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2021/12/26

吉見俊哉『大学は何処へ 未来への設計』岩波書店, 2021.(岩波新書)

『大学は何処へ』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

吉見俊哉『大学は何処へ 未来への設計』岩波書店,2021.(岩波新書)を読了。大学論でもある一方で、平成日本の失敗の総括的な議論でもあり。

さらに言えば、戦後日本の出発点における高等教育の制度設計の失敗の分析にもなっている。特に、実用的・専門的な分野別の研究・教育とは異なる性質を持ち、高等教育において本来不可欠であるリベラルアーツ教育が定着しなかったことが繰り返し様々な事例で議論されていくのがポイント。リベラルアーツ教育的要素を強く持っていた旧制高校の解体(新制大学への吸収)が、一つの転機であった、という議論が興味深い。また、その後の大学における教養課程の解体は、その帰結であり、その背景には、大学の教授会内における旧制高校出身教員へ差別意識があった、というのは、納得感はあるが、何というか救いがない。

その他、戦中における、理工系重視政策(一部の私立大学においては実際に文学部が廃止されているとのこと)など、現在、大学が直面している様々な問題は、実は今始まったことではなく、近代日本の高等教育史において長く未解決の問題として引き継がれてきたものであり、平成期においてその解決の機会を逃し続けて現在がある、という基本的な視点は一貫している。

一方で、戦後の日本の高等教育における注目すべき事例として、旧制高校的な仕組みを取り込んだ高等専門学科(高専)や、旧制高校的な要素を新制大学の中で活かそうとした東京大学教養学部、そしてMITを参照しつつリベラルアーツ教育を重視した東京工業大学の事例が紹介されている(そう言われて考えてみると、東大教養学部と東工大の両方に、科学史の研究室があるのはおそらく偶然ではないのではないかと)。こうした、過去の蓄積や、海外の先進事例を踏まえた取り組みもあったことに、一縷の希望が残されていることも感じさせてくれる。

なお、問題点を指摘するばかりで終わるわけではなく、新型コロナウイルス感染症の影響により、オンライン化が急速に進んだこの機会を捉え、大学を国や地域を超えた教員と学生のギルド的な組織として位置づけ直しつつ、同じ場所に集まるということの意味を、社会的課題との接点として再構築することが提案されている。解決策を考えていく際に重要視されているのが、教員と学生の、研究と学習のための時間のマネジメントであり、この観点を等閑視した現在の単位の考え方を激しく批判しているのもポイントかと。時間のマネジメントの話は、大学院が社会人を受け入れる際に、職場の側にとっても重要な問題になるんじゃないかなあ、と思いつつ読んだりしていた。

平成日本の失敗の総括的な議論としては、次のような指摘が印象に残る。

「平成時代の日本の失敗の多くは、既存の前提はそのままにして小手先の改革に終始してきたことに起因する。多くの日本人が、できない理由を次々に見つけ出し、自らの手足を縛った。人は、こんな難しさがある、あんな問題があると言い募られれば、大手術は「時期尚早」と先延ばしにするほうを選ぶ。たまにビジョンを掲げ、大きな転換を志向する流れも生じるが、結局は足の引っ張りあいで論点が単純化され、表面だけが塗り替えられる結果に終わる。」(第4章「九月入学は危機打開の切り札か——グローバル化の先へ」)

小見出しで「困難列挙主義」とも呼ばれているこうした問題は、大学に限らず様々な面で見られる問題だろう。大学改革ではしばしば強力なリーダーシップの必要性が叫ばれるが、「既存の前提はそのまま」で「強力なリーダーシップ」とやらを導入しても、当然ながら何も解決しないに違いない。実際、本書では、学長リーダーシップの必要性は確認しつつも、「決定的に欠落しているのは、「大学とは何か」という根本理解である」(第六章「大学という主体は存在するのかーー自由な時間という希少資源」)と、まず前提を問い直すことの重要性が語られている。

