思想(岩波書店)2009年第6号(no.1022)
岩波書店の『思想』2009年第6号(no.1022)の後半が、グーグルブック検索裁判和解問題特集になっていたので、難波に出てジュンク堂で購入。田舎の普通の本屋じゃ、売ってないのだった。
中身はこんな感じ。
福井健策 「グーグル裁判」の波紋と本の未来 (p.143-146)
宮下志朗 作者の権利、読者の権利、そして複製の権利 (p.147-156)
長谷川一 〈書物〉の不自由さについて: 〈カード〉の時代における人文知と物質性 (p.157-165)
高宮利行 書物のデジタル化: グーテンベルクからグーグルへ ダーントン論文への重ね書き (p.166-172)
ロバート・ダーントン著、高宮利行訳 グーグルと書物の未来 (p.173-185)
最後のダーントン論文は、冒頭に編集部が断り書きを入れているとおり、ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年3月号に掲載(配信)された、「グーグル・ブック検索は啓蒙の夢の実現か?」と、ほぼ同内容である。ル・モンド・ディプロマティーク版はフランス語から、思想は英語版(New York review of books. vol.52 no.2 (Feb. 12, 2009))からの翻訳とのこと。
「インターネット上ですでに公開された論文とほぼ同じ内容のものを、紙媒体で後追いして掲載することについては、編集部でも議論があった」そうだが、議論するまでもないような気もする。後追いだろうが何だろうが、特集(と、銘打たれているわけではないが)として必要なものであれば、転載してでも何でも載せるべきだろう。そこに「編集」の意味があると思うのだが。
ちなみに、編集部としては、「物質としての永続性を持つ紙媒体での提供を選択し続けている本誌がもちうる役割と機能に鑑みたとき、本稿を掲載することには一定の意義があると判断」して、掲載に踏み切った、とのこと。いかに『思想』とはいえ、雑誌が「永続性」を看板にするのは、違和感があるが……。
宮下論文は、ヨーロッパ中世の写本時代について論じ、活版印刷の誕生と普及を待つまでもなく、著作者の「著作権」意識は誕生してきたいた、という議論を展開。
長谷川論文は、〈カード〉と〈書物〉をめぐるここ数年の著者の論を展開したもの。今進んでいるのは、〈書物〉を〈カード〉に分解する、というよりも、テキストを物理的媒体から分離しようとする動きのような気もするので、今ひとつ、しっくりこなかった。が、自分の読みが浅いかも。
グーグルブック検索裁判和解に関して直接論じているのは、福井論文と、高宮論文と、ダーントン論文。
福井論文は、「書籍の再流通モデルとして、グーグルのビジネスが成功するのか」という点と、書籍のネット配信の流通チャンネルを握るのは誰か、そして、「デジタル化された膨大な情報の権利を誰が管理するのか」という3点が、今後の問題ではないか、と問いかけ。
高宮論文は、ダーントン論文を補足する形で、慶応のHUMIプロジェクトによるグーテンベルク聖書デジタル化事業などを紹介。しかし、「中国、韓国、日本のいずれの場合にも、印刷は国家の統治者の肝いりで行われた」(p.169)という記述は、誤解を招くのでは。韓国の出版史についてはほとんど知識がないので何ともいえないが、中国と日本に関して言えば、寺院や民間による出版の活発さは、別にヨーロッパに劣らないと思うのだが。あと、「情報に関する優れた記憶力で図書館利用者に尊敬されていたレファレンス担当者の主な仕事は、コンピュータ検索のためにキーワードを打ち込むだけになってしまった」(p.172)といった記述もあって、それはちょっと違うのでは、という気持ちに(というか、もともと日本ではほとんど尊敬されてなかったのでは、という話もあるが)。まあ、細かいところにこだわってもしょうがないのだが、現役図書館長でもある、ダーントン氏の論文と比べると、変に気になってしまうのだった。
ダーントン論文については、ル・モンド・ディプロマティーク版でも、ほとんど書かれている内容は同じなので、そちらを見てもらった方が早いといえば早い(オープン・アクセスの訳語が、それぞれ違ってたりして、比べて読むのも一興)。グーグルの独占によって、電子ジャーナルと同様の価格の高騰が引き起こされる危険性がある、という指摘は、さすが図書館長、という感じ。図書館を啓蒙主義プロジェクトの末裔として位置づける視点は、要求論優位の日本では、批判的に読まれてしまう可能性もあるが、こういう長いスパンで、図書館の役割を見直す、ということも、やはり必要ではないだろうか。出版関係者よりも、図書館関係者こそ必読かと。
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