物のかたちをした知識
デービス・ベアード著,松浦俊輔訳『物のかたちをした知識 実験機器の哲学』(青土社, 2005)を読了。
「物のかたちをした知識」、といわれるとなんじゃそりゃ、という感じではあるが、原題が"Thing Knowledge"ということが分かると、ちょっとイメージがつかめるかもしれない……と思ったけど、やっぱりつかめないか。
要するに、科学的な知識は、論文の形で蓄積され、流通すると認識されていて、文章の形で論理的に記述されていることが、知識の最善にして唯一の形態みたいに思われているけれど、それは違うんじゃないの、という話。実際には、様々なモデル(DNAの二重らせんの発見に使われた分子模型とか)や、計測機器、実験器具など、物の形態で存在し、蓄積され、流通している知識もある、と、本書は色々な事例をあげて論じている。
例えば、熱力学の話。熱力学の理論が確立していなくても(「熱」は何らかの粒子だと考えられていた。水蒸気は水と「熱」が組み合わさってできる、とか)、蒸気機関は開発され、改善されていったわけで、理論やそれを文章とは別に、蒸気機関やその実験機器という形でも並行して、知識は形成されていった、と考えるべきだろう、という話になる。
ナレッジ・マネジメントとかをかじっていると、「暗黙知」とか「形式知」とか出てくるのだけれど、その時の「知」と、本書でいう「物知識(thing knowledge)」の「知識」は恐らく似たような概念なんだと思う、というと、わかる人にはわかるか。
物知識のプラス面だけではなく、その限界も語られたりする。例えば、計測機器の場合、現代の計測機器はその内部に様々な知識(物理学についての理論や、電子機器の動作に関する知識や、誤差の補正や、生データの画像化のロジックとか)が、まとめて一つの機器の中に組み込まれている(こうした物知識を著者は「カプセル化された知識」と呼んでいる)。その中に組み込まれている様々な知識を、使う側は意識することはないし、むしろそんな必要ができるだけないように作られているものだったりもする。
ところが、著者が例示しているMRI(脳の輪切り画像とかを映し出すあれ)のケースでは、画像として表示する際にデータを近似して処理するロジックから生じる虚像が写り込むことがあって(その現象はMRIを作った技術者にとっては当然のことだったが、MRIを使う医者にとっては何かが映し出されていると受け取られた)、そのために無意味な診断が行われた、という事例が紹介されている。それ以外にも、MRIで見えるようになったが故に、実際の病気の原因とは関係がなかったのに、無理な外科治療が行なわれたりした事例もあったり。カプセル化された知識は、カプセル化されているが故に、その限界が認識されにくかったりもする、という話。
そんなこんなで、物知識に関する哲学的議論やら、分析化学が分析機器の発達によってどのように変化したのかといった歴史的議論やら、様々な論点がぎゅーぎゅーと詰まった一冊。正直、一読だけでは消化不良気味。それだけお得という見方もあるか。
さらに、最終章のタイトルは「贈与」。計測機器・分析機器が商品として開発され、流通しているが故に、開発の方向性自体が、学問的関心からではなく、市場的論理で決まっている現状を踏まえて、「商品経済」と対立しつつ併存する「贈与経済」について論じていたりする。
例えば、初期の実験機器メーカー(著者の父親が経営していた会社が例としてあげられている)が、学問的な関心に対応する形で機器の開発に取り組み、それによって研究者からの支援や、優秀な社員の採用が可能になっていたという。つまり、学問的貢献という「贈与」こそが、初期の実験機器メーカーを、学界という社会の一員たらしめていた、というわけだ。知を単なる商品としてのみ扱う愚を、著者は明確に指摘している。科学技術の分野だから、という話はあるかもしれないが、最近の「知財」や著作権問題について関心のある向きは、この最終章だけでも一読を。
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