2019/06/16

デジタルアーカイブの「哲学」概論 ver. 0.2

もう1年前になってしまったのたけど、ver. 0.1 http://tsysoba.txt-nifty.com/booklog/2018/06/ver-01-db25.html を公開した後も、色々つらつらと考えていたのだけど、1年前に書くのが難しかったことが、突然書きやすくなるわけもなく……というわけで、ますます中途半端なのだけど、とりあえず公開しておく。なお、主な変更点は、0の追加と、1と2への追記。


0 「デジタルアーカイブ」の源流について


「デジタルアーカイブ」という用語については、月尾嘉男氏が提唱した和製英語、というのが、通説になっている。用語の誕生の背景や、草創期の状況については、笠羽晴夫氏の整理が参考になる。


笠羽晴夫「デジタルアーカイブの歴史的考察」映像情報メディア学会誌, 61(11)[2007], p.1545-1548. https://doi.org/10.3169/itej.61.1545


なお、当初、デジタルアーカイブという言葉が指し示していた情報技術を用いた文化財の記録・保存という発想は、平山郁夫氏が提唱した「文化財赤十字構想」の中から生まれた、との指摘がなされていることにも注目を。


田良島哲「文化財の保存・活用とデジタル資源」ぶんかつブログ, 2019-05-21 https://cpcp.nich.go.jp/modules/rblog/index.php/1/2019/05/21/blog5/


「文化財赤十字構想」は、その後のデジタル複製の源流でもあり、色々な意味で、再検討が必要ではないかと思うが、今後の宿題。宿題ばかりが増えていく。


現在のデジタルアーカイブは、文化財保存への情報技術の活用という基本的な発想に、知的情報を共有する基盤としてのインターネット(特にWWW)の基本的なアイデアが結合したもの、と考えると分かりやすいかと思う。とりあえず、デジタルアーカイブは、最初からウェブを前提としていたものではない(むしろ博物館等の施設内での活用を想定)ということは、頭に置いておきたい。


1 ハイパーメディア/WWW


明示的に議論されることがほとんどない気がするのだけど、近年のデジタルアーカイブに関する議論においては、アラン・ケイのダイナブックや、ティム・バーナーズ=リーのWorld Wide Webのビジョンが前提されていると考えてよいと思う。デジタルアーカイブで、こういうことができるようになったら良いよね、ということのかなりの部分は、彼らのビジョンで既に描かれていて、デジタルアーカイブを改善していこうという議論を行う際には、意識的・無意識的に、ダイナブックやWWWのビジョンが呼び出されている。


SNSが、むしろウェブを破壊し、囲い込みによる共有地(コモンズ)の喪失が進みつつある状況下で、デジタルアーカイブこそ、当初ウェブが目指した理想が生き残っている、ということは、もう少し、自覚的に議論されてよいのではなかろうか。


あるいは、WWWが普及する前に蓄積された知識・文化・情報や、あるいはWWWに残らないデジタル情報と、今ここに存在しているWWWをつなぐ存在として、デジタルアーカイブを考えることも必要だろう。


ということで、やはり、原点を抑えておく必要があるのではないか、と思って確認したら、アラン・ケイも、ティム・バーナーズ=リーも、彼ら自身が書いたものを日本語で手軽に読める状態にないというのはどうしたことか。これで技術者教育や、経営者育成に困らないのだろうか(英語で読むからいいのか?)。


アラン・ケイについては、浜野保樹氏の論考がまとまっていて分かりやすい。


浜野保樹「アラン・ケイ : 未来を見通す力とは何か」コンピュータソフトウェア. 7(4). 1990年 http://id.nii.ac.jp/1141/00287179/


浜野保樹「ハイパーメディアと教育II : アラン・ケイを中心に」放送教育開発センター研究紀要. 1. 1998年 http://id.nii.ac.jp/1146/00001145/


ダイナブックについては、次の記事の説明が簡明かと。


牧野武文 「連載:ハッカーの系譜(4) アラン・ケイ (1/7) 未来を予測する最善の方法は、それ
を発明してしまうこと」 THE ZERO/ONE. 2015年 https://the01.jp/p000966/


ティム・バーナーズ=リーについては、自らがTEDで、リンクトデータについて語っている次の動画を。


Tim Berners-Lee “The nest web” TED. 2009年 (日本語字幕あり) https://www.ted.com/talks/tim_berners_lee_on_the_next_web


メタデータも、オープン化を求められているデータの一つであり、標準化や、識別子の重要性も、全てティム・バーナーズ=リーのビジョンと繋がっている。そういえば、画像に関するAPI標準であるIIIFが重要なのは、デジタルアーカイブの画像データを、アノテーション(注釈)を分散的に付与することも含めて、リンクトデータの世界に解き放つ可能性を開いたからだとも言えるかもしれない。


さらに遡れば、1945年のヴァネヴァー・ブッシュのMemexは、様々な文献を自由に画面上に呼び出す(当時はマイクロフィルム技術の応用が想定されている)機器として構想されたものだが、使用者がテーマに応じて、さまざまな文献を結びつける経路(trail)を記録し、他のMemexに差し込んで共有する仕組みとしても構想されている。


(Memexについては、月尾嘉男, 浜野保樹, 武邑光裕『原典メディア環境 1851-2000』東京大学出版会, 2001, http://www.utp.or.jp/book/b302916.html p.280-285所収の抜粋訳を参照した。この本はとても便利なのでデジタル版がほしい…。)


とはいえ、様々な資料間のリンクが(多くの人の手によるのであれ、AIを含む機械的に構築されるものであれ)自然発生的に構築されていく世界はまだ来ていない。デジタルアーカイブは、こうした構想の子孫でもあるとともに、まだ不完全な実現形でしかないともいえるだろう。道のりは遠い。


[デジタルアーカイブという論点からは余談になるかもしれないが、ハイパーテクストについては、テッド・ネルソンのXanaduも含めて、テクスト構造自体の変革から議論すべきなのかもしれない。現状だと、分岐と様々なエピソードの組合せによって成立するゲームシナリオこそ、ハイパーテクストの後裔ではないか、という気もする。テッド・ネルソンもゲームブックに注目していたようだし。このあたりは、次を参照。


森田均「ハイパーテキストの社会」社会関係研究, 4(2) [1998.12], p.45-67. http://www3.kumagaku.ac.jp/srs/pfd2/4-2/4-2-45.pdf ]


2.オープンソース/オープンデータ/フリーカルチャーと著作権


インターネット以前のデジタルアーカイブの初期段階では、特定施設の中での利用が主であって、必ずしもオープンであることは主眼ではなかったように思う。とはいえ、現在では、無料で多くの人が、できるだけ制限なく使えるような状態で公開することが重視されるようになってきていて、背景としては、様々な情報や作品のオープン/フリー化を目指す運動が深く関わっている。とりあえず、こうした運動の概説としては、次の一冊を。