そもそもの「既存の前提」がどのようなもので、それが何処から由来していて、本質的な問題点がどこにあり、同時代における対抗軸はなかったのか、あったとすれはその可能性を改めて見直すことはできないか、その時、提示されていながら正面から議論されなかった論点は何かなどなど、歴史的な観点を導入することでいかに見通しが良くなるかを、本書の試みは提示してくれているように思う。もちろん、歴史に基づくからこそ、反論・批判も多々ありうるかと。注は付されていないが、巻末に参考資料リストがあり、主要な論拠とされた研究については文中で明記されているので、批判的な読みにも耐えうるのではなかろうか。

大学論として読むのも良し、現在の日本社会が抱える問題点に関する議論の一例として読むのも良し。そして何より、歴史や、意思決定過程の記録がいかに役立つか、という実例としても読むことができる一冊かと。

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2021/12/18

稲宮康人『大震災に始まる風景─東北の10年を撮り続けて、思うこと』編集グループSURE, 2021.

稲宮康人『大震災に始まる風景─東北の10年を撮り続けて、思うこと』編集グループSURE, 2021.を読了。

写真家稲宮康人氏の最新の作品である、東日本大震災被災地を撮影するシリーズの中間報告的な一冊。モノクロながら、10年をかけて撮影されてきた作品群の紹介と、インタビューで構成。

大判の4×5(シノゴ)フィルムでの撮影とのことなので、カラーでパネルにプリントされたらもっとスゴイんだろうなあ、と思いつつ、それでも、津波被害を受けた地域が、大規模なかさ上げ工事や防潮堤の建設で、どのように変化してきたのかを、ここに収録された写真を見るだけでなんとなく感じ取ることができる。少なくとも作品的には淡々としていて、一見、単なる工事現場や、まだ建物で埋まっていない住宅地の写真なのだけれど、そこに、震災直後の状況や、徐々に進んでいく工事の状況、そして、帰還困難地域が残る福島とそれ以外の被災地との差異、といった文脈が重なることで、地域社会の置かれている状況が浮かび上がってくる感じ。

インタビューでは次の一節が特に印象に残った。

「福島の、特に旧警戒地域だった場所は、かなり遅くまで暗いままで、そういう場所を撮影してから常磐道にのって一気に東京に戻ると、明かりがありすぎて、困惑してしまう。二つの場所の落差。東京のための電気をつくっていたせいで、電気を使う人がいなくなってしまった土地が、東京からたった三時間の場所にある。この訳のわからなさに打ちのめされることが原動力の一つにあります。」(p.125-126)

こうした「訳のわからなさ」が、津波被害を受けなかった地域の住宅が建ち並ぶ風景や、通りの途中から帰還困難地域になってしまう桜並木に花見に集まる人々、完成したばかりの復興公営住宅など、様々な写真と、淡々と語るインタビューの中から、じんわりと読み手にも差し出されてくる感じがある。もちろん、割とストレートに反感をベースにした写真もあったりするので、話は単純ではないのだけれど。福島県いわき市で公園でくつろぐ人々の写真には「ネットで、福島では未だに外遊びができない云々などというデマがしょっちゅう流れるので、それへの反感もあって撮った」というコメントが付されていたりする(p.174-175)。

その一方で、

「いつもは意識されていないものを撮ることで、無意識の日常が意識され、意味を持つようになる。写真の重要な役割だと思います。そのために、目の前に広がる空間をちょっとひねって作品化する、安定してひねる方法とか体得できたらいいのですけど。」(p.140)

という感じで、表現者としての意思を感じさせる話もそこここに登場していて、ここに収録されている写真が単なる記録ではなく、作品であり、表現であることも、読んでいると意識させられる。一人の写真家の作品と語りを通して、被災地を流れた時間と、東京や一部の都市部とそれ以外の地域との差異を感じさせてくれる一冊かと。客観性や中立性を演じるのではなく、一人の表現者として撮影したものということが明確だからこそ、信頼できるともいえるかも。

高速道路とその建設現場を撮影したシリーズや、海外神社(跡)を撮影したシリーズに関する話も出てくるので、そちらに興味がある方もチェックを。なお、入手は出版社への直接注文が基本なのでご注意。

