2016/02/11

利根川樹美子『大学図書館専門職員の歴史 : 戦後日本で設置・教育を妨げた要因とは』

利根川樹美子 著『大学図書館専門職員の歴史 : 戦後日本で設置・教育を妨げた要因とは』勁草書房, 2016
http://www.keisoshobo.co.jp/book/b214134.html
を読了。
 自腹を切ったので、一言文句を言わせて貰えると、最初の読者に恵まれなかったのかな……という印象が強い。注記のリンクミスや付与漏れ、論点先取的な論述がなされている部分、箇条書きの項番付与漏れなど、誰かが一度丹念に読んでいれば回避できたのではなかろうか、というところが、ちらちらとあり、読んでいてつい気になってしまった。
 とはいえ、書いてあること自体は非常に興味深く、特に1960年代の岩猿敏生氏を中心とした専門職論の先駆性と、それらの議論が生かされることなく、公共図書館職員を中心とした待遇維持を中心とした論理に阻まれていく過程を論じるくだりは、「官製ワーキングプア」とまで言われてしまっている公立公共図書館における待遇の現状を鑑みると、何とも感慨深いものがある。
 本書全体として、いかに「貸出中心主義」が、様々な建設的提案の推進を阻む役割を果たしたが繰り返し論じられている。大ざっぱにまとめると、ここでの「貸出中心主義」とは、図書館サービスの中心を資料の貸出に置き、情報サービス的側面を軽視する考え方と、もう一つ、現職者は現状のままで専門職であり、新たな資格や教育制度等は不要とする考え方の双方を指している。その双方が渾然一体となって、図書館における専門職に関する議論を混迷させた事例が、繰り返し本書では紹介されている。
 例えば、1968年時点で文部省社会教育課長であった中島敏教氏の「司書養成制度の現状と将来」(『現代の図書館』9巻2号[1971年6月] p.92-96)に拠る部分(p.250-251)で、学校図書館司書の資格・教育の創設を目指す法案に対して、公共図書館の「司書の地位を低くすることになる」という理由で、日図協関連団体から反対の陳情があったという証言が紹介されていたのにはひっくり返った。そんな証言があったのか、ということにも驚いたが、中島氏の証言の裏が本書で取られているわけではないものの、紹介されている他の事例から考えるとかなり蓋然性が高い、と思わせてしまうあたりが何とも言えない。
 大学図書館の戦前と戦後の断絶と連続に関する分析がもうちょっとほしいな、とか、冒頭の大学図書館数の変動分析とか後の論述で全然参照されないじゃん、とか(このあたりも、最初の読者の不在を感じさせるが…)、いろいろ突っ込みたいところもあるし、何より文章が読みにくいのだけれど(自腹切ってるし、このくらいは書いても許されるよね…)、これから図書館における専門職論をやる人は、見ておくべき一冊かと。
 ちなみに、そもそも大学の教員側や学生側が図書館スタッフによる専門的な支援を積極的に求めていたのか、という点は、本書では論じられていない。欠点というわけではなく、そもそもスコープ外なので、そこはしょうがないだろう。
 ただ、これは本書と無関係な、まったくの私見なのだが、大学に所属する人文社会科学系の研究者が、資料の研究者個人又は研究室単位での囲い込み等、大学図書館という組織・機能を十分に生かすことができなかった、ということも、大学内における図書館と図書館職員の位置づけの背景としてあったのではなかろうか、という気もしている。そのことが、結果として、大学内における人文社会科学分野の研究における組織・制度的支えの必要性自体を掘り崩してしまった(そんな研究、大学でなくても、別に趣味で個人でもできるでしょ、とか)側面もあるのではなかろうか。
 この見立てに若干なりとも妥当性があるとすれば、本書で論じられている、大学図書館における専門職制度確立の敗北の歴史は、大学における人文社会科学分野を支える制度・組織の問題を考える意味でも、参照すべきものになるかもしれない。
 あと、本書で紹介されている岩猿先生の専門職論が格好良すぎなので、『岩猿敏生の挑戦と挫折』(敬称略)みたいな新書サイズの一般向けの概説書を書いていただけないものか、とか思ったり。

2014/03/22

内閣文庫と昌平坂学問所旧蔵書

 先日、ちょっとした家庭内レファレンスで苦労したので、その過程を忘れないようにメモしておく。
 内閣文庫の林羅山の展示(平成25年度連続企画展「江戸幕府を支えた知の巨人-林羅山の愛読した漢籍-」 http://www.archives.go.jp/exhibition/jousetsu_25_6.html)がきっかけなのだが、相方から「昌平坂学問所の資料ってどういう過程で内閣文庫に入ったんだっけ」との疑問が出された。
 二人ともまずは長澤孝三『幕府のふみくら』(吉川弘文館, 2012)があれば手掛かりが何か書いてあるかもしれない、というのは思いついたのだが、こういう時に限ってどこかに埋れてしまって、出てこない。
 やむなく、他に何かあったかな、という家捜しが始まった。
 まずは、『日本古典籍書誌学辞典』(岩波書店, 1999)を見てみたが、林羅山や昌平坂学問所などの項目には資料の来歴についての記述はあまりない。
 しかたなく、本棚を漁ると、現在は内閣文庫に資料が受け継がれているという点で共通項がある福井保『紅葉山文庫 : 江戸幕府の参考図書館』(郷学舎,1980)が出てきたが、当然ながら昌平坂学問所の話は出てこない。
さらに本棚を漁っていたら、長澤孝三編・発行『内閣文庫思い出咄』(2001)が出てきた。これには、『内閣文庫沿革略』(内閣文庫, 1970)が再録されている。で、見てみると、
「維新後は、大学・書籍館・浅草文庫など数次の変遷を経て、明治十七年に太政官文庫に移管された。」
との記述が出てきた。太政官文庫=内閣文庫で大体大丈夫なはずだし、まあ、これでよいかな、と思い、一安心。
 しかし、この記述を見た相方からは、これでは「など」がどうなっているのか分からないではないか、との反応が…
この時点でもうすぐ日付が変わる時間帯になりつつある。早く風呂入って寝たいのに、何だこの細部に対するこだわりは、ニューなクラシックとかにブログが転載されたり、原稿載ったりする野菜な人たちの影響か、おのれ野菜め、とよく分からない逆恨みをしつつ、そう言われると自分も気になるので、もうちょっと調べてみることにした。
 今度は、直接答えは出なくても、何を見れば分かりそうかが分かるだけでも良いか、と戦略を変えることにして、鈴木俊幸編『増補改訂 近世書籍研究文献目録』(ぺりかん社, 2007) を見てみた。この目録、索引がないので、目次で当たりをつけるしかない。見ると「9.享受」のところに、「9.2 蔵書」があり、「昌平黌」の項目が立っている。おお、これだな、と見てみると、そのものズバリ、というのはなさそうだが、小野則秋「昌平坂学問所文庫の研究」がそれっぽい。まあ、ここまでか、と思ったところで、ふと気がついた。あれ?小野則秋なら、『日本文庫史研究』(臨川書店, 1988(改訂新版第三刷))が、あったような…と思って見てみたら、下巻の第二章が「昌平坂学問所文庫の研究」で、その第七節が「余論−維新後における昌平黌の旧蔵書」ではないか。
 というわけで、これでかなり詳細が判明。大枠としては先の『内閣文庫沿革略』の記述で良いのだが、大学の前後がかなり錯綜していることが分かった。一方、浅草文庫から太政官文庫に入るまでの間の経緯は、小野則秋の記述でもはっきりしない。ただ、その日はこれで諦めることにした。
 その後、さらに、樋口秀雄「浅草文庫の創立と景況」参考書誌研究 (4), 1-9,図巻頭2p,[1972年3月] http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3050876_po_04-02.pdf?contentNo=1 を見てみたら、浅草文庫後の経緯が詳述されていた。こりゃなんともややこしい。内務省と農商務省に、陸軍まで絡んで、綱引きが行なわれていたわけだ。さらに、小野則秋がやや詳しく書いているように、特に貴重な典籍は宮内省図書寮にも移しているわけで、こりゃよくわからない訳である。

