2022/07/31

筒井清輝『人権と国家―理念の力と国際政治の現実』岩波書店,2022.(岩波新書)

『人権と国家』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

筒井清輝『人権と国家―理念の力と国際政治の現実』岩波書店,2022.(岩波新書)を読了。

これは面白い。国連の人権保護関連の各機関の勧告に対しては、権威主義的な国だけではなく、日本でも「内政干渉だ!」という反発が巻き起こることがある。各国の身体的・政治的、あるいは社会・文化的な人権保護のあり方に対して文句をつける、という行為には、「内政干渉」的な側面があるのは確かで、にも関わらず、多くの国がそうした「内政干渉」を前提とした条約に参加しているのは、何故なのか、という問いについて、本書は、第二次大戦後の変遷を辿りながら解き明かしている。

また、数々の虐殺を止めることができなかったという国連による人権保護の限界を論じつつ、その一方で各国で地道な人権状況の改善の取組みや、モニタリングの精緻化が進められ、そして何より、各国における現状に対する異議申し立てに力を与え、支える枠組みとして、少しずつ効果を上げていることを示して、国連による人権状況改善に向けた取組みが無駄ではないことを解説しているのも重要だろう。

本書における興味深い指摘は色々あるが、大国がスローガン的に「建前」として導入した理念が、その国の思惑を超えて、結果として、国際的に共通の理念となり、提唱したその国自身をも縛ることになっていった、という歴史的経緯から学ぶべきことは多いだろう。どんなに状況が悪く、絶望的になったとしても、「建前」や「偽善」であれ、一定の共通の理念が掲げられ続けることに意味はあるし、そこに機会はありうる、ということでもあるのだから(裏返せば、「建前」が投げ捨てられる時は、危機はより深刻だということでもあろう)。

もちろん、国際状況の動向に応じて取組みが後退したり、停滞したりという時期はあるし、今この瞬間にも世界中で、不当に差別され、拘束され、殺されていく人たちがいる。その事実と現状を認めた上で、第二次世界大戦後の国際社会が、戦争と植民地支配の経験と反省を踏まえて組み上げた、普遍的人権という理念と、その理念を現実のものとするために蓄積してきた様々な条約と、その条約に基づく取組みについて、限界があるから無駄と切り捨てるのではなく、経緯と限界を知った上で、それをどう生かしていくのかを本書は問いかけている。なお、このような普遍的に人間であれば誰でも持っている、という人権概念は20世紀半ばまで存在しなかった、と、20世紀前半までの限定的な人権概念との差異が本書は強調しているのも特徴かと。

普遍的人権の国際政治における重要性については、

「国際政治の理想と現実に深い洞察を示したE・H・カーは、軍事力と経済力とともに、「意見を支配する力」を国際社会で重要な力としてあげた。今日の国際情勢では、人権に関して適切に判断し行動する「人権力」は、意見を支配する力の中核をなしており、権威主義勢力でさえ人権理念を真っ向から否定することは少ない。この「人権力」をつけるためには、まず国際社会でどのように人権理念が発展し、国際政治システムにどうやって組み込まれてきたのかを理解しなければならない。」

と著者は指摘しており、単なる理念というよりは、国際的な交渉ツールとしての普遍的人権の側面にも目が配られている(だからこそ、各国での反発もあるわけだが)。

また、普遍的人権の成立について紹介されている議論も興味深い。特に、「自分とは違う社会集団に属する人間に対する共感」の成立と拡大について、リン・ハント『人権を創造する』(岩波書店,2011.原著は2007年刊)では、啓蒙主義の時代に西欧で流行した書簡体小説にその端緒があるとされているとのこと。サミュエル・リチャードソンやジャン゠ジャック・ルソーによる書簡体小説のナラティブ構成が、階級や性別を超えた外集団への共感を可能にした、という議論なのだが、フィクションは社会に影響を与えない(から、何らの制限も受けるべきではない)という議論の真逆を行く、むしろ、フィクションこそが人の世界認識を変革する契機となる、という議論になっていて興味深い。著者はハントの主張については、反対意見も多数あるとの留保をつけつつ紹介しているが、表現の自由の重要性をどこに求めるのか、という点でも、こうした議論を参照しておくのは意味がありそう。

この他、人権概念は西洋中心主義的だ、という批判も継続的に存在するが、世界人権宣言について、「最終案が固まるまでには、起草委員会から人権委員会、最後に総会の第三委員会で、様々な国、人種、宗教、言語、文化を代表する人々による熟議が何度も行われており、その過程で多様な視点が反映された文書が形成された」という指摘もあり、物事はそう単純なものではない、ということもよく分かる。

また、国際人権規約については、ソ連と東側諸国が経済権・社会権を推し(A条約)、米国等西側諸国が政治権・市民権を推す(B条約)という構図があったことが紹介されていて、結果として両方が成立するという、複雑な経緯を辿っていることが紹介されている。これまた、国際政治における駆け引きの一側面だろう。

(ちなみにまったくの余談になるだけれど、一般論としての表現の自由はB条約に、科学研究及び創作活動に不可欠な自由はA条約の方に含まれており、微妙に性格が異なっているのだけれど、最近の「表現の自由」に関する議論は、このあたりがごちゃまぜになっているような。表現の自由にも、こうした様々な立場や対立を踏まえた議論と駆け引きがあったことは、覚えておいた方がよいかも。)

