平成21年度第95回全国図書館大会(東京大会)第3分科会レポート(後編)
前編の続きです。
後半のシンポジウムでは、詩人の長田弘さん、福音館書店社長のの塚田和敏さん、国分寺市立本田図書館の堀渡さんが登場。20分ずつ話をしてもらった後、意見交換、とのことでしたが、実際はそうはいかなかったような。
まずは、長田さん(ちなみに、司会から、最近、朝日新聞の夕刊に長田さんが書かれた記事について紹介がありましたが、未確認です)。
- 紙、表があったら必ず裏がある。1ページだけ、ということはありえない。必ず2ページはある。綴じているものは、偶数ページでかならず終わっている。基本の数は1じゃなくて2。また、本は必ず1冊だけではなく、同じものが複数ある。
- それが本を作っている一番大事な性質。本は、どんな場合を見ても、一つではなく、二つの働きからなっていると考えたい。
- 読書というのは、読めばいいだけのこと。それだけのことだが、読むには本がなくてはいけない。
- 読書に対応するのは蔵書。蔵書の持つ働き、ということに、自覚的ではなくなっている。この蔵書の問題が大きい。図書館の問題も、そこに行き着くはず。書店でも、個人の家でも同じ。
- 蔵書、という考え方が、今、共有されていないのではないか。人が死ぬ、そうすると、家は簡単に処分できる。一番大変なのは蔵書。どうしたらよいかわからない。ゴミとして捨てるのか、古本屋に頼むのか。
- 死んだ人の子どもが本好きとは限らない。そうすると価値がわからない。古本屋さんを呼ぶと、たいした価値ありませんよ、と言われたりする。いったい、蔵書はどこに行くのか。
- 昔は蔵があった。しかし、新しい時代の本はどこに蔵書されるのか。子どもの頃の本を、実家に残していったりするが、その後はどうなったかわからなくなってしまう。
- 本は読むものである以前にまず持つ(所有する)もの。本を持たないと読めない。秦の始皇帝は本を読むな、と、目を塞いだのではない。持てないように本を焼いた。
- 時代小説家の?さん(注 聞き漏らしました)が亡くなったとき、司馬遼太郎が資料として全冊買い上げた。書く人だって、本がないと書けない。
- 本はどこに行くのか。文学館になったり、図書館になったりすることはあるが、一人一人の生活の中で、どれだけの本があるか。そうした本は、ゴミとしてはあまり出てこない。ゴミにならない本はどこに行くのか。
- それで、待っていたようにブックオフや、図書館で募集した場合に大量に送って来られたりする。本を持っているひとが、自分の本をどうしたらよいのかわからないのが、今の日本。
- 日本は、学力が問題になるが、識字率で問題になることはない。韓国の夏物語(注 未確認)という映画。相手役の女優さんが図書館員。父親が田舎で資材をなげうって作った図書館が舞台。その図書館は、本を読めない、字が読めない人のための図書館。
- 主演の女優、朝から晩まで本を読んでいるのをみんなが聞きに来る、そういう図書館。
- その映画では、図書館が燃え落ちる。それは、建物と、その本を読む女性がいなくなってしまう、ということ。
- これ以外にも、韓国では図書館は映画などで、重要な役割を果たしている。蔵書とその働きがよく出てくる。
- 原作が日本の作品でも、本や図書館を組み込んでくるのが韓国の特徴。(このあたりで、韓流ドラマの話が結構、あったはずなのですが、よく分からず。長田さん、結構韓流に詳しい方のようです)
- 昔の図書館のシステムを使った話もある。ウォンビンが写真家になろうと、写真集を図書室で借りる。いつも同じ人が自分の前に借りている。途中からその人が借りた本を探すようになる。
- それに対して、日本の映画やドラマにはびっくりするほど、本が出てこない。
- 蔵書は、読む前のものをいうのか、読んだ後のものをいうのか。そういうことが語られないのが今。
- 読書、読む、ということが当然のように言われる。しかし読む、ということには、二種類ある。声を出して読むということと、黙読。黙読の歴史は新しい。
- 今、どれくらいの人が音読をするか。図書館で音読していたら怒られた、という、投書があった。今は、図書館は音読のできないシステムになっている。しかし、昔はそうではなかった。
- 二十四の瞳、音読している声が聞こえてくるのが小学校の象徴になっていた。
- 昔は予習は、声を出して読むことだった。
- 落語の意味のない言葉、意味を考えなくても、音読を繰り返していると頭に入ってくる。昔の論語もそう。意味も分からずに読んでいた。音読は意味が分からずに読むことができる方法。
