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2005/07/04

季刊・本とコンピュータ 2005年夏号

 『季刊・本とコンピュータ』2005年夏号(発行:大日本印刷 発売:トランスアート, 2005)を先日読了。
 最終号である。特集は、「はじまりの本、おわりの本」。
 ACADEMIC RESOURCE GUIDEの岡本真さんが、ブログ(ACADEMIC RESOURCE GUIDEの作業メモ2005-06-17 (Fri)「編集日誌」の2005-06-08(Wed)の項)で、「8年に渡る発行期間で、季刊「本とコンピュータ」は、どれだけの書き手を見い出し、送り出せただろうか。私の評価は厳しい。」と書いていたのが印象的。確かに、8年間続いた雑誌で、創刊号と最終号の書き手が、これほど重なっている雑誌は珍しいかもしれない。
 私自身は、といえば、『本コ』を、コンピュータを技術的文脈ではなく、文化的・社会的な変化をもたらす何かとして語る、という意味で、『遊撃手』や『Bug News』の系譜に連なる雑誌として捉えていた。
 通常、コンピュータ雑誌では、コンピュータは主にスペックと新機能で語られてしまう。けれども、コンピュータを使って何かをしようとする人たちは、常に、スペックや新機能では語ることのできない領域に踏み込んでいっている。そんな動きを、クロック数やバイト数とは異なるところで語ってくれる場が、『本コ』であってほしい、と、そんなことを期待していた。
 といいつつ、実際に自分が面白いと感じる記事の多くは、紙の「本」の側の歴史や文化的な蓄積の厚みを語るものだった。この8年間に自分を図書館屋として自己規定していった、という時期的なこともあるかもしれないけれど、案外、このあたりが、『本コ』という雑誌の難しさだったのかもしれない。
 紙の本について熱く語ることができる人は、出版界の周辺や「本」を巡る問題の周辺に多くいたのかもしれないが、コンピュータ絡みの新しい動きを「本」というキーワードを絡めながら(面白く、熱く)語る、というのは実は結構難易度が高いことだったのではなかろうか。もしかすると、「本とコンピュータ」というテーマ設定自体が、邪魔をしてしまった、ということも考えられなくもない。
 最終号で、「コンピュータ」の側に力点を置いて書いていたのは、ロジェ・シャルチエ「 電子テクストが「書物」を終わらせる」、萩野正昭「本の「原液」を確保せよ 百年後、コンピュータでものを読むために」あたりくらいか。正直、この最終号についていえば、紙の本へのノスタルジーに塗り固められたかのような誌面の中で、こうした文章が光って見えたことは否めない。それほどまでに紙の「本」の呪縛は強いともいえるし、「本」が果たしてきたような役割を担うメディアとしてのコンピュータの可能性を語ることは、難しいことだともいえる。
 『本コ』はこの壁に果敢に挑戦し、そして、最終的には紙の本の蓄積の重みに引きずられて終った雑誌だった。……というのは簡単なことだけれど、とにもかくにも挑戦し、かつ、国際版のように実践したことの意義は小さくはない。『本コ』が示した可能性と課題を、紙の本とメディアとしてのコンピュータの両方に関わっていかざるをえない図書館屋としては、さて、どう受け止めるか。今後が問われてしまうなあ。

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