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2022/07/31

筒井清輝『人権と国家―理念の力と国際政治の現実』岩波書店,2022.(岩波新書)

『人権と国家』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

筒井清輝『人権と国家―理念の力と国際政治の現実』岩波書店,2022.(岩波新書)を読了。

これは面白い。国連の人権保護関連の各機関の勧告に対しては、権威主義的な国だけではなく、日本でも「内政干渉だ!」という反発が巻き起こることがある。各国の身体的・政治的、あるいは社会・文化的な人権保護のあり方に対して文句をつける、という行為には、「内政干渉」的な側面があるのは確かで、にも関わらず、多くの国がそうした「内政干渉」を前提とした条約に参加しているのは、何故なのか、という問いについて、本書は、第二次大戦後の変遷を辿りながら解き明かしている。

また、数々の虐殺を止めることができなかったという国連による人権保護の限界を論じつつ、その一方で各国で地道な人権状況の改善の取組みや、モニタリングの精緻化が進められ、そして何より、各国における現状に対する異議申し立てに力を与え、支える枠組みとして、少しずつ効果を上げていることを示して、国連による人権状況改善に向けた取組みが無駄ではないことを解説しているのも重要だろう。

本書における興味深い指摘は色々あるが、大国がスローガン的に「建前」として導入した理念が、その国の思惑を超えて、結果として、国際的に共通の理念となり、提唱したその国自身をも縛ることになっていった、という歴史的経緯から学ぶべきことは多いだろう。どんなに状況が悪く、絶望的になったとしても、「建前」や「偽善」であれ、一定の共通の理念が掲げられ続けることに意味はあるし、そこに機会はありうる、ということでもあるのだから(裏返せば、「建前」が投げ捨てられる時は、危機はより深刻だということでもあろう)。

もちろん、国際状況の動向に応じて取組みが後退したり、停滞したりという時期はあるし、今この瞬間にも世界中で、不当に差別され、拘束され、殺されていく人たちがいる。その事実と現状を認めた上で、第二次世界大戦後の国際社会が、戦争と植民地支配の経験と反省を踏まえて組み上げた、普遍的人権という理念と、その理念を現実のものとするために蓄積してきた様々な条約と、その条約に基づく取組みについて、限界があるから無駄と切り捨てるのではなく、経緯と限界を知った上で、それをどう生かしていくのかを本書は問いかけている。なお、このような普遍的に人間であれば誰でも持っている、という人権概念は20世紀半ばまで存在しなかった、と、20世紀前半までの限定的な人権概念との差異が本書は強調しているのも特徴かと。

普遍的人権の国際政治における重要性については、

「国際政治の理想と現実に深い洞察を示したE・H・カーは、軍事力と経済力とともに、「意見を支配する力」を国際社会で重要な力としてあげた。今日の国際情勢では、人権に関して適切に判断し行動する「人権力」は、意見を支配する力の中核をなしており、権威主義勢力でさえ人権理念を真っ向から否定することは少ない。この「人権力」をつけるためには、まず国際社会でどのように人権理念が発展し、国際政治システムにどうやって組み込まれてきたのかを理解しなければならない。」

と著者は指摘しており、単なる理念というよりは、国際的な交渉ツールとしての普遍的人権の側面にも目が配られている(だからこそ、各国での反発もあるわけだが)。

また、普遍的人権の成立について紹介されている議論も興味深い。特に、「自分とは違う社会集団に属する人間に対する共感」の成立と拡大について、リン・ハント『人権を創造する』(岩波書店,2011.原著は2007年刊)では、啓蒙主義の時代に西欧で流行した書簡体小説にその端緒があるとされているとのこと。サミュエル・リチャードソンやジャン゠ジャック・ルソーによる書簡体小説のナラティブ構成が、階級や性別を超えた外集団への共感を可能にした、という議論なのだが、フィクションは社会に影響を与えない(から、何らの制限も受けるべきではない)という議論の真逆を行く、むしろ、フィクションこそが人の世界認識を変革する契機となる、という議論になっていて興味深い。著者はハントの主張については、反対意見も多数あるとの留保をつけつつ紹介しているが、表現の自由の重要性をどこに求めるのか、という点でも、こうした議論を参照しておくのは意味がありそう。