 こういったことは、実は何か別の資料を見ると、簡単に分かることなのかもしれないが、後で何かの参考になるかもしれない(ならないかもしれないが)ので、メモとして残しておく。

(2014-03-22 21時ごろ追記)
 野菜の人から、この論文を読め、という指令、じゃなかった、ご教示をいただいたので、追記しておく。



NDL-OPACだとこちら。
http://id.ndl.go.jp/bib/3590580
Cinii Articleだと……おっと、今日は電源設備工事中だったか。残念。

2014/03/02

古賀勝次郎『鑑の近代 「法の支配」をめぐる日本と中国』春秋社, 2014

 申し訳ないのだが、私個人としてはこの本をお勧めはしにくい。残念ながら、私にとっては非常に読みにくい本だったのだ。そういう場合は、普通、こんな風にブログで採り上げようとは普通思わないのだが、本書については、書いてある内容自体は、何やら面白かったんである。
 というわけで、以下、本書の内容を、私なりに説明してみることにする。本来書いてあることと全然違ったりする可能性が、いつにも増して高いので、そういうものと思ってご覧いただきたい。

 本書では、次の三つの問いについて論じている。

(1)西洋の立憲主義、法治国家的な制度を、何故明治期の日本は一定程度確立することができたのか。
(2)そして、それが何故崩壊したのか。
(3)日本では曲がりなりにも成立しえた立憲主義が、何故中国では確立しなかったのか。

 これらの問いについて答えるために、本書の前半では、西洋法思想史と、中国儒学史、法家思想史の講義が展開される。大枠をざっくりまとめておく。この辺、基礎知識がないので、大誤解になっている可能性が高いので、あまり信じないように。

 西洋の法思想は、ローマ法とキリスト教を淵源とする自然法を中心に、法の正統性の根拠として、立法者の外部に立法者を超えた何かを置く思想が根強くあった。また、「善悪」を論じる倫理に対して、「正不正」「権利」の概念と結びつくことで、法は社会の基礎として高い位置を占めていた、というのが、本書における西洋社会の特徴の見立てである。
 ちなみに、自然法ではないが、歴史的に形成された慣習に根拠を求める歴史主義も、立法者の外部に根拠があるとする意味では、この伝統に連なるということもできるだろう。
 そうした、立法者の外部に法の根拠があるとする法思想に対する批判として、ドイツを中心に、法実証主義と呼ばれる、立法者と立法目的、そして法自身の合理性を根拠とする法思想が出てくる。ところが、法実証主義は、法を政策実現の手段とする考え方とつながることで、法と「正不正」の概念の切り離しが進むとともに、立法者やその執行者自身も法に縛られるという法治国家の基礎を切り崩すことになっていく(戦間期のドイツや日本など)。

 一方、中国の儒学では「正不正」概念は、「徳」「礼」などの倫理ともに、「政」と強く結びつき、法と結びつくことは無かった。むしろ、法や制度を実利を求めるものとして軽んじる傾向が強かった。この儒学が国家の正当な学として位置づけられ、科挙による官僚制の基礎となったために、科挙を通過した中国の官僚は、法制度運用の実務に疎い者が少なくないという、状況を引き起こしていったという。
 対する法家は法を重視したが、統治の手段として法を重視したのであって、法(特に刑罰)によって民衆を縛るということはあっても、立法者や為政者が法に縛られる、という考え方はほとんどなかった。
 唯一の例外が、孔子以前に成立した思想であり、法家思想の創始とも言われる管子である。管子は、後の法家思想につながる要素を持ちつつも、一方で、法と道徳を強く結びつけ、両者が重なる領域の重要性を指摘しており、西洋の自然法思想に近い要素を内包していたのである。

 こうした前提を踏まえ、本書は先の問いに、次のような答えを出している。

(1)日本では、江戸後期〜幕末期に、西洋の自然法思想に近い要素を持った『菅子』の研究が安井息軒によって進み、その弟子または周辺の人たちが西洋の法制度を理解し、日本への導入に活躍する素地を作った。
(2)しかし、一旦は法治国家の確立に成功したものの、日本には自然法思想的な伝統は定着せず、むしろ、法家思想に関する教養が法実証主義を受入れることを容易にした。また、法実証主義は、法を立法者と為政者の意図を実現するための手段と化すことで、国家の権限と権力を強化することで社会変革を目指す国家社会主義等と結びくこととなった。これらの結果、立法者、為政者に対する法の支配は切り崩され、日本の立憲主義、法治主義は崩壊した。
(3)中国でも、管子を梃子として、西洋の立憲主義、法治主義を導入する動きが進み、辛亥革命を経て、当時最も立憲主義を理解していたと思われる宋教仁を中心として制定した憲法、中華民国臨時約法に結実する。しかし、この暫定憲法の下で複数政党による選挙が行なわれたものの、第一党の党首であった宋教仁は袁世凱によって暗殺され、その後の混乱の中、立憲制は崩壊してしまった。ちなみに、その後の社会主義国家における法思想は、法実証主義に近いものであり、法は立法者=計画者が計画の実現のために制定するものであって、立法者自身が法に従う法治主義とは異なる性質のものである。