ドミニク・チェン『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック: クリエイティブ・コモンズによる創造の循環』フィルムアート社, 2012年.
http://filmart.co.jp/books/business/2012-5-10thu/ (PDFダウンロードあり)


この一冊で大まかなところはカバーできるが、せっかくなので、オープンの思想の源流としての、オープンソースによるソフトウェア開発文化についてもこの際触れておきたいところ。とりあえず、これは読んでおきたい。


Eric S. Raymond 著, 山形浩生 訳「ノウアスフィアの開墾」1998年 https://cruel.org//freeware/noosphere.html


また、ティム・バーナーズ=リーによるセマンティックウェブと具体的取組みとしてのリンクトオープンデータ(LOD)については、上述のTED動画を参照。ユーザによる様々な加工が自由に可能であることの意義もそこで触れられている。


デジタルアーカイブは、過去の蓄積をインターネットにおける創造の循環に組み込む仕組みでもある。このため、クリエイティブコモンズライセンスと、それを支えるフリーカルチャーの思想は、近年のデジタルアーカイブの動向と深く関わっている。『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』で尽きている気もするが、より手短に、ということであれば、次の記事か。


クリエイティブ・コモンズ・ジャパン事務局「クリエイティブ・コモンズの理念と実践: Web2.0における権利表現という文化について」情報管理. 49(7). 2006年 https://doi.org/10.1241/johokanri.49.387


「ドミニク・チェンとの対話 フリーカルチャーという思想をめぐって」 WIRED(日本版). 2012年 https://wired.jp/2012/07/09/freeculture/


こうしたオープン/フリーの思想に対峙する形で、著作権の強化が進められている。著作権が、一部の商業的創作者を対象にする権利から、インターネットを通じた発信が可能になったことによる人類総クリエーター時代に至って、あらゆる人に関わる権利に変化し課題と解決策については、ローレンス・レッシグ氏の一連の著作に詳しい。


『CODE VERSION 2.0』翔泳社, 2007. https://www.shoeisha.co.jp/book/detail/9784798115009


『コモンズ: ネット上の所有権強化は技術革新を殺す』翔泳社, 2002. https://www.shoeisha.co.jp/book/detail/9784798102047


とりあえず、この2冊は押さえておきたい(いずれも山形浩生氏訳)。文化の継承と発展のためには、自由に様々な作品を利用する領域が必須であるにも関わらず、現在の著作権強化の流れが、その領域を根絶やしにしようとしていることに対して、レッシグ氏はいらだちを隠さない。


また、レッシグ氏は、法による直接的な規制以外にも、ソフトウェアやネットワークを制御するプログラム(コード)による規制や、市場や規範を通じた実質的な規制が可能であることを指摘している。


一方で、デジタルアーカイブの構築において、著作権は、様々なレベルで課題となってきた。


2009年に国立国会図書館が行った調査では、「デジタルアーカイブ等を実施・運営していない機関に対してその理由を複数回答で尋ねたところ,「予算がない」(79.7%),「人員がいない」(74.2%),「実際的なノウハウがない」(59.4%),「著作権処理が困難」(29.9%)という結果」となっていた(文化・学術機関におけるデジタルアーカイブ等の運営に関する調査研究報告書 第2章 第2節 調査結果の概要 http://current.ndl.go.jp/node/17892 より)。そもそも著作権処理を必要とする時点で、デジタル化の対象とすることにハードルがあったことがうかがえる。また、アーカイブサミット2015 http://archivesj.net/summit2015/ 、及び同2016 http://archivesj.net/archivesummit2016/ では、孤児作品対策が大きなテーマとなっていた。


なお、これらは、著作権を処理してデジタル化し(複製権)、インターネットで公開する(公衆送信権)ことについてのハードルの議論である。ここで、デジタルアーカイブには、インターネット以外に、施設内での提供というもう一つの源流があることを思い出そう。つまり、初期のデジタルアーカイブは、特定の施設の中でのみ利用できるという形での制御が組み込まれていた。これもまた、レッシグの示した、アーキテクチャーによる規制の一例ということもできるだろう。自由に著作物を利用できる領域が狭まれば狭まるほど、特定施設の中であれ、多くの著作物を利用できる環境を維持することは、より重要性を増すはずだ。デジタルアーカイブは、権利と利用の狭間で、利用の場を様々な形で保障するための仕組みとしても機能しうる。


なお、自然資源の管理制度に関する「コモンズ」研究から派生し、「多様で複雑な知識資源のガバナンス体制」を研究する知識コモンズ研究を、デジタルアーカイブ領域に適用しようという試みもある。


西川開「[A24] デジタルアーカイブの制度分析の方法論」デジタルアーカイブ学会誌, 3(2) [2019], p.123-126 https://doi.org/10.24506/jsda.3.2_123


著作権法制を含む、デジタルアーカイブを巡る制度論に関する検討は、まだまだこれからなのかもしれない。。


また、EUを中心に、プラットフォーム規制の観点から、著作権法制の変化が進んでいる。独自システムではなく既存プラットフォームをデジタルアーカイブの構築や、コンテンツ拡散に活用する際には、この動きは無関係ではないと思われるが、プラットフォーム規制とデジタルアーカイブの関係は整理されていないのではないか。とりあえず、現時点(2019年6月)の動向については、次の鼎談を参照。


生貝直人, 曽我部真裕, 中川隆太郎「HOT issue(No.22)鼎談 EU新著作権指令の意義」ジュリスト, (1533)[2019.6], p.ii-v,52-63. http://id.ndl.go.jp/bib/029685126


3.学術情報・研究のデジタル化/オープン化とデジタルヒューマニティーズ/デジタル人文学


学術雑誌を中心としたオープンアクセスや、STM(自然科学、工学、医学)系を中心としたオープンサイエンスも無関係ではなく、むしろ関係は深まりつつあるが、これを読むと背景が分かる、というのがなかなかない。とりあえず、デジタルアーカイブとの関連についての問題提起としては、次を参照。


林和弘「口頭発表[A31] オープンサイエンス政策と研究データ同盟 (RDA)が進める研究データ共有と、デジタルアーカイブの接点に関する一考察:新しい研究パラダイムの構築に向けて」デジタルアーカイブ学会誌. 2(2). 2018年 https://doi.org/10.24506/jsda.2.2_40


デジタルアーカイブは、学術研究においては、特にデジタルヒューマニティーズ/デジタル人文学の基盤となりうる。ただ、なりうる、ということと、実際に研究に使える環境を整えることの間には裂け目があり、これを超えるための取組みが必要とされている。この観点からの議論については、永崎研宣氏の一連の論文、ブログ記事などどれも参考になるが、どれか一つ、ということだと、図書館との関係が中心ではあるものの、背景も含めて概説しているこちらを。


