パルテノン・スキャンダル
朽木ゆり子『パルテノン・スキャンダル 大英博物館の「略奪美術品」』(新潮社新潮選書, 2004)を読了。
bk1ではかなり批判的な書評を書かれている本書だが、実際に読んでみると、そこまでひどくはないような、という印象。
内容としては、現在、大英博物館にある、ギリシャのバルテノン神殿の破風などにあった彫刻群(別名エルギン・マーブル。パルテノン・マーブルとも)について、それが英国に渡った経緯と、ギリシャ側からの返還運動の経緯を論じた一冊。
確かに、著者の立ち位置は返還運動に同情的ではある。が、彫刻群を英国にもたらしたエルギン卿を泥棒扱いするような主張とは一線を画し、その生涯をかなり詳細に紹介することで、ずる賢い略奪者とは異なる、古代ギリシャ芸術に傾倒した外交官としての姿を描き出してもいる(同時に、経済観念の破綻した英国貴族としての姿も描いたりしていて楽しい)。
持ち出しが合法的だったかどうかについても、著者は単純に違法と決めつけているわけではないのではないか。本書では、結果として当時のトルコ政府が黙認した以上、事実上合法であったと判断できるが、返還の是非については、持ち出しの合法性とは別の観点が必要との議論が紹介されている。著者の立ち位置はこうした主張に近いものと読んだ方がいいだろう。
むしろ、著者が強調したいのは、植民地支配下の文化財の国外流出については、むしろ倫理的側面から見直しを行なうべき、という論点だろう。流出の時点で合法であったかどうかは、(重要ではあるが)実は二次的な問題になっているのでは。
が、個人的には、この議論はまだ物足りない気がしている。むしろ、考えなければならないのは、近代国家・国民が、その国・地域で生まれた「文化財」を求めてしまうのはどういうことなのか、ということではなかろうか。
パルテノン神殿の彫刻群の返還を求める運動が活発化したのは、ギリシャ国民がその彫刻群が、ギリシャに所属することに、特別な意味を与えたからにほかならないだろう。対する大英博物館や、各国の大博物館・美術館が、一種のグローバリズム的な視点(人類共有の財産としての文化財)に立って、文化財返還運動に反論していることが、本書で紹介されている。全世界から来館者が訪れる大英博物館の主張が、完全に間違っている、と論じることは、そんなに簡単なことではないだろう。
かといって、国の文化的象徴をその国に取り戻したいという希望を、頭から否定するのもまた難しい。例えば、排仏毀釈の時に、現在日本国内にある、教科書に図版が必ず載るような国宝級の仏像や仏教美術が根こそぎ海外に流出していたら……と、空想をたくましくしてみると、そりゃ取り戻したくもなるわなあ、という気がしてくる。が、それが「国宝級」だ、という位置づけが誰からもなされないままだったとしたら?
考えてみると面白いが、大英博物館に収蔵され、展示スペースが整備され、それを見た英国人や欧米人が彫刻群を称賛しなければ、ギリシャ国民にとっての特別な意味も(現在ほどには)生じなかったかもしれない。欧米人による「発見」がなければ、浮世絵の価値を見いだせなかった日本人、という例を出すまでもないかもしれないけれど、「文化財」の価値を生み出す構造は、そう単純なものではないのではないか。
あるいは、彫刻群が返還されない限り、ギリシャ国民にとっての、彫刻群の象徴的な意味は決して失われないのではないか、という逆説も思い浮かぶ。パルテノン神殿の近くに、返還を想定して建築されている美術館は、結果として返還実現の見込みが立たないまま完成した場合、彫刻群の不在を強調し続けるような構造になっている。この後どうなってしまうのか、色々妄想したくなる話だ。
実際には、著者の提示する論点は、そこまでごちゃごちゃしたものではない(文化財の価値は自明のものとして議論されている)が、本書で提示されている素材は、充分に頭をごちゃごちゃにするに足る。読む前にあまり視点を固定しすぎない方が、楽しめる一冊ではなかろうか。
ところで、概説書に要求してはいけないのかもしれないけれど、登場人物の原綴を省略するのは何とかならないものだろうか。初出時に表示するか、人名索引をつけてそこに生没年とあわせて表示しておいてくれると、便利だと思うのだけれど……。
« 池袋西武 春の古本まつり | トップページ | 50000 »
コメント