2021/12/04

『世界』(岩波書店)2021年11月号(第950号)・12月号(第951号)

そういえば、2号分、感想を書くのをため込んでしまっていたので、『世界』(岩波書店)2021年11月号(第950号)、12月号(第951号)についてまとめて。記事の数が多すぎるので、当事者による当事者視点の論考は基本、あえて外している。そこが『世界」の読みどころでもあるとは思いつつ、それだけではないよ、ということで。

『世界』2021年11月号の特集は「反平等—新自由主義日本の病理」と、「入管よ、変われ」の2本立て……なのだが、個人的には特集外の論考の方が印象に残った。

国谷裕子「人が人らしく生きていける社会を—内橋克人さんが伝えてきた言葉」(p.23-30)は9月1日に亡くなられた内橋克人氏の追悼文。「クローズアップ現代」登場時の発言を中心に、環境問題や持続可能な地域経済論の先駆者としての内橋氏について論じている。

山岡淳一郎「コロナ戦記 第14回 敗北と「公」復権」(p.31-40)は連載最終回。単行本化が予告されている。各地で起こっていた在宅死を踏まえて、公立・公的病院の脆弱さや、情報公開における課題などを提示して議論を終えている。この間の対応について「最前線でたたかった人たちの「現場・現物・現実」のリアリティで洗い直さなければならない」という提起が重い。

また、この2021年11月号では、特集とは表紙に書かれていないが、米軍撤退後の状況を受けた、アフガニスタンに関する論考が複数掲載されいる。

栗田禎子「対テロ戦争の時代を超えて—中東における民主主義の展望」(p.54-63)は、「アフガニスタンに限らず、冷戦期、社会主義と対抗するために宗教(イスラーム)を政治利用するという手法は、実は米国によって中東全体でとられたものだった」という点を踏まえつつ、中東各国における自律的な運動の可能性を論じている。

谷山博史「対テロ戦争とは何だったのかー現場のリアリティから見えてくるもの」(p.64-71)では、タリバーンとの何度かあった和平や対話のチャンスに対して、米国側がことごとく反対し、潰してきた経緯を振り返りつつ、対話のパイプを閉ざさないことの重要性を語る。

中村佑(聞き手・島本慈子)「インタビュー 9.11から二〇年ーあの日の意味を問い続ける」(p.72-77)は、次男を9.11で亡くした人物へのインタビュー。その遺骨も見つからないまま、「9.11の場合、こんなテロが生まれた原因がどこにあるのかを考えていけば、そこには歴史的に複雑な経緯があるわけで、僕が相手にしているのは「歴史」なのかなと思わざるを得ない。」と語るその言葉に、どれほど思いが込められているのか。

特集とも小特集でもない独立した記事としては、ウスビ・サコ(聞き手・小林哲夫)「インタビュー 京都観光はどう変わらなければならないか」(p.234-239)も面白かった。京都の景観が大きく変化しつつある現状に対する提言。町屋と伝統産業の衰退が進む一方で「観光が伝統産業よりも大きな収入源」となったことで、規制に消極的になっていたのではないかと問題点を指摘しつつ、「観光都市として生きるとはどういうことなのか、市民レベルで議論」していく必要性を論じている。一方では、伝統産業の「アーカイブ」として機能し、新しい文化・産業のプロデュースに関わる人材を育てるという大学の責任についても言及。

そして何より、三宅芳夫「越境する世界史家(上) リチャード・J・エヴァンズ著『エリック・ホブズボーム—歴史の中の人生』」(p.252-260)がすごかった。タイトルだけ見ると書評のようだが、実際には書評の対象となっている本については「エヴァンズによるホブズボームの「文化的保守主義」という括りは端的にいって的外れであるだけでなく、歴史家として『極端な時代』第三部全体をまったく「読めていない」」とばっさりと切り捨て。評者(と、もはや言って良いのかどうか)の視点で、改めてホブズボームの生涯と業績を一から語り直す、という荒技をかましている。すごい。自社刊行の本の書評としてこれを載せる岩波書店も太っ腹。えらい。反ナチズム/ファシズム思想としての共産主義と、ドイツから逃れた先の英国で迎え入れられた知的エスタブリッシュメントのネットワークという二つの軸から、ホブズボームの業績を再評価しつつ、20世紀の知的・思想的動向の変遷を論じていて読みごたえあり。次号の後編と併せて必読かと。

『世界』2021年12月号の特集は「学知と政治」と、「コロナ660日」の2本立て。

まず特集「学知と政治」は、日本学術会議会員任命拒否問題について、当事者となった6名の研究者の論考を掲載。

それぞれ、読みごたえがあるのだけれど、まずは、加藤陽子「現代日本と軍事研究—日本学術会議で何が議論されたのか」(p.86-97)を。冒頭で、会員任命拒否について言及しつつも、主な内容は、日本学術会議による2017年の「軍事的安全保障研究に関する声明」の成立至る議論を丁寧にたどるもの。多様な意見がぶつかりう議論の概要と合意形成の過程について論じることで、日本学術会議がどのような場として機能しているのかを明らかにしている。2017年声明を単純に軍事研究を邪魔するものとして捉えている向きにこそ、読んで欲しい。また、議事録を含めた情報が公開されているからこそ、このような検証が可能となる、という実例としても重要かと。

一方、論文調の加藤氏とは対照的な語り口なのは、宇野重規「「反政府的」であるとは、どういうことか—政治と学問、そして民主主義をめぐる対話」(p.114-121)かと。A、Bの二人の人物の対話形式で、著者のこれまでの発言や主張を、平易な言葉で分かりやすく語り直している。学者の社会的責任として学問に支えられた内容を語るべき、しっかりした政府が必要だからこそ批判する、ということがどういうことなのか、改めて確認できる。

