コバルト風雲録
今日は、数週間前に読み終わっていた、久美沙織『コバルト風雲録』(本の雑誌社, 2004)を。
はっきりいって、客観的評価とかそういうのは無理。自分が一番この手のものにのめり込んでいた、その時代の空気が圧縮されて固体化してるようなものを、いったいどう評価できるというのか。
もちろん、ただのファンの立場でしかなかったわけだけれど、ここに描かれた流れの末端にいたものとしては、ただ、涙、涙。
……で終ると、何がなんだかわからないので若干の説明を(最近知人が見てる度がどんどん高くなっているので、多少は配慮しないとなあ)。
本書は、「このライトノベルがすごい!」(名称変更予定みたいですが)に連載された「創世記」の単行本化。というわけで、最近はやりの、ネットで公開されたものの単行本化の一例ではある。
著者自身のサイトではないところに掲載された、というところが、ポイントといえばポイントで、現在のライトノベルの源流(の一つ)であるところの、集英社文庫コバルトシリーズの勃興期と、ゲームのノベライズの勃興期について、当時の状況を現場を見てきた作家の視点から回想する、という内容。当時を知らない若い世代に伝える、というのが本来の目的だということもあって、時代状況についての解説が結構細かくて、そこがまた泣かせどころだったりする。
今ではボーイズ・ラブ系の文庫の一つ、みたいになってしまったコバルト文庫だけれど、1980年代の集英社文庫コバルトシリーズ(1990年にコバルト文庫に名称が変わっている模様)は、旧来の少女小説・ジュニア小説を脱した、新しい形の「小説」が展開される場だった。氷室冴子も新井素子も、そこから出てきた、という本書で書かれている例をあげれば、分かる人には分かるか。本書の著者も、その最前線で獅子奮迅の活躍を……ということになるのだが、そこは読んでのお楽しみ。
などと偉そうに書いてはいるものの、私自身は、コバルトは結構、後追いで読んだ口で、氷室冴子のコバルト作品も全部は読んでなかったりする。
なのに、デビュー当初から追いかけていたわけでもない、著者のコバルトシリーズ作品を、私はどうやらほとんど読んでいたらしい。本書に出てくる作品出てくる作品、みんな知ってるとはこれいかに(さすがにデビュー短編までは読んでなかったけど)。そういや、SF大会でサイン貰ったこともあったような……うわ、何か、もっとすごい恥ずかしいことを思い出してしまいそうだから、このへんで記憶を遡るのはストップ、ストップ。
著者の代表作といえば、再刊されて今でも入手可能な『丘の家のミッキー』シリーズ、ということになるのだと思う。けれども、当時の作品をこれ(「おかみき」)に代表させるのははっきりいって何かが違う。何故なら、著者のコバルト作品は、一作毎にまったく趣向が違う!
当時の私も、例に漏れず、最初は「おかみき」から入って、そこから他の作品を読んでいった。他の作品に対しても、最初は「おかみき」を期待していたはずだけれど、その期待はあっさりと裏切られてしまった。シリーズものを除けば、一作ずつ必ず期待を裏切ってくれるのが、久美沙織、という作家だった。何か違う、という感じが、必ず読後に残るのだ。
たぶん、だからこそ、文庫で出ている作品を全部読ますにはいられなかったんだと思う。常に新しいことに挑戦しないではいられない。私にとって、久美沙織というのはそういう作家だった。
そして、その印象は本書で裏付けられた気がする。激しい、というか、こんな壮絶な戦いが裏では繰り広げられていたのか、と唖然呆然。と、同時に、納得。だから、泣かせるのだ。
……結局、あんまり説明になってないな。
実は、コバルト後の久美沙織作品は、ほとんど追いかけていなかったのだけれど、本書を読んで心を入れ替えることにした。著者の収入に貢献せねば、というのもあるけれど、何よりも、久美沙織という作家が、今でも戦い続けていることが、うれしかったので。
余談だけど、著者のコバルト時代末期を代表する『鏡の中のれもん』は傑作(フェミニズム少女小説の最高峰……って、何だかわかんないな、これじゃ)なので、何としても読んでほしい。絶版だけど。そういえば、当時、あまりに面白かったので、同人誌に評論まがいの感想文を書いたこともあったなあ。昼の帯ドラマの原作にでもなって(そういう感じのストーリーなんである)、再刊されないものか。
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