と、本書の結論を私なりに大ざっぱにまとめると、こんな感じ。

 何と言うか、本書のテーマは、実に現在的なものなんじゃなかろうか。
 本書を読んでいると、今の日本に必要なのは『管子』の読み直しなんじゃね?、という気がしてしまう。いや、別に本書では現在の問題として議論されているわけではないのだが、読めば読むほど、なんだかそんな気分に…

 また、その管子の研究を進め、多くの弟子を育てた安井息軒(1799〜1876)も興味深い。
 例えば、息軒の私塾三計塾で学び、明治期に活躍した人物としては、谷干城、陸奥宗光、井上毅、千葉卓三郎らが紹介されている(特に谷干城は三計塾での教育について詳しく書き残している)。ほかにも大量の名前が並んでいるのだが、自分がよく知らない人も多いので省略。三計塾以外に息軒と親交があった人物としては、木戸孝允、西村茂樹らの名前もあがる。
 安井息軒は、朱子学者以外で昌平黌の教授となった(文久2年(1862))最初の人物である。徂徠学の影響を受けた儒者であるとともに、師の松崎慊堂や清朝考証学の影響を受けた考証学者でもあった。本書では、その立場を「法、制度を重視する考証学」と表現している。「周礼」を中心とした中国古代法制史研究を踏まえた上で、管子などの中国思想の理解を進めたということなので、現在の言葉で言えば、法制史研究と思想史研究を同時に行なったような感じだろうか。正直、本書を読むまで、中国法制史研究の意義を甘く見てました。反省。

 ちなみに、本書では特に触れられていないようだが(見落としてたらすみません)、森鷗外「安井夫人」(青空文庫版 http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/card696.html)は、息軒(=仲平)の若き日の姿を描いた作品だったりする(というのは、wikipediaの安井息軒の項目 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BA%95%E6%81%AF%E8%BB%92 で知った)。それにしても、森鷗外、どんだけこのあたりの人物ネタにしてんだ。

 ああ、まとまりがどんどんなくなってきた。要するに、何が言いたいかというと、ニーチェとか孫子とか現代語訳するんだったら、管子を出してくれ、ってこと。それから、息軒についての(もうちょっと読みやすい)新書とか、人物叢書がほしいです……

 余談だが、安井息軒旧蔵書は斯道文庫に受け継がれている。詳細は、高橋智「安井家の蔵書について : 安井文庫研究之二 」『斯道文庫論集』No.35(2000), p,189-257 http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00106199-00000035-0189 等を参照のこと(蔵書印の紹介もあり)。
 も一つ余談だが、本書で紹介されている管子の言葉で最も衝撃的だったのはこれ。

「衆人の言、別に聴けば即ち愚なるも、合して聴けば聖」

 まるで集合知……だよね、これ。中国でも最も古い時期の思想が(たまたまなんだろうけど)現在と斬り結んでしまう、というのは、何なんだろうなあ。

2014/02/02

幼児教育の先駆者・浮世絵研究家飯島半十郎虚心についてメモ

小林修「箱館戦争の幕臣飯島半十郎と浮世絵研究家飯島虚心 : そして『家事経済書』のこと 」『日本古書通信』79(1), 4-6, 2014-01.

を読んでいて、飯島虚心『河鍋暁斎翁伝』について、その稿本が出版されるまで、国会図書館に眠っていたという記述があったので、今はどこにあるんだろう?とちょっと疑問に思い、飯島虚心について、少しだけ調べてみた。
一応、分かったことについて、メモとして残しておく。ちなみに、書誌事項の書き方が統一されていないのは、あちこちからのコピペだからだったりする。手抜きで申し訳ない。

簡単に紹介すると、飯島半十郎・号虚心(1841-1901)は、昌平黌で学んだ旧幕臣で、幕末・維新期には、函館まで転戦。明治に入ると、文部省で教科書編纂等に従事するとともに幼児教育における先駆的業績を残すとともに、洋々社に参画して『洋々社談』の編集に活躍している。晩年は、日本美術・浮世絵史研究に没頭し、多くの著作を残すが、多くが刊行されないままとなった。
その伝記については、次の論文に詳しい。

小林恵子「飯島半十郎の生涯と思想(その一) : 『幼稚園初歩』の著者 (人でつづる保育史) 」幼児の教育 76(9), 40-45, 1977-09-01
http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/handle/10083/42315

小林恵子「飯島半十郎の生涯と思想(その二) : 『幼稚園初歩』の著者 (人でつづる保育史) 」幼児の教育 76(10), 16-22, 1977-10-01
http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/handle/10083/42331

小林恵子「飯島半十郎の生涯と思想(その三) : 『幼稚園初歩』の著者 (人でつづる保育史) 」幼児の教育 76(11), 8-14, 1977-11-01
http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/handle/10083/42351

URLは全て、お茶の水大学教育・研究成果コレクションTeaPotのもの。当然、全文が読める。機関リポジトリ万歳。

小林論文によると、交遊関係としては、昌平黌での中村敬宇、成島柳北、幕臣時代には三井物産を起こす益田孝、一橋大学の初代校長となる矢野二郎(ともにちょんまげを落として「ざんぎり頭の開山」となったとか)、文部省・洋々社人脈としては、大槻如電、大槻文彦、「古事類苑」を編纂した小中村清矩などなど。
文部省以外では、内務省山林局で、『木曽沿革史』等を作成している。小林論文では「帝室に納本」されたと紹介されており、実際、図書寮文庫所蔵資料目録・画像公開システムを検索すると、編著者飯嶋半十郎として、明治写の「木曽沿革史」が所蔵されいてることがわかる(函架番号260・73)。
http://toshoryo.kunaicho.go.jp/Kotenseki/Detail/20999