特集「コロナ660日」は巻頭写真と連動したコラムがそれぞれ読みごたえあり。特に、小原一真「見えない死と共有されない悲しみ・葛藤について」(p.172-173)で紹介される、納体袋に遺体を入れたあと、その上から布団をかけた看護師の「袋に入っていても、そこにいるのは患者さんなんで」という言葉が印象的。極限の状況で人の尊厳を保とうする医療現場の葛藤が映し出されている。

永井幸寿「検証 コロナと法ー何ができ、何をしなかったのか」(p.204-211)は、新型インフルエンザ等対策特別措置法が本来備えていた(しかもそれが改正で強化された)強力な各種規定と、それがいかに使われなかったかが論じられている。また、2010年にまとめられた「新型インフルエンザ(A/H1N1)対策総括会議報告書」での反省がいかに活かされていないかについても言及されており、法運用と併せて、過去の新型インフルエンザの経験から学べなかったという課題を付けつける内容。

特集外の扱いだが、関連して。河合香織「分水嶺Ⅱーコロナ緊急事態と専門家 第6回 「病床2割増」計画」(p.160-171)は、これまでになく、医療現場や専門家と、政府・行政府省との意見の対立を描いている印象。「次の感染拡大に向けた安心確保のための取組の全体像」に対する医療現場からの批判は、他ではあまり読めない気がする。また、押谷仁氏の「データがないことは、日本の最大の問題でありつづけているんです」という指摘も重要では。

特集ではないが、ドイツ関連の論考が二つ。どちらも、断片的にニュースを見たり聞いたりしているだけでは分からない俯瞰的なまとめでありがたかった。

一つ目、板橋拓己「メルケルとは何者だったのか」(p.145-153)は、メルケル前首相の経歴と業績を回顧し、「負の遺産」も多いとしつつ、「それでも彼女は「偉大」な首相のひとりだと筆者は思う」としている。特に、「自由や民主主義や法の支配といった価値が揺らぐ時代に、メルケルはそれらの価値をしっかりと掲げて譲ることがなかった」という点は重要かと。その背景に、社会主義体制下の東ドイツで育った、という経歴があったという指摘も見逃せない。

もう一篇の、梶村太一郎「メルケル後 ドイツの選択ー連邦議会選挙と新政権 上」(p.154-159)は、過半数を確保できる政党がなくなった状況下での選挙戦の過程と、連立交渉の行方について見通しを語っている。後編は2022年2月号に掲載予定とのこと。

その他、三宅芳夫「越境する世界史家(下) リチャード・J・エヴァンズ著『エリック・ホブズボーム—歴史の中の人生』」(p.240-249)については、11月号のところで書いたとおり。必読。

吉田千亜「県境の街 第10回 今を生きる」(p.272-281)は連載最終回。栃木県における東京電力福島第一原子力発電所事故の影響と、情報がない中で様々な対応に取り組み、結果的に被害があったとは認められないままとなった人たちに関するルポ。放射性物質は、放出時の天候条件によってまだらに拡散し、福島県以外の各地の影響についても事故当時は話題になっていたと思う。その後、忘れられてしまった事象を、関係者への取材を通して掘り起こした労作かと。

あと一つ、橋本智弘「アフリカの多層から聞こえる歴史の声ーアブドゥルラザク・グルナ、ノーベル文学賞に寄せて」(p.250-255)は、2021年ノーベル文学賞を受賞したグルナ氏が指導教官だったという著者による、グルナ氏とその仕事についての解説。日本での紹介ではあまり触れられていないようだが(例えばNHKの特設ノーベル賞サイトでの紹介「2021年のノーベル文学賞にタンザニア出身アブドゥルラザク・グルナさん」)、グルナ氏は、アフリカやインド、カリブなどのポストコロニアル文学の研究を行う、英国ケント大学英文科の教授でもあり、その傍ら創作も行っているとのこと。まだ邦訳がない状況ではあるものの、グルナ氏の、オリエンタリズムに対する批判視点と、アフリカ内部の複雑な歴史を直視する姿勢は、日本の現状に対する批判的視座を提示してくれそう。

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2021/10/23

松尾睦『経験からの学習:プロフェッショナルへの成長プロセス』同文舘, 2006

『経験からの学習』表紙

別の論文で参照されていて、ちょっと気になったので、松尾睦『経験からの学習:プロフェッショナルへの成長プロセス』同文舘,2006.を読んでみた……

……ら、少々びっくり。2006年に刊行された研究でこういうことが指摘されているのであれば、この15年間はなんだったんだ、という感じすらあり。さらにいうと、先行研究の成果を手際よくまとめつつ、その上で自らの独自の成果がどういうものか、ということを非常に簡潔に整理して提示する、という記述方法が徹底されているために、熟練者への習熟プロセスについての既存研究の蓄積について、自分がいかに無知だったかもよく分かった。

例えば、「熟達化の10年ルール」とかまったく知らなかったし。熟達化の10年ルールはチェス、テニス、音楽、絵画などの分野における実証研究を踏まえて、各領域における熟達者(expert)になるには、最低でも10年の経験が必要である、というもの。参照されている文献を見ると古くは、Simon, H. A., & Chase, W. G. (1973). Skill in chess. American Scientist, 61(4), 394–403.などで論じられているらしい。

本書では、この10年ルールが、企業におけるさまざまな分野(営業職、コンサルタント、ITコーディネーターなど)の熟達者においても同様に成り立つことを論じているが、それは本書のテーマの一部。本書でテーマとなっているのは、さまざまな仕事において、人が経験から学び、成長するプロセスと、それを促進する組織文化や、個人の信念がどういったものなのか、を明らかにする、という感じ。手法としては、複数の日本企業を対象にしたアンケートおよびインタビュー調査を用いて分析が行われている。