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2021/12/11

チャルカ『アジ紙』アノニマ・スタジオ, 2009

先日、たまたま府中市美術館のミュージアムショップで購入した、チャルカ『アジ紙』アノニマ・スタジオ, 2009.がとても良い本だった。

チャルカというのは、現在も大阪で営業中の「東欧雑貨・手芸の店」のことだろう。そして「アジ紙」というのは、「味わいのある紙」(アジテーションのアジではない)のこと。例えば、均一な大量生産品とはちょっと違う、不均一でばらつきのある紙や、そうした紙が使われたアイテムたちをまとめて本書ではそう呼んでいる。文房具類は当然のこと、チケットや紙ナプキン、ちょっとした包み紙、レシートなども対象に入ってくる。

まず、本書前半では、チャルカのスタッフが東欧で出会ったアジ紙や、アジ紙を送り出した生産者側の人々が紹介されている。2009年に刊行された本なのだけど、この時点で既に東欧でもアジ紙は次々と失われつつあることが語られていて、それから10年以上たった現在、いったいどうなっているのだろう、と遠い目になってしまう。プラハ郊外で製本工房を営むヤナタ氏は今もご健在なんだろうか。

考えてみると、工業製品としての効率性と品質の追求が極まった結果、人が作っているが故の味わいが失われていく中で、そうした手工業的な味わいが残されていた瞬間が、奇跡的に記録されている一冊、ともいえるかもしれない。職人の手仕事による製品への注目、という点で、「民芸」的な観点とも接点がありそう。

本書後半では、チャルカが当時販売していた、紙製品のオリジナルアイテムの紹介と、その製作を発注している、各業者・町工場の人々の横顔が紹介されている。職人気質の方々によって、独自の製品が可能になっていたことがよく分かる。その中で、紙問屋の方が、かつてあった様々な紙のバリエーションが次々と廃番になっていることを語っていたのが印象に残った。もしかすると、凝った作りで様々な紙を駆使して作られた同人誌は、日本の製紙産業史的にも今後貴重な記録になるかもしれない、などと思ったり。

ちなみに、本書は初版のみ「春日製紙さんの更紙を使用した特別仕様」とのこと(再版されたかどうかは分からないけれど)。様々な紙を駆使した凝った作りで、本書自体、とても「アジ」がある。写真も素晴らしい。こういう本に、新刊としてばったり出会えたりするので、美術館・博物館のミュージアムショップは油断できないんだよなあ……

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2021/12/04

『世界』(岩波書店)2021年11月号(第950号)・12月号(第951号)

そういえば、2号分、感想を書くのをため込んでしまっていたので、『世界』(岩波書店)2021年11月号(第950号)、12月号(第951号)についてまとめて。記事の数が多すぎるので、当事者による当事者視点の論考は基本、あえて外している。そこが『世界」の読みどころでもあるとは思いつつ、それだけではないよ、ということで。

『世界』2021年11月号の特集は「反平等—新自由主義日本の病理」と、「入管よ、変われ」の2本立て……なのだが、個人的には特集外の論考の方が印象に残った。

国谷裕子「人が人らしく生きていける社会を—内橋克人さんが伝えてきた言葉」(p.23-30)は9月1日に亡くなられた内橋克人氏の追悼文。「クローズアップ現代」登場時の発言を中心に、環境問題や持続可能な地域経済論の先駆者としての内橋氏について論じている。

山岡淳一郎「コロナ戦記 第14回 敗北と「公」復権」(p.31-40)は連載最終回。単行本化が予告されている。各地で起こっていた在宅死を踏まえて、公立・公的病院の脆弱さや、情報公開における課題などを提示して議論を終えている。この間の対応について「最前線でたたかった人たちの「現場・現物・現実」のリアリティで洗い直さなければならない」という提起が重い。

また、この2021年11月号では、特集とは表紙に書かれていないが、米軍撤退後の状況を受けた、アフガニスタンに関する論考が複数掲載されいる。

栗田禎子「対テロ戦争の時代を超えて—中東における民主主義の展望」(p.54-63)は、「アフガニスタンに限らず、冷戦期、社会主義と対抗するために宗教(イスラーム)を政治利用するという手法は、実は米国によって中東全体でとられたものだった」という点を踏まえつつ、中東各国における自律的な運動の可能性を論じている。