永崎研宣「大学図書館とデジタル人文学」大学図書館研究. 104. 2016年 https://doi.org/10.20722/jcul.1439


この論考では、デジタル技術が研究の内容や、研究への参加の仕方自体を変化させていること、研究の前提として標準化の意義などがコンパクトに論じられているが、加えて、図書館員を中心とした研究を支援するスタッフの役割の重要性が語られている点がポイントで、デジタルアーカイブの人的側面についての言及が少ないこともあって貴重かと。


なお、デジタルヒューマニティーズに関連して、蛇足かもしれないが、


ピーター・シリングスバーグ 著/明星聖子・大久保譲・神崎正英 訳『グーテンベルクからグーグルへ: 文学テキストのデジタル化と編集文献学』慶應大学出版会, 2009年.
http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766416718/ の巻末に収録された


明星聖子「編集文献学の不可能性――訳者解説に代えて」


は、日本における人文学の研究基盤を今後どう構築、維持するのか、という点で、研究者の視点からの切実な問題提起となっており、もっと読まれてしかるべき文章だと思う。


4.ナショナル/ローカルなコミュニティ形成


デジタルアーカイブを通じたコミュニティ形成については、特に地域のデジタルアーカイブの場合に、推進している側が目的として言及することがあるが、理論的な検討はあまりなされていないのではないか。


デジタルアーカイブだから登場したという論点ではなく、図書館・博物館・文書館等において、特にナショナリズムとの関連で主に否定的な観点から議論となってきた論点ではあるが、ナショナルな一体性が完全に崩壊した時に、内戦という名の隣人同士の殺し合いが起こった事実を東欧やアフリカで繰返し見てしまった以上、危険性だけではなく、その必要性も含めて、論じ直しが必要なのかもしれない。


出生地や血統に寄らない、国/地域の統合の仕組みとしての、文化・歴史・自然誌の共有。背後に同じ知的文化的蓄積を共有している、という認識を、ネット時代にどうやって作り出すのか。出生地、血統主義に偏りつつある現状にどう異なる統合のあり方を提示できるのかが、デジタルアーカイブに問われているともいえる。


事例としては、まずは、Europeanaの第一次世界大戦関連事業を。


E1535 - Europeana 1914-1918:第一次世界大戦の記憶を共有する試み http://current.ndl.go.jp/e1535


Europeanaは、特に第一次世界大戦関連の事業を通じて、ヨーロッパという地域の統合・包摂を文化を通じて実現することを目指しているように思えるのだが、この観点からの日本語で読める分析はなかなか見つからない。敵同士として戦った戦争を、統合を支える共通の記憶として呼び起こす、というのは、東アジアの現状からすると、ちょっと信じがたいし、どこまでうまくいったのかは気になるところだけど、ともかくも、取り組むことができた、ということ自体が一つの希望ではないか。


もう一つの事例としては、渡邉英徳氏の関わった東日本大震災、広島、長崎、沖縄に関するデジタルアーカイブがある。これらの取組みにおいては、デジタルアーカイブを利用する側ではなく、構築、維持していく側のコミュニティ形成こそが重要とする点が特徴。次を参照。


渡邉英徳『データを紡いで社会につなぐ デジタルアーカイブのつくり方』講談社, 2013年. (講談社現代新書)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000210720 渡邉英徳「多元的デジタルアーカイブズと記憶のコミュニティ」人工知能学会誌. 31(6) .2016年.
(本文リンク) https://drive.google.com/open?id=0B7uKeVg3VJZRMUNaRHBCZ2tVSUU


こうしたローカルなデジタルアーカイブは、ナショナルレベルのコミュニティ形成とは異なる、多様な主体の形成という意味でも重要かもしれない。アイデンティティの根拠をナショナルなものだけに頼ることによる社会の不安定化や冗長性の欠落を避ける仕組みとして、多様なデジタルアーカイブの存在が必要、という議論もありえるように思う。


5.情報社会論


情報技術が社会をどう変貌させるのか、という議論と、デジタルアーカイブがどうあるべきかの議論は、本来は密接に関連するはずなのだけど、案外、まとまったものを探すとすぐに出てこない。あるいは、情報技術のインパクトがフロー情報中心であるためか、そこに一定の蓄積(ストック)を構築しようとするデジタルアーカイブについては情報社会論の枠組みでは扱いにくいのかもしれない。


論点整理としては、紙しかないので、入手に一手間かかるが、中井正一に言及しつつ、新たな時代における文化資本としての電子図書館・デジタルアーカイブについて問いかける次の論文を。


合庭惇「文化の再定義のために: 電子図書館とデジタルアーカイブ」現代の図書館. 34(3). 1996年.
http://id.ndl.go.jp/bib/4141260 (合庭惇『デジタル知識社会の構図 : 電子出版・電子図書館・情報社会』産業図書, 1999年.にも再録)


次の合庭惇氏の論文も参考になるかも(こちらはネットで読める)。


合庭惇「情報社会論のための脚注」哲学. 1997(48). 1997年. https://doi.org/10.11439/philosophy1952.1997.69


より深く追求したものを探すとしたら、翻訳ものを探るべきか、とも思うものの、山形浩生氏の次の書評を読むと、どうしたものかと、途方にくれる。


山形浩生「なんかえらく古くさいハイパーメディア万歳論なんですけど。(『月刊 論座』2000 年 06 月)」YAMAGATA Hiroo. 2000年 https://cruel.org/other/gutenberg.html


時代をすっとばす形になるが、情報技術が社会を変容させる、という議論の最新バージョンとしてはとりあえず、この一冊を。


ケヴィン・ケリー 著, 服部桂 訳『〈インターネット〉の次に来るもの  未来を決める12の法則』NHK出版, 2016年 https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000817042016.html


特に、デジタルアーカイブとの関連では、「4. SCREENING スクリーニング/画面で読んでいく」を参照。
ここでは、これまでの「読む」(READING)行為から、スクリーン上のイメージを読み、操作するSCREENINGへの変化が、主に本・書籍を例に論じられている。デジタルアーカイブ構築の際に行われるデジタル化とは、物理的な資料・作品を、スクリーンに表示できる形式に変換する営為であり、どのような未来を目指してそれが行われているのかを考える材料になるかと。


[予告]