この他、人権概念は西洋中心主義的だ、という批判も継続的に存在するが、世界人権宣言について、「最終案が固まるまでには、起草委員会から人権委員会、最後に総会の第三委員会で、様々な国、人種、宗教、言語、文化を代表する人々による熟議が何度も行われており、その過程で多様な視点が反映された文書が形成された」という指摘もあり、物事はそう単純なものではない、ということもよく分かる。

また、国際人権規約については、ソ連と東側諸国が経済権・社会権を推し(A条約)、米国等西側諸国が政治権・市民権を推す(B条約)という構図があったことが紹介されていて、結果として両方が成立するという、複雑な経緯を辿っていることが紹介されている。これまた、国際政治における駆け引きの一側面だろう。

(ちなみにまったくの余談になるだけれど、一般論としての表現の自由はB条約に、科学研究及び創作活動に不可欠な自由はA条約の方に含まれており、微妙に性格が異なっているのだけれど、最近の「表現の自由」に関する議論は、このあたりがごちゃまぜになっているような。表現の自由にも、こうした様々な立場や対立を踏まえた議論と駆け引きがあったことは、覚えておいた方がよいかも。)

普遍的人権概念と、それを支える様々な条約、それに基づくNGOなどの活動が、状況の変化に力を与えた事例も紹介されており、その一つは、日本のアイヌの人々の粘り強い活動とその成果だったりする。考えてみると、本書で紹介されているような枠組みと、その枠組みを生かしたアイヌの人々の取組みがなければ、アイヌ文化を題材として取り込んだ、野田サトル『ゴールデンカムイ』は、少なくともあのような作品にはならなかったかもしれない、ともいえるわけで、普遍的人権がもたらすものが多様であることがよく分かる事例かもしれない。

他にも、「移行期の正義」つまり、人権侵害か起きてしまった後に、その加害者の責任をどのように問い、また、社会の中で和解を達成していくのか、という課題に、日本がどう取り組むのか(少なくとも、第二次大戦の人権侵害もこの「移行期の正義」の議論の対象となっている)、という問いや、安倍政権が「価値観外交」というリベラルな価値観を前面に出した外交を展開したことの価値(それによって、日本がジェノサイド条約を批准していないことなどが、裏返しで問われる状況となっていることも含めて)が論じられていることなど、現在改めて考えるべき課題にも多く言及されている。

実態と建前にかい離があったとしても、建前が前面に出されることが、状況を動かすことがある、という近現代史の経験を、今後も生かすことができるのか、色々な知見と問いが組み込まれた一冊。

ちょっと我田引水かもしれないが、一定の立場に立って発言する時、現実が理想とはほど遠いと分かった上であっても、なお、理想を述べることは未来の可能性への投資になりうる、ということでもあるのだろう。肝に銘じておきたい。

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2022/07/24

小田嶋隆『東京四次元紀行』イースト・プレス,2022.

『東京四次元紀行』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

小田嶋隆『東京四次元紀行』イースト・プレス,2022.を読了。これが小田嶋隆氏の遺作、ということになるのだろうか。

小田嶋隆氏のことをどう語れば良いのか、正直なところよく分からない。

面識があったわけでもなく、間接的にその人柄を知っているとか、そういうわけでもない。ただ、小田嶋氏がデビューした初期の1980年代、『遊撃手』や『Bug News』といったコンピュータ系の雑誌で、そのコラムを読んでいた。自分にとって、その面白さは格別だった。その後、大学のサークルで出していた同人誌に自分が書いた原稿は基本全て、小田嶋氏のように書きたい、と思って書き、そしてもちろん、実際にはそれとは似ても似つかぬものになり果てた文章だと言って良い。

