
https://wired.jp/2012/07/09/freeculture/

3.学術情報・研究のデジタル化/オープン化とデジタルヒューマニティーズ/デジタル人文学

学術雑誌を中心としたオープンアクセスや、STM(自然科学、工学、医学)系を中心としたオープンサイエンスも無関係ではなく、むしろ関係は深まりつつあるが、これを読むと背景が分かる、というのがなかなかない。とりあえず、デジタルアーカイブとの関連についての問題提起としては、次を参照。

林和弘「口頭発表[A31] オープンサイエンス政策と研究データ同盟 (RDA)が進める研究データ共有と、デジタルアーカイブの接点に関する一考察:新しい研究パラダイムの構築に向けて」デジタルアーカイブ学会誌. 2(2). 2018年
https://doi.org/10.24506/jsda.2.2_40

デジタルアーカイブは、学術研究においては、特にデジタルヒューマニティーズ/デジタル人文学の基盤となりうる。ただ、なりうる、ということと、実際に研究に使える環境を整えることの間には裂け目があり、これを超えるための取組みが必要とされている。
この観点からの議論については、永崎研宣氏の一連の論文、ブログ記事などどれも参考になるが、どれか一つ、ということだと、図書館との関係が中心ではあるものの、背景も含めて概説しているこちらを。

永崎研宣「大学図書館とデジタル人文学」大学図書館研究. 104. 2016年.
https://doi.org/10.20722/jcul.1439

この論考では、デジタル技術が研究の内容や、研究への参加の仕方自体を変化させていること、研究の前提として標準化の意義などがコンパクトに論じられているが、加えて、図書館員を中心とした研究を支援するスタッフの役割の重要性が語られている点がポイントで、デジタルアーカイブの人的側面についての言及が少ないこともあって貴重かと。

なお、デジタルヒューマニティーズに関連して、蛇足かもしれないが、

ピーター・シリングスバーグ 著/明星聖子・大久保譲・神崎正英 訳『グーテンベルクからグーグルへ: 文学テキストのデジタル化と編集文献学』慶應大学出版会, 2009年.
http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766416718/
の巻末に収録された

明星聖子「編集文献学の不可能性――訳者解説に代えて」

は、日本における人文学の研究基盤を今後どう構築、維持するのか、という点で、研究者の視点からの切実な問題提起となっており、もっと読まれてしかるべき文章だと思う。

4.ナショナル/ローカルなコミュニティ形成

デジタルアーカイブを通じたコミュニティ形成については、特に地域のデジタルアーカイブの場合に、推進している側が目的として言及することがあるが、理論的な検討はあまりなされていないのではないか。
デジタルアーカイブだから登場したという論点ではなく、図書館・博物館・文書館等において、特にナショナリズムとの関連で主に否定的な観点から議論となってきた論点ではあるが、ナショナルな一体性が完全に崩壊した時に、内戦という名の隣人同士の殺し合いが起こった事実を東欧やアフリカで繰返し見てしまった以上、危険性だけではなく、その必要性も含めて、論じ直しが必要なのかもしれない。
出生地や血統に寄らない、国/地域の統合の仕組みとしての、文化・歴史・自然誌の共有。背後に同じ知的文化的蓄積を共有している、という認識を、ネット時代にどうやって作り出すのか。出生地、血統主義に偏りつつある現状にどう異なる統合のあり方を提示できるのかが、デジタルアーカイブに問われているともいえる。
事例としては、まずは、Europeanaの第一次世界大戦関連事業を。

E1535 - Europeana 1914-1918:第一次世界大戦の記憶を共有する試み
http://current.ndl.go.jp/e1535

Europeanaは、特に第一次世界大戦関連の事業を通じて、ヨーロッパという地域の統合・包摂を文化を通じて実現することを目指しているように思えるのだが、この観点からの日本語で読める分析はなかなか見つからない。敵同士として戦った戦争を、統合を支える共通の記憶として呼び起こす、というのは、東アジアの現状からすると、ちょっと信じがたいし、どこまでうまくいったのかは気になるところだけど、ともかくも、取り組むことができた、ということ自体が一つの希望ではないか。

もう一つの事例としては、渡邉英徳氏の関わった東日本大震災、広島、長崎、沖縄に関するデジタルアーカイブがある。これらの取組みにおいては、デジタルアーカイブを利用する側ではなく、構築、維持していく側のコミュニティ形成こそが重要とする点が特徴。次を参照。