この他、デジタルアーカイブの「哲学」を考えるために考えておきたいことについて,まだまとまらないのだけど、項目だけ示しておく。すでに挫折気味…。



  • デジタル情報の長期保存とボーンデジタル情報

  • 文化経済学とデジタルアーカイブの経済効果

  • 民主主義を支えるものとしての文化と、運営の専門性と自律性* 収録対象の選択とコレクションの構築

2018/06/23

デジタルアーカイブの「哲学」概論 ver. 0.1

ある方から、大学の講義で、デジタルアーカイブについて論じる際に、デジタルアーカイブの基本にある考え方・哲学について、最低限知っておいてほしいこと、知っておいてもらいたい取組みを教えてほしい、との相談があって、考え始めたのだけど、とてもじゃないがまとまらないので、暫定版をとりあえず公開しておく。
一応、大学の講義等で活用できるように、ネットで読めたり、現在も新刊で入手できる文献を中心に紹介している。とはいえ、自分の狭い知見の範囲で書いているので、色々と、そこじゃねーよ、とか、むしろこっちだろ、という突っ込み所はあるかと。

1 ハイパーメディア/WWW

明示的に議論されることがほとんどない気がするのだけど、デジタルアーカイブの背景には、アラン・ケイのダイナブックや、ティム・バーナーズ=リーのWorld Wide Webのビジョンが存在している、と思う。何故なら、デジタルアーカイブで、こういうことができるようになったら良いよね、ということのかなりの部分は、彼らのビジョンで既に描かれているから。
デジタルアーカイブには、こうしたビジョンを現実化するパーツの一つとしての性格があることは、もう少し、自覚的に議論されてよいのではなかろうか。
WWWが普及する前に蓄積された知識・文化・情報や、あるいはWWWに残らないデジタル情報と、今ここに存在しているWWWをつなぐ存在として、デジタルアーカイブを考えることも必要だろう。
ということで、やはり、原点を抑えておく必要があるのではないか、と思って確認したら、アラン・ケイも、ティム・バーナーズ=リーも、彼ら自身が書いたものを日本語で手軽に読める状態にないというのはどうしたことか。これで技術者教育や、経営者育成に困らないのだろうか(英語で読むからいいのか?)。

アラン・ケイについては、浜野保樹氏の論考がまとまっていて分かりやすい。

浜野保樹「アラン・ケイ : 未来を見通す力とは何か」コンピュータソフトウェア. 7(4). 1990年
http://id.nii.ac.jp/1141/00287179/
浜野保樹「ハイパーメディアと教育II : アラン・ケイを中心に」放送教育開発センター研究紀要. 1. 1998年
http://id.nii.ac.jp/1146/00001145/

ダイナブックについては、次の記事の説明が簡明かと。

牧野武文 「連載:ハッカーの系譜(4) アラン・ケイ (1/7) 未来を予測する最善の方法は、それ
を発明してしまうこと」 THE ZERO/ONE. 2015年
https://the01.jp/p000966/

ティム・バーナーズ=リーについては、自らがTEDで、リンクトデータについて語っている次の動画を。

Tim Berners-Lee “The nest web” TED. 2009年 (日本語字幕あり)
https://www.ted.com/talks/tim_berners_lee_on_the_next_web

メタデータも、オープン化を求められているデータの一つであり、標準化や、識別子の重要性も、全てティム・バーナーズ=リーのビジョンと繋がっている。
そういえば、画像に関するAPI標準であるIIIFが重要なのは、デジタルアーカイブの画像データを、アノテーション(注釈)を分散的に付与することも含めて、リンクトデータの世界に解き放つ可能性を開いたからだとも言えるかもしれない。

[補足]ヴァネヴァー・ブッシュのMemex、テッド・ネルソンのXanaduあたりから議論すべきなのかもしれないが、現在に直結しているビジョンとしては、この二人が代表ということでどうかと…

2.オープンソース/オープンデータ/フリーカルチャー

インターネット以前のデジタルアーカイブの初期段階では、特定施設の中での利用が主であって、必ずしもオープンであることは主眼ではなかったように思う。とはいえ、現在では、無料で多くの人が、できるだけ制限なく使えるような状態で公開することが重視されるようになってきていて、背景としては、様々な情報や作品のオープン/フリー化を目指す運動が深く関わっている。
とりあえず、こうした運動の概説としては、次の一冊を。

ドミニク・チェン『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック: クリエイティブ・コモンズによる創造の循環』フィルムアート社, 2012年.
http://filmart.co.jp/books/business/2012-5-10thu/
(PDFダウンロードあり)

この一冊で大まかなところはカバーできるが、せっかくなので、オープンの思想の源流としての、オープンソースによるソフトウェア開発文化についてもこの際触れておきたいところ。とりあえず、これは読んでおきたい。

Eric S. Raymond 著, 山形浩生 訳「ノウアスフィアの開墾」1998年
https://cruel.org//freeware/noosphere.html

また、ティム・バーナーズ=リーによるセマンティックウェブと具体的取組みとしてのリンクトオープンデータ(LOD)については、上述のTED動画を参照。ユーザによる様々な加工が自由に可能であることの意義もそこで触れられている。

デジタルアーカイブは、過去の蓄積をインターネットにおける創造の循環に組み込む仕組みでもある。このため、クリエイティブコモンズライセンスと、それを支えるフリーカルチャーの思想は、近年のデジタルアーカイブの動向と深く関わっている。『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』で尽きている気もするが、より手短に、ということであれば、次の記事か。

クリエイティブ・コモンズ・ジャパン事務局「クリエイティブ・コモンズの理念と実践: Web2.0における権利表現という文化について」情報管理. 49(7). 2006年
https://doi.org/10.1241/johokanri.49.387
「ドミニク・チェンとの対話 フリーカルチャーという思想をめぐって」 WIRED(日本版). 2012年
https://wired.jp/2012/07/09/freeculture/

3.学術情報・研究のデジタル化/オープン化とデジタルヒューマニティーズ/デジタル人文学

学術雑誌を中心としたオープンアクセスや、STM(自然科学、工学、医学)系を中心としたオープンサイエンスも無関係ではなく、むしろ関係は深まりつつあるが、これを読むと背景が分かる、というのがなかなかない。とりあえず、デジタルアーカイブとの関連についての問題提起としては、次を参照。

林和弘「口頭発表[A31] オープンサイエンス政策と研究データ同盟 (RDA)が進める研究データ共有と、デジタルアーカイブの接点に関する一考察:新しい研究パラダイムの構築に向けて」デジタルアーカイブ学会誌. 2(2). 2018年
https://doi.org/10.24506/jsda.2.2_40

デジタルアーカイブは、学術研究においては、特にデジタルヒューマニティーズ/デジタル人文学の基盤となりうる。ただ、なりうる、ということと、実際に研究に使える環境を整えることの間には裂け目があり、これを超えるための取組みが必要とされている。
この観点からの議論については、永崎研宣氏の一連の論文、ブログ記事などどれも参考になるが、どれか一つ、ということだと、図書館との関係が中心ではあるものの、背景も含めて概説しているこちらを。