谷山博史「対テロ戦争とは何だったのかー現場のリアリティから見えてくるもの」(p.64-71)では、タリバーンとの何度かあった和平や対話のチャンスに対して、米国側がことごとく反対し、潰してきた経緯を振り返りつつ、対話のパイプを閉ざさないことの重要性を語る。

中村佑(聞き手・島本慈子)「インタビュー 9.11から二〇年ーあの日の意味を問い続ける」(p.72-77)は、次男を9.11で亡くした人物へのインタビュー。その遺骨も見つからないまま、「9.11の場合、こんなテロが生まれた原因がどこにあるのかを考えていけば、そこには歴史的に複雑な経緯があるわけで、僕が相手にしているのは「歴史」なのかなと思わざるを得ない。」と語るその言葉に、どれほど思いが込められているのか。

特集とも小特集でもない独立した記事としては、ウスビ・サコ(聞き手・小林哲夫)「インタビュー 京都観光はどう変わらなければならないか」(p.234-239)も面白かった。京都の景観が大きく変化しつつある現状に対する提言。町屋と伝統産業の衰退が進む一方で「観光が伝統産業よりも大きな収入源」となったことで、規制に消極的になっていたのではないかと問題点を指摘しつつ、「観光都市として生きるとはどういうことなのか、市民レベルで議論」していく必要性を論じている。一方では、伝統産業の「アーカイブ」として機能し、新しい文化・産業のプロデュースに関わる人材を育てるという大学の責任についても言及。

そして何より、三宅芳夫「越境する世界史家(上) リチャード・J・エヴァンズ著『エリック・ホブズボーム—歴史の中の人生』」(p.252-260)がすごかった。タイトルだけ見ると書評のようだが、実際には書評の対象となっている本については「エヴァンズによるホブズボームの「文化的保守主義」という括りは端的にいって的外れであるだけでなく、歴史家として『極端な時代』第三部全体をまったく「読めていない」」とばっさりと切り捨て。評者(と、もはや言って良いのかどうか)の視点で、改めてホブズボームの生涯と業績を一から語り直す、という荒技をかましている。すごい。自社刊行の本の書評としてこれを載せる岩波書店も太っ腹。えらい。反ナチズム/ファシズム思想としての共産主義と、ドイツから逃れた先の英国で迎え入れられた知的エスタブリッシュメントのネットワークという二つの軸から、ホブズボームの業績を再評価しつつ、20世紀の知的・思想的動向の変遷を論じていて読みごたえあり。次号の後編と併せて必読かと。

『世界』2021年12月号の特集は「学知と政治」と、「コロナ660日」の2本立て。

まず特集「学知と政治」は、日本学術会議会員任命拒否問題について、当事者となった6名の研究者の論考を掲載。

それぞれ、読みごたえがあるのだけれど、まずは、加藤陽子「現代日本と軍事研究—日本学術会議で何が議論されたのか」(p.86-97)を。冒頭で、会員任命拒否について言及しつつも、主な内容は、日本学術会議による2017年の「軍事的安全保障研究に関する声明」の成立至る議論を丁寧にたどるもの。多様な意見がぶつかりう議論の概要と合意形成の過程について論じることで、日本学術会議がどのような場として機能しているのかを明らかにしている。2017年声明を単純に軍事研究を邪魔するものとして捉えている向きにこそ、読んで欲しい。また、議事録を含めた情報が公開されているからこそ、このような検証が可能となる、という実例としても重要かと。

一方、論文調の加藤氏とは対照的な語り口なのは、宇野重規「「反政府的」であるとは、どういうことか—政治と学問、そして民主主義をめぐる対話」(p.114-121)かと。A、Bの二人の人物の対話形式で、著者のこれまでの発言や主張を、平易な言葉で分かりやすく語り直している。学者の社会的責任として学問に支えられた内容を語るべき、しっかりした政府が必要だからこそ批判する、ということがどういうことなのか、改めて確認できる。

