筒井清輝『人権と国家―理念の力と国際政治の現実』岩波書店,2022.(岩波新書)
(表紙画像はopenBDから。)
筒井清輝『人権と国家―理念の力と国際政治の現実』岩波書店,2022.(岩波新書)を読了。
これは面白い。国連の人権保護関連の各機関の勧告に対しては、権威主義的な国だけではなく、日本でも「内政干渉だ!」という反発が巻き起こることがある。各国の身体的・政治的、あるいは社会・文化的な人権保護のあり方に対して文句をつける、という行為には、「内政干渉」的な側面があるのは確かで、にも関わらず、多くの国がそうした「内政干渉」を前提とした条約に参加しているのは、何故なのか、という問いについて、本書は、第二次大戦後の変遷を辿りながら解き明かしている。
また、数々の虐殺を止めることができなかったという国連による人権保護の限界を論じつつ、その一方で各国で地道な人権状況の改善の取組みや、モニタリングの精緻化が進められ、そして何より、各国における現状に対する異議申し立てに力を与え、支える枠組みとして、少しずつ効果を上げていることを示して、国連による人権状況改善に向けた取組みが無駄ではないことを解説しているのも重要だろう。
本書における興味深い指摘は色々あるが、大国がスローガン的に「建前」として導入した理念が、その国の思惑を超えて、結果として、国際的に共通の理念となり、提唱したその国自身をも縛ることになっていった、という歴史的経緯から学ぶべきことは多いだろう。どんなに状況が悪く、絶望的になったとしても、「建前」や「偽善」であれ、一定の共通の理念が掲げられ続けることに意味はあるし、そこに機会はありうる、ということでもあるのだから(裏返せば、「建前」が投げ捨てられる時は、危機はより深刻だということでもあろう)。
もちろん、国際状況の動向に応じて取組みが後退したり、停滞したりという時期はあるし、今この瞬間にも世界中で、不当に差別され、拘束され、殺されていく人たちがいる。その事実と現状を認めた上で、第二次世界大戦後の国際社会が、戦争と植民地支配の経験と反省を踏まえて組み上げた、普遍的人権という理念と、その理念を現実のものとするために蓄積してきた様々な条約と、その条約に基づく取組みについて、限界があるから無駄と切り捨てるのではなく、経緯と限界を知った上で、それをどう生かしていくのかを本書は問いかけている。なお、このような普遍的に人間であれば誰でも持っている、という人権概念は20世紀半ばまで存在しなかった、と、20世紀前半までの限定的な人権概念との差異が本書は強調しているのも特徴かと。
普遍的人権の国際政治における重要性については、
「国際政治の理想と現実に深い洞察を示したE・H・カーは、軍事力と経済力とともに、「意見を支配する力」を国際社会で重要な力としてあげた。今日の国際情勢では、人権に関して適切に判断し行動する「人権力」は、意見を支配する力の中核をなしており、権威主義勢力でさえ人権理念を真っ向から否定することは少ない。この「人権力」をつけるためには、まず国際社会でどのように人権理念が発展し、国際政治システムにどうやって組み込まれてきたのかを理解しなければならない。」
と著者は指摘しており、単なる理念というよりは、国際的な交渉ツールとしての普遍的人権の側面にも目が配られている(だからこそ、各国での反発もあるわけだが)。
また、普遍的人権の成立について紹介されている議論も興味深い。特に、「自分とは違う社会集団に属する人間に対する共感」の成立と拡大について、リン・ハント『人権を創造する』(岩波書店,2011.原著は2007年刊)では、啓蒙主義の時代に西欧で流行した書簡体小説にその端緒があるとされているとのこと。サミュエル・リチャードソンやジャン゠ジャック・ルソーによる書簡体小説のナラティブ構成が、階級や性別を超えた外集団への共感を可能にした、という議論なのだが、フィクションは社会に影響を与えない(から、何らの制限も受けるべきではない)という議論の真逆を行く、むしろ、フィクションこそが人の世界認識を変革する契機となる、という議論になっていて興味深い。著者はハントの主張については、反対意見も多数あるとの留保をつけつつ紹介しているが、表現の自由の重要性をどこに求めるのか、という点でも、こうした議論を参照しておくのは意味がありそう。
この他、人権概念は西洋中心主義的だ、という批判も継続的に存在するが、世界人権宣言について、「最終案が固まるまでには、起草委員会から人権委員会、最後に総会の第三委員会で、様々な国、人種、宗教、言語、文化を代表する人々による熟議が何度も行われており、その過程で多様な視点が反映された文書が形成された」という指摘もあり、物事はそう単純なものではない、ということもよく分かる。
また、国際人権規約については、ソ連と東側諸国が経済権・社会権を推し(A条約)、米国等西側諸国が政治権・市民権を推す(B条約)という構図があったことが紹介されていて、結果として両方が成立するという、複雑な経緯を辿っていることが紹介されている。これまた、国際政治における駆け引きの一側面だろう。
(ちなみにまったくの余談になるだけれど、一般論としての表現の自由はB条約に、科学研究及び創作活動に不可欠な自由はA条約の方に含まれており、微妙に性格が異なっているのだけれど、最近の「表現の自由」に関する議論は、このあたりがごちゃまぜになっているような。表現の自由にも、こうした様々な立場や対立を踏まえた議論と駆け引きがあったことは、覚えておいた方がよいかも。)
普遍的人権概念と、それを支える様々な条約、それに基づくNGOなどの活動が、状況の変化に力を与えた事例も紹介されており、その一つは、日本のアイヌの人々の粘り強い活動とその成果だったりする。考えてみると、本書で紹介されているような枠組みと、その枠組みを生かしたアイヌの人々の取組みがなければ、アイヌ文化を題材として取り込んだ、野田サトル『ゴールデンカムイ』は、少なくともあのような作品にはならなかったかもしれない、ともいえるわけで、普遍的人権がもたらすものが多様であることがよく分かる事例かもしれない。
他にも、「移行期の正義」つまり、人権侵害か起きてしまった後に、その加害者の責任をどのように問い、また、社会の中で和解を達成していくのか、という課題に、日本がどう取り組むのか(少なくとも、第二次大戦の人権侵害もこの「移行期の正義」の議論の対象となっている)、という問いや、安倍政権が「価値観外交」というリベラルな価値観を前面に出した外交を展開したことの価値(それによって、日本がジェノサイド条約を批准していないことなどが、裏返しで問われる状況となっていることも含めて)が論じられていることなど、現在改めて考えるべき課題にも多く言及されている。
実態と建前にかい離があったとしても、建前が前面に出されることが、状況を動かすことがある、という近現代史の経験を、今後も生かすことができるのか、色々な知見と問いが組み込まれた一冊。
ちょっと我田引水かもしれないが、一定の立場に立って発言する時、現実が理想とはほど遠いと分かった上であっても、なお、理想を述べることは未来の可能性への投資になりうる、ということでもあるのだろう。肝に銘じておきたい。
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