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2010/05/23

富士川英郎『読書好日』

 富士川英郎の随筆が面白い、ということをどこで読んだのか、どうしても思い出せない。『日本古書通信』だったかもしれない。あるいは別の何かか。
 父親が『日本医学史』の富士川游だ、ということで興味を持ったような気もするが、はてさて。ちなみに、今回の話とは関係ないが、富士川游の古医書コレクションは、京都大学附属図書館(以前は医学部図書館にあったが、今は中央図書館)の所蔵となっていたりする。目録もウェブで公開されているし、医学部にあったころとは全然扱い違うなあ、と思ったり。医史学研究室が京大医学部にない、ということは、悲しむべきことかもしれないけど。
 話を戻そう。
 とにかく、何となく気になったので、ここ数年、古書店や古本まつりなどでは、必ず、富士川英郎、という名前を探すようにしている。その甲斐あって、これまでに4冊の著書を入手できた(先は長い)。
 先日、その中の一冊で、第二随筆集にあたる『読書好日』(小澤書店, 1987)を読み始めた。そして、ようやく、読み終わった。なるほど、これはめっぽう面白い。この本が出版されたころの、学生時代の自分だったら、おそらく面白いとは思わなかっただろうとも思うが。まあ、こういうのを面白いと思えるようになった、というのも、年をとった効果の一つか。
 本書は、ドイツ文学研究・翻訳で知られる著者が各所に寄稿した短文(といっても、モノによってはそれなりの長さはある)を集めたもの。主に1975年ごろから1980年前後に書かれたものが中心になっている。日本の作家について、著者が専門とするドイツ文学の日本語への翻訳について、そして、著者のもう一つの専門である近世日本の漢詩人について、さらには、様々な分野の学者たちとの交流や、著者が長く住んでいた在りし日の鎌倉について、といったテーマ(本書にはこんなテーマに関する記述はないので勝手にまとめてみた)ごとに大まかにまとめられて構成されている。