永崎研宣「大学図書館とデジタル人文学」大学図書館研究. 104. 2016年.
https://doi.org/10.20722/jcul.1439

この論考では、デジタル技術が研究の内容や、研究への参加の仕方自体を変化させていること、研究の前提として標準化の意義などがコンパクトに論じられているが、加えて、図書館員を中心とした研究を支援するスタッフの役割の重要性が語られている点がポイントで、デジタルアーカイブの人的側面についての言及が少ないこともあって貴重かと。

なお、デジタルヒューマニティーズに関連して、蛇足かもしれないが、

ピーター・シリングスバーグ 著/明星聖子・大久保譲・神崎正英 訳『グーテンベルクからグーグルへ: 文学テキストのデジタル化と編集文献学』慶應大学出版会, 2009年.
http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766416718/
の巻末に収録された

明星聖子「編集文献学の不可能性――訳者解説に代えて」

は、日本における人文学の研究基盤を今後どう構築、維持するのか、という点で、研究者の視点からの切実な問題提起となっており、もっと読まれてしかるべき文章だと思う。

4.ナショナル/ローカルなコミュニティ形成

デジタルアーカイブを通じたコミュニティ形成については、特に地域のデジタルアーカイブの場合に、推進している側が目的として言及することがあるが、理論的な検討はあまりなされていないのではないか。
デジタルアーカイブだから登場したという論点ではなく、図書館・博物館・文書館等において、特にナショナリズムとの関連で主に否定的な観点から議論となってきた論点ではあるが、ナショナルな一体性が完全に崩壊した時に、内戦という名の隣人同士の殺し合いが起こった事実を東欧やアフリカで繰返し見てしまった以上、危険性だけではなく、その必要性も含めて、論じ直しが必要なのかもしれない。
出生地や血統に寄らない、国/地域の統合の仕組みとしての、文化・歴史・自然誌の共有。背後に同じ知的文化的蓄積を共有している、という認識を、ネット時代にどうやって作り出すのか。出生地、血統主義に偏りつつある現状にどう異なる統合のあり方を提示できるのかが、デジタルアーカイブに問われているともいえる。
事例としては、まずは、Europeanaの第一次世界大戦関連事業を。

E1535 - Europeana 1914-1918:第一次世界大戦の記憶を共有する試み
http://current.ndl.go.jp/e1535

Europeanaは、特に第一次世界大戦関連の事業を通じて、ヨーロッパという地域の統合・包摂を文化を通じて実現することを目指しているように思えるのだが、この観点からの日本語で読める分析はなかなか見つからない。敵同士として戦った戦争を、統合を支える共通の記憶として呼び起こす、というのは、東アジアの現状からすると、ちょっと信じがたいし、どこまでうまくいったのかは気になるところだけど、ともかくも、取り組むことができた、ということ自体が一つの希望ではないか。

もう一つの事例としては、渡邉英徳氏の関わった東日本大震災、広島、長崎、沖縄に関するデジタルアーカイブがある。これらの取組みにおいては、デジタルアーカイブを利用する側ではなく、構築、維持していく側のコミュニティ形成こそが重要とする点が特徴。次を参照。

渡邉英徳『データを紡いで社会につなぐ デジタルアーカイブのつくり方』講談社, 2013年. (講談社現代新書)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000210720
渡邉英徳「多元的デジタルアーカイブズと記憶のコミュニティ」人工知能学会誌. 31(6) .2016年.
(本文リンク) https://drive.google.com/open?id=0B7uKeVg3VJZRMUNaRHBCZ2tVSUU

こうしたローカルなデジタルアーカイブは、ナショナルレベルのコミュニティ形成とは異なる、多様な主体の形成という意味でも重要かもしれない。アイデンティティの根拠をナショナルなものだけに頼ることによる社会の不安定化や冗長性の欠落を避ける仕組みとして、多様なデジタルアーカイブの存在が必要、という議論もありえるように思う。

5.情報社会論

情報技術が社会をどう変貌させるのか、という議論と、デジタルアーカイブがどうあるべきかの議論は、本来は密接に関連するはずなのだけど、案外、まとまったものを探すとすぐに出てこない。あるいは、情報技術のインパクトがフロー情報中心であるためか、そこに一定の蓄積(ストック)を構築しようとするデジタルアーカイブについては情報社会論の枠組みでは扱いにくいのかもしれない。

論点整理としては、紙しかないので、入手に一手間かかるが、中井正一に言及しつつ、新たな時代における文化資本としての電子図書館・デジタルアーカイブについて問いかける次の論文を。

合庭惇「文化の再定義のために: 電子図書館とデジタルアーカイブ」現代の図書館. 34(3). 1996年.
http://id.ndl.go.jp/bib/4141260
(合庭惇『デジタル知識社会の構図 : 電子出版・電子図書館・情報社会』産業図書, 1999年.にも再録)

次の合庭惇氏の論文も参考になるかも(こちらはネットで読める)。

合庭惇「情報社会論のための脚注」哲学. 1997(48). 1997年.
https://doi.org/10.11439/philosophy1952.1997.69

より深く追求したものを探すとしたら、翻訳ものを探るべきか、とも思うものの、山形浩生氏の次の書評を読むと、どうしたものかと、途方にくれる。

山形浩生「なんかえらく古くさいハイパーメディア万歳論なんですけど。(『月刊 論座』2000 年 06 月)」YAMAGATA Hiroo. 2000年
https://cruel.org/other/gutenberg.html

時代をすっとばす形になるが、情報技術が社会を変容させる、という議論の最新バージョンとしてはとりあえず、この一冊を。

ケヴィン・ケリー 著, 服部桂 訳『〈インターネット〉の次に来るもの  未来を決める12の法則』NHK出版, 2016年
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000817042016.html

特に、デジタルアーカイブとの関連では、「4. SCREENING スクリーニング/画面で読んでいく」を参照。
ここでは、これまでの「読む」(READING)行為から、スクリーン上のイメージを読み、操作するSCREENINGへの変化が、主に本・書籍を例に論じられている。デジタルアーカイブ構築の際に行われるデジタル化とは、物理的な資料・作品を、スクリーンに表示できる形式に変換する営為であり、どのような未来を目指してそれが行われているのかを考える材料になるかと。

[予告]

この他、デジタルアーカイブの「哲学」を考えるために考えておきたいことについて,まだまとまらないのだけど、項目だけ示しておく。途中で挫折するかも。

* デジタル情報の長期保存とボーンデジタル情報
* 文化経済学とデジタルアーカイブの経済効果
* 民主主義を支えるものとしての文化と、運営の専門性と自律性
* 収録対象の選択とコレクションの構築