普遍的人権概念と、それを支える様々な条約、それに基づくNGOなどの活動が、状況の変化に力を与えた事例も紹介されており、その一つは、日本のアイヌの人々の粘り強い活動とその成果だったりする。考えてみると、本書で紹介されているような枠組みと、その枠組みを生かしたアイヌの人々の取組みがなければ、アイヌ文化を題材として取り込んだ、野田サトル『ゴールデンカムイ』は、少なくともあのような作品にはならなかったかもしれない、ともいえるわけで、普遍的人権がもたらすものが多様であることがよく分かる事例かもしれない。

他にも、「移行期の正義」つまり、人権侵害か起きてしまった後に、その加害者の責任をどのように問い、また、社会の中で和解を達成していくのか、という課題に、日本がどう取り組むのか(少なくとも、第二次大戦の人権侵害もこの「移行期の正義」の議論の対象となっている)、という問いや、安倍政権が「価値観外交」というリベラルな価値観を前面に出した外交を展開したことの価値(それによって、日本がジェノサイド条約を批准していないことなどが、裏返しで問われる状況となっていることも含めて)が論じられていることなど、現在改めて考えるべき課題にも多く言及されている。

実態と建前にかい離があったとしても、建前が前面に出されることが、状況を動かすことがある、という近現代史の経験を、今後も生かすことができるのか、色々な知見と問いが組み込まれた一冊。

ちょっと我田引水かもしれないが、一定の立場に立って発言する時、現実が理想とはほど遠いと分かった上であっても、なお、理想を述べることは未来の可能性への投資になりうる、ということでもあるのだろう。肝に銘じておきたい。

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2022/07/18

『学士会会報』no.955(2022-IV)

學士會会報』no.955(2022-IV)を斜め読みしたら面白かったので印象に残った記事をメモ。

宇山智彦「ロシアは何をめぐってウクライナ・米欧と対立しているのか」(p.16-20)は、ロシアの主張を分析して、ウクライナ侵攻の理由としてよく言われるNATO拡大という主張を「額面通りに受け取ることはできない」とした上で、特に米国との関係の中で、ロシアが国際社会における特別な権利がある、という主張や米国中心の国際秩序のゆらぎ、ウクライナとの一方的な一体性認識などを背景として分析している。バランス感覚も含めて、短く読める論説としてお勧めかと。

中山洋平「二〇二二年大統領選挙後のフランス政治――「ポピュリズム」から分極化へ?」(p.21-27)は、先日のフランス大統領選挙を分析し、かつては極右のものだった、移民排斥という主張を、幅広い勢力が取り込むことが容認されるようになっているなど、「EU統合推進、市場自由化、共和制原則に基づく意味統合」という統治エリートのコンセンサスが突き崩されてきている状況を論じている。興味深いのは、イタリアの政治学者サルトーリの描いた「分極的多党制」と同様の力学が働いているという話。「分極的多党制」というのは、

「左右両極に無視できない反体制政党を抱えている上に、中央の位置が独立の勢力によって占められていると、左右の穏健な政党は両極に吸い寄せられていく。こうした「遠心的競合」によって左右両翼への「分極化」が進めば、最終的には民主制の存続が危ぶまれる段階に至る。」

という話で、フランスでは、左右の両極が、EU統合に反対、市場自由主義路線を批難するという状況で、中道の独立政党であるマクロン党がこれまでのコンセンサスを維持する、という構図になっているとのこと。日本との比較という意味でも興味深い。

大塚美保「没後百年目の森鷗外」(p.42-46)は、今年没後百年となる森鴎外の最新の研究動向を紹介する一本。フェミニズムの理解者・支援者としての鴎外、文化の翻訳者としての鴎外、鴎外による国家批判と体制変革を通じた国家維持構想など、鴎外の持つ多面性を積極的に評価する近年の研究動向をコンパクトに紹介していて、最近はこんな議論になっているのか、と勉強になった。

北村陽子「戦争障害者からみる社会福祉の源流」(p.47-51)は、第一次大戦後のドイツで発展した、「戦争によって傷ついた人(Kriegsbeschädigter)」への支援策が、リハビリや障害者スポーツの発展、義手・義肢の技術革新、盲導犬の導入(軍用犬の戦後の活躍の場として発展したとのこと)など、現代につながる様々な障害者支援の仕組みにつながっていることが紹介されていて、まったく知らないことだらけで驚いた。

山田慎也「民俗を尋ねて《第VI期》第4回 変わりゆく葬送儀礼」(p.85-90)は、新潟県佐渡島北西部の、自宅を中心的な場として行われていた葬送儀礼を紹介するとともに、2000年代以降、公民館、そして2014年に改行した葬儀場を利用する形で変化するとともに、地域共同体から個人化の方向に向かっていった過程を紹介している。

なお、表紙の図版は東京大学総合研究博物館所蔵三宅一族旧蔵コレクションから、貴族院議員だった三宅秀(1848-1938)が貴族院議員有志から送られた、服部時計店製「帝国議会議事堂模型」。表紙裏の解説(西野嘉章「かたちの力(連載79)」)と併せて、現在の国会議事堂が完成した直後の議事堂が持っていた象徴性も含めて、興味深い。

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2022/06/10

『世界』(岩波書店)2022年6月号(通巻958号)

何号かすっとばして、『世界』(岩波書店)2022年6月号(通巻958号)を斜め読み。以下、印象に残った論考についてざっくりメモ。

登利谷正人「アフガニスタンに迫る人道危機――ウクライナ戦争の陰で」(p.16-19)は、国外に関する報道がウクライナ情勢に集中する中で、アフガニスタンがどのような状況に置かれているのか、2001年以降の経緯をコンパクトに整理しつつ論じたもの。タリバン政権の女性政策には比較的関心が寄せられる一方で「国民の約半数が深刻な飢餓に直面」している人道危機が十分に認識されていない状況に警鐘を鳴らしている。

