国家と祭祀
しばらく前に読み終っていた、子安宣邦『国家と祭祀 国家神道の現在』(青土社, 2004)の感想を書いてみる。正直、どうも書きにくい。
『現代思想』の2003年7月号から2004年4月号にかけて連載されたものを一冊にまとめたもの。結構、新しい最近のネタも含めて論じられている。
書きにくいのは、いくつかの論点が、並行して論じられているためかもしれない。中心になる議論は、1980年代後半から現在まで続く、「国家神道見直し論」の論理構成を明らかにする部分。GHQによって作りあげられた「国家神道」像を否定する事により、結果として、真の国家神道の復権を訴える、という「見直し論」に対して、徹底的な批判を加えていく。
もう一つの柱は、国家神道が成立する過程を、江戸後期の水戸学の儒学的な鬼神(霊魂のこと)論を鍵として、論じていく部分。以前から鬼神論について論じてきた著者だけに、読んでいて、何となくこの部分が一番のっている感じがする。
さらに、靖国神社・伊勢神宮の現在的な意味を論じる部分や、靖国神社における祀りと、沖縄における追悼の違いなど、現在の状況に対する言及がある。
正直、靖国神社を「日本古来の伝統」などという輩には、坪内佑三『靖国』(新潮社, 1999・新潮文庫版, 2001)を対峙させて、招魂社・靖国神社が正に日本の近代化の装置であったことを明示した方が有効ではないか、という気もするし、伊勢神宮に古代日本からの一直線の連続性を見てしまう人には、神仏混淆の長い歴史を思い出して貰ったほうがよいような気がするのだけれど、著者はそういう戦略はとらない。「国家神道」を巡る言説にこだわっているようにみえる。その議論を通じて、総力戦による厖大な犠牲の前には、「国家神道」という思想はもう無効だ、ということが論じられているのだけれど、どうも何となくおさまりが悪い気がするのは何故だろう。「国家神道」を巡る言説が、観光資源や文化財化という形で神社の復権が進んでいる状況に対して、有効な批判(論理的に、という意味ではなく、政治的な影響力、という意味で)になりきれていないからかもしれない。
今一つまとまりが感じられない点と、例証としてあげられる例が偏っている(本当は色々読んでいるのに、特定の例を繰り返し使うのがこの著者のいつもの癖のような気もするけれど)点で、評価が難しい面もあるけれど、国民が兵士として安心して死ねるための精神的な支えとしての祭祀システムが、どのような思想史的な流れの中で完成されていったのかを論じている点はめちゃくちゃ面白い。これは国民をコントロールしたい側にとっては、禁断の果実でしょう。総力戦の状況で、一度使ったら(国民がみんな自ら進んで死んでしまうまで)やめらんなくなるのはよくわかる。
また、文字通り日本文化の精髄として神格化されている、伊勢神宮の式年遷宮が、多くの変化を経て、現在の形に復古されていった、という話など、結構、「へぇ」度の高い話もあり。
とはいえ、イラクの混乱についての報道などを見ていると、例え「幻想の共同体」であったとしても、共同体は必要ではないか、という気もしてくるので、気分はちょっと複雑。そのために死ぬ事を強制されず、なおかつ、同じ共同体に属するものとしての対話の基盤になりうる、そういった「幻想」はないものだろうか。そういう意味では、文化財化される神社のことを、頭から否定する気にはなれないんだよなあ。うーん、こういう発想は甘いのか……。
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