その結論はいろいろ入り組んでいるのだが、例えば、組織文化においては、顧客志向と内部での競争の存在が重要という結論が示されている。これだけ見ると、数値に基づく成果主義的な競争を称揚するように見える。ところが、実際に研究の成果によって語られるその内実は大きく異なっているのがポイント。顧客志向においては、ご用聞きになってしまうことによる業績の低下、という既存の研究成果を踏まえつつ、顧客の潜在的課題・問題の把握と解決を目指すことが重要とされているし、競争においては、売り上げ目標などではなく、プロセス型の競争として、新たなビジネスモデルなどのアイデアや、チームとしての活躍を評価することの重要性が指摘されている。

おそらく、今はもう、本書に対する批判的研究もそれなりにあるのではないかとも思うが(調べてない)、正直、2006年にこういう研究が出ていて、今の日本の各組織の状況ってどうなの、という思いは禁じえない。人材育成について考える立場にある人は、押さえておいて良い研究なのではないだろうか。

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2021/09/04

馬部隆弘「墓地から辿る椿井文書の足跡」学士会会報 no.950(2021-V) p.41-45

偽文書で知られる椿井政隆の墓を探す話から、その息子、椿井万次郎の墓碑につながり、その墓碑を建てた今井良政(明治期に質流れとなった椿井文書を販売)に話がつながって、今井家に残された記録や墓碑もまた一部椿井文書を典拠にしているという話が展開。短文ではあるが、情報量がやたら多い。

今井家の所在は、現在の木津川市とのことで、今井家の墓所も木津川市木津白口にある燈籠寺墓地にあるとのこと。墓石の材質や墓碑の書体まで比較しつつ考察が重ねられており、現在の歴史学が多様な情報を総合的に考察する学問となっていることがよく分かる。

余談だが、燈籠寺墓地の燈籠寺というのは、全国遺跡報告総覧で出てくる、燈籠寺遺跡・燈籠寺廃寺跡発掘調査概要と関係あるのだろうか。

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石井洋二郎 編『21世紀のリベラルアーツ』水声社, 2020.

2021年年9月4日読了。ざっくり感想を一応記録。

出版社サイトの紹介は次のリンク先を参照。

http://www.suiseisha.net/blog/?p=13609

2019年12月14日に中部大学で開催されたシンポジウム「21世紀のリベラルアーツ」を元に、書き下ろしの論考や対談を追加したもの。

編者の石井洋二郎氏に加え、藤垣裕子氏、國分功一郎氏、隠岐さや香氏の論考と、全員に玉田敦子氏を加えたパネルディスカッションの記録、石井氏と藤垣氏の対談、という構成。

当該書は読んでいないのだが、どうやら、東大における実践を再構成した

石井洋二郎 著・藤垣裕子 著『大人になるためのリベラルアーツ』東京大学出版会, 2016.

石井洋二郎 著・藤垣裕子 著『続・大人になるためのリベラルアーツ』東京大学出版会, 2019.

を背景としている模様。産業界からの要請も踏まえつつも、大学におけるリベラルアーツ教育がどうあるべきか、という観点から議論が展開されている。

答えのない問いと答えのある問い、問いを立てる能力、分からない/分かりあえないものとの対話、成熟した市民、対話を重視することにより見失われるもの、といった様々な論点が提示されていて、考えるためのとっかかりが多数提示されている感じ。

解決策を直線的に見出すことよりも、答えの出しがたさと向合うことが、たこつぼ化して、それぞれの領域に分断された状況においてなお、それぞれがたこつぼの外側とやりとりをする土台となる「経験」として重要であり、そうした機会を提供するリベラルアーツが、高等教育という面でも、市民社会の維持構築という意味でも、必要なのではないか、という提起として読んだ。

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2018/06/22

科学基礎論学会・日本科学史学会との共催ワークショップ「学術誌の電子化と将来を多面的に考える」参加メモ

2018年6月16日・17日に開催された科学基礎論学会2018年度総会と講演会( http://phsc.jp/conference.html#2018 )の日本科学史学会との共催ワークショップ「学術誌の電子化と将来を多面的に考える」に参加してきた。日時、開催場所は次のとおり。

日時: 2018年6月17日(日)14:40~17:10
場所: 千葉大学(西千葉キャンパス)法政経学部棟106講義室

予稿は、科学基礎論学会学会のサイトに掲載されている。

趣旨説明 司会者兼オーガナイザ:松本 俊吉・伊勢田 哲治
http://phsc.jp/dat/rsm/20180524_WS4-1.pdf
伊藤 憲二 - 学術雑誌の科学史的研究:査読システムと学会との関係を軸として
http://phsc.jp/dat/rsm/20180524_WS4-2.pdf
土屋 俊 - 「電子ジャーナル」以降つまり今と近未来の学術情報流通
http://phsc.jp/dat/rsm/20180524_WS4-3.pdf
調 麻佐志 - ソースはどこ?―学術誌の電子化がもたらす未来
http://phsc.jp/dat/rsm/20180524_WS4-4.pdf

以下、当日取ったメモを元にポイントを紹介したい。とはいえ、あくまでメモが元なので、正確さには欠けるかと。その点はご容赦を(突っ込みがあれば修正します)。また、敬称は「氏」で統一させていただく。

冒頭、伊勢田哲治氏の趣旨説明によると、科学基礎論学会と日本科学史学会の連携強化の一環として、科学基礎論学会においても課題となっている学会誌の電子化の議論をきっかけとして、学術誌そのものについて検討するワークショップを開催することになったとのこと。
日本科学史学会の年会(2018年5月26日・27日)でまず、「学術雑誌の歴史」ワークショップが開催されており、その様子は、日本科学史学会のサイトで紹介されている。

科学基礎論学会との共催ワークショップ(6月17日)のお知らせ
http://historyofscience.jp/blog/2018/06/01/科学基礎論学会との共催ワークショップ(6月17日/