晩年の浮世絵研究については、小林論文でも引用されている、

玉林晴朗「浮世絵研究の先覚者飯嶋虚心」書物展望 昭和13年(1938)7月号

が、

斎藤昌三編『書祭』人 書物展望社, 1940

に再録されていることが分かり、それがたまたま手元にあったので(表紙が取れたり状態悪いんだけど、天地人3冊揃いがあったので買ってた)、読んでみた。

それによると、明治期に刊行された、虚心の浮世絵研究関連の著作は、次の二点。

『葛飾北斎伝』明治26年
『浮世絵師便覧』明治26年

その他、未刊の著作として、次のものが揚げられている。

『浮世絵年表』1冊
『歌川列伝』3冊
『歌川雑記』1冊
『河鍋暁斎翁伝』5冊
『日本絵類考』10册、附録2冊

未完とはいえ、写本などで研究者の間では読まれていたようで、その後の様々な研究に影響を与えていると玉林氏はその業績を高く評価している。
ちなみに、このうち『歌川列伝』は畝傍書房(1941年)・中公文庫(1993年)、『河鍋暁斎翁伝』はぺりかん社(1984年)・河鍋暁斎記念美術館(2012年)で刊行されていたりする。
玉林氏によれば、『歌川列伝』『歌川雑記』は、東京帝大図書館に原本があったようだが、関東大震災の際に焼失したとのこと。ただし、写本が伝存するとも書かれており、畝傍書房版はそれを元にしたものなのかもしれない。
驚いたのは『日本絵類考』で、これは写本が頒布されたとのこと。明治32年に写本を予約で売り出したとのことで、10部目標だったところ、5、6部しか売れなかったらしい。三村竹清もこの写本を購入しており、竹清翁によると、この写本は虚心自身が移したものと、「島田佐内その他の人」によるものがあるとのこと。帝国図書館にも一部入っていることを玉林氏は報告しており、これが、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されているものだろう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2605932
しかし、ここでは本体の10冊までしかデジタル化されていないようだ。OPACで検索しても記述は10冊。附録の春本目録2冊はどこにいったのだろうか…

ちなみに、飯島虚心著の写本をCinii Booksで探すと、特に蒔絵・漆器関係の著作が、京都大学文学研究科図書館に集まっていたりするようだ。京大文学研究科には『日本絵類考』もあるが、これも附録の春本目録がないように見えるのがちょっと謎。
結局、稿本問題は解決してないけど、まあ、家の中にいてわかるのはこんなものかな。
飯島虚心の著作の影響の広がり、というのは、実は、近代写本の作成と流通の問題とも関連するような気がするけど、誰か調べてくれないものか。
あと、この飯島虚心、山口昌男好み(?)の人のような気がするけど、何か書いてたりするかなあ。

2010/05/23

富士川英郎『読書好日』

 富士川英郎の随筆が面白い、ということをどこで読んだのか、どうしても思い出せない。『日本古書通信』だったかもしれない。あるいは別の何かか。
 父親が『日本医学史』の富士川游だ、ということで興味を持ったような気もするが、はてさて。ちなみに、今回の話とは関係ないが、富士川游の古医書コレクションは、京都大学附属図書館(以前は医学部図書館にあったが、今は中央図書館)の所蔵となっていたりする。目録もウェブで公開されているし、医学部にあったころとは全然扱い違うなあ、と思ったり。医史学研究室が京大医学部にない、ということは、悲しむべきことかもしれないけど。
 話を戻そう。
 とにかく、何となく気になったので、ここ数年、古書店や古本まつりなどでは、必ず、富士川英郎、という名前を探すようにしている。その甲斐あって、これまでに4冊の著書を入手できた(先は長い)。
 先日、その中の一冊で、第二随筆集にあたる『読書好日』(小澤書店, 1987)を読み始めた。そして、ようやく、読み終わった。なるほど、これはめっぽう面白い。この本が出版されたころの、学生時代の自分だったら、おそらく面白いとは思わなかっただろうとも思うが。まあ、こういうのを面白いと思えるようになった、というのも、年をとった効果の一つか。
 本書は、ドイツ文学研究・翻訳で知られる著者が各所に寄稿した短文(といっても、モノによってはそれなりの長さはある)を集めたもの。主に1975年ごろから1980年前後に書かれたものが中心になっている。日本の作家について、著者が専門とするドイツ文学の日本語への翻訳について、そして、著者のもう一つの専門である近世日本の漢詩人について、さらには、様々な分野の学者たちとの交流や、著者が長く住んでいた在りし日の鎌倉について、といったテーマ(本書にはこんなテーマに関する記述はないので勝手にまとめてみた)ごとに大まかにまとめられて構成されている。