大橋由香子「時の壁を破った高裁判決――優性保護法国賠訴訟」(p.20-25)は、大阪高裁、東京高裁で相次いで出された原告勝訴判決の意義を、被害者側の視点から解説したもの。これまで「除斥期間」により訴えを却下してきたその「時間の壁」を、どのようなロジックで乗り越えたのかの解説も興味深いが、東京高裁の裁判長が所感で「この問題への憤りのあまり、子どものいない人生を不幸だとする情緒的な表現は避けるよう、報道などの際に留意してほしい」等と述べたという話が印象的。

若江雅子「デジタル日本 その政策形成における課題」(p.26-39)は、総務省が進めていた電気通信事業法の改正によるインターネット利用者情報に関する規制が企業側のロビーイングにより骨抜きになった、という議論で、ここは他の論者の意見も確認しておきたいところ。総務省の動きへの対抗として、個人情報保護委員会を担ぎ上げる、という導入部の話が生々しくて、さすが新聞記者、という感じ。

内田聖子「デジタル・デモクラシー――ビッグ・テックとの闘い 第6回 監視広告を駆逐せよ」(p.40-49)は、Google、Facebookなどが中小の企業や団体の広告主向けに提供する広告サービスの問題点を指摘。その効果の不透明さや、広告の配信可否基準の不明瞭さが、ビッグ・テックに依存せざるをえない、中小企業・団体を追いつめている状況を論じている。末尾で紹介されている、「ビッグ・テックのサービスが『不可欠』なのは、それが唯一の選択肢であることを確実にするために、限りない反競争的な行為が行われてきたからです」という批判者の言葉を読んで、かつてのMS批判を思い出してしまった。

池田徹朗「旧ソ連の軛(くびき) ウクライナ戦争と中央アジア」(p.50-61)は、一読を強くお勧め。ロシアと歴史的にも経済的にも強く結びついている中央アジア5カ国(カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、クルグズスタン、タジキスタン)が、ソ連崩壊後に辿った軌跡を紹介しつつ、ウクライナ戦争におけるそれぞれの対応を分かりやすくまとめている。国連における決議で、ロシアを批難する決議に対して、棄権や反対票を投ずる国々が置かれている複雑な状況(と、それらの国々に対してロシアが突きつけている「踏み絵」)がよく分かる。最近の中国と中央アジア諸国との関係を考える参考にもなるかと。

大門正克「生きる現場からの憲法 第2回 「戦争」と「女性」を地域から問う」(p.83-91)は、岩手県で地域に根ざした読書会活動を行なってきた小原麗子氏の取組みを紹介するもの。六〇年安保の反省を経て「地域」にこだわり、「戦争」と「女性」(小原氏は地元の「おなご」という言葉にこだわる)を問い続ける小原氏が、活動の柱の一つとしているのが読書会、というのが興味深い。読書会とそこから生まれるミニコミ誌が、地域に暮らす一人一人と世界を結ぶ回路として機能する、一つのあり方を示すものとして読んだ。

特集というわけではないのだが、差別に関する論考として、安田菜津紀「ルーツを巡る旅、ヘイトに抗う道 第4回(最終回)」(p.156-165)と、ロクサーヌ・ゲイ,訳・解説KANA「ジェイダ・ピンケット・スミスは〈冗談を笑って受け流す〉必要はない。そう、あなたも。」(p.266-270)は、それぞれ日本と米国における根深い差別と向き合う論考で、併せて読むことで、差別される側が一方的に耐えることを強いられる状況自体の非対称性の理不尽さと、それが今ここの問題であることを突きつけられる。

岡田晴恵・田代眞人「新型コロナ対策の妥当性を問う 特措法制定の当事者として」(p.250-261)は、新型インフルエンザ等対策特別措置法制定に関わった著者らが、その新型インフルエンザの世界的流行を踏まえた背景を振り返りつつ、事前の準備と発生時の強力な対処を可能にするよう設計された(少なくとも制定当時はそう意図された)特措法が新型コロナウイルス感染症対策において十分に活用されていない現状について、問題提起をしたもの。現在、新型コロナ対策政策に関わる人物が「パンデミックは100年に一度ですから」と、対策推進に水を差す発言をしていたことが紹介されていたり、なかなか複雑な背景もうかがえるが、特措法のポテンシャルを改めて考える材料になるかと。

連載もので、前の回を読んでなくて飛ばしたものもあるので、また後日単発で拾うかも(拾わないかも)。

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2022/05/23

下斗米伸夫『ソビエト連邦史 1917-1991』講談社,2017.(講談社学術文庫)

『ソビエト連邦史 1917-1991

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下斗米伸夫『ソビエト連邦史 1917-1991』講談社,2017.(講談社学術文庫)を読了。

かなり前に購入して、電子積ん読状態だったのだけど、そういう時節かな、と思い読んでみた。ロシア革命以降、ソビエト連邦の歴史をその崩壊に至るまで、レーニン時代から頭角を現しスターリンの右腕となって活躍した、ビャチェスラフ・モロトフ(1890~1986)の活躍や発言を参照軸にしつつ論じる、という一冊。

読んではみたが、これはきつかった。とにかく理不尽に人が死んでいく。権力闘争に破れれば待つのは死だし、方針に従順でも調子に乗ってやり過ぎると逮捕されて銃殺になる。外貨獲得のために農村から穀物を収奪したことで農民が各地で餓死し、反乱を起こせば弾圧されてやはり死んでいく。生き残っても強制収容所で強制労働に投入され、それによって維持された生産力で国の経済が維持されていく。