企画側の社会認識論的な関心としては、科学の信頼性を支えるものとして、特に査読の問題や、電子化の影響、望ましい知識共有のあり方、研究者の生産手段としての観点などが提示されていた。

伊藤憲二氏による報告「学術雑誌の科学史的研究:査読システムと学会との関係を軸として」は、17世紀から20世紀半ばまでの学術雑誌の歴史を概観するもの。伊藤氏の専門は物理学史だが、総合研究大学院大学での講義で研究の社会史を取り上げることから調べ始めたとのこと。教科書的なものも執筆中との話もあったので、これは公表を待ちたい。調べてみると「思ったよりおもしろい」という感想がまた面白かった。
ただし、全体像を描くにはまだ研究の蓄積はほど遠い状況で、質的・量的な変化が大きい上に、分野と地域多様性や、アーカイブズの未整備(特に日本)状況などが壁となっているとのこと。
一方で、今世紀に入ってから、学術雑誌をテーマにした論文が増加しているそうで、学術雑誌事態の変化や、科学的物体(ノート、印刷物等)への関心の高まりが背景にあるのでは、との話もあって、なるほど、と思ったり。
あとは各世紀ごとに概説があったが、印象に残ったところを断片的に。
17世紀の学会・アカデミーと学術雑誌の出現の話では、元々貿易会社の事業資金調達の方法として編み出されたサブスクリプションモデルが、書籍の予約出版に応用されていった、という話が面白かった。航海術の発達は、博物学的知識の増大という意味でも学術情報の流通に影響を与えていたとのことだが、出版モデルにも影響していた、というのは興味深い。
17世紀の個人編集者を中心とした編集方式から、18世紀には、アカデミーの出版委員会方式が始まるものの、各アカデミーが持つ出版特権を維持するための検閲的側面(政治的に危ないネタは排除)もあった、というのはなるほど(17世紀にも同様の話あり)。
19世紀になると、分野ごとの学会や雑誌が増え、さらに蒸気機関による印刷物の大量化と、ゼミナール方式など研究大学による専門分化を推し進めたドイツ学術の隆盛の時代を向かえる。1930年代まではSpringer刊行のZeitschrift für Physikが物理学における最も重要な雑誌だったが、ナチスの台頭によるユダヤ人迫害(Springer家自身も対象に)から、その地位を失っていった、という話を、実は初めて知った。そうだったのか。(ちなみに確認してみたら、Springer社のサイト( https://www.springer.com/gp/about-springer/history )でも、このあたりの背景は若干紹介されている。)
最後に、科学史学会でのワークショップについても紹介されていたが、要するにいかに知らないことが多いのかが確認された、とのこと。科学史学会で外部査読が始まった時期も分からないそうだ。うーむ。

土屋俊氏の報告「「電子ジャーナル」以降つまり今と近未来の学術情報流通」は、平成22年度大学図書館職員研修での「学術コミュニケーションの動向」 https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/choken/2010/12.pdf や、2017年の第19回図書館総合展での「学術コミュニケーションの動向 2016--2017: 「オープンアクセス」の功罪」 https://www.slideshare.net/tutiya/20162017-81979661 の最新版といった趣。
今回のスライドも、SlideShareで公開されている。
https://www.slideshare.net/tutiya/ss-102573181

冒頭、ビッグディールを推進した張本人として弁明する、と自らの立場を明確に打ち出した上で、冊子体における個人購読から機関購読への転換による価格高騰(シリアルズクライシス)と、論文数の増加を背景とした電子ジャーナルの価格上昇の違いや、理念としてのオープンアクセスから大手出版社が参入しビジネスモデルとなったのオープンアクセスへの変貌などの様々な通説とそれに対する批判が展開された。
面白かったのは、Predatory Journals(ハゲタカ出版)に対する評価で、安く論文を公開するのであれば、そんなに悪くないのでは、という話(ただ、後のディスカッションでは参加者から、査読があるかのように見えることが問題では、との指摘あり。)。その他、学術雑誌掲載が高等教育機関の採用時の評価と連動しているものの、結局同じ分野内の仲間内の評価でしかないのでは、と疑念を呈しつつ、しかし、ではその枠組みを外した時にはさらなる腐敗が待っているのではないか、との指摘もあったり。最後は成り行きに任せるしかない、と締めていたが、そう言いつつも、ディスカッションも含めて語りまくるいつもの土屋氏であった。
また、スライドにも登場するが、報告中で紹介されていた、
Rick Anderson "Scholarly Communication: What Everyone Needs to Know" Oxford University Press, 2018.
https://www.amazon.co.jp/dp/B07C6WVFPC/
は、学術コミュニケーションの現状を整理した、非常に良い本らしい。なお、土屋氏にとって、kindle+iOSの読み上げ機能で一冊読み切った最初の本とのこと。
そう言われると気になってしまって、早速、Kindle版で入手して、最初の方を見てみたけど、確かにこれは良さげ。図書館に関する章もある。

調麻佐志氏の「ソースはどこ?―学術誌の電子化がもたらす未来」では、専門家と素人の区別、ジャーナルの「格」、査読による質の保証、科学と非科学/未科学との差異、といった、既存の秩序が、電子化を巡って揺さぶられている現状が論じられた。「論文」自体の形態の変化(短い本文と大量のsupplementの組合せや、ソフトウェアのバージョンアップごとに更新され、アクセスを集める論文、リアルタイムの処理結果を示す動画を含む論文など)や、日本語での「糖質制限ダイエット」と英語の「low carbohydrate diet」での検索結果の性質の違い、偽論文投稿実験で大手出版社や学会でも通ってしまう現状、STAP細胞を巡る「ネット査読」に関わった人たちの同分野おけるものとは異なる多様な「専門性」、低線量被爆を巡る科学的に問題のある発言の流通など、様々な事例が紹介された。
ネットにおける「ソースはどこ?」「ソースを示せ」の普及は、一見、科学への信頼の向上のようにも見えるが、実は「エビデンス的なもの」があれば良い、という状況なのではないか、という問いかけが重い。
また、科研費に対する攻撃では、実際に、日本学術振興会の前で街宣活動が行われ、職員との間でのトラブルなども発生したそうだ。こうした、ダイレクトに研究内容に対して介入が行われる可能性に対する危惧を示しつつも、調氏は、一方で、行きすぎた科学至上主義の修正につながる可能性についても触れるなど、現状を多義的に捉える姿勢が一貫していた。