- 今の、ルビ、ふりがな、昔の音読の時のものとは別のもの。音として読むこととは切り離されてしまっている。
- 音読は、韓国のドラマに何度も出てくる。(ここでも、例をいくつか紹介。メモできず)こういったものがまだ残っている。
- オバマさんの朗読の話が先ほど会ったが、欧米では珍しいことではない。ファーストレディの仕事は朗読。グラミー賞にも朗読の部門があり、クリントン夫妻が賞をもらっている。しかし、日本では中継されないし話題にならない。2年前には、ピーターと狼で、ゴルバチョフとクリントンが賞をもらった。音読が生きている。
- 人が死んだとき、蔵書を寄贈、という場合、図書館がどういう対応をするのか。米国では、図書館や病院に寄付する場合には無税になる。そうすると、名前を冠される。それは蔵書の問題と絡んでいる。
- いつも読書を考えるときには二つの問題が同時に出てくる。蔵書は、読んだ本と読まない本の二つがある。
- 本の場合には、読まないけれど、手放せない、ということがある。先日同窓会があったが、何を読んだかではなく、どんな本を読まなかったか、という話で終わってしまった。それも重要なこと。
- 本には必ず裏のページがあるが、スクリーンには裏側がない。裏抜けした本(注 裏のページの文字が透けて見えてしまうこと)を作ることは出版社にとって恥だった。スクリーンにはそれがない。そこには大きな違いがあるのでは。
- 図書館にあるのは新本か古本か。どちらの蔵書館なのか。
- この本の持つ二面性の文化を、デジタルで、解決し、豊かにすることはできない。
- 本は、電池もなく、開けば読むことができるが、本がなければ読むことができない。
続いては、塚田さんのお話。
- 出版界の状況をお話することが第一だと思う。とにかく、大変な不況。この先どうなるのか、というひどい状況。
- 大手の二つの出版社、大変厳しい状況。昨年11月決算、K社、S社共に前年比売り上げマイナス。
- では自分のところはどうか。自分は2005年から社長。4年決算しているが毎年マイナス。もうそろそろ(社長を)やめないといけない(笑)。
- 大きな取次も決算マイナス。10年以上前の売り上げ(扱い高)に戻っている数字。
- 国民読書年、出版と新聞業界がタイアップして、運動進めている。新聞社も大変。広告収入が毎年二桁のマイナス。それが数年続いている。
- 新聞、販売部数自体は落ち込んでいないが、広告が全然入らない。出版社も、雑誌の広告収入も大きい。ちなみに福音館は広告0。
- 大きいのは、書店の数が急激に減っていること。10年前の半分以下になっているといわれている。出版ニュースの11月号(注 おそらく上旬号)に数字が出ている。1990年1万2千、今はその半分以下(5千)。毎年千件、本屋がなくなっている。
- 書店の数がなくなる、ということは、本を手にとってもらえなくなる、ということ。
- 一報で、ネット書店か広がっている。今、本を売る一番大きな法人はネット書店。
- 一番大きなリアル書店よりも、ネット書店の一法人の方が、大きな売り上げをあげている。それでリアル書店の減少分がカバーされているかというと、特に雑誌はそうなっていない。
- 子どもの本は、1992年がピーク。それ以降、売り上げが下がり続けている。出生数が減り続けている。子どもの本は、70年代から80年代は好調だった。子どもの数が、だいたい、200万人だった。今は100万。市場が半分になってしまった。
- 1989年からの読書推進の20年の動き、という話があったか、一方では、本の売り上げはこの間、落ちている。
- 自分自身は、1993年の学校図書館の整備計画がスタートしたときから、業界の活動に携わっている。
- 2000年に、再販制度の問題があった。公取からは、再販制度に対して、もっと柔軟に対応しないといけない、そういった硬直した体質が改善されないことにつながる、という批判があった。
- こうした動きを受けて、上野の噴水のところで、本の割引販売をすることを計画した。2000年から初めて、十年目になる。
- いろいろなことをやりながら、子どもたちに本を触れる機会を増やす、ということをやってきたが、成果が出ない、という状況。
- 出版界は、来年の読書年に向けて、取り組んでいかなければならないのだが、子どもの本の読書推進、というイメージが強い。業界内部からは、大人の本の場合にはどうか、という反応を感じることがある。
- 子どものころの読書の影響は確かにあるので、子どもの読書を中心にして、成果をあげられるようにしていきたい。
