飯島渉「「中国史」が亡びるとき」
岩波の『思想』2011年8月号(no.1048)の特集が「戦後日本歴史学の流れ 史学史の語り直しのために」だったので、何となく購入。基本、○○学史には弱いのである。
パラパラと見た限り、民衆史と社会史の位置づけを軸に、戦後日本史学を論じる的な議論などがあったりして、それはそれで楽しそうなのだけれど、一番とっつきやすくて面白かったのは、タイトルに出した飯島渉「「中国史」が亡びるとき」(p.99-119)だった。
日本における中国史研究の必要性、誰のためのものか、言語の選択、日本史との関係など、書かれている話題は中国史を軸に語られてはいるものの、中身は、日本における外国史研究、あるいは、海外における日本史研究の在り方を論じるものとなっている。
「日本の中国史」はいつかなくなってしまうのかもしれない、という可能性を視野にいれつつ、なお、「日本の中国史」の可能性を論じるあたりがたまらない。
西洋史、海外における日本研究に関心のある向きにもお勧め。
あと読んでいて、『思想』という媒体は、誰のためのものなのか、ということを、比較的読みやすい、エッセイ的な文体から考えさせられた。学会誌でも紀要でもなく、なんとなく学術誌的に見えるけど、ピアレビューがあるわけではないし、『現代思想』ほどネタ?には走れなさそうな『思想』は、これからどうなっていくんだろう。こういう学界/会間横断的な議論の場、というのは、一つの可能性なのかもしれないけど、どれだけニーズがあるのか…。
以下、余談。
本当は『思想』6月号に掲載されたというブライアン・ウィン「誤解された誤解 社会的アイデンティティと公衆の科学理解」が読みたくて探していたのだけど、今はそれなりの大型書店でも、『思想』のバックナンバーを置いていない、ということを初めて認識した。一昔前は結構、置いてた気がするんだけどなあ。まあ、注文するか、図書館で読めばよいのだけど。
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