« 2020年2月1日三田図書館・情報学会月例会 「教育と図書館の関係について考える」(根本彰慶應義塾大学文学部教授)感想 | トップページ | 公共図書館は危機下の情報弱者を支えられるか »

2020/12/30

紙の書籍のデジタル化について考えること

次のツイートについて、それなりに反響があったので、若干補足がてら考えたことをメモしておく。

元々の問題は、当該資料の小さい字が読めないが、それについて改善を求めるための窓口も明確ではない、という話をTwitterに投稿された方がいたところから始まっていて、その指摘自体については、特に反論の余地はなかったりする(とはいえ、まだ新たにデジタル化すべき資料が大量にある中で、過去にデジタル化したものの改善にどれだけのリソースを割くのか、割けるのか、というのは何とも悩みが深い論点ではあり)。
ただ、関連する反響の中で、そもそもマイクロからデジタル化する、という選択自体について疑問を呈する意見もあったので、いやいや、現在の視点からすればそう見えるのも分かるけど、デジタル化した時点の判断として妥当であったかどうかについて、安易に決めつけるのかはどうか、ということで、上のtweetをしたのだった。
なお、話の発端になった指摘に関連して、批判ばかりするのはどうか、的な意見も見受けられたが、内部から見れば妥当なことだされるとしても、第三者の目で検証すること自体は必要であり、マイクロからのデジタル化についての議論が深まることも重要だと思う。考えてみると、その点、自分のtweetは、検証を行うことそのものについて、否定的な印象を与えてしまったかもしれない。

関連して、大量デジタル化(mass digitization)についてもスレッドの中で言及した。


なお、規模が変わると、考えるべきことが変わる、ということについては、若干だが、岡本真・柳与志夫 責任編集『デジタルアーカイブとは何か』勉誠出版, 2015. 所収の拙論「デジタル・アーカイブ構築に当たって考えるべきこと」p.131-156の注(注16 p.154-155)で、物流について言及したことがある。品質管理については、正直、まだ十分に考えたことはないのだが、マイクロフィルムからのデジタル化と、紙の書籍からのデジタル化では、その性質が大きく異なるのではないか。モノクロかカラーか、という問題や、使用する機器の性質の違いもあるが、最も大きな違いは、マイクロフィルムは物理的フォーマットが統一されているが、紙の書籍はそうではない、というところにあるのではないかと最近では考えている。
もう少し敷延しよう。紙の書籍のデジタル化は、一見、同じことを繰り返す単純作業に見えるが、紙の書籍を多数扱ったことがあればすぐに分かるように、物理的形態・性質が同じ書籍は、同じタイトルの同じ刷のもの以外には、基本的に存在しない。判型が違い、ページ数が違い、紙質が違い、活字も違えば挿図の印刷手法も違う。同じ出版社の同じシリーズであっても、中身が違えば、その物理的形態・性質もまったく同一、ということはありえない。裁断し、装丁をはぎ取って、一枚ずつの紙にしてしまえば、かなり性質を近づけることができるが、製本され、装丁をできるだけ保った状態でデジタル化しようとすれば、厚みの違い、紙質の違い、あるいは、それまでの利用状況による本の開き具合の違いなど、それぞれ、微妙に一点ずつ異なる性質を持った書籍に対応することになる。この微妙な差を吸収しながら、相当の処理速度で、一定の画像品質を保つ、ということが、書籍の大量デジタル化には求められることになる。
なお、これはマイクロからのデジタル化と共通する問題だが、中身が違う、ということは、成果物であるデジタル画像の中身も原則的に全て異なる、ということになる。同一の画像の出来を比べるのではなく、大量に生成される全て異なる画像の品質を一定に保つ、ということも求められることも付言しておこう。ただ、こうした課題の詳細を明らかにするは、実際にデジタル化のノウハウを持つ受託業者や、作業者へのインタビューなどが必要かもしれない。

もう一つ、上のツイートへの反響として、政策論に言及したものもあった。
NDLのデジタル化プロジェクトについて、政策論的に論じるのであれば、先行するマイクロ化プロジェクトとの関係について、論じる必要があるように思う。
例えば、和田敦彦『越境する書物:変容する読書環境のなかで』新曜社, 2011.の第三章「今そこにある書物 書籍デジタル化をめぐる新たな闘争」p.91-140がこの論点に切り込んでいるので、ぜひご一読いただきたい。
例えばだが、ある時期まで、マイクロからのデジタル化が選択されていたのは、それが合理的であったからというよりも、先行するマイクロ化プロジェクトに規定された部分が大きかったのではないか、という批判は十分にあり得るように思う。そして、そのマイクロ化は、和田先生が論じているように、先行する明治期刊行図書目録の存在に規定されている面が恐らくあるだろう。裏返せば、そうした先行するプロジェクトの問題点が引き継がれている可能性もあるわけで、そのような論点からの批判・批評もあってしかるべきだと思う。

というわけで、何が言いたいかというと、色々論点はありうるので、もっと書籍のデジタル化について考えようぜ、ということに尽きる。まあ、現場的には色々言われてもつらい、という面もあるが、日本の情報環境の基礎をどのように築くのか、ということに直結する議論は、やはり広く行われた方がよいのではなかろうか。

« 2020年2月1日三田図書館・情報学会月例会 「教育と図書館の関係について考える」(根本彰慶應義塾大学文学部教授)感想 | トップページ | 公共図書館は危機下の情報弱者を支えられるか »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 2020年2月1日三田図書館・情報学会月例会 「教育と図書館の関係について考える」(根本彰慶應義塾大学文学部教授)感想 | トップページ | 公共図書館は危機下の情報弱者を支えられるか »

2023年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

Creative Commons License

無料ブログはココログ