2014/12/20

河野有理 編『近代日本政治思想史 荻生徂徠から網野善彦まで』

 またえらく間が空いてしまった。
 河野有理 編『近代日本政治思想史 荻生徂徠から網野善彦まで』(ナカニシヤ出版) http://www.nakanishiya.co.jp/book/b183302.html をようやく読了。途中、風邪引いたり色々調子崩したりしながら読んでたので、時間がかかってしまった。
 出版社のサイトにもPDFが掲載されている「はじめに」 http://www.nakanishiya.co.jp/files/tachiyomi/9784779508783hajimeni.pdf には、「初学者にむけて、この分野の持つ裾野の広がりと、現在における研究の大まかな到達点を示す」という「狙い」が書かれているのだけど、正直「初学者」レベルたっけーな、おい、という気分になるところもちらほら。とはいえ、これからこの分野に挑戦しようとする人に対して、変にハードル下げない、というのは、学生向けだとしたら正しいのかも。
 目次は、出版社のサイト http://www.nakanishiya.co.jp/book/b183302.html を参照してもらうとして、大ざっぱに言うと、特定の主題に関する同時代の複数の人物による議論を対比的に紹介することで、(1)その主題が抱える論点、(2)それぞれの人物の論が持つ特徴、(3)人物たちが置かれた時代状況、といった点を浮かび上がらせる、という組立はだいたい共通してるのかな、という感じ。ただ、どこに重点を置くかはそれぞれ論者で違う。
 論者によっては、さらにそこに「通説」や先行研究との対比が加わる。例えば、高山大毅「制度 荻生徂徠と會澤正志齋」では、荻生徂徠なので、丸山眞男が召喚されたりして、日本思想史における主要な参照枠が何となくそこここに見えるようになっている……んじゃないかな。主要な参照枠自体に関する知識自体が薄いので、たぶん、だけど。
 そんな感じで、色々配慮された論集なのだけれど、素人読者としては、三ツ松誠「宗教 平田篤胤の弟子とライバルたち」で、明治初期の段階での神道家たちの分裂と対立による自滅っぷりを面白がったり、河野有理「政体 加藤弘之と福澤諭吉」で、加藤弘之って結構論旨一貫してんだな、と関心したり、王前「二十世紀 林達夫と丸山眞男」で、林達夫格好いいぜ、とか思ったりするばかりなのだった。申し訳ない。他にも、尾原宏之「軍事 河野敏鎌と津田真道」での、徴兵制を巡る明治期の議論のレベルの高さにぶっとんだり、趙星銀「デモクラシー 藤田省三と清水幾太郎」で60年安保における清水幾太郎の目的達成できなきゃ結局負けだろ的な発言に共感したりと、色々楽しかった。
 そういえば、長尾宗典「美 高山樗牛と姉崎嘲風」での日露戦争のように、複数の論者に共通する隠し(?)テーマとして、それぞれの時代における「戦後」というのもあったかもしれない。戦争だけではなく、安保のような広範な社会的運動や事件の後、という場合も含めると、思想史の持つ、大きな歴史的転換点に直面した人々が、それをどう受け止め、何を考えたのかを論じる学問という側面を楽しむ、という読み方もできるかも。
 ボーナストラック的に入っている、河野有理・大澤聡・與那覇潤「【討議】新しい思想史のあり方をめぐって」は、ほぼ同世代の三人の論者が、どのような体験を経ながら研究者となったのかを語りつつ、現在の学問状況を論じる、という趣向。ただ、初学者用に人名・用語解説が欲しかった気が。同時代性・同世代性が強くて難易度高い……。とはいえ、日本史・日本思想史周辺の、人文系学会の現状がちらちらと見えて、やじ馬根性的には興味深かったり。2000年前後の人文系学問状況に関する証言として、後で貴重になるかも。
 共通する人物や主題が複数の論考に登場することもあって、ちゃんと巻末に人名・事項索引があるのはさすが。各論考にあげられたキーワード(言語、風景、政体、美、正閏、イロニー…)に興味があったり、人名(本居宣長、阪谷素、福澤諭吉、高山樗牛、保田與重郎、山本七平…)に関心があったら、そこから拾い読みしてみるのが良いかと。ただ、「初学者向け」であって入門書ではないかもしれない。

