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2022/02/20

酒井隆史『ブルシット・ジョブの謎:クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』講談社,2021.(講談社現代新書)

『ブルシット・ジョブの謎』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

酒井隆史『ブルシット・ジョブの謎:クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』講談社,2021.(講談社現代新書)を読了。

デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店,2020.の翻訳者の一人による概説。なお『ブルシット・ジョブ』を中心にはしているが、デヴィッド・グレーバーによる新自由主義批判入門ともなっているのがポイントかと。

何も生み出さず、一部の人たちの立場や地位や建前を守るため以外には何の役にも立たず、社会に対してまったく何の貢献もしない、にもかかわらず、給料が支払われ続ける仕事、ブルシット・ジョブ(BSJ)が存在することを、多くの証言から明らかにしつつ、それが何故存在してしまうのか、そして増え続けるのか。また,そのことによって、19世紀には想定されていた、ほとんど働かなくても人々が飢えることのない社会の実現がいかに妨げられているのか、BSJの実例を論じ、分析しつつ、人類学的知見を導入して多面的に議論されている。……というか、そうした議論が展開されているデヴィッド・グレーバーの著作のエッセンスをかみ砕いて説明してくれている。

例えば、新自由主義において重視されているのは、実は市場メカニズムではなく、数値による競争であり、だからこそ、実際には明らかに効率が悪化し続けているとしても、数値化のために莫大な事務仕事を発生させ、拡大する政策が取られる、と説明されると、あー……と思う人も少なくないのでは。

また、「他者ないし社会への貢献度が高ければ高いほど報酬が低く、貢献度が低ければ低いほど報酬が高くなる」という実態を踏まえつつ、仕事というのは苦行であり、人に直接的に役立ったり、人々が働くこと自体を支える仕事は、それ自体が人にとっての喜びになるからこそ、仕事としては軽視される、という、エッセンシャルワークの賃金を押さえ込みつづける構造を生み出す仕事観に関する指摘も興味深い。

本書では、こうしたグレーバーの洞察を支えているのが、人類学において蓄積された、様々な社会における多様な労働や経済のあり方に関する知見であることも解説されている。読んでいて、本書では特段言及はされていないものの、カール・ポランニーの経済人類学を思い起こしてしまった。人類の社会において、経済というのは市場経済だけではない、ということを展開している点は共通しているような気もするが、労働観などの様々な観点を視野に入れて、猖獗を極める新自由主義の悪影響を踏まえていること、さらに、より直接的に、現代社会に対して警鐘を鳴らし、別の社会のあり方を想像し作っていくことを訴える点で、グレーバーの方が、現状批判として強烈な印象ではある(時代状況が違うのだから当たり前ではあるが)。

概説ではあっても、様々な論点が紹介されておりグレーバーの議論が届く範囲の広さを実感できるのも本書の特徴だろう。そして、グレーバーの言葉だけでは分かりにくい部分が、著者の言葉で改めて説明されることで、より理解しやすくなっている。例えば、BSJという、無意味な作業を延々と命じられて続けなければならないことが、どれだけ人を蝕むのか、という議論の中で、引用されている、印象的なグレーバーの言葉、

「ただ働くことだけのために働くふりを強いられるのは屈辱である。なぜなら、その要求は、自己目的化した純粋な権力行使であると感じられる──正しくも──からである。かりに、演技の遊びが人間の自由のもっとも純粋な表現だとすれば、他者から課された演技的仕事は、自由の欠如のもっとも純粋な表現である(BSJ 122)」

について、著者(酒井氏)は次のように解説している。

「自由の最高の表現である無目的な遊びが、他者から強制されると、それは不自由の最高の表現へと転化するのです。たとえば、奴隷主が奴隷たちに、格闘技をやるように命じます。もし自由にやったらただただ愉快である、たがいに技術や駆け引きをたのしむゲームは、ここでは奴隷主の気まぐれの力の行使にどこまでも従わねばならない、その権力の純粋な発現と服従のあかしになります。」