- 出版界は、戦後すぐに読書週間をつくりあげた。読書推進協議会という組織も作った。それから、50周年を迎えようとしている。
- 読書推進協議会では、それぞれの県の図書館が様々な読書グループをまとめているが、運動が分散しているように思う。
- ドイツの読書基金はNPOなのだが、来日時、活動についてうかがった。考えられないような成果をあげている。
- また、『読書推進運動』502、503号に、ベルギーの読書財団の記事が載っている。子どもための読書推進の活動をしている。
- 日本でも、活動されているグループがたくさんある。しかし、もう少し一つにまとまって動いた方が、と思うことがある。
- 国民読書年では、文字・活字文化推進機構が中心になって、お金を分散させないで、進めていってほしいと考えている。
- 今回の全国図書館大会の要綱に掲載された、第1分科会「インターネット時代のデジタルアーカイブを考える」の「日本の出版社が迫られている真のネット対応」という文章、よくまとまって書かれている。Googleにしても、国会図書館のデジタル化にしても、出版社に突きつけている問題は大きい。
- Googleについては、絶版のものだけということになっているが、絶版状態だけのものに留まらないかもしれない。出版社が出版社として継続していく基本の部分が、失われていってしまう。
- 補正予算で、国会図書館に、大変なお金がアーカイブのためについた。昭和46年までに刊行された本の全てがデジタル化できるだけのお金。そのお金を民主党はどうするのだろう、と関心を持っている。
- 「新文化」の最新号(注 2009年10月29日号)に、出版文化産業振興財団(JPIC。肥田さんが理事長)が行なった読書実態調査の内容が紹介されている(注 おそらく、永江朗「活字離れではなく“読みたい本がない”/JPIC「読書実態調査」を読み解く」のこと)。出版界を多面的に分析して書いている。そうだなあ、と思いながら読んだ。ぜひみなさんにも読んでいただきたい。
- 自分は単なる実務者、そういうものとして聞いて欲しい
- 読書、という言葉の定義が難しい。図書館を利用することが読書、というと、それで終わってしまうが、読書というのは、単に文字を読む、ということとは別のことだと想定されているのではないか。読書、という一つの理念系があって、単なる文字情報を読む、ということがもう一方にあるのだと思う。
- 単に文字を読む、ということであれば、携帯、パソコンで文字かこれだけ飛び交っている一方で、これだけ不足感が議論されているということがいわれのないことになってしまう。単なる文字情報の発信・受信とは違う。
- 図書館にとってはこのことは、特に課題。また、モニターの中で読む、ということを頭から無視してしまうこともできないと思う。
- 小学生の仕事体験の一環として、図書館で新聞を閉じ直したりといった体験をしてもらった際、日刊新聞を毎日配達されてくる、ということを説明しなければならない、という状態が時々起こる。
- 基本的には図書館が好きな子どもが来るはずだが、それでも、そういうことがある。
- 日刊紙の販売基盤が変わってきていて危機だ、ということが仕事の手応えの中でもある。
- 最近は、小学校の図書室で、新聞を毎日購読して、置いてある。ぼくらの子どもの頃とは違うなあ、ずいぶん、難しいものがあるんだなあ、と思った。新聞を使った学習プログラムもあるのだと思う。
- 自分の子どもには、新聞取るなら、その分のお金は補填するよ、という話をした。今も実際に新聞を購読しているのかどうかはわからないが、週末、日なたでゆっくり新聞を読んでいる姿を見ると、世代がつながっているかな、という感じがした。
- ここでは、公共図書館として、大人の読書推進をどうするかという話題提供をしたい。
- 公共図書館は、賑わっている。その賑わいに追われながら、日常を過ごしている。
- ただ、どれだけの層に支えられて忙しくなっているのか。
- 利用登録は、住人の3–4割は当たり前。ただ、その中で、どれだけの人に繰り返し使ってもらえるのか、ということからいうとどうか。どれだけ、リピーターという層があるのか。
- 年齢層はどうだろう。中高生、大学生はどうなのか。20代の若者はどうなのか。
- 公共図書館のカウンターのところで見ていると、どれだけの多くの若者のリピーターの顔を思い浮かべられるのか、という疑問はある。地域の中高年の方のリピーターに支えられているのではないか、という気がする。