自分の指示で万の単位で人が死んでいっても、ためらうことなく突き進むのは、レーニンもスターリンも変わらない。「1938年11月12日だけで、スターリンとモロトフのたった二人で3167名への銃殺指示を出した。」という一節だけでもすさまじいが、この程度、氷山の一角に過ぎない。時に国際社会の動向に応じて方針を転換する柔軟性もスターリンの持ち味だが、その方針転換についていけない原理主義者をまた粛正して自らの正当性を揺るぎないものにしていくのもスターリンである。

興味深かったのは、ロシア革命は、広範な支持基盤がない状態で、実際には少数派だった勢力が、様々な勢力の協力を得て権力を獲得した、という構図だったことで、本書で初めて認識した。リーダーとして担ぎ上げられた少数派勢力が、政権についた途端、対抗者になりうるかつての協力者たちを次々と屠って絶対的な権力を確立していく、という構造なので、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』から笑いと涙を抜いた感じの展開が延々と続く、といえば、『鎌倉殿』を見ている人には何となくどんな感じか想像がつくかもしれない。

大木毅『独ソ戦』(岩波新書)や、芝健介『ヒトラー:虚像の独裁者』(岩波新書)を読んでいたので、分かってはいたものの、第二次大戦の死者の数もやはりすさまじい。「なかでもドイツの九〇〇日にわたるレニングラード包囲では、革命の都を守るということで、スターリンは降伏を許さなかった。…(中略)…レニングラードの戦前人口は264万であったが、1943年には60万となっていた。」という一節には一瞬固まってしまった。

その後、ブレジネフ時代にようやくある意味での安定を獲得するものの、それは停滞と裏表一体、というのが本書の評価で、ゴルバチョフのペレストロイカについても、割と辛口の評価だったりする。情報公開を進めたことで、スターリン時代に行われた各地域併合の正当性の根拠が次々と崩壊し、各地の独立運動に直結していく中で、保守派と改革派の狭間で無力化していくゴルバチョフ、という感じで描き出されている。

なお、本書は、ソ連崩壊後に公開された様々な資料や、そうした資料に基づく歴史研究の成果に基づいているようで、ロシアにおいてもソ連時代に対する反省と検証が進んでいたことが反映されていると思われる。今のロシアでは、そうした文書の扱いや、歴史研究はどうなっているのだろう、というのが、気になるところでもある。

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2022/04/03

鈴木美勝『北方領土交渉史』筑摩書房,2021.(ちくま新書)

『北方領土交渉史』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

鈴木美勝『北方領土交渉史』筑摩書房,2021.(ちくま新書)を読了。ウクライナをめぐる情勢を受けて、色々な意見がSNSで流れてくるので、とりあえず、ざっくり経緯を把握しておきたくなって、読んでみた。

特に1956年の日ソ共同宣言に結実する鳩山一郎内閣による対ソ連交渉に関するくだりが印象的。米ソが対立する冷戦構造が強化されていく中で、領土や平和条約よりも、シベリア抑留者の帰国の実現と、国連加盟を優先した結果として、その後の日ソ・日露関係の前提が作られていった過程が分かりやすく描かれている。鳩山と重光葵との対立構造や、保守合同に向けた国内の政治勢力の再編状況との関係を軸に論じていて、外交と内政が密接に絡み合いつつ交渉が変遷していく過程が興味深い。本書全体に言えることだが、政治家に信頼され、重用された官僚の動きを重視しているのが特徴で、時事通信出身の著者が、記者として官僚と接してきた経験が活かされてそう。

領土問題がいかに政治家の野心を引きつけるのか、という側面も強調されており、だからこそ表の外交ルート以外の、ソ連やロシアとのパイプ役となる別ルートを探る動きが繰り返し生じることがよく分かる。

「日露(ソ)領土交渉史を振り返る時に気づくのは、国家主権を支える「外交の正義・倫理・法原理」がしばしば軽視され、エネルギー・ビジネスが外交に密接に絡んでくること、しかも、それが往々にして国家の根幹を揺さぶる変動要因になる点だ。そうした外交を、人的ファクターに置き換えるならば、外交の場が、エネルギー・マフィアの暗躍する舞台と化してしまう可能性が大きくなる。」(第五章 安倍対露外交──敗北の構造/第一節 「経産官僚」主導の起点)

という指摘は、重要なのかもしれない。

また、第二次安倍政権下の対ロシア外交における、外務省外し(と責任の押し付け)とも見える動きに関する記述は批判的で、かつ生々しい。特に、様々な場面やインタビューなどで示されていたプーチン大統領側の姿勢を冷静に読み解くことなく、口約束を頼りに一方的に期待値を上げていったことに対する評価は低い。その動きに迎合したマスコミ(特にNHK)に対する批判的な記述もあったりする。対照的に、橋本龍太郎政権における、政官両面をグリップした上、政府の総力をうまく活用しながら進められた交渉に対する評価が高くなっていて、著者の理想とする外交の姿がそこからうかがえる。

こうした視点は、やや外務官僚よりとも見えなくもないが、外交文書がまだ公開されていない時期の交渉について、ある程度踏み込んだ交渉の内実を探ろうとすれば、情報源は限られるわけで、外務官僚とその経験者の発言が一定の重みを持つのはやむを得ないようにも思える。本書の読みどころの一つが、「ロシア・スクール」とも呼ばれる、ロシア語/ロシア地域を専門とする外交官のグループの、東西冷戦期の厳しい対立構造の中で活躍してきたからこその結束や特色について、詳しく紹介している部分で、KGBの監視下での外交官生活や、それぞれ個性のある外交官たちの横顔が描き出されていたりする。こうした、外務官僚視点の導入が、本書の強みでもあり、注意点でもあるかもしれない。