撤収時間が近づいていたこともあり、最後のディスカッションは時間がわずかしかなかったが、大学によるプレスリリースにおける研究内容評価の問題や、図書館の役割(もはや関係ない、と土屋氏がばっさり)、デジタル情報の保存の問題など、様々な論点が示されていた。

以下、時間があれば、質問してみたかったこと……を元に、終了後に考えたことをメモ(実際には、当日はここまでは考えてなかった)。

○日本では、特に中小規模学会を中心に、学会誌が、そのコミュニティの核となっていた時代があったように思うが、現在はおそらくもうそうではなくなっているのではないか。学会というコミュニティを維持・形成する核となる役割を果たすのは、今後は何になるのか。
○金がなければ、投稿すること自体が困難なオープンアクセスジャーナルモデルが普及する中で、税金を主要な財源としている、現在の学術研究の自律性をどう確保するのか。査読を中心にした、学術コミュニティ内の自律的評価モデルが信頼を失えば、税金の使途の妥当性を理由とした、政治介入の可能性はより高まるのではないか。
○電子ジャーナルを含めて、デジタル情報の保存を一箇所で集中的に行うことは困難。分散的に行うしかないが、そうすると、結果的に、ある機関なり個人の手元に残っていた情報の信頼性をどう評価するのかという問題が生じる。時間的経過の要素を組み込んだ評価モデルをどう組み上げていくべきか。

と、いう感じで、色々なことを後から考えてみたくなるワークショップだった。

2014/12/20

河野有理 編『近代日本政治思想史 荻生徂徠から網野善彦まで』

 またえらく間が空いてしまった。
 河野有理 編『近代日本政治思想史 荻生徂徠から網野善彦まで』(ナカニシヤ出版) http://www.nakanishiya.co.jp/book/b183302.html をようやく読了。途中、風邪引いたり色々調子崩したりしながら読んでたので、時間がかかってしまった。
 出版社のサイトにもPDFが掲載されている「はじめに」 http://www.nakanishiya.co.jp/files/tachiyomi/9784779508783hajimeni.pdf には、「初学者にむけて、この分野の持つ裾野の広がりと、現在における研究の大まかな到達点を示す」という「狙い」が書かれているのだけど、正直「初学者」レベルたっけーな、おい、という気分になるところもちらほら。とはいえ、これからこの分野に挑戦しようとする人に対して、変にハードル下げない、というのは、学生向けだとしたら正しいのかも。
 目次は、出版社のサイト http://www.nakanishiya.co.jp/book/b183302.html を参照してもらうとして、大ざっぱに言うと、特定の主題に関する同時代の複数の人物による議論を対比的に紹介することで、(1)その主題が抱える論点、(2)それぞれの人物の論が持つ特徴、(3)人物たちが置かれた時代状況、といった点を浮かび上がらせる、という組立はだいたい共通してるのかな、という感じ。ただ、どこに重点を置くかはそれぞれ論者で違う。
 論者によっては、さらにそこに「通説」や先行研究との対比が加わる。例えば、高山大毅「制度 荻生徂徠と會澤正志齋」では、荻生徂徠なので、丸山眞男が召喚されたりして、日本思想史における主要な参照枠が何となくそこここに見えるようになっている……んじゃないかな。主要な参照枠自体に関する知識自体が薄いので、たぶん、だけど。
 そんな感じで、色々配慮された論集なのだけれど、素人読者としては、三ツ松誠「宗教 平田篤胤の弟子とライバルたち」で、明治初期の段階での神道家たちの分裂と対立による自滅っぷりを面白がったり、河野有理「政体 加藤弘之と福澤諭吉」で、加藤弘之って結構論旨一貫してんだな、と関心したり、王前「二十世紀 林達夫と丸山眞男」で、林達夫格好いいぜ、とか思ったりするばかりなのだった。申し訳ない。他にも、尾原宏之「軍事 河野敏鎌と津田真道」での、徴兵制を巡る明治期の議論のレベルの高さにぶっとんだり、趙星銀「デモクラシー 藤田省三と清水幾太郎」で60年安保における清水幾太郎の目的達成できなきゃ結局負けだろ的な発言に共感したりと、色々楽しかった。
 そういえば、長尾宗典「美 高山樗牛と姉崎嘲風」での日露戦争のように、複数の論者に共通する隠し(?)テーマとして、それぞれの時代における「戦後」というのもあったかもしれない。戦争だけではなく、安保のような広範な社会的運動や事件の後、という場合も含めると、思想史の持つ、大きな歴史的転換点に直面した人々が、それをどう受け止め、何を考えたのかを論じる学問という側面を楽しむ、という読み方もできるかも。
 ボーナストラック的に入っている、河野有理・大澤聡・與那覇潤「【討議】新しい思想史のあり方をめぐって」は、ほぼ同世代の三人の論者が、どのような体験を経ながら研究者となったのかを語りつつ、現在の学問状況を論じる、という趣向。ただ、初学者用に人名・用語解説が欲しかった気が。同時代性・同世代性が強くて難易度高い……。とはいえ、日本史・日本思想史周辺の、人文系学会の現状がちらちらと見えて、やじ馬根性的には興味深かったり。2000年前後の人文系学問状況に関する証言として、後で貴重になるかも。
 共通する人物や主題が複数の論考に登場することもあって、ちゃんと巻末に人名・事項索引があるのはさすが。各論考にあげられたキーワード(言語、風景、政体、美、正閏、イロニー…)に興味があったり、人名(本居宣長、阪谷素、福澤諭吉、高山樗牛、保田與重郎、山本七平…)に関心があったら、そこから拾い読みしてみるのが良いかと。ただ、「初学者向け」であって入門書ではないかもしれない。