 冒頭の一編「森鴎外『委蛇録』」は、帝室博物館総長であった森鴎外が、大正7年に、正倉院宝物の曝涼に立ち合った際の日記を紹介する、というもの。いきなりこちらの関心を鷲掴みされてしまった。鴎外は、雨天の日には正倉院を開かない(開けない)のでやることがない、ということを利用して、雨の日を中心に、奈良の名所を回っていて、そのことを日記に記録していたのである。現在、遷都1300年記念イベントが開かれている平城宮跡などにも、鴎外は雨の中出掛けていて、整備された現在とはまったく異なる様子を(漢文で)記している。その他にも、法隆寺、飛鳥村など、時間ができるとあちこちに出掛けていたようだ。
 続いては、木下杢太郎に関する文章が続く。父の専門が医学史だった関係か、医師であると同時に文学者であもあった杢太郎に関して、著者は深い関心を持っていたようで、特にその散文にほれ込んでいる様子が伝わってくる。木下杢太郎という作家については、実はまったく知識がなかった私だが、本書によって、土肥慶蔵(鶚軒)の医学上の弟子だった、ということがわかって、少し興味が湧いてきた。鶚軒との関係については、本書中の「「木下杢太郎文庫」瞥見」などに記されている。この「木下杢太郎文庫」というのは、神奈川近代文学館にある杢太郎の旧蔵書のことで、医学書なども合わせて一括して残されたもの。「瞥見」では、その概要が、文学書を中心に紹介されている。
 土肥鶚軒については、日本における『ファウスト』受容の初期の歴史を論じた、「鴎外訳『ファウスト』が出るまで」にもちょっとだけ記述がある。明治30年に森鷗外に先んじて『ファウスト』の部分訳を発表した、大野洒竹について紹介している部分だ。大野洒竹が、医師として土肥慶蔵教授の指導を受けた、と書かれている。洒竹は、俳書のコレクターとして名前は知っていたが(その旧蔵書は、東京大学附属図書館の洒竹文庫として残されている)、よもや鶚軒の弟子とは知らなかった。
 脱線になるが、土肥慶蔵は、医師であると同時に、漢詩にも造詣が深く、また、相当の蔵書家でもあったことで知られる人物。その旧蔵書は、日本人漢詩文関係が国立国会図書館に、医学・本草関係が東京大学附属図書館に、など、現在は分散してしまったが、相当部分が散逸せずに残されているようだ。どれも「鶚軒文庫」と呼ばれているので、ちょっとややこしい。カリフォルニア大学バークレイ校にも鶚軒文庫があるとか。
 弟子に何故か変な(?)人が集まってきてしまったのか、鶚軒の教えを受けると変な人になってしまうのか、本書を読んでいたら、土肥鶚軒という人物にも、改めて興味が湧いてきた。ただ、おそらくこの人、医学関係の論文以外の文章は漢文で書いてそうなんだよなあ……何となくはわかるけど、ちゃんとは読めないので、どうしたものか。自らの教養のなさを恨むばかり。
 話を戻す。
 富士川英郎の面白さの一つは、ドイツ文学を専門としつつも、日本近世の漢詩について、深い知識と愛情を持っていたところだと思うのだけれど、何故、近世漢詩文にのめり込んでいったのか、その経緯が「江戸漢詩文とわたし」という一文では語られている。簡単に言うと、森鴎外『伊澤蘭軒』経由で、管茶山を知り、管茶山の漢詩を入口に、同時代の漢詩人たちの作品を集めていった、ということらしい。日本のいわゆる「国文学」の枠から、どのようにして、日本人による漢詩/漢文作品が抜け落ちていったのか、という分析もちょっとある。要するに国民文学の確立、という近代的課題と、中国文化の影響を排そうとする国学的伝統の両者の流れが合流する中、漢詩は忘れ去られた、といった感じ。その忘れ去られたものを、著者は丁寧に拾い上げて、もう一度世の中に示し直していったのだ。
 この「江戸漢詩文とわたし」には、資料収集のこぼれ話的なエピソードもいくつか紹介されている。資料との偶然の(というか運命の)出逢い、という古書店巡りの醍醐味は今も昔も変わらない、という感じで、これがまた何とも良かったりする。
 父親の富士川游に関する文章としては「私立奨進医会と「医談」」が興味深い。現在の日本医史学会の前身であり、富士川游が中心となって設立/活動した奨進医会の成り立ちと、その機関誌に関する紹介である。日本医史学会の前史については、実は全然知らなかったのだが、ここまで富士川游の力が大きかったとは。医学史史も面白そうだなあ。
 「森銑三さんと宍戸俊治氏」は、森銑三ファン必読の一編。森銑三が古典籍資料の世界に飛び込むきっかけを作った人物について書かれている。森銑三自身も書いてることだそうだが(本書中でも言及)、森が古典籍資料への関心を目覚めさせたのは、刈谷市立中央図書館(当時は刈谷町立図書館)の村上文庫(刈谷藩医・国学者の村上忠順の旧蔵書)の整理を担当したことがきっかけ。その際、特に医書について相談に乗ったのが、村上文庫を私費で購入し、寄附した篤志家の一人である、宍戸俊治という人物だった。その人物について、森からの話や、手紙、そして、森からの情報を手がかりに遺族から得た情報などをまとめたのがこの一文である。宍戸の生没年、卒業年次、略歴など、記述として貴重だろう。
 宍戸は、東大で医学を学び、将来を嘱望されながらも、養父の急逝によって故郷にもどり、開業医として活躍したという。もし、宍戸が故郷に戻らずに、大学に残っていたら、村上文庫の寄贈もなかったとしてら、その後の森銑三の活躍はどうなっていたのだろう。宍戸自身にとってどうだったのかはわからないが、文庫でしか森銑三を読んでいない薄っぺらいファンである自分としても、この巡り合わせに、感謝せずにはいられない。
 また、宍戸は、富士川游の大著『日本医学史』を森に薦め、森はそれに応えてこの大著を読みこなし、それよって、村上文庫の整理を終えることができたという。そして富士川游の息子である英郎が、森の恩人である宍戸についてこうして書き残す……。曰く言い難い因果の糸を感じる一編だ。森の宍戸や富士川游への終生変わらぬ尊敬の念もまた、心に残る。
 この他にも「或る日の中山正善氏」など、ちょっとしたエピソードながらこれは深い、という感じの随筆がてんこ盛りの一冊となっている。上で紹介したのは、本書のほんの一部。何気ない短文にも、深い知識と経験が詰め込まれていて、油断できないのだが、文体としては淡々としていて、派手さもハッタリもない。そこがまた好ましい。

 これは面白い、と、じわじわと、数週間かけて読み終えて、これは読みごたえありすぎだろう、と思っていたら、巻末に、旧蔵者による書き込みがあることに気付いた。「半日で読了。いささかたよりない味のない本」。……え、まじですか、これで半日? 味がないって? いったい何者?
 旧制高校で教育を受けた、ある意味エリート的な教養の深さと広がり、そして人脈を持つ著者と、その著者の書いたものを「たよりない」「味のない」と一刀両断にする旧蔵者。世の中には、すごい人がたくさんいる(いた)のだなあ、とただ嘆息するばかりなのだった。

(本書は、旧漢字・現代仮名遣いで表記が統一されているが、ここでは、基本的に、随筆のタイトルや団体名等についても、漢字は現行の字体で表記してしまった。単なる手抜きである。申し訳ない。ご注意を。)

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