本書を読んだ時、そうしたデビュー当初の小田嶋氏が書いていたものに、何故か近いような印象を受けた。コラムではなく、小説(らしきもの)として書かれた本書で、どうしてそんな印象を受けたのだろう。

たぶんだけれど、ある意味でどうでも良いこと、多くの人にとって意味のないことが書かれているから、かもしれない。

近年の小田嶋氏は、もともと好きなスポーツに関連するものを除けば、政治的・社会的事件・発言に対する批判的な視点からのコラムを中心に活躍されていたように思う。そのことを支持する読者がいた一方で、SNSでの陰湿な攻撃の対象にもなっていた。そのことに関連して、小田嶋氏は、『その「正義」があぶない。』日経BP社,2011.の「発刊によせて」で次のように書いている。

「元来、私はカタい話を好まない。というよりも、原稿を書く人間として出発して以来30年、私は、熱弁を揶揄し、力説に水をかけ、甲論を黙殺し、乙駁を聞き流しながら、観察者の立場を防衛してきた者だ。もう少し手加減のない言い方をするなら、私は、論壇のチキンレースから逃れたい一心で、面倒くさい話題から距離を置いていたのである。逃げていたという言い方をしてもらってもかまわない。栄光ある撤退。逃走に至る三十六計。私のペン先は、いつも退路を描いていた。」

しかし、小田嶋氏が「面倒くさい話題から距離を置いていた」などという本人の言をそのまま信じるわけにはいかない。むしろ、世間の常識や、著名人相手にけんかを売りまくっていたように思うし、それもまた一つの芸になっていたと思う。とはいえ、自虐を交えることで攻撃的な印象を中和する、という技も使ってはいたように思うので、そういう意味では逃げ道を用意はしていたのかもしれない。しかし、相当のリスクを負って、自分の文章の力で勝負をかける勝負師ではあり続けていたように思う。

ただ、初期の小田嶋氏は、もっと意味がないことを書いていたような気がする。気がする、というのは、最初の単行書である『我が心はICにあらず』が手元で見つからないからで、こういう時に見つからないのも、なんとはなしに自分の持っている小田嶋氏のイメージと合致しているのでそれはそれで良いのかも(これがちゃんとした書評ならここで落第だが)。

もう少し付け加えるとすれば、意味がない、というのは、ちょっと正確ではないかもしれない。ほとんどの人にとって、それに何の意味があるのか分からない、という方が、もう少し、本書の感じに近いかもしれない。

本書で描かれるのは、社会的な意義や政治的な意味とは離れたところで、多くの人にとってどうでも良いことにこだわってしまい、どうでも良いことに躓き、どうでも良い(あるいはどうにもならない)結果を迎えたり、どうでも良い一時の救いを得たりする、一般的に言えばダメな人たちの物語である。読んだら必ず泣けるような物語ではないし、何かを学べる類いのものでもない。

けれど、多くの人にとってどうでも良いことが、自分にとってはどうでも良くない、ということから逃れられず、そのことを引受けて生きていく(あるいは生きていくことができなくなる)、このどうしようもなくダメな登場人物たちを、小田嶋氏は否定することがない。

小田嶋氏自信がそういう方だったの可能性もあるし(アルコール中毒だった時期があったことや、締め切り破りの常習犯であったことは良く知られている)、そういったタイプの人たちと接する機会が多かったのかもしれない。それは分からない。これは(一応)小説ということなのだし、小田嶋氏自身、本書の冒頭で「この文章を書きはじめるにあたって、私は、これまでコラムやエッセイを書く上で自らに課していた決まりごとをひとつ解除している。それは「本当のことを書く」という縛りだ。」と書いているくらいなので、本書には「本当のこと」は書かれていないのかもしれない。とはいえ、この序文自体が「本当のこと」なのかどうか、どこまで信じてよいのかも、私には分からない。