2014/06/21

中山茂『パラダイムと科学革命の歴史』講談社, 2013. (講談社学術文庫)

本書を読み始めた途端に、2014年5月10日に亡くなられた中山茂先生の訃報を知った。闘病されていることはブログなどで知ってはいたが、それでもここ数年、次々と新著を出されていたので、まだまだお元気なのかと思い込んでいたのだけれど。今更ではあるが、慎んでご冥福をお祈りいたします。

本書は、1974年に刊行された『歴史としての学問』の改題増補版。特徴は、中山先生ご自身のあとがきに尽くされている。少し長くなるが引用する。

「終日図書館にこもって、一字一句脚注で資料づけを固めてゆく作業をしていると、反動的にとかく学問の本質について大言壮語してみたい、大風呂敷を拡げてみたい、という欲求に駆られるものである。しかし、このような大言壮語は、厳密性をたっとぶアカデミックな学術雑誌の論文としてはなかなか書きにくい。こうしたモヤモヤに何とか形を与えたのがこの本である。いや、形を与えたというにしては、内容が粗雑で論旨も穴だらけ、資料づけの薄い軽率な発言が多い。しかし批判を気にして手を入れているうちに角がとれて、いいたいことがぼかされる結果になることを恐れて、あえてそのまま放り出した。私はここでは、批判を許さない権威ある書物を書こうとは毛頭考えなかった。むしろ批判に値するものであることを念じている。」
(「あとがき」p.334-335)

実際、かなり議論は粗っぽいかもしれないが、とにかく、本書で扱われている範囲が広い。中国圏、イスラム圏、欧米の学問のあり方を千年単位で検討しつつ、近代以降については、学会、大学など、学問領域を支える集団と職業としての学者の再生産機構を軸に、学術活動のあり方が時代や国によって大きく異なってきたことを、日本における西洋の学問導入過程も踏まえつつ議論している。その過程で、現在(1970年代当時の現在と、2010年代の現在の両方)の学術活動のあり方を相対化する視点をこれでもかと繰り出し、今の学問のあり方を問い直す様々な視点を、本書は提示してくれる。

おそらく、個々の歴史記述については、個別分野の専門家からいろいろ突っ込みがありうるんだろうな、という気はするのだが、それでも、大学のあり方が問い直され、研究所のあり方が批判され、学会の運営が困難に直面する今だからこそ、かつてあった様々な可能性をもう一度考え直すために、読み直されてよい一冊ではないかという気がする。

また、新たに書き加えられた補章は、ご自身のこれまでの仕事のレビューでもある。本書で提示した論点を、その後どのように自らの手で展開したのか、振り返るかのような記述が続く。時間のない方は、この補章だけでも、読んでみていただきたい。1928年生まれの著者が、これまでの研究成果を踏まえて、学問の現在と未来をいかに見通していたか、そして後に続く者にどんな宿題を残してくれたのかが、この補章に凝縮されている。特に、「パラダイム」概念の可能性と、限界に関する議論は、本書で「パラダイム」概念を分析装置として縦横に使って見せた、クーン以上のクーン主義者を自称する中山先生の真骨頂ではなかろうか。

また、補章では、デジタル化により、学術情報の生成と流通のあり方や、学問そのもののあり方が変わっていくことについて、簡単に論じられている。印刷技術や学術雑誌の登場が学問のあり方を変えたように、デジタル技術によってこれからの学問のあり方が変わっていくことを、当然のように中山先生は考えられていた。

「本来は「デジタルで学問はどう変わるか」て、これからの方向まで大きく論じたいと用意もしてきたが、思えば今起こっていることは、グーテンベルク以来の大革命であり、それがこの数十年で方向が決められるようなものではないことを悟るにいたって,ごく大まかな、方向を示すに留まった。」
(「学術文庫判のあとがき」p.364)