2014/06/21

中山茂『パラダイムと科学革命の歴史』講談社, 2013. (講談社学術文庫)

本書を読み始めた途端に、2014年5月10日に亡くなられた中山茂先生の訃報を知った。闘病されていることはブログなどで知ってはいたが、それでもここ数年、次々と新著を出されていたので、まだまだお元気なのかと思い込んでいたのだけれど。今更ではあるが、慎んでご冥福をお祈りいたします。

本書は、1974年に刊行された『歴史としての学問』の改題増補版。特徴は、中山先生ご自身のあとがきに尽くされている。少し長くなるが引用する。

「終日図書館にこもって、一字一句脚注で資料づけを固めてゆく作業をしていると、反動的にとかく学問の本質について大言壮語してみたい、大風呂敷を拡げてみたい、という欲求に駆られるものである。しかし、このような大言壮語は、厳密性をたっとぶアカデミックな学術雑誌の論文としてはなかなか書きにくい。こうしたモヤモヤに何とか形を与えたのがこの本である。いや、形を与えたというにしては、内容が粗雑で論旨も穴だらけ、資料づけの薄い軽率な発言が多い。しかし批判を気にして手を入れているうちに角がとれて、いいたいことがぼかされる結果になることを恐れて、あえてそのまま放り出した。私はここでは、批判を許さない権威ある書物を書こうとは毛頭考えなかった。むしろ批判に値するものであることを念じている。」
(「あとがき」p.334-335)

実際、かなり議論は粗っぽいかもしれないが、とにかく、本書で扱われている範囲が広い。中国圏、イスラム圏、欧米の学問のあり方を千年単位で検討しつつ、近代以降については、学会、大学など、学問領域を支える集団と職業としての学者の再生産機構を軸に、学術活動のあり方が時代や国によって大きく異なってきたことを、日本における西洋の学問導入過程も踏まえつつ議論している。その過程で、現在(1970年代当時の現在と、2010年代の現在の両方)の学術活動のあり方を相対化する視点をこれでもかと繰り出し、今の学問のあり方を問い直す様々な視点を、本書は提示してくれる。

おそらく、個々の歴史記述については、個別分野の専門家からいろいろ突っ込みがありうるんだろうな、という気はするのだが、それでも、大学のあり方が問い直され、研究所のあり方が批判され、学会の運営が困難に直面する今だからこそ、かつてあった様々な可能性をもう一度考え直すために、読み直されてよい一冊ではないかという気がする。

また、新たに書き加えられた補章は、ご自身のこれまでの仕事のレビューでもある。本書で提示した論点を、その後どのように自らの手で展開したのか、振り返るかのような記述が続く。時間のない方は、この補章だけでも、読んでみていただきたい。1928年生まれの著者が、これまでの研究成果を踏まえて、学問の現在と未来をいかに見通していたか、そして後に続く者にどんな宿題を残してくれたのかが、この補章に凝縮されている。特に、「パラダイム」概念の可能性と、限界に関する議論は、本書で「パラダイム」概念を分析装置として縦横に使って見せた、クーン以上のクーン主義者を自称する中山先生の真骨頂ではなかろうか。

また、補章では、デジタル化により、学術情報の生成と流通のあり方や、学問そのもののあり方が変わっていくことについて、簡単に論じられている。印刷技術や学術雑誌の登場が学問のあり方を変えたように、デジタル技術によってこれからの学問のあり方が変わっていくことを、当然のように中山先生は考えられていた。

「本来は「デジタルで学問はどう変わるか」て、これからの方向まで大きく論じたいと用意もしてきたが、思えば今起こっていることは、グーテンベルク以来の大革命であり、それがこの数十年で方向が決められるようなものではないことを悟るにいたって,ごく大まかな、方向を示すに留まった。」
(「学術文庫判のあとがき」p.364)

中山先生が、どのような準備をされていたのか、今となっては知る由もない。それは、後に続くものに宿題として遺された、ということなのだろう。

2011/08/01

飯島渉「「中国史」が亡びるとき」

 岩波の『思想』2011年8月号(no.1048)の特集が「戦後日本歴史学の流れ 史学史の語り直しのために」だったので、何となく購入。基本、○○学史には弱いのである。
 パラパラと見た限り、民衆史と社会史の位置づけを軸に、戦後日本史学を論じる的な議論などがあったりして、それはそれで楽しそうなのだけれど、一番とっつきやすくて面白かったのは、タイトルに出した飯島渉「「中国史」が亡びるとき」(p.99-119)だった。
 日本における中国史研究の必要性、誰のためのものか、言語の選択、日本史との関係など、書かれている話題は中国史を軸に語られてはいるものの、中身は、日本における外国史研究、あるいは、海外における日本史研究の在り方を論じるものとなっている。
 「日本の中国史」はいつかなくなってしまうのかもしれない、という可能性を視野にいれつつ、なお、「日本の中国史」の可能性を論じるあたりがたまらない。
 西洋史、海外における日本研究に関心のある向きにもお勧め。

 あと読んでいて、『思想』という媒体は、誰のためのものなのか、ということを、比較的読みやすい、エッセイ的な文体から考えさせられた。学会誌でも紀要でもなく、なんとなく学術誌的に見えるけど、ピアレビューがあるわけではないし、『現代思想』ほどネタ?には走れなさそうな『思想』は、これからどうなっていくんだろう。こういう学界/会間横断的な議論の場、というのは、一つの可能性なのかもしれないけど、どれだけニーズがあるのか…。