もちろん、やや難解にも思えるグレーバーの言葉遣い、用語の選択には、相応の理論的背景があることも、ところどころで著者は触れている。この部分も、おそらくは、グレーバーの言葉の選び方にはそれなり理由があるのだろう。ただ、著者はそれを理解した上で、かなり大胆に言い換えを行なうことで、グレーバーの議論への入り口を開こう、としているように見える。

もう一つ、グレーバーの議論と関連はしているが、本書ならではの重要な指摘として、日本特殊論の危険性の指摘がある。様々な論者が、欧米ではこうだが、日本ではこうだ、的な議論を展開して、問題は日本の特殊性にある、という結論を示しがちだが、実際には程度の違いや現れ方の違いはあるにしても、同様の問題は世界的に発生していることも、BSJの事例は示している。日本特殊論は、本来は世界的に生じている共通の現象に対する分析を逸らしてしまう危険があり、また、そうした現象に対する批判や抵抗も、日本特殊論の殻に閉じこもるのではなく、国際的な比較や連帯を通じて行われるべきである、という指摘は傾聴すべき点があるように思う。

グレーバー自身は、2020年に亡くなってしまっているが、BSJをはじめとして、その著作が批判的に論じている現象は、残念ながらおそらくそうそう簡単に無くなりはしないだろう。私たちに染みついてしまった、新自由主義的価値観を振り払うのはそんなに簡単なことではない。それでも、本書を導き手に、グレーバーの議論に、また触れてみたいと思う。

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2022/02/13

芝健介『ヒトラー:虚像の独裁者』岩波書店,2021.(岩波新書)

『ヒトラー』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

芝健介『ヒトラー:虚像の独裁者』岩波書店,2021.(岩波新書)を読了。

「ヒトラー」というキーワードが世間でやけに話題になっていたので、積ん読から取り出して読んだ。「ヒトラー」について、どのような言及をするにしても、その前にこれは読んでおいた方がよい、という一冊だと思う。

単なる伝記ではなく、それぞれの時代の社会、政治、国際関係を踏まえつつ、どのようにヒトラーが政治的に台頭し、政権を奪取し、他の政治勢力を圧倒するに至り、そして、最終的に敗北していったのか、最新の研究動向を踏まえた上で、短い記述の中に様々な関連する情報が整理されていて、分かりやすい。これ一冊読んでおくと、大抵の雑なヒトラー関連言説を、ニワカ扱いできそうな気がしてくる(いや、もちろん、そんな簡単な話では実際にはないと思うけど)。

ただ、特に前半、ヒトラーが政権を奪取するまでの過程は、なんとも読むのがつらかった。嘘とでたらめ、そして、現実離れしたロジックで「敵」を名指しすることで、第一次大戦における屈辱的な敗北と経済的苦境に陥ったドイツの人々を引きつけ、期待を集めていく過程は、その類似版、ミニチュア版を今も(いや、今こそか)あちこちで見ることができる気がして、読みながら憂鬱な気分になってしまった。失った「誇り」を取り戻せ、本来あるべきだった「未来」を取り戻せ、そのためには、その「誇り」と「未来」を簒奪する「奴ら」を排除し、「奴ら」から全てを奪え、というプロパガンダが、経済的に困窮し、自分たちを救わなかった政党政治に絶望した人々をどれほど引きつけたのかは、今、この状況下で読むと、ああ、こりゃ人気でるよなー、と想像できる感じでもあったり。

ちなみに、プロパガンダといえば、『我が闘争』から本書に引用されている部分には驚いた。「真実を追い求めることも相手に好都合にはたらくだけの場合が多く、大衆に向けては非現実であれ何であれ、教義・主義一点ばりの主張を通して絶えず自分が有利になるようにしなければならない」というテーゼや、「事実がどうであったか、は問題でなく、本当の経過がそうでなくても問題はない」と本人が書いているとのこと。そう書いてあっても、多くの人が、進んでそれに乗っかっていった、というのがまた気持ちが暗くなる。

