中山茂『パラダイムと科学革命の歴史』講談社, 2013. (講談社学術文庫)
本書を読み始めた途端に、2014年5月10日に亡くなられた中山茂先生の訃報を知った。闘病されていることはブログなどで知ってはいたが、それでもここ数年、次々と新著を出されていたので、まだまだお元気なのかと思い込んでいたのだけれど。今更ではあるが、慎んでご冥福をお祈りいたします。
本書は、1974年に刊行された『歴史としての学問』の改題増補版。特徴は、中山先生ご自身のあとがきに尽くされている。少し長くなるが引用する。
「終日図書館にこもって、一字一句脚注で資料づけを固めてゆく作業をしていると、反動的にとかく学問の本質について大言壮語してみたい、大風呂敷を拡げてみたい、という欲求に駆られるものである。しかし、このような大言壮語は、厳密性をたっとぶアカデミックな学術雑誌の論文としてはなかなか書きにくい。こうしたモヤモヤに何とか形を与えたのがこの本である。いや、形を与えたというにしては、内容が粗雑で論旨も穴だらけ、資料づけの薄い軽率な発言が多い。しかし批判を気にして手を入れているうちに角がとれて、いいたいことがぼかされる結果になることを恐れて、あえてそのまま放り出した。私はここでは、批判を許さない権威ある書物を書こうとは毛頭考えなかった。むしろ批判に値するものであることを念じている。」
(「あとがき」p.334-335)
実際、かなり議論は粗っぽいかもしれないが、とにかく、本書で扱われている範囲が広い。中国圏、イスラム圏、欧米の学問のあり方を千年単位で検討しつつ、近代以降については、学会、大学など、学問領域を支える集団と職業としての学者の再生産機構を軸に、学術活動のあり方が時代や国によって大きく異なってきたことを、日本における西洋の学問導入過程も踏まえつつ議論している。その過程で、現在(1970年代当時の現在と、2010年代の現在の両方)の学術活動のあり方を相対化する視点をこれでもかと繰り出し、今の学問のあり方を問い直す様々な視点を、本書は提示してくれる。
おそらく、個々の歴史記述については、個別分野の専門家からいろいろ突っ込みがありうるんだろうな、という気はするのだが、それでも、大学のあり方が問い直され、研究所のあり方が批判され、学会の運営が困難に直面する今だからこそ、かつてあった様々な可能性をもう一度考え直すために、読み直されてよい一冊ではないかという気がする。
また、新たに書き加えられた補章は、ご自身のこれまでの仕事のレビューでもある。本書で提示した論点を、その後どのように自らの手で展開したのか、振り返るかのような記述が続く。時間のない方は、この補章だけでも、読んでみていただきたい。1928年生まれの著者が、これまでの研究成果を踏まえて、学問の現在と未来をいかに見通していたか、そして後に続く者にどんな宿題を残してくれたのかが、この補章に凝縮されている。特に、「パラダイム」概念の可能性と、限界に関する議論は、本書で「パラダイム」概念を分析装置として縦横に使って見せた、クーン以上のクーン主義者を自称する中山先生の真骨頂ではなかろうか。
また、補章では、デジタル化により、学術情報の生成と流通のあり方や、学問そのもののあり方が変わっていくことについて、簡単に論じられている。印刷技術や学術雑誌の登場が学問のあり方を変えたように、デジタル技術によってこれからの学問のあり方が変わっていくことを、当然のように中山先生は考えられていた。
「本来は「デジタルで学問はどう変わるか」て、これからの方向まで大きく論じたいと用意もしてきたが、思えば今起こっていることは、グーテンベルク以来の大革命であり、それがこの数十年で方向が決められるようなものではないことを悟るにいたって,ごく大まかな、方向を示すに留まった。」
(「学術文庫判のあとがき」p.364)
中山先生が、どのような準備をされていたのか、今となっては知る由もない。それは、後に続くものに宿題として遺された、ということなのだろう。
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