中山先生が、どのような準備をされていたのか、今となっては知る由もない。それは、後に続くものに宿題として遺された、ということなのだろう。

2011/08/01

飯島渉「「中国史」が亡びるとき」

 岩波の『思想』2011年8月号(no.1048)の特集が「戦後日本歴史学の流れ 史学史の語り直しのために」だったので、何となく購入。基本、○○学史には弱いのである。
 パラパラと見た限り、民衆史と社会史の位置づけを軸に、戦後日本史学を論じる的な議論などがあったりして、それはそれで楽しそうなのだけれど、一番とっつきやすくて面白かったのは、タイトルに出した飯島渉「「中国史」が亡びるとき」(p.99-119)だった。
 日本における中国史研究の必要性、誰のためのものか、言語の選択、日本史との関係など、書かれている話題は中国史を軸に語られてはいるものの、中身は、日本における外国史研究、あるいは、海外における日本史研究の在り方を論じるものとなっている。
 「日本の中国史」はいつかなくなってしまうのかもしれない、という可能性を視野にいれつつ、なお、「日本の中国史」の可能性を論じるあたりがたまらない。
 西洋史、海外における日本研究に関心のある向きにもお勧め。

 あと読んでいて、『思想』という媒体は、誰のためのものなのか、ということを、比較的読みやすい、エッセイ的な文体から考えさせられた。学会誌でも紀要でもなく、なんとなく学術誌的に見えるけど、ピアレビューがあるわけではないし、『現代思想』ほどネタ?には走れなさそうな『思想』は、これからどうなっていくんだろう。こういう学界/会間横断的な議論の場、というのは、一つの可能性なのかもしれないけど、どれだけニーズがあるのか…。

 以下、余談。
 本当は『思想』6月号に掲載されたというブライアン・ウィン「誤解された誤解 社会的アイデンティティと公衆の科学理解」が読みたくて探していたのだけど、今はそれなりの大型書店でも、『思想』のバックナンバーを置いていない、ということを初めて認識した。一昔前は結構、置いてた気がするんだけどなあ。まあ、注文するか、図書館で読めばよいのだけど。

2009/02/22

第3回ARGカフェ&ARGフェスト@京都

 2009年2月21日(土)に、第3回ARGカフェ&ARGフェスト@京都に参加。
 ずっとブログの更新をさぼって来たのだけれど(ここのところ、仕事以外に文章を書く気力が出てこなくて)、岡本さん@ARGが、ブログに書け、と呼びかけていたので、ちょっと乗っかってみる。
 プログラムについては、ACADEMIC RESOURCE GUIDE (ARG) - ブログ版2009-01-18(Sun): 第3回ARGカフェ&ARGフェスト@京都への招待(2/21(土)開催)を参照のこと。
(2/23追記)2009-02-21(Sat): 第3回ARGカフェ&ARGフェスト@京都を開催も参照のこと。特に関連リンクはこっちの方が充実。

