天理図書館教祖120年祭記念展特別展示・9月
昨日は毎月恒例「教祖120年祭記念展特別展示・9月 キリシタン版と勅版/一般展示 近世名家の自筆本」(会場:天理大学附属天理図書館2階展示室 会期:2006年9月22日〜28日)を見に出掛けてきた。
今回はキリシタン版と勅版、ということで、共通点は江戸時代のちょい前からから初期(文禄から慶長あたり)、という出版の時期と、「活字」ということか。
キリシタン版は残存数がとにかく少ないこともあって、まとめて複数の資料を見られる機会が少ない。今回展示された重要文化財6点を同時に見られる機会自体、今後もそうはないだろう。僅かしか残っていないという事実に江戸幕府によるキリシタン禁制政策がいかに末端まで徹底されていかを感じるとともに、同時に、それでも現在まで残ってきた、という事実に単純に感動してしまったり。
キリシタン版というと、キリスト教に関連する文献か、伝導のための説話的なものばかり、という印象があったのだけれど、太平記の抜粋版まであったとは知らなかった。もちろん、キリスト教布教の観点から再編集された太平記だったりするらしい。
勅版は、天皇による出版事業。中国の文献を、朝鮮のノウハウを取り入れて新たに作らせた活字(ただし、金属ではなく木活字が主)で印刷している。勅版というと、この時期くらいしか聞かないところを見ると、この時期に財政的にも朝廷に余裕があって、文化面での優位性を主張しようとする動きとかがあったのかもしれない。よく知らないけど。
今回展示を見ていて初めて気がついたのだけれど、キリシタン版と勅版には共通点がもう一つあった。どちらも、デザイン上、漢籍を強く意識しているということだ。今回展示された資料は、どれも、版心のところに魚尾がある。それだけではなく、上中下三分割された上と下に太く黒い線が印刷されている。これを「黒口」というらしいが、漢籍の中でも元版によく見られる形式だったはず。それと同じような版心が、キリシタン版でも、勅版でも採用されている。
言ってみれば中身も「漢籍」である勅版はともかく、キリシタン版まで漢籍のデザインを踏襲していたとは、今の今まで気がつかなかった。これまでも図版は何度も見ていたつもりだけれど、飾り罫などに見られる西洋的要素に目を奪われてしまっていたかもしれない。こうした版心をなぜ採用したのか、検討した論文があったら、読みたいなあ。
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