 以下、余談。
 本当は『思想』6月号に掲載されたというブライアン・ウィン「誤解された誤解 社会的アイデンティティと公衆の科学理解」が読みたくて探していたのだけど、今はそれなりの大型書店でも、『思想』のバックナンバーを置いていない、ということを初めて認識した。一昔前は結構、置いてた気がするんだけどなあ。まあ、注文するか、図書館で読めばよいのだけど。

2009/02/22

第3回ARGカフェ&ARGフェスト@京都

 2009年2月21日(土)に、第3回ARGカフェ&ARGフェスト@京都に参加。
 ずっとブログの更新をさぼって来たのだけれど(ここのところ、仕事以外に文章を書く気力が出てこなくて)、岡本さん@ARGが、ブログに書け、と呼びかけていたので、ちょっと乗っかってみる。
 プログラムについては、ACADEMIC RESOURCE GUIDE (ARG) - ブログ版2009-01-18(Sun): 第3回ARGカフェ&ARGフェスト@京都への招待(2/21(土)開催)を参照のこと。
(2/23追記)2009-02-21(Sat): 第3回ARGカフェ&ARGフェスト@京都を開催も参照のこと。特に関連リンクはこっちの方が充実。

 まずは第1部について。それぞれ持ち時間5分でのライトニングトーク。
 冒頭、岡本さんから京都の飲み屋の紹介文化(どこの飲み屋でも、「○○を飲めるいい店はないか」と聞くと教えてくれる)を題材に、ARGカフェ&ARGフェストも、人脈を独占する場ではなく、互いに広げ合って行く場であってほしい、といった感じ(ちょっと違うか?)の趣旨説明があり。
 トップバッター當山日出夫さん「学生にWikipediaを教える−知の流動性と安定性」は、Wikipediaの陵墓(天皇陵)の履歴などを参照させつつ学生に課した課題を題材に、Wikipedia等のインターネット情報について、完全性・安定性と流動性の観点と、信頼性の観点がどう関係するのか、ということを問いかける内容。
 続く小橋昭彦さん「情報社会の“知恵”について」は、メールマガジン「今日の雑学」シリーズの経験を通じて、情報でも、知識でもない、「知恵」というある種の善悪判断を含んだものをどう伝えて行くのか、ということを問いかけ。あと、「今日の雑学」への参加も呼びかけ。
 小篠景子さん「「中の人」の語るレファレンス協同データベース」は、国立国会図書館のレファレンス協同データベース事業の理念と課題を分かりやすく説明しつつ、事例提供館の偏りという課題にどう取り組むべきかを問いかける、というもの。手書きのスケッチブックによるプレゼンという技が光った。
 三浦麻子さん「社会心理学者として、ブロガーとして」は、ブログでは議論はしない(それはアカデミックな場でするもの)という姿勢の話が印象的。あと、心理学系の学会誌のネット公開が全体として遅れている状況なども。出たばかりの著書(共著)『インターネット心理学のフロンティア』(誠信書房, 2009)についても紹介あり。
 谷合佳代子さん「エル・ライブラリー開館4ヶ月−新しい図書管理システムとブログによる資料紹介」では、大阪府からの補助金の全額廃止という逆境の中にあって、図書管理システムの更新や、ブログを活用した資料紹介などの取り組みを紹介。あと、サポート会員募集中とのこと。
 村上浩介さん「テレビからネットへ」では、とあるテレビ番組をきっかけとしたカレントアウェアネス・ポータルへのアクセス集中と、その際のアクセスの傾向(検索エンジン経由のアクセスが多い、とか、ケータイを使ったアクセスが結構多い、とか)について紹介。ちなみにアクセスが集中した記事は図書館猫デューイの記事とのこと。
 後藤真さん「人文「知」の蓄積と共有−歴史学・史料学の場合」では、人文科学とコンピュータ研究会の紹介や、情報歴史学という自らの専門分野を通じた、歴史資料の共有と、単なるデジタル化だけではなく解釈や構造までデータ化することが重要との問題提起も。上田貞治郎写真史料アーカイブのためのシステムを開発中との話あり。
 福島幸宏さん「ある公文書館職員の憂鬱」は、館数の少なさなどからくる情報の少なさや、情報技術に関する関心の低さなど、文書館/公文書館界の問題点を指摘しつつ、世代交代を危機であると同時に機会としても捉える視点を提示。
 中村聡史さん「検索ランキングをユーザの手に取り戻す」では、ヒューマン・コンピュータインタラクションにおける研究成果でもあるRerank.jpを紹介しつつ、人によるインタラクションの重要性について指摘。
 岡島昭浩さん「うわづら文庫がめざすもの−資料の顕在化と連関」は、青空文庫ならぬうわづら文庫における、画像によるデジタル化(テキストでなく)を個人で行う活動を紹介。文学史上の重要文献が以外に入手困難なままに置かれていることや、校訂者の権利の問題などについても。
 嵯峨園子さん「ライブラリアンの応用力!」は、企業ライブラリアンからの転職の経験を踏まえて、ライブラリアンとしての基本的な姿勢や技術が、実は様々な場面で応用可能であり、非常に優れたものである、ということを紹介。ちなみに、現在はヒューマン・コンピュータ・インタラクション分野で活躍中とのこと。
 最後の東島仁さん「ウェブを介した研究者自身の情報発信に対する−「社会的な」しかし「明確でない」要請?」は、ネット上の眉唾もの情報に対する、研究者に求められる対応についての問題提起。同時に、研究者から見た「分かりやすさ」と一般の人から見た「分かりやすさ」の差(例えば、専門用語に対する意識とか)が大きい、といった話も。

