評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人に
小谷野敦『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人に』(平凡社新書, 2004)を読了。
実は、bk1の越知さんの書評がよくまとまっているので、あまり書くことがない。
なんというか、『評論家入門』というタイトルなのに、最後はエッセイストのすすめになっていたりとか、少し不思議な本だったりする。ある意味で、最低限のモノを知っている、という意味での「教養」の力を、モノを書くこと、という視点から再構成して論じたもの……というのは、かなり強引かな……。
柄谷行人『日本近代文学の起源』批判が延々と続いたりするあたりは、(著者がそういう人が多いのでは、と書いている通りに)私も栗本慎一郎『鉄の処女』(光文社, 1985)経由で知った口なので、なかなか身につまされたり。そういえば、私の大学生時代は、高校生の時にはまった栗本慎一郎を相対化していった時期だったのかもしれないなあ、とか、ふと思ったりもする。
それと、どこかに原稿がちょっと載ったくらいではまったく有名にはなれない、というあたりを読んで、そういえば、自分も就職して直後ぐらいの時に、先生に紹介してもらって某所に原稿を書いたりしたけれど、全然有名になったりはしなかったなあ、とか、そんなことも思い出してしまった。一度、その原稿を読んだどこかのカルチャーセンターの人から、講師の話が来たのだけれど、企画意図につい反論してしまったので、二度と話はなかった(バカだなあ、自分)とか、そんなことも思い出したり。就職しておいてよかったとしみじみとしてしまう。
……ような程度の覚悟しかない人は、もの書きになってはいかん、というのが本書の眼目だったりする。
でも、実は、前半の、学術と評論の差異の話とか、トンデモとちゃんとした議論の違い、という話の方が教育的かつ論争的で、個人的には面白かった。ただし、ここまで書くのであれば、文献のリサーチのしかたや、論文の入手のテクニックについて、ちょっとくらい書いてくれていてもよいのに、という気もしてしまうのは自分が図書館屋だからかなあ。実は、結構そこがポイントのような気がするんだけど。
著者自らがあとがきで書いているとおり、別著との重複もそれなりにあるので、小谷野ファンはそこはご覚悟を。といいつつ私自身は、最近、内田樹で重複には鍛えられている(もはや、どれがどの本だかさっぱりわからない)ので、ちょっとやそっとの重複は、既視感ですませられるようになっていたりして。
出版というシステムを通して、売れる文章を書くことの意義を最後に強調していたりもするけれど、それについては、植村八潮さんのblog「ほんの本の未来」のエントリー「出版著作権研究部会 著者による公開」も参照のこと。書き手ではなく、出版という事業の担い手側の視点と比較してみると興味深い(といいつつ、学術出版といわゆる商業出版では、比較にならんという話もあるような気も……)。
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