 冒頭の一編「森鴎外『委蛇録』」は、帝室博物館総長であった森鴎外が、大正7年に、正倉院宝物の曝涼に立ち合った際の日記を紹介する、というもの。いきなりこちらの関心を鷲掴みされてしまった。鴎外は、雨天の日には正倉院を開かない(開けない)のでやることがない、ということを利用して、雨の日を中心に、奈良の名所を回っていて、そのことを日記に記録していたのである。現在、遷都1300年記念イベントが開かれている平城宮跡などにも、鴎外は雨の中出掛けていて、整備された現在とはまったく異なる様子を(漢文で)記している。その他にも、法隆寺、飛鳥村など、時間ができるとあちこちに出掛けていたようだ。
 続いては、木下杢太郎に関する文章が続く。父の専門が医学史だった関係か、医師であると同時に文学者であもあった杢太郎に関して、著者は深い関心を持っていたようで、特にその散文にほれ込んでいる様子が伝わってくる。木下杢太郎という作家については、実はまったく知識がなかった私だが、本書によって、土肥慶蔵(鶚軒)の医学上の弟子だった、ということがわかって、少し興味が湧いてきた。鶚軒との関係については、本書中の「「木下杢太郎文庫」瞥見」などに記されている。この「木下杢太郎文庫」というのは、神奈川近代文学館にある杢太郎の旧蔵書のことで、医学書なども合わせて一括して残されたもの。「瞥見」では、その概要が、文学書を中心に紹介されている。
 土肥鶚軒については、日本における『ファウスト』受容の初期の歴史を論じた、「鴎外訳『ファウスト』が出るまで」にもちょっとだけ記述がある。明治30年に森鷗外に先んじて『ファウスト』の部分訳を発表した、大野洒竹について紹介している部分だ。大野洒竹が、医師として土肥慶蔵教授の指導を受けた、と書かれている。洒竹は、俳書のコレクターとして名前は知っていたが(その旧蔵書は、東京大学附属図書館の洒竹文庫として残されている)、よもや鶚軒の弟子とは知らなかった。
 脱線になるが、土肥慶蔵は、医師であると同時に、漢詩にも造詣が深く、また、相当の蔵書家でもあったことで知られる人物。その旧蔵書は、日本人漢詩文関係が国立国会図書館に、医学・本草関係が東京大学附属図書館に、など、現在は分散してしまったが、相当部分が散逸せずに残されているようだ。どれも「鶚軒文庫」と呼ばれているので、ちょっとややこしい。カリフォルニア大学バークレイ校にも鶚軒文庫があるとか。
 弟子に何故か変な(?)人が集まってきてしまったのか、鶚軒の教えを受けると変な人になってしまうのか、本書を読んでいたら、土肥鶚軒という人物にも、改めて興味が湧いてきた。ただ、おそらくこの人、医学関係の論文以外の文章は漢文で書いてそうなんだよなあ……何となくはわかるけど、ちゃんとは読めないので、どうしたものか。自らの教養のなさを恨むばかり。
 話を戻す。
 富士川英郎の面白さの一つは、ドイツ文学を専門としつつも、日本近世の漢詩について、深い知識と愛情を持っていたところだと思うのだけれど、何故、近世漢詩文にのめり込んでいったのか、その経緯が「江戸漢詩文とわたし」という一文では語られている。簡単に言うと、森鴎外『伊澤蘭軒』経由で、管茶山を知り、管茶山の漢詩を入口に、同時代の漢詩人たちの作品を集めていった、ということらしい。日本のいわゆる「国文学」の枠から、どのようにして、日本人による漢詩/漢文作品が抜け落ちていったのか、という分析もちょっとある。要するに国民文学の確立、という近代的課題と、中国文化の影響を排そうとする国学的伝統の両者の流れが合流する中、漢詩は忘れ去られた、といった感じ。その忘れ去られたものを、著者は丁寧に拾い上げて、もう一度世の中に示し直していったのだ。
 この「江戸漢詩文とわたし」には、資料収集のこぼれ話的なエピソードもいくつか紹介されている。資料との偶然の(というか運命の)出逢い、という古書店巡りの醍醐味は今も昔も変わらない、という感じで、これがまた何とも良かったりする。
 父親の富士川游に関する文章としては「私立奨進医会と「医談」」が興味深い。現在の日本医史学会の前身であり、富士川游が中心となって設立/活動した奨進医会の成り立ちと、その機関誌に関する紹介である。日本医史学会の前史については、実は全然知らなかったのだが、ここまで富士川游の力が大きかったとは。医学史史も面白そうだなあ。
 「森銑三さんと宍戸俊治氏」は、森銑三ファン必読の一編。森銑三が古典籍資料の世界に飛び込むきっかけを作った人物について書かれている。森銑三自身も書いてることだそうだが(本書中でも言及)、森が古典籍資料への関心を目覚めさせたのは、刈谷市立中央図書館(当時は刈谷町立図書館)の村上文庫(刈谷藩医・国学者の村上忠順の旧蔵書)の整理を担当したことがきっかけ。その際、特に医書について相談に乗ったのが、村上文庫を私費で購入し、寄附した篤志家の一人である、宍戸俊治という人物だった。その人物について、森からの話や、手紙、そして、森からの情報を手がかりに遺族から得た情報などをまとめたのがこの一文である。宍戸の生没年、卒業年次、略歴など、記述として貴重だろう。
 宍戸は、東大で医学を学び、将来を嘱望されながらも、養父の急逝によって故郷にもどり、開業医として活躍したという。もし、宍戸が故郷に戻らずに、大学に残っていたら、村上文庫の寄贈もなかったとしてら、その後の森銑三の活躍はどうなっていたのだろう。宍戸自身にとってどうだったのかはわからないが、文庫でしか森銑三を読んでいない薄っぺらいファンである自分としても、この巡り合わせに、感謝せずにはいられない。
 また、宍戸は、富士川游の大著『日本医学史』を森に薦め、森はそれに応えてこの大著を読みこなし、それよって、村上文庫の整理を終えることができたという。そして富士川游の息子である英郎が、森の恩人である宍戸についてこうして書き残す……。曰く言い難い因果の糸を感じる一編だ。森の宍戸や富士川游への終生変わらぬ尊敬の念もまた、心に残る。
 この他にも「或る日の中山正善氏」など、ちょっとしたエピソードながらこれは深い、という感じの随筆がてんこ盛りの一冊となっている。上で紹介したのは、本書のほんの一部。何気ない短文にも、深い知識と経験が詰め込まれていて、油断できないのだが、文体としては淡々としていて、派手さもハッタリもない。そこがまた好ましい。

 これは面白い、と、じわじわと、数週間かけて読み終えて、これは読みごたえありすぎだろう、と思っていたら、巻末に、旧蔵者による書き込みがあることに気付いた。「半日で読了。いささかたよりない味のない本」。……え、まじですか、これで半日? 味がないって? いったい何者?
 旧制高校で教育を受けた、ある意味エリート的な教養の深さと広がり、そして人脈を持つ著者と、その著者の書いたものを「たよりない」「味のない」と一刀両断にする旧蔵者。世の中には、すごい人がたくさんいる(いた)のだなあ、とただ嘆息するばかりなのだった。

(本書は、旧漢字・現代仮名遣いで表記が統一されているが、ここでは、基本的に、随筆のタイトルや団体名等についても、漢字は現行の字体で表記してしまった。単なる手抜きである。申し訳ない。ご注意を。)

2009/06/07

思想(岩波書店)2009年第6号(no.1022)

 岩波書店の『思想』2009年第6号(no.1022)の後半が、グーグルブック検索裁判和解問題特集になっていたので、難波に出てジュンク堂で購入。田舎の普通の本屋じゃ、売ってないのだった。
 中身はこんな感じ。

