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2005/10/11

「驕る日本」と闘った男

 一応、読んではいるのだけれど、なかなか更新できないなあ。
 とりあえず、清水美和『「驕る日本」と闘った男 日露講和条約の舞台裏と朝河貫一』(講談社, 2005)を先日読了。
 朝河貫一という人は、図書館界では、イェール大学図書館(Yale University Library)の東アジア資料(特に和古書)コレクション(East Asian Library)の基礎を築いた人物として知られている(らしい)し、近世史の分野では、今年翻訳の出た『入来文書』(柏書房, 2005)で国際的に知られる日本近世史学者だったりする(らしい)。
 その朝河貫一(1873-1948)が、米国で日本研究者として活躍しはじめた頃、国際評論の場でも活躍し、日露戦争講和条約に大きな影響を与えた、というのが本書の中心的な話題になる。が、その後、朝河本人が当時の活躍について語ることをしなかったこともあり、ほとんど忘れられていたとのこと。
 日露戦争は、米国と同様、清・韓両国の「門戸開放」「領土保全」を目指した新しい国際秩序を求める日本と、旧式の帝国主義的拡張主義を展開するロシアとの対立である、という形で、日本に同情的な米国の世論を形成に多大な影響を与えた朝河は、講和条約の日本側の条件案の成立にも間接的ながら影響を与えた、というのが本書の主張。道義に基づき、賠償金の要求も取り下げることで国際的な支持を得られる、という朝河の主張は、結果的に日本側の意思決定にも影響を(直接にではないにせよ)与えたという。
 このあたりの話をこれまであまり知られていなかった資料を元に語っていくのだが、その際に、実は、もう一人の主役ともいえる人物が登場している。阪井徳太郎という人物で、小村寿太郎、金子堅太郎といった、その英語力を買われて、日本側の交渉団の中心人物に請われて、随員に加わったという実力派。日本におけるキリスト教の普及活動に力を尽くし、米国内にキリスト教関連・大学関連を中心に、様々な人脈を持っていた。阪井はこの時の随行がきっかけとなって、その後も続けて外相、さらに桂太郎首相の秘書官を歴任、さらに実業界に転じている。
 この阪井が、イェール大学の朝河と直接関係のあった教授たちに、講和条件についての検討を依頼し、その検討の結果が日本側の意思決定に大きな影響を与えた、というところは、先行研究に基づいて結構実証的に論じられている。まあ、朝河の関与の決定的証拠は結局ないのだけれど、それなりに状況証拠はあるので、間接的な影響までは推定していいんじゃないかなあ。
 さて、実は、朝河も阪井も、明治維新の際には、幕府側についた藩の出身で、藩閥が幅を利かせる当時の日本では、出世の道は断たれたも同然であった。そのため、二人とも、英語を身に付けることで立身を図り、キリスト教徒のネットワークによって留学を実現する、というルートを経て、その地位を確立している。その二人が、米国の外交姿勢や国際情勢を冷静に見定めて、日露戦争講和条約に直接・間接の影響を与えているということは、本書でも指摘されているとおり、何とも興味深い。ここにも、「敗者」の精神史が息づいている、ともいえようか。
 しかし、その後の日本では、ポーツマスでの講和条約締結を不満とする日比谷焼打事件など、国民の不満が爆発し、排外的なナショナリズムの昂揚の中で、「門戸開放」「領土保全」という路線は放棄されることになる。結果として、朝河は自ら日本の宣伝を買って出た活動を悔いたようだ。
 その後、朝河は、日本がこのままでは、米国と、また世界と衝突することになると警告する『日本之過機』(実業之日本社, 1909、講談社学術文庫版もあるとのこと)を出版したり、日本国内の様々な有力者に書簡を送ることで、日本の排外的拡張主義からの政策転換を訴えている。が、若き日の朝河を支援し、日露講和条約では政府を支持した徳富蘇峰ですら、朝河の主張に耳を傾けようとはしなかったらしい。朝河はそれでも諦めず、日米開戦直前の時期に、大統領から天皇への親書によって状況を打開しようとするが、この努力も水泡に帰している。
 結局、1919年を最後に、朝河は日本には帰らず、米国でその生涯を終えたという。国際的な日本学者として評価されながらも、日本ではほぼ忘れ去られた存在となったのは、祖国日本に絶望した朝河自身の望んだことだったのか。本書の読後感は、かなり重い。
 ポーツマスでの交渉の時点、阪井は既に「日本の最大の敵は膨れ上がる頭だ」と指摘していたという話が本書に出てくる。敗北者の地点から出発して、艱難辛苦を経て、米国社会における一定の地位を得た朝河も阪井も、冷静に日本の置かれた状況を見据えていた。しかし、今、こういう人がいたとしても、当時と同様、「売国奴」とか「非国民」とかレッテル貼られてしまうんだろうなあ。うーむ。
 日露戦争を栄光の明治の頂点として称揚する本がやたらと多く出ているけれど、その後の日本の歩みの出発点であった、という位置づけの本書を読んで、やっとほっとできた感じ。日露戦争終結百年記念にぜひ。

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コメント

戦争に勝ったら、相手国から賠償金などを取るのは当然の権利でした。それに訳の分からない道徳論を持ち込むのはおかしいと思います。
世界から支持を得たいというのも矛盾していると思います。白人国家は占領した後、敗戦国からキッチリ分け前を得て国力を付けていったのですから。
人種差別国家でその指導者ルーズベルトが同じ白人が黄色人種に搾取されるのを我慢できなかったのと、日本の国力が上がるのを阻止したかったのではないでしょうか?

通りすがりさま、コメントありがとうございます。
朝河の議論は、道徳的、というよりは、当時の欧米中心の世界情勢を踏まえたもの、というのが一読しての印象でした。

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