さらにつらかったのが、決定的なタイミングで、司法が十分に機能しなかった(ヒトラーに同情的な人物が司法の要所要所にいたということでもあり)ことが、ヒトラーの政治生命を延命させ、政治的躍進を許してしまった、という部分で、本来罪を問われるべき人物が、政治的理由で罪が問われない(あるいは不当に軽い罪にしか問われない)状況が生じた時点で、その国の命運は割と尽きてしまっているんだなあ、ということを突きつけられて、これまた憂鬱な気分になったりしたのだった。

ちなみに、ヒトラーが政権を獲得してから、ナチ党以外の政党が全て解体されるまで、半年しかかかっていない。国民の支持を取り付けつつ、様々な謀略や暴力を駆使して、もともとナチ党の政権獲得を支援した勢力まで含めて、権力の独占に邪魔な勢力全てが着実に狩られていく過程が冷静に記述されている。読んでいると、気分はもう絶望である。

後半、戦争に突入すると、当初ははったりで勝ち続けつつ、独ソ戦以降はとにかく人が死んでいく。いやその前から、ユダヤ人を対象にした暴動・暴力は繰り返し推奨されていたし、占領地域が増えるごとに、ユダヤ人を中心に劣悪な環境下に追いやられる人々がすさまじい勢いで増えていっている。ここにイギリスが支援するシオニズム(イスラエル建国運動)と、中東諸国との対立なども絡んで、複雑怪奇な情勢の中で事態がどんどん悪化していくのもまた、読んでいてつらいのだった。

戦争の仕方もすさまじく、例えば、1942年の記述として

「例えば、独軍はセルビアでパルチザン戦に手を焼いていたが、独軍兵士に死者が一人出れば人質にしたセルビアの住民一〇〇名を殺害、負傷者が一人出れば五〇名を殺害するというやり方で、ユダヤ人、共産主義者、民族主義者の順に、その家族ごと「片付け」ていった。」

という話がさらりと出てきて、がく然とする。とにかく、万単位、いや、10万人単位で人がどんどん死んでいく。そして著者はその過程を淡々と記述していく。

近年の研究に基づきつつ、ヒトラーを中心にしつつ、ヒトラーの意図や指示を「忖度」して、誰が、どの組織が最もヒトラーの意思を体現しているかを競い合う構造が、虐殺へと極端化していく施策や、自国の戦力の正確な状況把握を妨げて敗北の傷を深めていったのかについても論じられており、「忖度」を軸にしたシステムがいかに政府機構の判断能力を破壊していくかも見せつけられる。

そしてそれだけ、内外で人が死んでいっても、ヒトラーの人気は根強く、1943年に批判ビラをまいた学生たち(いわゆる「白バラ」)が裁判後当日処刑された際、密告した大学職員は他の学生たちに歓呼で迎えられたという。本当に救いがない。

また異なる観点での議論になるが、ドイツの歴史教育や、歴史に対する姿勢は、割と日本では高く評価されているが、そんな単純なものではない、ということも、本書の第6章「ヒトラー像の変遷をめぐって――生き続ける「ヒトラー」」を読むとよく分かる。興味深いのは、ドイツにおけるヒトラーやホロコースト認識の転換点には、ドラマや映画が影響を与えている、という指摘で、そもそも「ホロコースト」という用語自体、1979年にドイツで放映された米国製作テレビドラマ『ホロコースト』によって広まった、とは知らなかった。また『シンドラーのリスト』などの映画が話題になったことが、どれだけ虐殺が当時ドイツの人々に知られていたのかについての研究上の関心を呼び起こす、といったこともあったとのこと。歴史学は歴史ドラマなどのフィクションとは関係ない、といういった意見もたまにネット上では見かけるが、そんなに単純な話ではない、ということもよく分かる。

一度普及してしまった嘘とでたらめで塗り固められたプロパガンダは、それが国民の間に広く普及してしまったが故に、ぬぐい去るのが困難であることも、同時に語られている。フィクションが、プロパガンダに染まった視点を相対化する機会にもなりうる可能性も本書では示されているが、それは逆の効果も持ちうる、ということでもあるだろう。