- 貸出の数も伸びているが、利用する本の中身はどうなのか。生活を彩る、ムック系の実用書が多くないか。長文の読書とつながっているのか、切れているのか。
- 20世紀の後半の公共図書館。暮らしの中に図書館を、というのがスローガンだった。選書もそれを考えてやってきた。結果として、図書館が身近なものになった。
- アカデミックなイメージだったものが、カジュアルになってきたことは、喜ばしいことと考えてきた。
- 20世紀の後半、知の大衆化、アカデミズムの解放、という動きがあったんだろうなあ、と思う。文学全集、百科事典、世界の名著、日本の名著、今とは違う啓蒙的な新書文化、これらは、今でも図書館の基本資料になっている。
- しかし、それらはみな絶版になってしまった。図書館は出版産業の下流にある、ということを実感する。
- 暮らしの中の図書館、というスローガンによって得られたのは、歯ごたえのある本を大人が読む、ということを回避しながらの成長だったのかもしれない。
- 尊敬している出版人の津野海太郎さん。和光大学に勤めらた際に、大学図書館で、大学生のための読書振興をされていた。(ここで津野さんの文章を紹介していたのですが、出展をメモしそこねました)
- 津野さんは、学生が選んだ本コーナーを作るなど、Let's Read Projectを行っていた。
Let's Read Project
http://www.wako.ac.jp/library/about/lrp/lrp_menu.html
のことでしょう。
- 大人の読書が、問題。よくよんでいただく方と、そうでない方の二極分解という感じはする。
- 児童書の出版、利用というモデルについては、非常に成功しているように思う。児童書については、ロングセラー、スタンダードモデルが成功している、という感じがする。
- 大人の本の出版、利用というのが、そこに続いていない感じがする。
- この点で、最近の古典の新訳文庫や、隆慶一郎の全集が分冊で出たり、ということに注目している。
- 分厚い全集は、研究者、図書館向けかもしれないけれど、何か違うのではないか。
- 80年代ころに出ていた、朱色の個人全集、とりあえずのスタンダードが提示されている、というものが、継続的に提示されていることが大事なのではないか。
- 公共図書館が大人の利用者にどう向き合うのかが課題。最近では、市民から大人向けのプロジェクトをやりなさい、と言われることが多い。
- 子ども読書運動で活躍されていた方から、そろそろ大人に対してのプロジェクトを過考えることが課題なのではないか、と言われている。
- 海外に駐在された方からは、地域の図書館で読書会があったことが、地域にうけいれられる場だった、という話も聞く。
- 図書館は、個人個人がほおっておかれて、好き勝手に使うことができる、大事な施設。
- ある意味、教育的な対応ではなく、大人対大人としてどう向き合っていくのかが難しい。
- 子どもは勉強机という机がある。大人はどういう机を持っているのか。暖かい日なたでは、本は読めない。新聞は読めるけど。
- 新聞広告の間取りをじっくり見ると、どんなに高いマンション買っても、本棚は1本くらいしかおけない。
- 机もなくて、本箱もなくて、どうやって読むのか。椅子で読むのか、ベッドで読むのか。今、どこで大人で本を読むのか。今、それがない。
- 本を読む、ということは、感想をいう、ということになってしまったのは、教育の問題。それが、赤い本なのか、大きさはどうなのか、という話が、今日は出てこない、それが不思議。
- 本は、作る時にすごく注意を払っている。中身だけ読む、というのは間違っている。
- 同じ作品でも、どの本で読んだ、ということで、ずいぶん違ってくる。1968年が注目されているが(注 小熊英二『1968』のことか)、本については全然触れられていない。当時の文庫のカバー、重ねておくとすぐくっつく。改善されるのは1960年代の終わり。そういうことが印象に残っている。
- そういうところの表情の見える、気を遣っている人は、読書家、というとそうではなく、愛書家、という人たち。
- そういうことを伝えられると、ずいぶん違ってくる。
- 海外では、本を誕生日に贈る、といった、本に付随した文化を創ってきた。
- しかし、アマゾンで贈られても、あんまりありがたくない。手渡しだと、文庫のうすっぺらいものに感動したりする。
- 米国で、1年間、本をよみましょうというキャンペーンを行った。