福井健策 「グーグル裁判」の波紋と本の未来 (p.143-146)
宮下志朗 作者の権利、読者の権利、そして複製の権利 (p.147-156)
長谷川一 〈書物〉の不自由さについて: 〈カード〉の時代における人文知と物質性 (p.157-165)
高宮利行 書物のデジタル化: グーテンベルクからグーグルへ ダーントン論文への重ね書き (p.166-172) 
ロバート・ダーントン著、高宮利行訳 グーグルと書物の未来 (p.173-185)

 最後のダーントン論文は、冒頭に編集部が断り書きを入れているとおり、ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年3月号に掲載(配信)された、「グーグル・ブック検索は啓蒙の夢の実現か?」と、ほぼ同内容である。ル・モンド・ディプロマティーク版はフランス語から、思想は英語版(New York review of books. vol.52 no.2 (Feb. 12, 2009))からの翻訳とのこと。
 「インターネット上ですでに公開された論文とほぼ同じ内容のものを、紙媒体で後追いして掲載することについては、編集部でも議論があった」そうだが、議論するまでもないような気もする。後追いだろうが何だろうが、特集(と、銘打たれているわけではないが)として必要なものであれば、転載してでも何でも載せるべきだろう。そこに「編集」の意味があると思うのだが。
 ちなみに、編集部としては、「物質としての永続性を持つ紙媒体での提供を選択し続けている本誌がもちうる役割と機能に鑑みたとき、本稿を掲載することには一定の意義があると判断」して、掲載に踏み切った、とのこと。いかに『思想』とはいえ、雑誌が「永続性」を看板にするのは、違和感があるが……。

 宮下論文は、ヨーロッパ中世の写本時代について論じ、活版印刷の誕生と普及を待つまでもなく、著作者の「著作権」意識は誕生してきたいた、という議論を展開。
 長谷川論文は、〈カード〉と〈書物〉をめぐるここ数年の著者の論を展開したもの。今進んでいるのは、〈書物〉を〈カード〉に分解する、というよりも、テキストを物理的媒体から分離しようとする動きのような気もするので、今ひとつ、しっくりこなかった。が、自分の読みが浅いかも。
 グーグルブック検索裁判和解に関して直接論じているのは、福井論文と、高宮論文と、ダーントン論文。
 福井論文は、「書籍の再流通モデルとして、グーグルのビジネスが成功するのか」という点と、書籍のネット配信の流通チャンネルを握るのは誰か、そして、「デジタル化された膨大な情報の権利を誰が管理するのか」という3点が、今後の問題ではないか、と問いかけ。
 高宮論文は、ダーントン論文を補足する形で、慶応のHUMIプロジェクトによるグーテンベルク聖書デジタル化事業などを紹介。しかし、「中国、韓国、日本のいずれの場合にも、印刷は国家の統治者の肝いりで行われた」(p.169)という記述は、誤解を招くのでは。韓国の出版史についてはほとんど知識がないので何ともいえないが、中国と日本に関して言えば、寺院や民間による出版の活発さは、別にヨーロッパに劣らないと思うのだが。あと、「情報に関する優れた記憶力で図書館利用者に尊敬されていたレファレンス担当者の主な仕事は、コンピュータ検索のためにキーワードを打ち込むだけになってしまった」(p.172)といった記述もあって、それはちょっと違うのでは、という気持ちに(というか、もともと日本ではほとんど尊敬されてなかったのでは、という話もあるが)。まあ、細かいところにこだわってもしょうがないのだが、現役図書館長でもある、ダーントン氏の論文と比べると、変に気になってしまうのだった。
 ダーントン論文については、ル・モンド・ディプロマティーク版でも、ほとんど書かれている内容は同じなので、そちらを見てもらった方が早いといえば早い(オープン・アクセスの訳語が、それぞれ違ってたりして、比べて読むのも一興)。グーグルの独占によって、電子ジャーナルと同様の価格の高騰が引き起こされる危険性がある、という指摘は、さすが図書館長、という感じ。図書館を啓蒙主義プロジェクトの末裔として位置づける視点は、要求論優位の日本では、批判的に読まれてしまう可能性もあるが、こういう長いスパンで、図書館の役割を見直す、ということも、やはり必要ではないだろうか。出版関係者よりも、図書館関係者こそ必読かと。

2009/03/01

近世版木展

 今日、じゃない、もう昨日か。2009年2月28日(土)に立命館大学アートリサーチセンターで開催されている「近世版木展」(2009年2月16日〜3月6日。ちらしPDF)を見てきた。
 奈良大学が所蔵する竹苞楼など由来の版木4,000点をデジタル化するプロジェクト(立命館大のグローバルCOEプログラム「日本文化デジタル・ヒューマニティーズ」拠点・日本文化研究班によるもの)に関連して、その版木自体を展示する、というもの。実際には奈良大学だけではなく、アートリサーチセンター所蔵の版木などもあり。
 版木の構造など、基礎的な解説から、版木における様々な技法、虫害により痛んだ版木や、版下を貼付けて途中まで彫った状態の版木(何故か作業が中断したようだが、それによって、どのように彫っていたかが、ちょっとだけ伺える)などなど、小さい展示スペースながら内容は充実。複数の版元による共同出版の場合の版木の持ち合いの仕組みなどを現物に即して分かりやすく解説してくれるなど、近世出版史入門編の趣も。
 それにしても、版木におけるレイアウトの自由度には驚愕。入木や埋木といわれる、版木の一部を削って、新たに別の文字や言葉を入れる(版元が変わったりするケースでよく使われる)という手法くらいは知っていたものの、パーツごとに分割できる版木を組み合わせて、大判の一枚ものを摺ったり、枠からはみ出した頭註の部分だけちょこっと継ぎ足したりと、ここまで自由自在に対応していたとはまったく知らなかった。
 枠があってその中に文字という部品を詰め込んでいく、活字印刷系の発想とはまったく別の本の作り方があった、ということを痛感。版木的な発想のDTPソフトとかあったら、面白いかもしれないなあ。
 ああ、それにしても、図録がないのがもったいない。この展示自体をデジタルアーカイブ化しておいてもらえないものか。
 会場では、版木を様々なライティングで撮影したデジタル画像を検索できるデータベース等も触れるようになっていたけれど、さすがにこれは研究者向け、という感じ(版木自体を分析することを目的としたものなので)。何をやっているのかが、より広い層に分かる、という意味では、今回の展示は実は重要なのでは、という気も。
 ちなみに、同じキャンパス内でDH-JAC2009 第1回 日本文化デジタル・ヒューマニティーズ国際シンポジウムをやっていたのも知っていたのだけど、諸般の事情でパス。大英博物館とか、ボストン美術館の話はちょっと聞きたかったかも。