渡邉英徳『データを紡いで社会につなぐ デジタルアーカイブのつくり方』講談社, 2013年. (講談社現代新書)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000210720
渡邉英徳「多元的デジタルアーカイブズと記憶のコミュニティ」人工知能学会誌. 31(6) .2016年.
(本文リンク) https://drive.google.com/open?id=0B7uKeVg3VJZRMUNaRHBCZ2tVSUU

こうしたローカルなデジタルアーカイブは、ナショナルレベルのコミュニティ形成とは異なる、多様な主体の形成という意味でも重要かもしれない。アイデンティティの根拠をナショナルなものだけに頼ることによる社会の不安定化や冗長性の欠落を避ける仕組みとして、多様なデジタルアーカイブの存在が必要、という議論もありえるように思う。

5.情報社会論

情報技術が社会をどう変貌させるのか、という議論と、デジタルアーカイブがどうあるべきかの議論は、本来は密接に関連するはずなのだけど、案外、まとまったものを探すとすぐに出てこない。あるいは、情報技術のインパクトがフロー情報中心であるためか、そこに一定の蓄積(ストック)を構築しようとするデジタルアーカイブについては情報社会論の枠組みでは扱いにくいのかもしれない。

論点整理としては、紙しかないので、入手に一手間かかるが、中井正一に言及しつつ、新たな時代における文化資本としての電子図書館・デジタルアーカイブについて問いかける次の論文を。

合庭惇「文化の再定義のために: 電子図書館とデジタルアーカイブ」現代の図書館. 34(3). 1996年.
http://id.ndl.go.jp/bib/4141260
(合庭惇『デジタル知識社会の構図 : 電子出版・電子図書館・情報社会』産業図書, 1999年.にも再録)

次の合庭惇氏の論文も参考になるかも(こちらはネットで読める)。

合庭惇「情報社会論のための脚注」哲学. 1997(48). 1997年.
https://doi.org/10.11439/philosophy1952.1997.69

より深く追求したものを探すとしたら、翻訳ものを探るべきか、とも思うものの、山形浩生氏の次の書評を読むと、どうしたものかと、途方にくれる。

山形浩生「なんかえらく古くさいハイパーメディア万歳論なんですけど。(『月刊 論座』2000 年 06 月)」YAMAGATA Hiroo. 2000年
https://cruel.org/other/gutenberg.html

時代をすっとばす形になるが、情報技術が社会を変容させる、という議論の最新バージョンとしてはとりあえず、この一冊を。

ケヴィン・ケリー 著, 服部桂 訳『〈インターネット〉の次に来るもの  未来を決める12の法則』NHK出版, 2016年
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000817042016.html

特に、デジタルアーカイブとの関連では、「4. SCREENING スクリーニング/画面で読んでいく」を参照。
ここでは、これまでの「読む」(READING)行為から、スクリーン上のイメージを読み、操作するSCREENINGへの変化が、主に本・書籍を例に論じられている。デジタルアーカイブ構築の際に行われるデジタル化とは、物理的な資料・作品を、スクリーンに表示できる形式に変換する営為であり、どのような未来を目指してそれが行われているのかを考える材料になるかと。

[予告]

この他、デジタルアーカイブの「哲学」を考えるために考えておきたいことについて,まだまとまらないのだけど、項目だけ示しておく。途中で挫折するかも。

* デジタル情報の長期保存とボーンデジタル情報
* 文化経済学とデジタルアーカイブの経済効果
* 民主主義を支えるものとしての文化と、運営の専門性と自律性
* 収録対象の選択とコレクションの構築

2018/06/22

科学基礎論学会・日本科学史学会との共催ワークショップ「学術誌の電子化と将来を多面的に考える」参加メモ

2018年6月16日・17日に開催された科学基礎論学会2018年度総会と講演会( http://phsc.jp/conference.html#2018 )の日本科学史学会との共催ワークショップ「学術誌の電子化と将来を多面的に考える」に参加してきた。日時、開催場所は次のとおり。

日時: 2018年6月17日(日)14:40~17:10
場所: 千葉大学(西千葉キャンパス)法政経学部棟106講義室

予稿は、科学基礎論学会学会のサイトに掲載されている。

趣旨説明 司会者兼オーガナイザ:松本 俊吉・伊勢田 哲治
http://phsc.jp/dat/rsm/20180524_WS4-1.pdf
伊藤 憲二 - 学術雑誌の科学史的研究:査読システムと学会との関係を軸として
http://phsc.jp/dat/rsm/20180524_WS4-2.pdf
土屋 俊 - 「電子ジャーナル」以降つまり今と近未来の学術情報流通
http://phsc.jp/dat/rsm/20180524_WS4-3.pdf
調 麻佐志 - ソースはどこ?―学術誌の電子化がもたらす未来
http://phsc.jp/dat/rsm/20180524_WS4-4.pdf