特集「コロナ660日」は巻頭写真と連動したコラムがそれぞれ読みごたえあり。特に、小原一真「見えない死と共有されない悲しみ・葛藤について」(p.172-173)で紹介される、納体袋に遺体を入れたあと、その上から布団をかけた看護師の「袋に入っていても、そこにいるのは患者さんなんで」という言葉が印象的。極限の状況で人の尊厳を保とうする医療現場の葛藤が映し出されている。

永井幸寿「検証 コロナと法ー何ができ、何をしなかったのか」(p.204-211)は、新型インフルエンザ等対策特別措置法が本来備えていた(しかもそれが改正で強化された)強力な各種規定と、それがいかに使われなかったかが論じられている。また、2010年にまとめられた「新型インフルエンザ(A/H1N1)対策総括会議報告書」での反省がいかに活かされていないかについても言及されており、法運用と併せて、過去の新型インフルエンザの経験から学べなかったという課題を付けつける内容。

特集外の扱いだが、関連して。河合香織「分水嶺Ⅱーコロナ緊急事態と専門家 第6回 「病床2割増」計画」(p.160-171)は、これまでになく、医療現場や専門家と、政府・行政府省との意見の対立を描いている印象。「次の感染拡大に向けた安心確保のための取組の全体像」に対する医療現場からの批判は、他ではあまり読めない気がする。また、押谷仁氏の「データがないことは、日本の最大の問題でありつづけているんです」という指摘も重要では。

特集ではないが、ドイツ関連の論考が二つ。どちらも、断片的にニュースを見たり聞いたりしているだけでは分からない俯瞰的なまとめでありがたかった。

一つ目、板橋拓己「メルケルとは何者だったのか」(p.145-153)は、メルケル前首相の経歴と業績を回顧し、「負の遺産」も多いとしつつ、「それでも彼女は「偉大」な首相のひとりだと筆者は思う」としている。特に、「自由や民主主義や法の支配といった価値が揺らぐ時代に、メルケルはそれらの価値をしっかりと掲げて譲ることがなかった」という点は重要かと。その背景に、社会主義体制下の東ドイツで育った、という経歴があったという指摘も見逃せない。

もう一篇の、梶村太一郎「メルケル後 ドイツの選択ー連邦議会選挙と新政権 上」(p.154-159)は、過半数を確保できる政党がなくなった状況下での選挙戦の過程と、連立交渉の行方について見通しを語っている。後編は2022年2月号に掲載予定とのこと。

その他、三宅芳夫「越境する世界史家(下) リチャード・J・エヴァンズ著『エリック・ホブズボーム—歴史の中の人生』」(p.240-249)については、11月号のところで書いたとおり。必読。

吉田千亜「県境の街 第10回 今を生きる」(p.272-281)は連載最終回。栃木県における東京電力福島第一原子力発電所事故の影響と、情報がない中で様々な対応に取り組み、結果的に被害があったとは認められないままとなった人たちに関するルポ。放射性物質は、放出時の天候条件によってまだらに拡散し、福島県以外の各地の影響についても事故当時は話題になっていたと思う。その後、忘れられてしまった事象を、関係者への取材を通して掘り起こした労作かと。

あと一つ、橋本智弘「アフリカの多層から聞こえる歴史の声ーアブドゥルラザク・グルナ、ノーベル文学賞に寄せて」(p.250-255)は、2021年ノーベル文学賞を受賞したグルナ氏が指導教官だったという著者による、グルナ氏とその仕事についての解説。日本での紹介ではあまり触れられていないようだが(例えばNHKの特設ノーベル賞サイトでの紹介「2021年のノーベル文学賞にタンザニア出身アブドゥルラザク・グルナさん」)、グルナ氏は、アフリカやインド、カリブなどのポストコロニアル文学の研究を行う、英国ケント大学英文科の教授でもあり、その傍ら創作も行っているとのこと。まだ邦訳がない状況ではあるものの、グルナ氏の、オリエンタリズムに対する批判視点と、アフリカ内部の複雑な歴史を直視する姿勢は、日本の現状に対する批判的視座を提示してくれそう。

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