〈意味〉への抗い
北田暁大『〈意味〉への抗い メディエーションの文化政治学』(せりか書房, 2004)を読了。
『大航海』(新書館)no.49 「特集 ファンタジーと現代」と、『ユリイカ』2004年3月号(青土社)「特集・論文作法 お役に立ちます!」に掲載されていた論考が収録されていたので、他のはどんなかな、と思い、気軽に読み始めたのはよかったが……こういう文体は久しぶりだったので(ということにしておこう)、少々(?)頭がついていけなかった。
「メディエーション」という言葉にはまったく馴染みがなかった(業界(?)では普通なのかなあ)のだけれど、「媒介性」とやらのことらしい。
リアルタイムでやりとりするコミュニケーションというのは、こちらが投げ掛けた何かに対して相手が何かの反応を見せ、その反応を受けたこっちがまた何かを返す、というやり取りの連続からなりたっている。「何か」が相手に届いているかどうか、自分が受け取った「何か」は相手の意図した「何か」なのか、というのは、相手の反応と、相手の反応に対するこっちの反応に対する相手の反応、そしてさらに……というやり取りの中で、互いに読み取っていくしかない。というか、そういうやり取りを互いにできるからこそ、コミュニケーションが成り立っているのかどうかを、お互いに判断することが(何となく)できるようになっている。
ところが、メディアを通じたコミュニケーションというのは、ちょっと違う。コミュニケーションが成り立っているのかどうか、メディアを通じて何かを投げ掛けてられてきたものかどうかを、何となく確認する回路が切れちゃっている。じゃあ、どうやって受け手の側は、「何か」を読み取ることができるのか。そこでメディアそのもののあり方が、その「何か」の「読み取り方」を規定する、という(「メディアはメッセージである」)というところにつながっていって(このあたりのことが「媒介性」なのかな?)、でも、それって技術的に決まるものっていうよりは、むしろ社会的に決まるものだよね、という話とか、映画(特にサイレント時代の)に関しては、社会的に見方が決まる前の段階の、何だかよくわかんない観客の共通体験みたいなものについて論じたりとか、そういう話が色々。ロジェ・シャルチエの読書論が出てきたり、中井正一(図書館屋的には、国立国会図書館の初代副館長で印刷カード配布を推進したりした人なんだけど)の映画論が出てきたりと、論文/エッセイ集だけあって、バラエティに富んでいる。
そういえば、先日、PanasonicのDVD/HDレコーダーのE200Hとやらを現品処分で買ってきたのだけれど(BSアナログチューナー付の製品を探したらほとんどなくってこうなってしまった)、こりゃテレビ(というかほとんどアニメばっかりだけど)の見方が変わるなあ、と実感。SPモードくらいで録画すると、画質面では放映時と区別がつかない、というのも何ともいえないが、録画に失敗したり、面白くなかったりした場合には、その場ですぐに消してしまえばよい、という感覚は、デジカメで多少わかっていたつもりだけど、何だか不思議な感じである。そして、多分、いつの間にかこれが不思議ではなくて、当たり前になっていくのだろう(多分、もっと若い世代にとってはもう当たり前のことなんだろうし)。
DVD/HDレコーダーを前提にしたテレビの見方は、街頭テレビの時代とも、テレビが三種の神器だった時代とも、まったく別物のはずだ。見方が変わっていることに応じて、作り方が変わっているだろうし、語られ方も変わってしまっているだろう。という具合に、メディアについて考える時には、今のあり方を自明視するんじゃなくて、もうちょっと違う見方をしましょう、そうすると、何か別のものが浮かび上がってくるんじゃないの……というようなことが、一冊通してのテーマなのかな?
正直いって、実はよくわかってないので、あまり信用しないように。
収録されている論考の中では、「ポピュラー音楽にとって歌詞とは何か」がいち押し(というか、一番分かりやすいような)。歌詞の意味を過剰に大きく評価するのも、軽く評価するのも、どちらも、ある特定の構えに捕われているのではないか、という議論は、問題提起でしかない、といえばそれまでだけど、とてもいい感じの問題提起だと思う。でも、この話を実際に突き詰めていくのは、えらく大変な気もするなあ。
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