何にしても、情報源が限られる中で、様々な情報を照らし合わせながら、かつコンパクトに分かりやすい図式で、国際状況や国内の政治状況の変化も捉えつつ、1956年の日ソ共同宣言からどこまで前進し、そしてまた、立ち戻ったのかが分かりやすく整理されているのはありがたい。今後、外交文書の公開が進んでいけば、本書の記述は順次検証されていくことになるとは思うが、まずはざっくり、近年までの見取り図を頭に置いておくためには読みやすくて、ありがたい本だった。

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2022/02/20

酒井隆史『ブルシット・ジョブの謎:クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』講談社,2021.(講談社現代新書)

『ブルシット・ジョブの謎』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

酒井隆史『ブルシット・ジョブの謎:クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』講談社,2021.(講談社現代新書)を読了。

デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店,2020.の翻訳者の一人による概説。なお『ブルシット・ジョブ』を中心にはしているが、デヴィッド・グレーバーによる新自由主義批判入門ともなっているのがポイントかと。

何も生み出さず、一部の人たちの立場や地位や建前を守るため以外には何の役にも立たず、社会に対してまったく何の貢献もしない、にもかかわらず、給料が支払われ続ける仕事、ブルシット・ジョブ(BSJ)が存在することを、多くの証言から明らかにしつつ、それが何故存在してしまうのか、そして増え続けるのか。また,そのことによって、19世紀には想定されていた、ほとんど働かなくても人々が飢えることのない社会の実現がいかに妨げられているのか、BSJの実例を論じ、分析しつつ、人類学的知見を導入して多面的に議論されている。……というか、そうした議論が展開されているデヴィッド・グレーバーの著作のエッセンスをかみ砕いて説明してくれている。

例えば、新自由主義において重視されているのは、実は市場メカニズムではなく、数値による競争であり、だからこそ、実際には明らかに効率が悪化し続けているとしても、数値化のために莫大な事務仕事を発生させ、拡大する政策が取られる、と説明されると、あー……と思う人も少なくないのでは。

また、「他者ないし社会への貢献度が高ければ高いほど報酬が低く、貢献度が低ければ低いほど報酬が高くなる」という実態を踏まえつつ、仕事というのは苦行であり、人に直接的に役立ったり、人々が働くこと自体を支える仕事は、それ自体が人にとっての喜びになるからこそ、仕事としては軽視される、という、エッセンシャルワークの賃金を押さえ込みつづける構造を生み出す仕事観に関する指摘も興味深い。

本書では、こうしたグレーバーの洞察を支えているのが、人類学において蓄積された、様々な社会における多様な労働や経済のあり方に関する知見であることも解説されている。読んでいて、本書では特段言及はされていないものの、カール・ポランニーの経済人類学を思い起こしてしまった。人類の社会において、経済というのは市場経済だけではない、ということを展開している点は共通しているような気もするが、労働観などの様々な観点を視野に入れて、猖獗を極める新自由主義の悪影響を踏まえていること、さらに、より直接的に、現代社会に対して警鐘を鳴らし、別の社会のあり方を想像し作っていくことを訴える点で、グレーバーの方が、現状批判として強烈な印象ではある(時代状況が違うのだから当たり前ではあるが)。

概説ではあっても、様々な論点が紹介されておりグレーバーの議論が届く範囲の広さを実感できるのも本書の特徴だろう。そして、グレーバーの言葉だけでは分かりにくい部分が、著者の言葉で改めて説明されることで、より理解しやすくなっている。例えば、BSJという、無意味な作業を延々と命じられて続けなければならないことが、どれだけ人を蝕むのか、という議論の中で、引用されている、印象的なグレーバーの言葉、

「ただ働くことだけのために働くふりを強いられるのは屈辱である。なぜなら、その要求は、自己目的化した純粋な権力行使であると感じられる──正しくも──からである。かりに、演技の遊びが人間の自由のもっとも純粋な表現だとすれば、他者から課された演技的仕事は、自由の欠如のもっとも純粋な表現である(BSJ 122)」

について、著者(酒井氏)は次のように解説している。

「自由の最高の表現である無目的な遊びが、他者から強制されると、それは不自由の最高の表現へと転化するのです。たとえば、奴隷主が奴隷たちに、格闘技をやるように命じます。もし自由にやったらただただ愉快である、たがいに技術や駆け引きをたのしむゲームは、ここでは奴隷主の気まぐれの力の行使にどこまでも従わねばならない、その権力の純粋な発現と服従のあかしになります。」

もちろん、やや難解にも思えるグレーバーの言葉遣い、用語の選択には、相応の理論的背景があることも、ところどころで著者は触れている。この部分も、おそらくは、グレーバーの言葉の選び方にはそれなり理由があるのだろう。ただ、著者はそれを理解した上で、かなり大胆に言い換えを行なうことで、グレーバーの議論への入り口を開こう、としているように見える。

もう一つ、グレーバーの議論と関連はしているが、本書ならではの重要な指摘として、日本特殊論の危険性の指摘がある。様々な論者が、欧米ではこうだが、日本ではこうだ、的な議論を展開して、問題は日本の特殊性にある、という結論を示しがちだが、実際には程度の違いや現れ方の違いはあるにしても、同様の問題は世界的に発生していることも、BSJの事例は示している。日本特殊論は、本来は世界的に生じている共通の現象に対する分析を逸らしてしまう危険があり、また、そうした現象に対する批判や抵抗も、日本特殊論の殻に閉じこもるのではなく、国際的な比較や連帯を通じて行われるべきである、という指摘は傾聴すべき点があるように思う。