いずれにしても、本書で描かれた、多くの人にとって意味がないことにこだわり、躓きながら、それでも生きているし、存在しているし、その事自体が実は語るに値することなんじゃないか、という感覚は、1980年代半ばから後半の、デビュー当初の小田嶋氏とどこかつながっているような気がして、とても懐かしく読みふけってしまった。年月が経ち、今の時代にこれを書くには、小説、という形が必要であった、ということなのかもしれない。それが、書き手にとって幸福なことだったのかどうかは分からないけれど、本書が刊行されたのは、(他の人にとってどうなのかは分からないが)少なくとも自分にとっては幸福だった。

これが最後でさえなければ、もっと良かったのだけれど。

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2022/07/18

『学士会会報』no.955(2022-IV)

學士會会報』no.955(2022-IV)を斜め読みしたら面白かったので印象に残った記事をメモ。

宇山智彦「ロシアは何をめぐってウクライナ・米欧と対立しているのか」(p.16-20)は、ロシアの主張を分析して、ウクライナ侵攻の理由としてよく言われるNATO拡大という主張を「額面通りに受け取ることはできない」とした上で、特に米国との関係の中で、ロシアが国際社会における特別な権利がある、という主張や米国中心の国際秩序のゆらぎ、ウクライナとの一方的な一体性認識などを背景として分析している。バランス感覚も含めて、短く読める論説としてお勧めかと。

中山洋平「二〇二二年大統領選挙後のフランス政治――「ポピュリズム」から分極化へ?」(p.21-27)は、先日のフランス大統領選挙を分析し、かつては極右のものだった、移民排斥という主張を、幅広い勢力が取り込むことが容認されるようになっているなど、「EU統合推進、市場自由化、共和制原則に基づく意味統合」という統治エリートのコンセンサスが突き崩されてきている状況を論じている。興味深いのは、イタリアの政治学者サルトーリの描いた「分極的多党制」と同様の力学が働いているという話。「分極的多党制」というのは、

「左右両極に無視できない反体制政党を抱えている上に、中央の位置が独立の勢力によって占められていると、左右の穏健な政党は両極に吸い寄せられていく。こうした「遠心的競合」によって左右両翼への「分極化」が進めば、最終的には民主制の存続が危ぶまれる段階に至る。」

という話で、フランスでは、左右の両極が、EU統合に反対、市場自由主義路線を批難するという状況で、中道の独立政党であるマクロン党がこれまでのコンセンサスを維持する、という構図になっているとのこと。日本との比較という意味でも興味深い。

大塚美保「没後百年目の森鷗外」(p.42-46)は、今年没後百年となる森鴎外の最新の研究動向を紹介する一本。フェミニズムの理解者・支援者としての鴎外、文化の翻訳者としての鴎外、鴎外による国家批判と体制変革を通じた国家維持構想など、鴎外の持つ多面性を積極的に評価する近年の研究動向をコンパクトに紹介していて、最近はこんな議論になっているのか、と勉強になった。

北村陽子「戦争障害者からみる社会福祉の源流」(p.47-51)は、第一次大戦後のドイツで発展した、「戦争によって傷ついた人(Kriegsbeschädigter)」への支援策が、リハビリや障害者スポーツの発展、義手・義肢の技術革新、盲導犬の導入(軍用犬の戦後の活躍の場として発展したとのこと)など、現代につながる様々な障害者支援の仕組みにつながっていることが紹介されていて、まったく知らないことだらけで驚いた。

山田慎也「民俗を尋ねて《第VI期》第4回 変わりゆく葬送儀礼」(p.85-90)は、新潟県佐渡島北西部の、自宅を中心的な場として行われていた葬送儀礼を紹介するとともに、2000年代以降、公民館、そして2014年に改行した葬儀場を利用する形で変化するとともに、地域共同体から個人化の方向に向かっていった過程を紹介している。

なお、表紙の図版は東京大学総合研究博物館所蔵三宅一族旧蔵コレクションから、貴族院議員だった三宅秀(1848-1938)が貴族院議員有志から送られた、服部時計店製「帝国議会議事堂模型」。表紙裏の解説(西野嘉章「かたちの力(連載79)」)と併せて、現在の国会議事堂が完成した直後の議事堂が持っていた象徴性も含めて、興味深い。