2011/03/12

リツイート(RT)しながら考えたこと

 もともとのブログの趣旨とは違うのだけど、他に書くところがないのでここに。
 昨日から、Twitterで、東北地方太平洋沖地震に関連する情報を、適宜選別しつつリツイートしていた。
 ちなみに、帰宅難民にはなったけど、自分自身は既に帰宅していて、安全な場所にいる。そういう立場で、というこことになるけれど、リツイートしながら考えたことを、メモしておく。ギリギリのところでの判断とは、また違ってくるかもしれないので、普遍性はあまりないかもしれないけど。

・非公式RTより公式RT
 今回、あちこちで言われていることだけど、やはり強調しておくべきかと。
 WebでTwitter検索を使う分には、公式RTしたものは集約されて検索結果に出るようになったので、ハッシュタグを使って検索する場合のノイズが劇的に減った。

twitterブログ 東北地方太平洋沖地震に関して
http://blog.twitter.jp/2011/03/blog-post_12.html

でも書かれているが、情報を少しでも広く伝えたい、という場合には、公式RTを使用するのが良いと思う。
 ただ、iPhone等のアプリで使っているAPI経由だと、検索結果が集約化されないような気がするのだけど、これは改善されないのかなあ。アプリ側の問題なんだろうか。

・リツイートよりハッシュタグ?
 東北地方太平洋沖地震のハッシュタグについては、上記のtwitterの公式ブログのエントリーにまとめられているので、これを参照。
 関心のある人は、こうしたハッシュタグでの情報収集が可能になっている、ということを考えると、RTするものは、自分のフォロアーにどうしても伝えたい、という内容に限定した方がよい、とだんだん思うようになってきた。
 もちろん、ハッシュタグの使い方を誰もが理解しているわけではないのかもしれないし、RTすることで、気付かれることもあるかもしれないけれど(実際、自分が人がRTしてくれたものを参考にすることも多いし)、ハッシュタグが普及すればするほど、RTの必要性は相対的には下がる、ということは言えるんじゃなかろうか。

・信頼性をどう評価するか
 例えば、○○が必要だ、とか、△△が渋滞で□□が通れない、といったツイートがたくさんあるけれど、発信者が当事者、あるいはその関係者であることが、容易に確認できるケースはほとんどなかったように思う。こういったものは、リツイートするのはやめておくことにした。
 逆に、典拠となるURLが明示されている場合や、直接知っている人自身が情報源の場合には、積極的にリツイートした。または、発信者がどういう人なのか、確認が容易な場合とかもそう。
 それ以外の、心持ちの話とかは、自分が納得できるものをRTしていたけど、若干、うかつなものもあったかもしれない。発信元になった方について、もう少し慎重に確認すべきなのかもしれないが、特に「意見」のレベルの話だと、線引きは難しい。自分でその意見を書き込むつもりでRTする、という心持ちで臨むしかないのかも。

・RTよりやることがあるかも
 救助要請、あるいは、安否照会については、RTするより、他の手段で、適切なところに情報提供することの方が重要なのではないか、という気がしたのと、そう行動するにしては、どこまで信頼できるのかがよくわかない、というのがあって、とりあえず、RTは積極的にはしなかったし、どこかに連絡する、ということもしなかった。
 情報源としての信頼性を確認せずに、救援活動のバックオフィスにこういう情報がある、と連絡するのは、混乱を招くだけになりかねないし、自分が直接フォローしている相手が起点の場合以外は、なかなか確認は難しい。
 逆にいえば、自分がフォローしている人からSOSがあった場合には、RTではなく、直接適切な箇所に連絡をとるなどの行動をとるべきだと思っている。ちゃんとできるかどうかは、その時になってみないとわからないけど。

 …てなことを考えながら、悩みつつ、RTしていたのだけど、どこまで適切だったのか、まだよくわからない。
 少しでも、被災地域や関係者にプラスになれば良いと思うし、最低限、邪魔にはなりたくない。そのために何をどうすればよいのか、引続き、悩みながら、Twitterと付き合っていこうと思う。
 あと、

荻上式BLOG 東北地方太平洋沖地震、ネット上でのデマまとめ
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20110312/p1

などもぜひ参考に。

2009/06/07

思想(岩波書店)2009年第6号(no.1022)

 岩波書店の『思想』2009年第6号(no.1022)の後半が、グーグルブック検索裁判和解問題特集になっていたので、難波に出てジュンク堂で購入。田舎の普通の本屋じゃ、売ってないのだった。
 中身はこんな感じ。

福井健策 「グーグル裁判」の波紋と本の未来 (p.143-146)
宮下志朗 作者の権利、読者の権利、そして複製の権利 (p.147-156)
長谷川一 〈書物〉の不自由さについて: 〈カード〉の時代における人文知と物質性 (p.157-165)
高宮利行 書物のデジタル化: グーテンベルクからグーグルへ ダーントン論文への重ね書き (p.166-172) 
ロバート・ダーントン著、高宮利行訳 グーグルと書物の未来 (p.173-185)

 最後のダーントン論文は、冒頭に編集部が断り書きを入れているとおり、ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年3月号に掲載(配信)された、「グーグル・ブック検索は啓蒙の夢の実現か?」と、ほぼ同内容である。ル・モンド・ディプロマティーク版はフランス語から、思想は英語版(New York review of books. vol.52 no.2 (Feb. 12, 2009))からの翻訳とのこと。
 「インターネット上ですでに公開された論文とほぼ同じ内容のものを、紙媒体で後追いして掲載することについては、編集部でも議論があった」そうだが、議論するまでもないような気もする。後追いだろうが何だろうが、特集(と、銘打たれているわけではないが)として必要なものであれば、転載してでも何でも載せるべきだろう。そこに「編集」の意味があると思うのだが。
 ちなみに、編集部としては、「物質としての永続性を持つ紙媒体での提供を選択し続けている本誌がもちうる役割と機能に鑑みたとき、本稿を掲載することには一定の意義があると判断」して、掲載に踏み切った、とのこと。いかに『思想』とはいえ、雑誌が「永続性」を看板にするのは、違和感があるが……。