 質疑では、一番乗りで人文系の学会誌のデジタル化が進まない理由を質問してみたり。その他、(古)写真のデジタル化の課題や、今後の文書館/公文書館に必要な人材像、JCDL (Joint Conference on Digital Libraries)、ECDL (European Conference on Digital Libraries)、ICADL (International Conference on Asian Digital Libraries)などに(あるいは、せめて日本の情報系の学会に)日本の図書館員も参加すべしといった意見、人文学の危機に対して国としてどう取り組むべきかといった問題提起など、さまざまな話が展開して、短い時間ながら何と言う情報量。おそるべし。
 第1部全体としては、ライトニングトークも質疑も、その場で議論が深まる、というのではないものの、様々な問題意識が次々と展開して、頭の中がシャッフルされるような感じ。こりゃ面白い&刺激的。ただ、ちょっと今回は図書館系の人が多かったかなあ。

 続いて、会場を移しての第2部ARGフェストにも参加。要は飲み会なのだけれど、とにかく色々な人とお話しするのが眼目(あんまり一人の人を独占しないように、と、岡本さんからお達しあり)。
 第1部の発表者の何人かとお話したり、図書館雑記&日記兼用の中の人や、Lifoの中の人たちとお話したり、とにかく、いろんな人と飲んだりしゃべったりした。
 特に、京都大学の松田清先生とお話をすることができたのは、洋学史を少しかじった身としては、何と言うかちょっと感激。来年、小野蘭山没後200年なので(そういやそうか)、何かできないか、とかそんな話を聞いたりも。
 ただ、Wikipediaの中の人と話しそこねてしまったのは我ながらうかつ。せっかくの機会だったのに。あと、名刺はもっと大量に持って来ておくべきでした。
 とかいう感じで、個人的には反省点はあるものの、密度が高くて楽しい会であったことは間違いなし。ぜひ、次回があればまた参加したいもの。
 後は今回お話できた方々と、今後につながる動きが何かできれば。まあそれはまたこれから考えよっと。

(2009/2/27追記)
 小野蘭山没後200年を100年と間違えていたのを修正しました(100年前じゃ江戸時代はとっくに終わってますね……)。
 松田先生、ご指摘、ありがとうございました。

2007/01/10

科学史研究 第45巻(no.240)

 『科学史研究』第45巻(no.240)[2006年12月]は、ほとんど素人になってしまった私でもそれなりに楽しめる論文がいくつか。
 忘れないうちにメモ。

中村滋・杉山滋郎「星野華水による“チャート式”の起源とその特徴」p.209-219
 高校数学の参考書の定番、「チャート式」の生みの親、星野華水(1885-1939)が、「チャート式」を成立させていく過程を追った一編。そもそも「チャート式」が戦前からあったことにびっくり。知らなかった。しかも最初から3色刷りだったらしい。
 「チャート式」が画期的だったのは、解法を探し出す手順を問題のパターン別に整理し、ひらめきに頼るのではなく、手順に従っていけば解法にたどり着けるように組み立てた点にあるとのこと。マニュアル化のはしりとしての位置づけも。
 それにしても、この研究に必要な資料を探すのが大変だったのではなかろうか。実際、星野華水が発行していた受験雑誌『受験数学』の1926年から1929年までの期間は見ることができなかったことが、論文中で報告されている(7巻8号(1929年8月号)から11巻3号(1933年3月号)は千葉県成田山仏教図書館所蔵とのこと)。戦前の参考書本体にしても、推して知るべしか。

名和小太郎「科学史入門:知的財産権と技術発展」p.241-244
 科学技術史的観点から、知的財産権制度の歴史を簡略にまとめた一編。
 最近の動きとしては、学術研究の分野では、学術雑誌の商業出版社による寡占化と、成果の公有政策化の双方の動きが生じつつあり、かつ、どちらも知的財産権制度の無視を図っていることを指摘している。前者は、契約による著作権制度を迂回し、後者は、納税者への成果還元という理由で著作権の実質的な公有化を図ろうとする、といった具合。

「シンポジウム:近代における知とその方法 宮廷,サロン,コレクション」p.251-264
 2006年度年会報告として、次の四つの報告要旨を掲載。
(1)桑木野幸司「初期近代の百科全書的ミュージアムと情報処理システムの空間化」p.251-255
(2)武田裕紀「メルセンヌ・サークルとトリチェッリの実験」p.255-258
(3)吉本秀之「ロバート・ボイルと人文主義の方法」p.258-261
(4)但馬亨「啓蒙専制君主とアカデミー フリードリッヒ大王と18世紀数学者」p.261-264
 (1)は16世紀ヨーロッパのミュージアム理論書、S.クヴィッヒェンベルク(S. Quiccheberg)の『劇場の銘』を紹介しつつ、これがコモンプレイス・ブック(こちらでいえば「類書」のようなもの)的な知を空間に展開したものなのではないか、という議論を展開している。博物館史に関心のある向きにも参考になるのでは。
 (2)は17世紀前半のフランスにおける、メルセンヌを中心とした知的サークルにおける情報共有が、実際にはどの程度の水準だったのかを、トリチェッリの実験をサンプルに検証。
 (3)では、ロバート・ボイルの著作の多くが、二次文献や三次文献(いわゆる解説本や事典類)に基づいて書かれていたことを検証している(これはちょっとホントにびっくりした)。近代初期の知識人は、意外に原典を参照したりする手間をかけたりしていなかったらしい。
 (4)は18世紀のベルリンから大数学者オイラーが去った背景を検証するとともに、科学知識の啓蒙という新たなプロジェクトにオイラーを向かわせたものが何だったのかを論じている。
 どれも短報だけに、要点だけがまとめられていて、素人にも(比較的)読みやすい。しかも、トリビア的な面白さもあったりする。雑学好きな方にもお勧め?

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