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2022/07/10

水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)

『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

断続的に読んでいた、水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)をようやく読了。良い本でした。元版は『知の商人 近代ヨーロッパ思想史の周辺』筑摩書房,1985.で、「あとがき」によると、筑摩書房の第二版『経済学全集』の月報での連載をまとめたものとのこと。学術文庫版のあとがきによれば、元版で月報連載から落としたものも今回収録しようと探したが見つけられずに収録を断念、という話が書いてあるのだけど、編集者はそういうの探してくれないんだ……ということにちょっとがっかりしたり。

思想関連の書物と著者、そして出版社・書店の経営者・編集者たちとの様々な関わりや、書物を集めたコレクターたちの活躍を描き出す、学術的エッセイ、という趣で、一つ一つの節が独立した読み物として読めるようになっている。注記は部分的に付けられてはいるものの、探求のヒント的な扱いのような感じ。あとがきで

「全体にわたって参考文献を主とした注をつけたが、参考文献には、特定の問題についてだけ利用したものと、全般的に利用したものがあり、その区別は注ではかならずしも明らかになっていない。また、一次資料にさかのぼって確認した記述と、そうでないものとの区別も、同様である。」

と敢えて書かれているゆえんでもある。

内容は多岐に亙るので、紹介しきれないが、例えば、最初に置かれている「エルセフィエル書店」というのは、今風にいえば「エルゼビア」。近代初期の元祖エルセフィエルが手を広げ、その後消えていった過程と「商品としての思想」を広めたその功罪を、歴史的背景も含めて紹介している。

とはいえ、こうした比較的よく知られた名前が出てくる話は一部に過ぎず、もちろん、それぞれの専門分野では知られているのだろうけれど、浅学の自分には知らないことだらけだった。

例えば、「ハーリーとソマーズ」では、著者所蔵の『ハーリアン・ミセラニー』("The Harleian miscellany"。記述内容からすると1808-1813刊行の10巻本の様子。)を取り上げているが、そもそもこれってなんだろう、と思ったら、「オクスフォード伯ロバート・ハーリー(一六六一─一七二四年)、エドワード・ハーリー(一六八九─一七四一年)が、二代にわたって集めた四〇万冊ちかいパンフレットの一部分の復刻」とのこと。説明を読んでもよく分からなかったが、読み進めるうちに、ハーリー二代のコレクションの形成と散佚の過程が、コレクターの動向の変化とともに語られていて、読まされてしまう。

「アメリカ革命の導火線」では、アメリカ独立のうねりを生んだ源流の一つに、「神学の本拠であるハーヴァード・カレジに対して、大西洋を越えて二〇年にわたって送りつづけられた、五〇〇〇冊をこえる急進主義文献」があることを指摘し、その送り手であるトマス・ホリス(Thomas Hollis)について、紹介している。ちなみに、ハーバード大学図書館の検索システムの名称がHOLLISなのは、トマス・ホリスにちなんでいるのだろうか。と思ってFAQをみたら、ちなんでいるのだけど、生没年が本書で紹介されているホリスと違うので、同姓同名の別人(あるいは代違い)かもしれない(本書では1720-1774、HOLLISのFAQでは1659-1731)。

……と、ここまで書くだけで1時間近くかかってしまった。とにかく詰め込まれている情報量が多いので、これなんだろう、と、ちょっと確認しているだけで、えらいことになる。まあ、ちょっと確認できるような世の中になったというだけで、ありがたいのだけれど、裏返せば、さらに掘っていくためのネタの宝庫のような本でもある、ということでもある。

また、出版史ばかりではなく、経済と国際政治との関係を特定の商品(ワイン、ジン、紅茶)と絡めて論じる話もあったりして、話題の幅広さ尋常ではない。その中で、特に今、読み直してほしい話を、もう少しだけ紹介しておきたい。