 宮下論文は、ヨーロッパ中世の写本時代について論じ、活版印刷の誕生と普及を待つまでもなく、著作者の「著作権」意識は誕生してきたいた、という議論を展開。
 長谷川論文は、〈カード〉と〈書物〉をめぐるここ数年の著者の論を展開したもの。今進んでいるのは、〈書物〉を〈カード〉に分解する、というよりも、テキストを物理的媒体から分離しようとする動きのような気もするので、今ひとつ、しっくりこなかった。が、自分の読みが浅いかも。
 グーグルブック検索裁判和解に関して直接論じているのは、福井論文と、高宮論文と、ダーントン論文。
 福井論文は、「書籍の再流通モデルとして、グーグルのビジネスが成功するのか」という点と、書籍のネット配信の流通チャンネルを握るのは誰か、そして、「デジタル化された膨大な情報の権利を誰が管理するのか」という3点が、今後の問題ではないか、と問いかけ。
 高宮論文は、ダーントン論文を補足する形で、慶応のHUMIプロジェクトによるグーテンベルク聖書デジタル化事業などを紹介。しかし、「中国、韓国、日本のいずれの場合にも、印刷は国家の統治者の肝いりで行われた」(p.169)という記述は、誤解を招くのでは。韓国の出版史についてはほとんど知識がないので何ともいえないが、中国と日本に関して言えば、寺院や民間による出版の活発さは、別にヨーロッパに劣らないと思うのだが。あと、「情報に関する優れた記憶力で図書館利用者に尊敬されていたレファレンス担当者の主な仕事は、コンピュータ検索のためにキーワードを打ち込むだけになってしまった」(p.172)といった記述もあって、それはちょっと違うのでは、という気持ちに(というか、もともと日本ではほとんど尊敬されてなかったのでは、という話もあるが)。まあ、細かいところにこだわってもしょうがないのだが、現役図書館長でもある、ダーントン氏の論文と比べると、変に気になってしまうのだった。
 ダーントン論文については、ル・モンド・ディプロマティーク版でも、ほとんど書かれている内容は同じなので、そちらを見てもらった方が早いといえば早い(オープン・アクセスの訳語が、それぞれ違ってたりして、比べて読むのも一興)。グーグルの独占によって、電子ジャーナルと同様の価格の高騰が引き起こされる危険性がある、という指摘は、さすが図書館長、という感じ。図書館を啓蒙主義プロジェクトの末裔として位置づける視点は、要求論優位の日本では、批判的に読まれてしまう可能性もあるが、こういう長いスパンで、図書館の役割を見直す、ということも、やはり必要ではないだろうか。出版関係者よりも、図書館関係者こそ必読かと。

2007/11/15

文房具を楽しく使う ノート・手帳篇

 近所の図書館で、和田哲哉『文房具を楽しく使う ノート・手帳篇』早川書房, 2004.を見かけたので、借りてきてパラパラと眺めてみる。
 基本的には、洋モノ(ロディアとかクオバディスとか)を中心にして、各製品の特徴、ラインナップを紹介する、という部分が主のなのだけれど(あ、でもツバメノートもあり)、面白かったのは、ノート・手帳の使用方法。
 複数のノートをそれぞれの特徴に合わせて使い分けるといえば当り前のようだけれど、その際、ノートとノートの関係を明確に意識することで、フローの情報とストックする情報(さらにその間を適宜の段階で分けたり)を、区分けしていく、という発想がなるほど、という感じ。ノート間を移動していくことで、自然と情報やアイデアが整理されていく、というわけだ。
 あと、PDAやパソコンの使用を排除しているわけではなく、それもまた一種のノートと捉えればよい、というのは、ちょっと逆転の発想ではなかろうか。
 まあ、とかなんとかいっても、正直、私はワープロで文章を書くことが体に染みつきすぎていて、手書きで漢字が書けないので、ノートや手帳を全然使えないのだけれど(ひらがなカタカナばかりになって、後で見返すといたたまれない代物になってしまう)。
 というわけで、紙のノートよりももうちょっと使いやすい、ある程度長文も書けるPDAがほしいと思ってしまう。今使っているw-zero3[es]もなあ……。理想は、PalmOS(でなくてもいいけど、とにかくアプリがサクサク切り替えて使えてほしい)で動いて、ブラインドタッチのできる大きさのキーボードが付いた(OASYS Pocketが限界。親指シフト希望)ものがあれば理想なんだけど、まあ、現状ではそんな製品はありえないか。
 というあたりを考えて本書を見ると、デジタルものよりも、紙のノート類の方が、多様な選択肢が維持されているような気がする。まあ、ノートでも、常に同じ製品が維持されるわけではないんだろうけど、技術の「進歩」とやらに振り回されずに済む分、まだましなのではなかろうか。とはいえ、今さら漢字の書き方を勉強する気にもなれないし。どうしたものやら。

(2007/11/21 タイトルの頭の「文」が落ちていたのを修正しました。roeさん、ご指摘感謝。)

2006/11/26

MacBook Pro復活

 一ヶ月更新をさぼってしまった。何となく書く気が起きなかった、というのもあるのだけれど、MacBook Pro(既に旧型…)が頻繁にカーネルパニックを起こして落ちてしまう、という現象が起きていて、それも原因の一つだったかも。
 結局、起動すらしなくなってしまったので(かなり危なかったが、何とかバックアップは取れていた)、先週末に慌てて心斎橋のApple Storeに持ち込んで見てもらった結果、ロジックボード交換ということになり、やっと本日手元に。半日かけて環境も復旧できて、ちょっとほっとしたところ(Teslaで親指シフト化も無事完了)。
 ちなみに、Apple Storeの対応はなかなか好印象。ピックアップと違って移動時間はかかるが、その場で状況を確認して、対処方法がはっきりするのはありがたい。
 ブログの方はぼちぼち再開予定だけれど、まともに更新できるのは、来週以降になるかなあ。

2006/09/18

インテルMacとtesla

 間抜けなことに、転んで右の手の平にちょっと深めに擦り傷を作ってしまい、しばし更新できず。擦り傷だからか、どうにも治りが遅く、未だに完治していないのだけれど、あともう少しで治りそう、というところまでたどり着いた。
 その上、ついつい誘惑に負けて、MacBook Pro 15" 2GHzを購入。移行に手間取って(それでも、以前に比べたら随分楽になった)ますます更新が遅くなってしまった。
 移行で最も心配だったのが、Mac OS Xでソフト的に親指シフト入力を可能にする、というTeslaが、Tiger (Mac OS X 10.4)に(ということは当然ながらインテルMacに)対応していない、ということだったのだが、素晴らしきかなオープンソース。公開されているソースコードから、Tiger用にビルドする方法をまとめてくれる方々がおり、その情報のおかげで何とかなった。

Macと親指シフトの掲示板(2006年9月18日現在アクセスできず)
Miscellanium of Keisuke Kamimura(特に、「MacBookでTeslaが動く!……誤謬と訂正」「MacBookでTeslaが動く!……追加情報」の二つのエントリー)

試行錯誤の過程と結果を公開してくださった方々にはいくら感謝しても足りないほど。ちなみに、私の場合は、Mac OS X 10.4.7で、ソースコードを修正してビルドした結果、一応動作している模様(たまにうまく動かなくなるような)。X codeのバージョンは2.2.1でした。
 あとは、Paralles Desktopも導入してWin2000をインストール。これで、Gyaoやバンダイチャンネルも見られるようになって一安心(何が?)。
 とはいえ、インテルMacでも動作するウィルス対策ソフトが案外まだ出ていなくて、焦ったり。ちなみにこれは、ウィルスバリアを購入して対応。
 まだ何かとありそうだけれど、全体としては、思っていたよりも、インテルMac未対応のソフトもそれなりに動く、という印象。まあ、これから色々問題が出てくるのかも。それはそれで楽しみのうち、ということで。