グレーバー自身は、2020年に亡くなってしまっているが、BSJをはじめとして、その著作が批判的に論じている現象は、残念ながらおそらくそうそう簡単に無くなりはしないだろう。私たちに染みついてしまった、新自由主義的価値観を振り払うのはそんなに簡単なことではない。それでも、本書を導き手に、グレーバーの議論に、また触れてみたいと思う。

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2021/12/04

『世界』(岩波書店)2021年11月号(第950号)・12月号(第951号)

そういえば、2号分、感想を書くのをため込んでしまっていたので、『世界』(岩波書店)2021年11月号(第950号)、12月号(第951号)についてまとめて。記事の数が多すぎるので、当事者による当事者視点の論考は基本、あえて外している。そこが『世界」の読みどころでもあるとは思いつつ、それだけではないよ、ということで。

『世界』2021年11月号の特集は「反平等—新自由主義日本の病理」と、「入管よ、変われ」の2本立て……なのだが、個人的には特集外の論考の方が印象に残った。

国谷裕子「人が人らしく生きていける社会を—内橋克人さんが伝えてきた言葉」(p.23-30)は9月1日に亡くなられた内橋克人氏の追悼文。「クローズアップ現代」登場時の発言を中心に、環境問題や持続可能な地域経済論の先駆者としての内橋氏について論じている。

山岡淳一郎「コロナ戦記 第14回 敗北と「公」復権」(p.31-40)は連載最終回。単行本化が予告されている。各地で起こっていた在宅死を踏まえて、公立・公的病院の脆弱さや、情報公開における課題などを提示して議論を終えている。この間の対応について「最前線でたたかった人たちの「現場・現物・現実」のリアリティで洗い直さなければならない」という提起が重い。

また、この2021年11月号では、特集とは表紙に書かれていないが、米軍撤退後の状況を受けた、アフガニスタンに関する論考が複数掲載されいる。

栗田禎子「対テロ戦争の時代を超えて—中東における民主主義の展望」(p.54-63)は、「アフガニスタンに限らず、冷戦期、社会主義と対抗するために宗教(イスラーム)を政治利用するという手法は、実は米国によって中東全体でとられたものだった」という点を踏まえつつ、中東各国における自律的な運動の可能性を論じている。

谷山博史「対テロ戦争とは何だったのかー現場のリアリティから見えてくるもの」(p.64-71)では、タリバーンとの何度かあった和平や対話のチャンスに対して、米国側がことごとく反対し、潰してきた経緯を振り返りつつ、対話のパイプを閉ざさないことの重要性を語る。

中村佑(聞き手・島本慈子)「インタビュー 9.11から二〇年ーあの日の意味を問い続ける」(p.72-77)は、次男を9.11で亡くした人物へのインタビュー。その遺骨も見つからないまま、「9.11の場合、こんなテロが生まれた原因がどこにあるのかを考えていけば、そこには歴史的に複雑な経緯があるわけで、僕が相手にしているのは「歴史」なのかなと思わざるを得ない。」と語るその言葉に、どれほど思いが込められているのか。

特集とも小特集でもない独立した記事としては、ウスビ・サコ(聞き手・小林哲夫)「インタビュー 京都観光はどう変わらなければならないか」(p.234-239)も面白かった。京都の景観が大きく変化しつつある現状に対する提言。町屋と伝統産業の衰退が進む一方で「観光が伝統産業よりも大きな収入源」となったことで、規制に消極的になっていたのではないかと問題点を指摘しつつ、「観光都市として生きるとはどういうことなのか、市民レベルで議論」していく必要性を論じている。一方では、伝統産業の「アーカイブ」として機能し、新しい文化・産業のプロデュースに関わる人材を育てるという大学の責任についても言及。

そして何より、三宅芳夫「越境する世界史家(上) リチャード・J・エヴァンズ著『エリック・ホブズボーム—歴史の中の人生』」(p.252-260)がすごかった。タイトルだけ見ると書評のようだが、実際には書評の対象となっている本については「エヴァンズによるホブズボームの「文化的保守主義」という括りは端的にいって的外れであるだけでなく、歴史家として『極端な時代』第三部全体をまったく「読めていない」」とばっさりと切り捨て。評者(と、もはや言って良いのかどうか)の視点で、改めてホブズボームの生涯と業績を一から語り直す、という荒技をかましている。すごい。自社刊行の本の書評としてこれを載せる岩波書店も太っ腹。えらい。反ナチズム/ファシズム思想としての共産主義と、ドイツから逃れた先の英国で迎え入れられた知的エスタブリッシュメントのネットワークという二つの軸から、ホブズボームの業績を再評価しつつ、20世紀の知的・思想的動向の変遷を論じていて読みごたえあり。次号の後編と併せて必読かと。

『世界』2021年12月号の特集は「学知と政治」と、「コロナ660日」の2本立て。

まず特集「学知と政治」は、日本学術会議会員任命拒否問題について、当事者となった6名の研究者の論考を掲載。

それぞれ、読みごたえがあるのだけれど、まずは、加藤陽子「現代日本と軍事研究—日本学術会議で何が議論されたのか」(p.86-97)を。冒頭で、会員任命拒否について言及しつつも、主な内容は、日本学術会議による2017年の「軍事的安全保障研究に関する声明」の成立至る議論を丁寧にたどるもの。多様な意見がぶつかりう議論の概要と合意形成の過程について論じることで、日本学術会議がどのような場として機能しているのかを明らかにしている。2017年声明を単純に軍事研究を邪魔するものとして捉えている向きにこそ、読んで欲しい。また、議事録を含めた情報が公開されているからこそ、このような検証が可能となる、という実例としても重要かと。