 まずは第1部について。それぞれ持ち時間5分でのライトニングトーク。
 冒頭、岡本さんから京都の飲み屋の紹介文化(どこの飲み屋でも、「○○を飲めるいい店はないか」と聞くと教えてくれる)を題材に、ARGカフェ&ARGフェストも、人脈を独占する場ではなく、互いに広げ合って行く場であってほしい、といった感じ(ちょっと違うか?)の趣旨説明があり。
 トップバッター當山日出夫さん「学生にWikipediaを教える−知の流動性と安定性」は、Wikipediaの陵墓(天皇陵)の履歴などを参照させつつ学生に課した課題を題材に、Wikipedia等のインターネット情報について、完全性・安定性と流動性の観点と、信頼性の観点がどう関係するのか、ということを問いかける内容。
 続く小橋昭彦さん「情報社会の“知恵”について」は、メールマガジン「今日の雑学」シリーズの経験を通じて、情報でも、知識でもない、「知恵」というある種の善悪判断を含んだものをどう伝えて行くのか、ということを問いかけ。あと、「今日の雑学」への参加も呼びかけ。
 小篠景子さん「「中の人」の語るレファレンス協同データベース」は、国立国会図書館のレファレンス協同データベース事業の理念と課題を分かりやすく説明しつつ、事例提供館の偏りという課題にどう取り組むべきかを問いかける、というもの。手書きのスケッチブックによるプレゼンという技が光った。
 三浦麻子さん「社会心理学者として、ブロガーとして」は、ブログでは議論はしない(それはアカデミックな場でするもの)という姿勢の話が印象的。あと、心理学系の学会誌のネット公開が全体として遅れている状況なども。出たばかりの著書(共著)『インターネット心理学のフロンティア』(誠信書房, 2009)についても紹介あり。
 谷合佳代子さん「エル・ライブラリー開館4ヶ月−新しい図書管理システムとブログによる資料紹介」では、大阪府からの補助金の全額廃止という逆境の中にあって、図書管理システムの更新や、ブログを活用した資料紹介などの取り組みを紹介。あと、サポート会員募集中とのこと。
 村上浩介さん「テレビからネットへ」では、とあるテレビ番組をきっかけとしたカレントアウェアネス・ポータルへのアクセス集中と、その際のアクセスの傾向(検索エンジン経由のアクセスが多い、とか、ケータイを使ったアクセスが結構多い、とか)について紹介。ちなみにアクセスが集中した記事は図書館猫デューイの記事とのこと。
 後藤真さん「人文「知」の蓄積と共有−歴史学・史料学の場合」では、人文科学とコンピュータ研究会の紹介や、情報歴史学という自らの専門分野を通じた、歴史資料の共有と、単なるデジタル化だけではなく解釈や構造までデータ化することが重要との問題提起も。上田貞治郎写真史料アーカイブのためのシステムを開発中との話あり。
 福島幸宏さん「ある公文書館職員の憂鬱」は、館数の少なさなどからくる情報の少なさや、情報技術に関する関心の低さなど、文書館/公文書館界の問題点を指摘しつつ、世代交代を危機であると同時に機会としても捉える視点を提示。
 中村聡史さん「検索ランキングをユーザの手に取り戻す」では、ヒューマン・コンピュータインタラクションにおける研究成果でもあるRerank.jpを紹介しつつ、人によるインタラクションの重要性について指摘。
 岡島昭浩さん「うわづら文庫がめざすもの−資料の顕在化と連関」は、青空文庫ならぬうわづら文庫における、画像によるデジタル化(テキストでなく)を個人で行う活動を紹介。文学史上の重要文献が以外に入手困難なままに置かれていることや、校訂者の権利の問題などについても。
 嵯峨園子さん「ライブラリアンの応用力!」は、企業ライブラリアンからの転職の経験を踏まえて、ライブラリアンとしての基本的な姿勢や技術が、実は様々な場面で応用可能であり、非常に優れたものである、ということを紹介。ちなみに、現在はヒューマン・コンピュータ・インタラクション分野で活躍中とのこと。
 最後の東島仁さん「ウェブを介した研究者自身の情報発信に対する−「社会的な」しかし「明確でない」要請?」は、ネット上の眉唾もの情報に対する、研究者に求められる対応についての問題提起。同時に、研究者から見た「分かりやすさ」と一般の人から見た「分かりやすさ」の差(例えば、専門用語に対する意識とか)が大きい、といった話も。

 質疑では、一番乗りで人文系の学会誌のデジタル化が進まない理由を質問してみたり。その他、(古)写真のデジタル化の課題や、今後の文書館/公文書館に必要な人材像、JCDL (Joint Conference on Digital Libraries)、ECDL (European Conference on Digital Libraries)、ICADL (International Conference on Asian Digital Libraries)などに(あるいは、せめて日本の情報系の学会に)日本の図書館員も参加すべしといった意見、人文学の危機に対して国としてどう取り組むべきかといった問題提起など、さまざまな話が展開して、短い時間ながら何と言う情報量。おそるべし。
 第1部全体としては、ライトニングトークも質疑も、その場で議論が深まる、というのではないものの、様々な問題意識が次々と展開して、頭の中がシャッフルされるような感じ。こりゃ面白い&刺激的。ただ、ちょっと今回は図書館系の人が多かったかなあ。

 続いて、会場を移しての第2部ARGフェストにも参加。要は飲み会なのだけれど、とにかく色々な人とお話しするのが眼目(あんまり一人の人を独占しないように、と、岡本さんからお達しあり)。
 第1部の発表者の何人かとお話したり、図書館雑記&日記兼用の中の人や、Lifoの中の人たちとお話したり、とにかく、いろんな人と飲んだりしゃべったりした。
 特に、京都大学の松田清先生とお話をすることができたのは、洋学史を少しかじった身としては、何と言うかちょっと感激。来年、小野蘭山没後200年なので(そういやそうか)、何かできないか、とかそんな話を聞いたりも。
 ただ、Wikipediaの中の人と話しそこねてしまったのは我ながらうかつ。せっかくの機会だったのに。あと、名刺はもっと大量に持って来ておくべきでした。
 とかいう感じで、個人的には反省点はあるものの、密度が高くて楽しい会であったことは間違いなし。ぜひ、次回があればまた参加したいもの。
 後は今回お話できた方々と、今後につながる動きが何かできれば。まあそれはまたこれから考えよっと。