一つ目は、「マクス・ヴェーバーをめぐる女性」という節。ここでは、ヴェバー(日本語だとマックス・ウェーバー表記が多いか)の妻であった、マリアンネ・ヴェーバー(コトバンクの解説参照)の『フィヒテの社会主義とそのマルクス学説への関係』(1900年)という著書から話がはじまる。この著書の中に、マクスの影響について言及する文言が登場することを取り上げつつ、そもそも大学のゼミに女性が参加する嚆矢であったマリアンネ(ただし聴講生として。次の世代の女性たちがようやく正式に大学に入学を許可される。)の置かれた状況を解説し、女性解放の闘士であったマリアンネと、マクスとの関係の複雑性を描き出している。特に、マリアンネの性に関する議論の歯切れの悪さを分析した、

「マリアンネは、女性の解放が性の解放に直面せざるをえないこと、「エロティークだけが両性の結合の価値を最終的にきめるものではない」にしても、エロティークを無視しえないことを知っていたし、しかも、性の解放が、男性支配のもとでは、女性の地位の低下を意味することも知っていたのである。」

という一節に表現された構造は、20世紀初頭の状況を1980年代に描写したものであるにも関わらず、現在でも玩味に値するのではないだろか。例えば、性表現の開放においても、類似の構造があるのではないか、という問いは、現在でも十分に成り立つように思う。

ちなみにその後、ヴェーバー夫妻に影響を受けた、ハイデルベルク大学の最初の女子学生であったエルゼ・ヤッフェに、マクスが接近し、それをマリアンネも知っていた、みたいな話まで出てきて、なんだこのハーレム系展開は、みたいになってしまって、こうした構造の中で女性の権利について議論していた、マリアンネすごいな、となったりも。

なお、マリアンネ・ヴェーバーについては、昭和女子大学女性文化研究所紀要に、掛川典子氏による主要論文の翻訳が掲載されているようなので、そちらも併せて確認されると良いかもしれない。

もう一つ、イギリスのピアニスト、マイラ・ヘス(コトバンクの解説参照)による、第二次大戦中の戦時下のナショナル・ギャラリーでのコンサートについて紹介した、「空襲下のコンサート」は、別の意味で、今読まれるべき一篇かと。一旦は、戦時は演奏する時ではない、と考えてピアノから離れたヘスが、かつて自分の演奏を聴いたという亡命ユダヤ人一家からの要望を受けて、演奏会を開くための会場探しをした時、受け入れたのが作品を疎開させ、ほとんど空になったナショナル・ギャラリーだった。演奏会に殺到した人々が、そこで一時の安らぎを取り戻す様子や、シューマンの歌曲をドイツ語で歌うことをためらう歌手を勇気づける話など、戦争に対して、芸術が持つ意味ということについて、改めて問いかける内容になっている。

なお、マイラ・ヘスによるコンサートについては、ナショナル・ギャラリーのサイトでも詳しく紹介(The Myra Hess concerts)されているので、そちらも併せてぜひ。例えば、最初のコンサートの入場待ちの人々の写真なども紹介されていて、当時のロンドンの人々がコンサートを待ち望んでいた様子がよく分かる。

こうしたコンサートの経験を踏まえて、ヘスが「われわれは、おそらく史上かつてなかったほどしっかりと、人類の進歩の真の本質をつかんでいます」と語ったことを、著者は紹介している。その後に、

「その後四〇年のあいだに、人類の進歩ということばは、すくなからず色あせてしまったが、ヘスがこう語ったときの日本には、このことばも音楽も存在の余地がなかったのである。」

と続けて書いていることの重みが、著者がこう書いてからさらに40年近くがたった今、さらに増しているのでは。

というわけで、全部通して読まなくても、拾い読みでもじっくり楽しめる一冊かと。こうした、研究者による専門分野のエッセイは、論文と違って業績としては、軽く見られがちだし、最初に書いたように、注記も十分には付されてはいないのだけれど、様々な検索ツールが整備された今だからこそ、興味関心を広げるための入り口として、とても有効だと思う。