- 自分はこんな風に本を読んでいます、ということを、大リーグの人気選手などがやっていた。松井も日本人学校で朗読。それは、選手としての契約に入っている。
- 本をただ、読むだけの話にしない。内容だけの話にするのは、教育の問題と思ってしまう。
その後は質疑応答です。
新潟の気仙沼の図書館の方からは、今日の話は参考にはなったものの、図書館が今後あるべき姿を一つでも身につけることを目指してこの分科会に参加した。過去のことは過去でよい、今後どうあるべきかを考えるのが、ここでやるべきことではないか。来年の国民読書年について、どう考えているのか、うかがいたい。という質問、というか鋭い意見が飛びました。
続いて、鳥取県立図書館の方からは、読書が利用者に合っていないのではないか。明日の暮らしをどうする、というときに、『罪と罰』を読むように進められるか。利用者にマッチしていないから、読書率の低下につながっているのではないか。といった問題提起が。
こうした参加者からのコメントを受けて、最後にそれぞれのパネラーからコメントがありました。
まずは塚田さんから。
- 子どもの時に本とつきあう、というのは、大人の本のつきあいとは違うのではないか。
- 大人になって本とつきあうというのは、必要に迫られて、ということもあるだろうし、罪と罰を好きで読む、ということもあるだろう。
- 自分はミステリーが好きで読んでいるが、それは趣味として。
- 将来に向かって、ということでいえば、本屋が売りたい本を選べる環境を作り、顔の見える読者に対して、売りたい、というポリシーを持って売れるようになるかどうか。出版社がとにかく点数を出している。少し前の倍の新刊数。自転車操業だ。
- 出版界が、自分たちの責任と役割を考え直す時期に来ている。
- 戦後続いてきた商習慣はすぐにはかわらないが、そんなこともいっていられないことも理解している。
- 図書館利用者が、リピーターと、あまり利用しない方に分極しているのではないか。よく使われる実用系のものだけではなく、ゆとりをもって読む、実用じゃないものを、みんなに使ってもらうことが課題だと思っている。
- 日本の政治家と外国の政治家の違いは、ぱっと引用できる詩がないこと。
- 小さい時に習った漢詩なら引用できる場合がある。これは音読の有無の問題。
- あるいは、繰り返し聞いている落語は引用できたりする。そのような形で、本を引用できないか。
- 本について、自分に聞かせるために、朗読するとずいぶん違ってくる。
- 米国のヒューストンの街の図書館では、昼休みに、朗読の日と、音楽の日がある。図書館の外で、パンを食べながら、朗読しているのを聞いていると、それが残る。
- ニューヨークの有名な書店がつぶれてしまった。メトロポリタン美術館のすぐ近くにあった書店。書店主の回想録によると、店じまいの直前、客の一人が朗読しはじめた。その本を買うかどうか悩んで、読み始めてみた、という様子だったが、それがあまりにうまいので、店内の客がみんな聞き入った。それは実は、ダスティン・ホフマンだった。そのことが忘れられない、と書いていた。
- 朗読というのは、まずもって、自分に聞かせるものとしてやっていけばよいのではないか。声に出したものは残る。感想を述べるよりも、本とそういうつきあいをしてみたらどうか。
- 書き手としては、じゃあ読もうか、の前に、じゃあ買おうか、と言って欲しい。
以下、感想です。
正直、話がかみ合っていなくて、聞いている側がはらはらしてしまいました(論点が収束しないので、メモが取りにくかった、というのもありますが)。
長田さんの話は、非常に刺激的で、面白かったのですが、この分科会で議論すべきことがぼやけてしまったような気がします。
結果として、来年の国民読書年に向けて、図書館界としてどう取り組んでいくのか(いかないのか)、という議論が深まったのか、というと、ちょっとそういう話にはならなかったなあ、という感じです。ここで議論しておけば、日本図書館協会としての方向性を出しやすかったように思うのですが……。
それと、これはどの分科会にも言えることだと思うのですが、参加者が純粋な観客になってしまう形を取るのは、あまりよくないのかもしれません。少なくとも、自分も舞台側に立つ可能性がある、という可能性を意識させる形にしないと、一部の質問した人を除いては、何か話を聞いてきました、で終ってしまうような。
まあ、あの人数になってしまうと、討論も難しいですが…。
そんなことも考えさせられました。
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