(同日追記)
 Teslaについて。現在アクセスできない状態になっている「Macと親指シフトの掲示板」で報告されていた(はずの)、一度ログオフして再度ログインすると駄目、といった症状が生じていることに気付いた。何やら、何かのプロセスを再起動したりすると良かったような(そしてそのためのスクリプトも誰かが書いてくれていたような)気がするんだけど、思い出せない……。まあ、再起動すれば治るんだけど。
 何にしても、インターネット上の情報は気がついた時に手元に保存しておかないと駄目、ということを痛感。

2006/07/09

デスマーチ ソフトウェア開発プロジェクトはなぜ混乱するのか 第2版

 エドワード・ヨードン著,松浦友夫・山浦恒央訳『デスマーチ ソフトウェア開発プロジェクトはなぜ混乱するのか 第2版』(日経BP社, 2006)をようやく読了。
 未だに読書時間の確保がろくにできず、前回更新からえらく間が空いてしまった。
 時間とか、体調とか、週末に出掛けてしまうと、ついついあちこちフラフラしてしまって夜まで帰ってこないとか色々重なってこういうことに……。
 今後は、心を入れ替えて更新したいところなのだけど、はてさて。あ、通信速度が遅くなった、という影響もなくはなかったんだけど、これは来週には劇的に改善される予定。
 というわけで、『デスマーチ』第2版。
 「デスマーチ・プロジェクト」という概念を広く世に知らしめた名著の全面改訂版だ。「デスマーチ・プロジェクト」というのは、「プロジェクトのパラメータ」が正常値を50%以上超過したもの……といっても何のことやらだが、要するに、スケジュールが本来必要な期間の半分以下、とか、予算が半分以下、とか、人員が半分以下、とか、達成すべき性能が2倍以上とか、そういうプロジェクトのことである。もちろん、そういう条件下でも成功するものはなくはないわけで、そういうものが「プロジェクトX」扱いされ、持て囃されたりするのだが、大部分は死屍累々となり、関係者は心と体に深い傷を負う結果に終ることになる。
 初版を読んだ時には、デスマーチ・プロジェクトという概念そのもの持つ衝撃力に圧倒されて、身も蓋もないがまさにその通りだ、と(自らの所属組織の状況を思い起こしつつ)思わず納得、かつ事態の救いようのなさを痛感させられた記憶がある。
 第2版では、若干印象が違う。著者の主張は、デスマーチに巻き込まれたら、とにかく生き残れ、そのためにできることが何なのかを考えろ、ということに尽きる。もちろん、実際にデスマーチに巻き込まれ、燃えつき、ズタズタにされた人たちを身近に見てきた著者にとって、それは切迫したメッセージなのだけれど、一方で、著者は一概にデスマーチを否定することもしない。
 「プロジェクトX」のごとく、何か画期的に新しいことをやろうとすれば、それはほぼ必然的にデスマーチ的なプロジェクトになってしまう。新しい可能性に賭けることまで否定してしまっては、元も子もない、ということだろう。それに、著者はこの第2版で、デスマーチは例外的なケースではなく、もはや常態であると指摘している。確かに、当り前にそこにあるものをただ否定してもどうにもならない。
 そんなこともあって、何となく、全体的に前向きな印象が強い(実は初版もそうだったのかもしれないが、どうしたわけか結構暗い話ばかりが頭に残っている)。だからといって、デスマーチの困難さが減るわけではないのだが、士気が少しでも下がることが大きなリスクになるデスマーチ・プロジェクトを乗り切るためには、この前向きさが必要なのかもしれない。
 本書の大部分は、デスマーチ・プロジェクトのプロジェクト・マネージャーになってしまったらどうするべきか、という問題に対する回答に費やされている。もちろん、どんなデスマーチ・プロジェクトでも解決することのできる、銀の弾丸は存在しない。考慮すべき問題と、大まかな方向が示唆されるだけではあるが、何もないよりははるかにマシなはずだ(もちろん、日本ではそのまま使えないところも結構あるので注意)。読んでいる暇なんてない、という場合には、政治と交渉に関する部分と、トリアージの部分だけでも、読んでおくとよいのでは。
 第1版もそうだったが、今回も、草稿段階のものを著者のウェブサイトで公開し、それに対して寄せられた意見を活かす、というやり方で執筆されている。巻末に、本文中でその一部が引用された意見の全文が収録されていて、このデスマーチ経験者たちの意見が泣ける。実は、この部分こそ必読かもしれない。

2005/09/26

Firefox用WebcatPlus検索Plugin

 ぱーどれ野村さんのブログ、Under the Hazymoonのエントリー、

WebcatPlus連想検索Plugin for Firefox

で、Firefoxのウィンドウの右上にある検索窓で、WebcatPlusの検索ができるようにするPluginが紹介されている。
 インストール方法は、

東洋学文献類目 & 全國漢籍データベース Plugin for Firefox

の後半にある手動インストール方法を参照、とのこと。こっちも便利そうだなあ。

 今度職場で使ってみますか。

2005/09/01

オンライン・コミュニティ

 クリス・ウェリー,ミランダ・モウブレイ編,池田健一監訳『オンライン・コミュニティ eコマース、教育オンライン、非営利オンライン活動の最先端レポート』ピアソン・エデュケーション, 2002. なんてのを読む。「最先端レポート」とはあるものの、原著が1990年代半ばから2000年ごろまでの情況を題材にしているので、既に「最先端」とはいえないような感じに。
 翻訳がこなれていないので読みにくいことこの上ないのだが、読みどころもいくらかあり。例えば、大学において、教材の電子化やその権利関係などの問題などがからんで、学術コミュニケーションの商業化が進んだことで、現在のオープン・アクセスにつながるような議論が、90年代半ばには既に行われていた、ということがわかったり。あれって、突然出てきた話じゃないんだなあ。
 他にも、Richard Stallmanが「「フリー」の百科事典と学習教材」なんて章を書いていたり、Randy Connolly「理想的な技術的コミュニティの発展と持続」では、米国において、運河や鉄道や自動車、電話、ラジオといった、「新技術」が登場する度に、遠く離れた人たちを結びつける新たなコミュニティ形成の力となる、といった議論が繰り返されていた、なんて指摘があったりして、ところどころ楽しい。
 これでもうちょっと翻訳がこなれていたら、人に勧めるんだけどなあ。とりあえず、ほぼ10年前、インターネットの商業化が進みつつ、同時に新たなコミュニケーションの可能性が議論されていた時代の記録として読むのもまた一興か。

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