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水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)

『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

断続的に読んでいた、水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)をようやく読了。良い本でした。元版は『知の商人 近代ヨーロッパ思想史の周辺』筑摩書房,1985.で、「あとがき」によると、筑摩書房の第二版『経済学全集』の月報での連載をまとめたものとのこと。学術文庫版のあとがきによれば、元版で月報連載から落としたものも今回収録しようと探したが見つけられずに収録を断念、という話が書いてあるのだけど、編集者はそういうの探してくれないんだ……ということにちょっとがっかりしたり。

思想関連の書物と著者、そして出版社・書店の経営者・編集者たちとの様々な関わりや、書物を集めたコレクターたちの活躍を描き出す、学術的エッセイ、という趣で、一つ一つの節が独立した読み物として読めるようになっている。注記は部分的に付けられてはいるものの、探求のヒント的な扱いのような感じ。あとがきで

「全体にわたって参考文献を主とした注をつけたが、参考文献には、特定の問題についてだけ利用したものと、全般的に利用したものがあり、その区別は注ではかならずしも明らかになっていない。また、一次資料にさかのぼって確認した記述と、そうでないものとの区別も、同様である。」

と敢えて書かれているゆえんでもある。

内容は多岐に亙るので、紹介しきれないが、例えば、最初に置かれている「エルセフィエル書店」というのは、今風にいえば「エルゼビア」。近代初期の元祖エルセフィエルが手を広げ、その後消えていった過程と「商品としての思想」を広めたその功罪を、歴史的背景も含めて紹介している。

とはいえ、こうした比較的よく知られた名前が出てくる話は一部に過ぎず、もちろん、それぞれの専門分野では知られているのだろうけれど、浅学の自分には知らないことだらけだった。

例えば、「ハーリーとソマーズ」では、著者所蔵の『ハーリアン・ミセラニー』("The Harleian miscellany"。記述内容からすると1808-1813刊行の10巻本の様子。)を取り上げているが、そもそもこれってなんだろう、と思ったら、「オクスフォード伯ロバート・ハーリー(一六六一─一七二四年)、エドワード・ハーリー(一六八九─一七四一年)が、二代にわたって集めた四〇万冊ちかいパンフレットの一部分の復刻」とのこと。説明を読んでもよく分からなかったが、読み進めるうちに、ハーリー二代のコレクションの形成と散佚の過程が、コレクターの動向の変化とともに語られていて、読まされてしまう。

「アメリカ革命の導火線」では、アメリカ独立のうねりを生んだ源流の一つに、「神学の本拠であるハーヴァード・カレジに対して、大西洋を越えて二〇年にわたって送りつづけられた、五〇〇〇冊をこえる急進主義文献」があることを指摘し、その送り手であるトマス・ホリス(Thomas Hollis)について、紹介している。ちなみに、ハーバード大学図書館の検索システムの名称がHOLLISなのは、トマス・ホリスにちなんでいるのだろうか。と思ってFAQをみたら、ちなんでいるのだけど、生没年が本書で紹介されているホリスと違うので、同姓同名の別人(あるいは代違い)かもしれない(本書では1720-1774、HOLLISのFAQでは1659-1731)。

……と、ここまで書くだけで1時間近くかかってしまった。とにかく詰め込まれている情報量が多いので、これなんだろう、と、ちょっと確認しているだけで、えらいことになる。まあ、ちょっと確認できるような世の中になったというだけで、ありがたいのだけれど、裏返せば、さらに掘っていくためのネタの宝庫のような本でもある、ということでもある。

また、出版史ばかりではなく、経済と国際政治との関係を特定の商品(ワイン、ジン、紅茶)と絡めて論じる話もあったりして、話題の幅広さ尋常ではない。その中で、特に今、読み直してほしい話を、もう少しだけ紹介しておきたい。