一方、論文調の加藤氏とは対照的な語り口なのは、宇野重規「「反政府的」であるとは、どういうことか—政治と学問、そして民主主義をめぐる対話」(p.114-121)かと。A、Bの二人の人物の対話形式で、著者のこれまでの発言や主張を、平易な言葉で分かりやすく語り直している。学者の社会的責任として学問に支えられた内容を語るべき、しっかりした政府が必要だからこそ批判する、ということがどういうことなのか、改めて確認できる。

特集「コロナ660日」は巻頭写真と連動したコラムがそれぞれ読みごたえあり。特に、小原一真「見えない死と共有されない悲しみ・葛藤について」(p.172-173)で紹介される、納体袋に遺体を入れたあと、その上から布団をかけた看護師の「袋に入っていても、そこにいるのは患者さんなんで」という言葉が印象的。極限の状況で人の尊厳を保とうする医療現場の葛藤が映し出されている。

永井幸寿「検証 コロナと法ー何ができ、何をしなかったのか」(p.204-211)は、新型インフルエンザ等対策特別措置法が本来備えていた(しかもそれが改正で強化された)強力な各種規定と、それがいかに使われなかったかが論じられている。また、2010年にまとめられた「新型インフルエンザ(A/H1N1)対策総括会議報告書」での反省がいかに活かされていないかについても言及されており、法運用と併せて、過去の新型インフルエンザの経験から学べなかったという課題を付けつける内容。

特集外の扱いだが、関連して。河合香織「分水嶺Ⅱーコロナ緊急事態と専門家 第6回 「病床2割増」計画」(p.160-171)は、これまでになく、医療現場や専門家と、政府・行政府省との意見の対立を描いている印象。「次の感染拡大に向けた安心確保のための取組の全体像」に対する医療現場からの批判は、他ではあまり読めない気がする。また、押谷仁氏の「データがないことは、日本の最大の問題でありつづけているんです」という指摘も重要では。

特集ではないが、ドイツ関連の論考が二つ。どちらも、断片的にニュースを見たり聞いたりしているだけでは分からない俯瞰的なまとめでありがたかった。

一つ目、板橋拓己「メルケルとは何者だったのか」(p.145-153)は、メルケル前首相の経歴と業績を回顧し、「負の遺産」も多いとしつつ、「それでも彼女は「偉大」な首相のひとりだと筆者は思う」としている。特に、「自由や民主主義や法の支配といった価値が揺らぐ時代に、メルケルはそれらの価値をしっかりと掲げて譲ることがなかった」という点は重要かと。その背景に、社会主義体制下の東ドイツで育った、という経歴があったという指摘も見逃せない。

もう一篇の、梶村太一郎「メルケル後 ドイツの選択ー連邦議会選挙と新政権 上」(p.154-159)は、過半数を確保できる政党がなくなった状況下での選挙戦の過程と、連立交渉の行方について見通しを語っている。後編は2022年2月号に掲載予定とのこと。

その他、三宅芳夫「越境する世界史家(下) リチャード・J・エヴァンズ著『エリック・ホブズボーム—歴史の中の人生』」(p.240-249)については、11月号のところで書いたとおり。必読。

吉田千亜「県境の街 第10回 今を生きる」(p.272-281)は連載最終回。栃木県における東京電力福島第一原子力発電所事故の影響と、情報がない中で様々な対応に取り組み、結果的に被害があったとは認められないままとなった人たちに関するルポ。放射性物質は、放出時の天候条件によってまだらに拡散し、福島県以外の各地の影響についても事故当時は話題になっていたと思う。その後、忘れられてしまった事象を、関係者への取材を通して掘り起こした労作かと。

あと一つ、橋本智弘「アフリカの多層から聞こえる歴史の声ーアブドゥルラザク・グルナ、ノーベル文学賞に寄せて」(p.250-255)は、2021年ノーベル文学賞を受賞したグルナ氏が指導教官だったという著者による、グルナ氏とその仕事についての解説。日本での紹介ではあまり触れられていないようだが(例えばNHKの特設ノーベル賞サイトでの紹介「2021年のノーベル文学賞にタンザニア出身アブドゥルラザク・グルナさん」)、グルナ氏は、アフリカやインド、カリブなどのポストコロニアル文学の研究を行う、英国ケント大学英文科の教授でもあり、その傍ら創作も行っているとのこと。まだ邦訳がない状況ではあるものの、グルナ氏の、オリエンタリズムに対する批判視点と、アフリカ内部の複雑な歴史を直視する姿勢は、日本の現状に対する批判的視座を提示してくれそう。

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2021/09/19

『世界』(岩波書店)2021年10月号(第949号)

電子版出ないのかなあ、と思いつつ、岩波書店の『世界』2021年10月号を紙で斜め読み。以下、気になった記事についてメモ。

河田昌東「世に放たれたゲノム編集野菜」p.10-14.