2009/02/23

「ARGカフェ(03)商業利用の是非をめぐって(補足)」をめぐって

 當山日出夫さんが「ARGカフェ(03)商業利用の是非をめぐって(補足)」で書かれている、著作権保護期間を満了し、パブリックドメインとなった著作物における「所蔵者の権利」と「デジタル化した〈引用者注:機関・人の?〉権利」の問題についてちょっと感想めいたことなど。
 国の機関(直営)の場合、資料・史料は、国の財産であり、国の財産は何であれ、商用で利用する際には、何らかの対価を必要とする(国有財産の使用料が必要)という組み立てになっているのでは。公共財たる国の財産を使って、何らかの利益を得るのであれば、それに対して一定の適切な(何が適切なのかがまた難しいけれど)対価を国に対して提供することが必要、という理路だったと思う。おそらく、地方自治体で直営の機関の場合にも同様では。
 デジタルデータも、国(地方自治体)の財産であり、一時期、国のデータベースの無料公開が遅々として進まなかった理由も、ここにあったように記憶している。だとすると、デジタル化を国(地方自治体)の予算で実施した場合には、同様にデジタル画像やテキストデータも国(地方自治体)の財産として扱われ、その商用利用には対価が必要ということになるのではなかろうか。
 逆にいえば、著作権保護機関を満了した資料について、復刻を拒絶する根拠は(適切な対価が支払われる限りにおいて)法的にはないのではなかろうか。少なくとも、自分のところでは、実務的にはそうなっている。
 ただ、著しく公共性を欠く(例えば悪質な複製を作って、不当に高額で売りまくる、とか)場合には、所蔵者として、復刻自体を拒否することも可能な気もする。
 このあたり、本当は会計法とかの知識が必要なのだと思うのだけれど、法律ネタは自分の最も苦手とするところなので、これ以上はちょっとよくわからない。いかん。
 おそらくは、独立行政法人や、国立大学法人などの場合はまた話が違うのだろう。ん? そういえば、国立博物館の所蔵品は国の財産なんだろうか。その博物館を運営する法人の財産なんだろうか。我ながらこういう基本的なことを知らないなあ。
 何にしても、この問題は、所蔵しているのが誰なのか、というところから、その所蔵者の法的位置づけを明確にしていかないと、漠然と、博物館・美術館・図書館・文書館とまとめてしまうと、議論が混乱してしまうのではなかろうか。その点、ちょっと気になってしまった。

2009/02/22

第3回ARGカフェ&ARGフェスト@京都

 2009年2月21日(土)に、第3回ARGカフェ&ARGフェスト@京都に参加。
 ずっとブログの更新をさぼって来たのだけれど(ここのところ、仕事以外に文章を書く気力が出てこなくて)、岡本さん@ARGが、ブログに書け、と呼びかけていたので、ちょっと乗っかってみる。
 プログラムについては、ACADEMIC RESOURCE GUIDE (ARG) - ブログ版2009-01-18(Sun): 第3回ARGカフェ&ARGフェスト@京都への招待(2/21(土)開催)を参照のこと。
(2/23追記)2009-02-21(Sat): 第3回ARGカフェ&ARGフェスト@京都を開催も参照のこと。特に関連リンクはこっちの方が充実。

 まずは第1部について。それぞれ持ち時間5分でのライトニングトーク。
 冒頭、岡本さんから京都の飲み屋の紹介文化(どこの飲み屋でも、「○○を飲めるいい店はないか」と聞くと教えてくれる)を題材に、ARGカフェ&ARGフェストも、人脈を独占する場ではなく、互いに広げ合って行く場であってほしい、といった感じ(ちょっと違うか?)の趣旨説明があり。
 トップバッター當山日出夫さん「学生にWikipediaを教える−知の流動性と安定性」は、Wikipediaの陵墓(天皇陵)の履歴などを参照させつつ学生に課した課題を題材に、Wikipedia等のインターネット情報について、完全性・安定性と流動性の観点と、信頼性の観点がどう関係するのか、ということを問いかける内容。
 続く小橋昭彦さん「情報社会の“知恵”について」は、メールマガジン「今日の雑学」シリーズの経験を通じて、情報でも、知識でもない、「知恵」というある種の善悪判断を含んだものをどう伝えて行くのか、ということを問いかけ。あと、「今日の雑学」への参加も呼びかけ。
 小篠景子さん「「中の人」の語るレファレンス協同データベース」は、国立国会図書館のレファレンス協同データベース事業の理念と課題を分かりやすく説明しつつ、事例提供館の偏りという課題にどう取り組むべきかを問いかける、というもの。手書きのスケッチブックによるプレゼンという技が光った。
 三浦麻子さん「社会心理学者として、ブロガーとして」は、ブログでは議論はしない(それはアカデミックな場でするもの)という姿勢の話が印象的。あと、心理学系の学会誌のネット公開が全体として遅れている状況なども。出たばかりの著書(共著)『インターネット心理学のフロンティア』(誠信書房, 2009)についても紹介あり。
 谷合佳代子さん「エル・ライブラリー開館4ヶ月−新しい図書管理システムとブログによる資料紹介」では、大阪府からの補助金の全額廃止という逆境の中にあって、図書管理システムの更新や、ブログを活用した資料紹介などの取り組みを紹介。あと、サポート会員募集中とのこと。
 村上浩介さん「テレビからネットへ」では、とあるテレビ番組をきっかけとしたカレントアウェアネス・ポータルへのアクセス集中と、その際のアクセスの傾向(検索エンジン経由のアクセスが多い、とか、ケータイを使ったアクセスが結構多い、とか)について紹介。ちなみにアクセスが集中した記事は図書館猫デューイの記事とのこと。
 後藤真さん「人文「知」の蓄積と共有−歴史学・史料学の場合」では、人文科学とコンピュータ研究会の紹介や、情報歴史学という自らの専門分野を通じた、歴史資料の共有と、単なるデジタル化だけではなく解釈や構造までデータ化することが重要との問題提起も。上田貞治郎写真史料アーカイブのためのシステムを開発中との話あり。
 福島幸宏さん「ある公文書館職員の憂鬱」は、館数の少なさなどからくる情報の少なさや、情報技術に関する関心の低さなど、文書館/公文書館界の問題点を指摘しつつ、世代交代を危機であると同時に機会としても捉える視点を提示。
 中村聡史さん「検索ランキングをユーザの手に取り戻す」では、ヒューマン・コンピュータインタラクションにおける研究成果でもあるRerank.jpを紹介しつつ、人によるインタラクションの重要性について指摘。
 岡島昭浩さん「うわづら文庫がめざすもの−資料の顕在化と連関」は、青空文庫ならぬうわづら文庫における、画像によるデジタル化(テキストでなく)を個人で行う活動を紹介。文学史上の重要文献が以外に入手困難なままに置かれていることや、校訂者の権利の問題などについても。
 嵯峨園子さん「ライブラリアンの応用力!」は、企業ライブラリアンからの転職の経験を踏まえて、ライブラリアンとしての基本的な姿勢や技術が、実は様々な場面で応用可能であり、非常に優れたものである、ということを紹介。ちなみに、現在はヒューマン・コンピュータ・インタラクション分野で活躍中とのこと。
 最後の東島仁さん「ウェブを介した研究者自身の情報発信に対する−「社会的な」しかし「明確でない」要請?」は、ネット上の眉唾もの情報に対する、研究者に求められる対応についての問題提起。同時に、研究者から見た「分かりやすさ」と一般の人から見た「分かりやすさ」の差(例えば、専門用語に対する意識とか)が大きい、といった話も。