(2009/2/27追記)
 小野蘭山没後200年を100年と間違えていたのを修正しました(100年前じゃ江戸時代はとっくに終わってますね……)。
 松田先生、ご指摘、ありがとうございました。

2007/01/10

科学史研究 第45巻(no.240)

 『科学史研究』第45巻(no.240)[2006年12月]は、ほとんど素人になってしまった私でもそれなりに楽しめる論文がいくつか。
 忘れないうちにメモ。

中村滋・杉山滋郎「星野華水による“チャート式”の起源とその特徴」p.209-219
 高校数学の参考書の定番、「チャート式」の生みの親、星野華水(1885-1939)が、「チャート式」を成立させていく過程を追った一編。そもそも「チャート式」が戦前からあったことにびっくり。知らなかった。しかも最初から3色刷りだったらしい。
 「チャート式」が画期的だったのは、解法を探し出す手順を問題のパターン別に整理し、ひらめきに頼るのではなく、手順に従っていけば解法にたどり着けるように組み立てた点にあるとのこと。マニュアル化のはしりとしての位置づけも。
 それにしても、この研究に必要な資料を探すのが大変だったのではなかろうか。実際、星野華水が発行していた受験雑誌『受験数学』の1926年から1929年までの期間は見ることができなかったことが、論文中で報告されている(7巻8号(1929年8月号)から11巻3号(1933年3月号)は千葉県成田山仏教図書館所蔵とのこと)。戦前の参考書本体にしても、推して知るべしか。

名和小太郎「科学史入門:知的財産権と技術発展」p.241-244
 科学技術史的観点から、知的財産権制度の歴史を簡略にまとめた一編。
 最近の動きとしては、学術研究の分野では、学術雑誌の商業出版社による寡占化と、成果の公有政策化の双方の動きが生じつつあり、かつ、どちらも知的財産権制度の無視を図っていることを指摘している。前者は、契約による著作権制度を迂回し、後者は、納税者への成果還元という理由で著作権の実質的な公有化を図ろうとする、といった具合。

「シンポジウム:近代における知とその方法 宮廷,サロン,コレクション」p.251-264
 2006年度年会報告として、次の四つの報告要旨を掲載。
(1)桑木野幸司「初期近代の百科全書的ミュージアムと情報処理システムの空間化」p.251-255
(2)武田裕紀「メルセンヌ・サークルとトリチェッリの実験」p.255-258
(3)吉本秀之「ロバート・ボイルと人文主義の方法」p.258-261
(4)但馬亨「啓蒙専制君主とアカデミー フリードリッヒ大王と18世紀数学者」p.261-264
 (1)は16世紀ヨーロッパのミュージアム理論書、S.クヴィッヒェンベルク(S. Quiccheberg)の『劇場の銘』を紹介しつつ、これがコモンプレイス・ブック(こちらでいえば「類書」のようなもの)的な知を空間に展開したものなのではないか、という議論を展開している。博物館史に関心のある向きにも参考になるのでは。
 (2)は17世紀前半のフランスにおける、メルセンヌを中心とした知的サークルにおける情報共有が、実際にはどの程度の水準だったのかを、トリチェッリの実験をサンプルに検証。
 (3)では、ロバート・ボイルの著作の多くが、二次文献や三次文献(いわゆる解説本や事典類)に基づいて書かれていたことを検証している(これはちょっとホントにびっくりした)。近代初期の知識人は、意外に原典を参照したりする手間をかけたりしていなかったらしい。
 (4)は18世紀のベルリンから大数学者オイラーが去った背景を検証するとともに、科学知識の啓蒙という新たなプロジェクトにオイラーを向かわせたものが何だったのかを論じている。
 どれも短報だけに、要点だけがまとめられていて、素人にも(比較的)読みやすい。しかも、トリビア的な面白さもあったりする。雑学好きな方にもお勧め?

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