以下、当日取ったメモを元にポイントを紹介したい。とはいえ、あくまでメモが元なので、正確さには欠けるかと。その点はご容赦を(突っ込みがあれば修正します)。また、敬称は「氏」で統一させていただく。

冒頭、伊勢田哲治氏の趣旨説明によると、科学基礎論学会と日本科学史学会の連携強化の一環として、科学基礎論学会においても課題となっている学会誌の電子化の議論をきっかけとして、学術誌そのものについて検討するワークショップを開催することになったとのこと。
日本科学史学会の年会(2018年5月26日・27日)でまず、「学術雑誌の歴史」ワークショップが開催されており、その様子は、日本科学史学会のサイトで紹介されている。

科学基礎論学会との共催ワークショップ(6月17日)のお知らせ
http://historyofscience.jp/blog/2018/06/01/科学基礎論学会との共催ワークショップ(6月17日/

企画側の社会認識論的な関心としては、科学の信頼性を支えるものとして、特に査読の問題や、電子化の影響、望ましい知識共有のあり方、研究者の生産手段としての観点などが提示されていた。

伊藤憲二氏による報告「学術雑誌の科学史的研究:査読システムと学会との関係を軸として」は、17世紀から20世紀半ばまでの学術雑誌の歴史を概観するもの。伊藤氏の専門は物理学史だが、総合研究大学院大学での講義で研究の社会史を取り上げることから調べ始めたとのこと。教科書的なものも執筆中との話もあったので、これは公表を待ちたい。調べてみると「思ったよりおもしろい」という感想がまた面白かった。
ただし、全体像を描くにはまだ研究の蓄積はほど遠い状況で、質的・量的な変化が大きい上に、分野と地域多様性や、アーカイブズの未整備(特に日本)状況などが壁となっているとのこと。
一方で、今世紀に入ってから、学術雑誌をテーマにした論文が増加しているそうで、学術雑誌事態の変化や、科学的物体(ノート、印刷物等)への関心の高まりが背景にあるのでは、との話もあって、なるほど、と思ったり。
あとは各世紀ごとに概説があったが、印象に残ったところを断片的に。
17世紀の学会・アカデミーと学術雑誌の出現の話では、元々貿易会社の事業資金調達の方法として編み出されたサブスクリプションモデルが、書籍の予約出版に応用されていった、という話が面白かった。航海術の発達は、博物学的知識の増大という意味でも学術情報の流通に影響を与えていたとのことだが、出版モデルにも影響していた、というのは興味深い。
17世紀の個人編集者を中心とした編集方式から、18世紀には、アカデミーの出版委員会方式が始まるものの、各アカデミーが持つ出版特権を維持するための検閲的側面(政治的に危ないネタは排除)もあった、というのはなるほど(17世紀にも同様の話あり)。
19世紀になると、分野ごとの学会や雑誌が増え、さらに蒸気機関による印刷物の大量化と、ゼミナール方式など研究大学による専門分化を推し進めたドイツ学術の隆盛の時代を向かえる。1930年代まではSpringer刊行のZeitschrift für Physikが物理学における最も重要な雑誌だったが、ナチスの台頭によるユダヤ人迫害(Springer家自身も対象に)から、その地位を失っていった、という話を、実は初めて知った。そうだったのか。(ちなみに確認してみたら、Springer社のサイト( https://www.springer.com/gp/about-springer/history )でも、このあたりの背景は若干紹介されている。)
最後に、科学史学会でのワークショップについても紹介されていたが、要するにいかに知らないことが多いのかが確認された、とのこと。科学史学会で外部査読が始まった時期も分からないそうだ。うーむ。

土屋俊氏の報告「「電子ジャーナル」以降つまり今と近未来の学術情報流通」は、平成22年度大学図書館職員研修での「学術コミュニケーションの動向」 https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/choken/2010/12.pdf や、2017年の第19回図書館総合展での「学術コミュニケーションの動向 2016--2017: 「オープンアクセス」の功罪」 https://www.slideshare.net/tutiya/20162017-81979661 の最新版といった趣。
今回のスライドも、SlideShareで公開されている。
https://www.slideshare.net/tutiya/ss-102573181

