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2005/09/17

江戸の旅日記

 ヘルベルト・プルチョウ(Herbert Plutschow)『江戸の旅日記 「徳川啓蒙期」の博物学者たち』(集英社新書, 2005)を先日読了。
 「博物学者」とあるものの、これはNaturalist、自然誌学者の意にあらず。領域横断的な観察者・記録者というくらいの意味で使われている。
 というわけで、発売前にタイトルから想像していた内容とは全然違っていて、個人的には、ある意味期待外れだったのだけれど、結果的には収穫かと。
 かなり乱暴に要約すると、江戸時代中期以降、将軍でいえば徳川吉宗以降、それまでにない視点と内容を持った旅行記が次々と生み出されていて、そこにはある種の「近代的自我」があるといってよいのではないか、というのが、本書の基本的な主張、という感じ。
 各地の慣習や風俗、言葉などについて詳細に、また、偏見なく記録しつつ、それぞれ注目しているポイントが違ったり、感想の記述のしかたが違ったりと、個性にも溢れている。そこが、この江戸時代中期以降の旅行記の面白さだったりするらしい。
 旅行記からの引用は現代語訳されているので、研究者は物足りなさを感じるかもしれないが、読みやすいことは確か。字数に余裕があれば、原文と両方あるとよかったのに、とも思うけど、そのあたりは、新書としての編集方針とかがあるんだろうなあ。
 貝原益軒に始まり、本居宣長(歴代の天皇陵を文献に基づいて実地に探す旅に)、高山彦九郎(天明の大飢饉後の東北地方の様子を記録)、古川古松軒(巡検使として各地の政治を批判)、菅江真澄(アイヌの民俗を記録)、橘南谿・司馬江漢(西洋の影響を受けつつ様々な知的要素を取り込む)、松浦静山(参勤交代の過程と同時に大名の内面生活を記録)、富本繁太夫(芸人の赤裸々な流浪の記録)、渡辺崋山(幼少期の恩人を探す旅で地方の俳諧ネットワークを活写)、松浦武四郎(蝦夷地とアイヌの克明な記録)といった面々が登場。有名どころだけではないあたりに、著者の選択のポイントがありそうな感じ。
 著者は、こうした人びとの旅行記において、「作者「個人」が必ず表面に出てくる」(p.218)ことを指摘し、「ここで取り上げたような新しい紀行は、個人主義の発達が伴っていない限り書けなかったと思う」(同)と評価している。さらに著者は、西洋の啓蒙思想における旅(と探検)の果たした役割を引きつつ、本書で紹介する旅行記に共通して現れる「経験主義」「合理主義」「実証主義」がその後の近代化に先駆けて、「しっかりした基盤を築いていた」(p.231)と、その論を展開する。
 その主張に対しては賛否双方あるかもしれないが、江戸時代の日本は存外に(飢饉のように悲惨な現実もあるにせよ)刺激的であり、また、多様な文化が混在する社会であったことは、間違いなく本書から伝わってくる。明治再評価の声がかまびすしい昨今だからこそ、明治によって失われたものを語ってくれる本書みたいな本は結構大事かも。

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