稲宮康人『大震災に始まる風景─東北の10年を撮り続けて、思うこと』編集グループSURE, 2021.
稲宮康人『大震災に始まる風景─東北の10年を撮り続けて、思うこと』編集グループSURE, 2021.を読了。
写真家稲宮康人氏の最新の作品である、東日本大震災被災地を撮影するシリーズの中間報告的な一冊。モノクロながら、10年をかけて撮影されてきた作品群の紹介と、インタビューで構成。
大判の4×5(シノゴ)フィルムでの撮影とのことなので、カラーでパネルにプリントされたらもっとスゴイんだろうなあ、と思いつつ、それでも、津波被害を受けた地域が、大規模なかさ上げ工事や防潮堤の建設で、どのように変化してきたのかを、ここに収録された写真を見るだけでなんとなく感じ取ることができる。少なくとも作品的には淡々としていて、一見、単なる工事現場や、まだ建物で埋まっていない住宅地の写真なのだけれど、そこに、震災直後の状況や、徐々に進んでいく工事の状況、そして、帰還困難地域が残る福島とそれ以外の被災地との差異、といった文脈が重なることで、地域社会の置かれている状況が浮かび上がってくる感じ。
インタビューでは次の一節が特に印象に残った。
「福島の、特に旧警戒地域だった場所は、かなり遅くまで暗いままで、そういう場所を撮影してから常磐道にのって一気に東京に戻ると、明かりがありすぎて、困惑してしまう。二つの場所の落差。東京のための電気をつくっていたせいで、電気を使う人がいなくなってしまった土地が、東京からたった三時間の場所にある。この訳のわからなさに打ちのめされることが原動力の一つにあります。」(p.125-126)
こうした「訳のわからなさ」が、津波被害を受けなかった地域の住宅が建ち並ぶ風景や、通りの途中から帰還困難地域になってしまう桜並木に花見に集まる人々、完成したばかりの復興公営住宅など、様々な写真と、淡々と語るインタビューの中から、じんわりと読み手にも差し出されてくる感じがある。もちろん、割とストレートに反感をベースにした写真もあったりするので、話は単純ではないのだけれど。福島県いわき市で公園でくつろぐ人々の写真には「ネットで、福島では未だに外遊びができない云々などというデマがしょっちゅう流れるので、それへの反感もあって撮った」というコメントが付されていたりする(p.174-175)。
その一方で、
「いつもは意識されていないものを撮ることで、無意識の日常が意識され、意味を持つようになる。写真の重要な役割だと思います。そのために、目の前に広がる空間をちょっとひねって作品化する、安定してひねる方法とか体得できたらいいのですけど。」(p.140)
という感じで、表現者としての意思を感じさせる話もそこここに登場していて、ここに収録されている写真が単なる記録ではなく、作品であり、表現であることも、読んでいると意識させられる。一人の写真家の作品と語りを通して、被災地を流れた時間と、東京や一部の都市部とそれ以外の地域との差異を感じさせてくれる一冊かと。客観性や中立性を演じるのではなく、一人の表現者として撮影したものということが明確だからこそ、信頼できるともいえるかも。
高速道路とその建設現場を撮影したシリーズや、海外神社(跡)を撮影したシリーズに関する話も出てくるので、そちらに興味がある方もチェックを。なお、入手は出版社への直接注文が基本なのでご注意。
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