 質疑では、一番乗りで人文系の学会誌のデジタル化が進まない理由を質問してみたり。その他、(古)写真のデジタル化の課題や、今後の文書館/公文書館に必要な人材像、JCDL (Joint Conference on Digital Libraries)、ECDL (European Conference on Digital Libraries)、ICADL (International Conference on Asian Digital Libraries)などに(あるいは、せめて日本の情報系の学会に)日本の図書館員も参加すべしといった意見、人文学の危機に対して国としてどう取り組むべきかといった問題提起など、さまざまな話が展開して、短い時間ながら何と言う情報量。おそるべし。
 第1部全体としては、ライトニングトークも質疑も、その場で議論が深まる、というのではないものの、様々な問題意識が次々と展開して、頭の中がシャッフルされるような感じ。こりゃ面白い&刺激的。ただ、ちょっと今回は図書館系の人が多かったかなあ。

 続いて、会場を移しての第2部ARGフェストにも参加。要は飲み会なのだけれど、とにかく色々な人とお話しするのが眼目(あんまり一人の人を独占しないように、と、岡本さんからお達しあり)。
 第1部の発表者の何人かとお話したり、図書館雑記&日記兼用の中の人や、Lifoの中の人たちとお話したり、とにかく、いろんな人と飲んだりしゃべったりした。
 特に、京都大学の松田清先生とお話をすることができたのは、洋学史を少しかじった身としては、何と言うかちょっと感激。来年、小野蘭山没後200年なので(そういやそうか)、何かできないか、とかそんな話を聞いたりも。
 ただ、Wikipediaの中の人と話しそこねてしまったのは我ながらうかつ。せっかくの機会だったのに。あと、名刺はもっと大量に持って来ておくべきでした。
 とかいう感じで、個人的には反省点はあるものの、密度が高くて楽しい会であったことは間違いなし。ぜひ、次回があればまた参加したいもの。
 後は今回お話できた方々と、今後につながる動きが何かできれば。まあそれはまたこれから考えよっと。

(2009/2/27追記)
 小野蘭山没後200年を100年と間違えていたのを修正しました(100年前じゃ江戸時代はとっくに終わってますね……)。
 松田先生、ご指摘、ありがとうございました。

2007/12/09

柳澤文庫「甲斐武田と柳澤氏」展

 大和郡山へ行く用事があったので、ついでに柳澤文庫へ。
 何かやっているかな、と覗いてみたら、'07年度秋季特別展「甲斐武田と柳澤氏」(会期:2007年9月25日〜12月9日)を開催していた。風情のある木造の建物に靴を脱いで入り、廊下奥右手のふすまを開けると、二間の和室があって、そこが展示スペースになっている。
 郡山城の主であった柳澤氏といえば、徳川綱吉の側近であった柳澤吉保(自身は、川越藩主、甲府藩主だったが次の代で国替になって郡山藩主に)が有名なのだけれど、甲斐武田氏と関係があるとは知らなかった。
 何と、柳澤氏は元々武田の流れを汲む家で、武田氏が滅びた後、徳川家の家臣になったんだそうな。そういう背景もあって、柳澤氏は、自らの原点として武田氏関連の資料を蒐集していたようで、それらが柳澤文庫に残されている、ということらしい。武田信玄直筆の手紙なんか展示されていて、おお、という感じ。単なる大河ドラマ便乗企画ではないのだった。
 さらに、今回の展示の裏テーマは、近世大名としての柳澤氏における軍制と、領内統治との関係という点にあったようで、甲府から郡山へと領地が変わっていく過程における、柳澤氏の軍制の変遷に関する資料も展示されていた。
 そういえば、『兵学と朱子学・蘭学・国学』なんて本の感想を書いたこともあったなあ。やはり、江戸期の武士による統治を支えていたのは、軍事的な知と制度だったのか、などと、展示を見ながら考えたり。
 ちなみに、今の大和郡山は、金魚と城趾で知られる静かな町だけれど、かつては大阪の東の守りの要衝で、京都・奈良が大火の際には消火に向かう義務を負った重要な藩だったとのこと。その藩主の家に代々残されてきた資料を引継いだ柳澤文庫には、郡山藩関連の資料だけではなく、今回展示された武田家関連資料のような、様々な資料が残されているようだ。
 私立の図書館・古文書館としての活動もユニークだし(最近では、歴史体験講座や、学習相談も行なっている模様)、配布される観覧の手引き(手作り感溢れる解説目録)も親しみやすい対話体の補足説明を導入していて、工夫が凝らされている。低金利が続く中、財団法人の運営は大変だと思うのだけれど(おそらく文庫自体は極少人数での運営ではないかと)、これからもがんばってほしい、とか、偉そうに思ってしまう。今度行ったら、友の会入ろうかな。

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