冒頭、ビッグディールを推進した張本人として弁明する、と自らの立場を明確に打ち出した上で、冊子体における個人購読から機関購読への転換による価格高騰(シリアルズクライシス)と、論文数の増加を背景とした電子ジャーナルの価格上昇の違いや、理念としてのオープンアクセスから大手出版社が参入しビジネスモデルとなったのオープンアクセスへの変貌などの様々な通説とそれに対する批判が展開された。
面白かったのは、Predatory Journals(ハゲタカ出版)に対する評価で、安く論文を公開するのであれば、そんなに悪くないのでは、という話(ただ、後のディスカッションでは参加者から、査読があるかのように見えることが問題では、との指摘あり。)。その他、学術雑誌掲載が高等教育機関の採用時の評価と連動しているものの、結局同じ分野内の仲間内の評価でしかないのでは、と疑念を呈しつつ、しかし、ではその枠組みを外した時にはさらなる腐敗が待っているのではないか、との指摘もあったり。最後は成り行きに任せるしかない、と締めていたが、そう言いつつも、ディスカッションも含めて語りまくるいつもの土屋氏であった。
また、スライドにも登場するが、報告中で紹介されていた、
Rick Anderson "Scholarly Communication: What Everyone Needs to Know" Oxford University Press, 2018.
https://www.amazon.co.jp/dp/B07C6WVFPC/
は、学術コミュニケーションの現状を整理した、非常に良い本らしい。なお、土屋氏にとって、kindle+iOSの読み上げ機能で一冊読み切った最初の本とのこと。
そう言われると気になってしまって、早速、Kindle版で入手して、最初の方を見てみたけど、確かにこれは良さげ。図書館に関する章もある。

調麻佐志氏の「ソースはどこ?―学術誌の電子化がもたらす未来」では、専門家と素人の区別、ジャーナルの「格」、査読による質の保証、科学と非科学/未科学との差異、といった、既存の秩序が、電子化を巡って揺さぶられている現状が論じられた。「論文」自体の形態の変化(短い本文と大量のsupplementの組合せや、ソフトウェアのバージョンアップごとに更新され、アクセスを集める論文、リアルタイムの処理結果を示す動画を含む論文など)や、日本語での「糖質制限ダイエット」と英語の「low carbohydrate diet」での検索結果の性質の違い、偽論文投稿実験で大手出版社や学会でも通ってしまう現状、STAP細胞を巡る「ネット査読」に関わった人たちの同分野おけるものとは異なる多様な「専門性」、低線量被爆を巡る科学的に問題のある発言の流通など、様々な事例が紹介された。
ネットにおける「ソースはどこ?」「ソースを示せ」の普及は、一見、科学への信頼の向上のようにも見えるが、実は「エビデンス的なもの」があれば良い、という状況なのではないか、という問いかけが重い。
また、科研費に対する攻撃では、実際に、日本学術振興会の前で街宣活動が行われ、職員との間でのトラブルなども発生したそうだ。こうした、ダイレクトに研究内容に対して介入が行われる可能性に対する危惧を示しつつも、調氏は、一方で、行きすぎた科学至上主義の修正につながる可能性についても触れるなど、現状を多義的に捉える姿勢が一貫していた。

撤収時間が近づいていたこともあり、最後のディスカッションは時間がわずかしかなかったが、大学によるプレスリリースにおける研究内容評価の問題や、図書館の役割(もはや関係ない、と土屋氏がばっさり)、デジタル情報の保存の問題など、様々な論点が示されていた。

以下、時間があれば、質問してみたかったこと……を元に、終了後に考えたことをメモ(実際には、当日はここまでは考えてなかった)。

○日本では、特に中小規模学会を中心に、学会誌が、そのコミュニティの核となっていた時代があったように思うが、現在はおそらくもうそうではなくなっているのではないか。学会というコミュニティを維持・形成する核となる役割を果たすのは、今後は何になるのか。
○金がなければ、投稿すること自体が困難なオープンアクセスジャーナルモデルが普及する中で、税金を主要な財源としている、現在の学術研究の自律性をどう確保するのか。査読を中心にした、学術コミュニティ内の自律的評価モデルが信頼を失えば、税金の使途の妥当性を理由とした、政治介入の可能性はより高まるのではないか。
○電子ジャーナルを含めて、デジタル情報の保存を一箇所で集中的に行うことは困難。分散的に行うしかないが、そうすると、結果的に、ある機関なり個人の手元に残っていた情報の信頼性をどう評価するのかという問題が生じる。時間的経過の要素を組み込んだ評価モデルをどう組み上げていくべきか。

と、いう感じで、色々なことを後から考えてみたくなるワークショップだった。

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