だらだらと書いてきたが、こんなのは本書で示された論点の氷山の一角に過ぎない。この一冊にどれほど論点が詰め込まれているのか、たぶん、自分には読めてない部分も大量にあるだろう。読み手に応じて、色々な見え方ををする本でもあるかと。歴史について考える際のヒントという意味でも、読む価値がある一冊だと思う。

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2022/02/06

『科学史研究』no.300(2022年1月号)、『生物学史研究』no.101(2021年12月)

このブログ、更新を再開してからは、最低でも週一回更新を目指しているのだけど、ここのところ、読書がはかどらず、まとまって書くネタがない。というわけで、最近ぱらぱらと斜め読みした学会誌について、この先ちゃんと読むとき用に、ざっくりメモしておく(と、言いつつ大抵積ん読になるのだけど…)。

まずは、『科学史研究』no.300(2022年1月号)。

巻頭の論文、山中千尋「第3回汎太平洋学術会議序説:櫻井錠二の関与にみる開催経緯と特質」p.299-316.が面白そう。1926年に東京で開催された、第3回汎太平洋学術会議(Pan-Pacific Science Congress)の開催に至る経緯を、中心となった櫻井錠二関連資料を中心に論じている様子。1920年に設置された、学術研究会議の役割や、日本の自然科学研究の国際化の進展、関東大震災の影響も絡んだ話になっている。

小特集「仮説実験授業はどのようにつくられたか」p.329-370は、2021年5月23日に日本科学史学会第68回年会において開催されたシンポジウムを元にしたもの。板倉聖宣を中心にした、仮説実験授業成立について論じられている。理科教育に関心のある方には、興味深い内容が含まれているのでは。

綾屋沙月・平井正人・鶴田想人「シンポジウム 当事者研究と科学史の対話―—インクルーシブなアカデミアに向けて」p.371-384.も同じく、2021年5月23日に日本科学史学会第68回年会で行われたシンポジウムが元になっている。障害当事者がその障害に関する研究を行なう「当事者研究」が「障害学」と比較・対比されつつ言及されたり、当事者であることだけでは他の研究分野の研究者と対等にはなれず、一方で当事者であることに過度に期待されたりする状況が語られている様子。

斎藤憲・橋本毅彦・杉本舞「『科学史事典』編集と刊行記念シンポジウムの記録」p.385-388.は、『科学史事典』(丸善,2021)の企画・編集の経緯と、2021年5月22日に日本科学史学会第68回年会の前夜祭企画として開催されたシンポジウムの概要をまとめたもの。編集や執筆の苦心や、亡くなられた伊藤和行氏の貢献についても語られている。

続いて『生物学史研究』no.101(2021年12月)

特集は「シンポジウム:COVID-19と生物学史」p.1-40.。個人的に気になったのは、19世紀末の日本の海港検疫法制の変遷を、内務省中央衛生会における議論をたどりつつ論じる、野坂しおり「19世紀末日本の海港検疫体制における中央衛生会の役割」p.9-14.と、日本における新型インフルエンザ対策に関する体制整備の経緯を論じた、横田陽子「日本のパンデミック対策成立経緯――新型コロナを迎えるまで」p.15-21.が、どちらも公衆衛生・防疫に関する制度が、国際動向を含めて、様々な要因が絡み合いながら確立されていく過程を明らかにしている感じで、興味深い。

論文、佐藤正都「明治期における代表的な思想家たちの進化論解釈・利用と二次的な対立構造」p.41-53.は、日本における進化論の受容と進化論に関する議論を、米国における進化論に関する議論との対比も加えつつ論じている様子。日本では進化論は科学的真理として受け入れられ、それを前提にした形で議論が展開した、という結論部分だけ先に読んでしまったけど、これは面白そう。

あとは、学会誌じゃないけど、『思想』2022年2月号「[特集]ポピュリズム時代の歴史学」も面白そうと思って買ったものの、まだ読めず……

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