一つ目は、「マクス・ヴェーバーをめぐる女性」という節。ここでは、ヴェバー(日本語だとマックス・ウェーバー表記が多いか)の妻であった、マリアンネ・ヴェーバー(コトバンクの解説参照)の『フィヒテの社会主義とそのマルクス学説への関係』(1900年)という著書から話がはじまる。この著書の中に、マクスの影響について言及する文言が登場することを取り上げつつ、そもそも大学のゼミに女性が参加する嚆矢であったマリアンネ(ただし聴講生として。次の世代の女性たちがようやく正式に大学に入学を許可される。)の置かれた状況を解説し、女性解放の闘士であったマリアンネと、マクスとの関係の複雑性を描き出している。特に、マリアンネの性に関する議論の歯切れの悪さを分析した、

「マリアンネは、女性の解放が性の解放に直面せざるをえないこと、「エロティークだけが両性の結合の価値を最終的にきめるものではない」にしても、エロティークを無視しえないことを知っていたし、しかも、性の解放が、男性支配のもとでは、女性の地位の低下を意味することも知っていたのである。」

という一節に表現された構造は、20世紀初頭の状況を1980年代に描写したものであるにも関わらず、現在でも玩味に値するのではないだろか。例えば、性表現の開放においても、類似の構造があるのではないか、という問いは、現在でも十分に成り立つように思う。

ちなみにその後、ヴェーバー夫妻に影響を受けた、ハイデルベルク大学の最初の女子学生であったエルゼ・ヤッフェに、マクスが接近し、それをマリアンネも知っていた、みたいな話まで出てきて、なんだこのハーレム系展開は、みたいになってしまって、こうした構造の中で女性の権利について議論していた、マリアンネすごいな、となったりも。

なお、マリアンネ・ヴェーバーについては、昭和女子大学女性文化研究所紀要に、掛川典子氏による主要論文の翻訳が掲載されているようなので、そちらも併せて確認されると良いかもしれない。

もう一つ、イギリスのピアニスト、マイラ・ヘス(コトバンクの解説参照)による、第二次大戦中の戦時下のナショナル・ギャラリーでのコンサートについて紹介した、「空襲下のコンサート」は、別の意味で、今読まれるべき一篇かと。一旦は、戦時は演奏する時ではない、と考えてピアノから離れたヘスが、かつて自分の演奏を聴いたという亡命ユダヤ人一家からの要望を受けて、演奏会を開くための会場探しをした時、受け入れたのが作品を疎開させ、ほとんど空になったナショナル・ギャラリーだった。演奏会に殺到した人々が、そこで一時の安らぎを取り戻す様子や、シューマンの歌曲をドイツ語で歌うことをためらう歌手を勇気づける話など、戦争に対して、芸術が持つ意味ということについて、改めて問いかける内容になっている。

なお、マイラ・ヘスによるコンサートについては、ナショナル・ギャラリーのサイトでも詳しく紹介(The Myra Hess concerts)されているので、そちらも併せてぜひ。例えば、最初のコンサートの入場待ちの人々の写真なども紹介されていて、当時のロンドンの人々がコンサートを待ち望んでいた様子がよく分かる。

こうしたコンサートの経験を踏まえて、ヘスが「われわれは、おそらく史上かつてなかったほどしっかりと、人類の進歩の真の本質をつかんでいます」と語ったことを、著者は紹介している。その後に、

「その後四〇年のあいだに、人類の進歩ということばは、すくなからず色あせてしまったが、ヘスがこう語ったときの日本には、このことばも音楽も存在の余地がなかったのである。」

と続けて書いていることの重みが、著者がこう書いてからさらに40年近くがたった今、さらに増しているのでは。

というわけで、全部通して読まなくても、拾い読みでもじっくり楽しめる一冊かと。こうした、研究者による専門分野のエッセイは、論文と違って業績としては、軽く見られがちだし、最初に書いたように、注記も十分には付されてはいないのだけれど、様々な検索ツールが整備された今だからこそ、興味関心を広げるための入り口として、とても有効だと思う。

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