CRISPR-Cas9等のゲノム編集技術を用いた品種の栽培の拡大についての話。遺伝子組換え野菜と異なり、外来遺伝子が導入されていなければ表示義務がない、というのは、知らなかったのでちょっと驚いた。

消費者庁のサイト(ゲノム編集技術応用食品の表示に関する情報)をみると、確かに、遺伝子組換え相当かどうか、という基準が導入されている。基準の妥当性云々以前に、こうした議論がなされていたことが、自分のアンテナにまったく引っかかってこなかったことに、軽く衝撃を受けた。あまり話題になってない、というのもあるのではとは思うものの、自分の感度の低さが少々腹立たしい。

東大作「アフガン政権交代 失敗の教訓と平和作りへの課題」p.25-35.

米国の戦略がことごとく狙いを外していく一方で、タリバンが地元密着の課題や対立の解決に地道に取組み、各地域の人々の支持を着実に獲得してきたのかについて言及されている。過去に何度かあった和平のチャンスが、米国の姿勢や、様々な状況の影響で失われていたことも紹介。

それにしても、9・11で亡くなった死者約3千人。そして、その後の20年間でアフガニスタンでの戦闘で亡くなった死者は、一般市民が毎年数千人、戦闘員は数万人と推定されているという。9・11の衝撃を、私は忘れることができないが、その一方で、9・11への対応を契機として行われた戦闘によってアフガニスタンで死んでいった人々のことを、私は、忘れるどころかそもそも正確な死者数すら知ることがない。この圧倒的な非対称性に呆然とした。死者に対するこれほどの記憶の非対称性を何とかしない限り、憎しみや不信が消えることはないのではないか、という気がした。

山岡淳一郎「コロナ戦記 第13回 デルタ株との総力戦」p.54-63.

河井香織「分水嶺Ⅱ コロナ緊急事態と専門家 第4回 コロナ災害の中の命」p.64-75.

今の『世界』の看板連載2本。継続して、新型コロナウイルスへの対応状況を追いかけるには、どちらも必読だろう。現場の病院や自治体の対応を中心にした「コロナ戦記」と、政府と政府と直接やり取りする立場にある専門家たちの動きを主に追う「分水嶺Ⅱ」という感じ。

今回は、どちらもデルタ株による医療危機の状況への対応について記録している。特に「コロナ戦記」の備えがあった自治体の対応の記述が印象に残る。おそらく、のど元過ぎればなんとやら、に(自分も含めて)なると思うので、一部の例外はあるにしても、全体としてはいかに備えが薄かったか、ということを確認する意味も含めて、こういう記事は重要かと。

西山太吉「「NHK」に問う 「独占告白 渡辺恒雄」を視聴して」p.84-89.

昭和編を見て、なんでこんな自慢話を、貴重な証言とかなんとか持ち上げるのだろう、という感想だったので、平成編は見てないんだけど、これを読んだら、まあ、見なくてよいか、という感じに。

新聞が政治運動と関わる形で立ち上がってくること自体は、別に日本に限ったことではないだろうとは思うものの、政治から独立したジャーナリズムという、独自の領域を明確に確立する方向に向かわなかったことの、少なくとも責任の一端は、渡辺氏にあるのでは、という気も読んでいてしてきた。

池田明史「多極化する中東世界 イスラエルとアラブの「接近」が意味するもの」p.152-161.

「アラブの春」により、各国の諸勢力間のパワーバランスを巧みに操ることで維持されてきた独裁政権が倒されたことで、各国内で諸勢力間の直接の対立関係が顕在化した、という見立てがなるほど。その結果として、外交面での安定志向から、イスラエルとは融和の方向に多くの国が向かっており、パレスチナ問題は既にイスラエルの国内問題となりつつある、というのが、読んでのざっくり理解(雑なまとめなのであまりあてにしないように)。

撤退を進める米国と、影響力を強める中国・ロシアの思惑もからまり、新型コロナによって一端先送りされてきた各国内および国際的な対立関係や、各国の民衆レベルでの不満の高まりなど、様々な要因が絡まりあっている状況が解説されていて、納得感あり。ただ、こんなのどうすりゃいいんだ、という感じでもある。

稲葉雅紀「ポスト・コロナを切り拓くアフリカの肖像」p.192-199.

勝俣誠「新しい南北問題の中のアフリカ パンデミック、武力紛争、気候変動」p.200-209.

アフリカ関係2本。今、総合誌でこういうのが読めるのは『世界』だけかもしれない。

「ポスト・コロナを…」の方は、国際的に活躍するアフリカ出身の人々を紹介。登場するのは、国際的なワクチンギャップに対して果敢に交渉を繰り広げてアフリカでのワクチン供給の道を切り開こうとするストライブ・マシイワ氏(アフリカ連合コロナ特使)、先進国による圧力を受けつつも新型コロナ対策のための多国籍間の枠組みの構築と維持に奔走するテドロス・アダノム・ゲブレイェスス氏(WHO事務局長)、WTOを舞台にワクチンに関する知的財産権の一部免除を提案し交渉を繰り広げるシリル・ラマボーザ氏(南アフリカ共和国大統領)、その提案を受けて調整のかじ取りを担うオコンジョ=イウェアラ氏(WTO事務局長)。過酷な時代、状況を乗り越えてきた人々による、脱植民地化を含む新たな動きを紹介している。

一方で「新しい南北問題…」の方は、特に赤道以北のアフリカ諸国が、ヨーロッパ諸国とイスラム諸国の思惑に振り回されてきた構造を、「文明の境界としての地中海」を軸に解説しつつ、各国の貧弱な公共セクターや、分断された農業従事者などの問題、継続的な産業政策のための援助の欠落など、様々な問題があること紹介している。また、アフリカに介入し続けてきたフランスへの抵抗やそれを受けたフランス側の変化など、植民地の問題が今も続いていることがよく分かる。

小笠原みどり「寄宿学校の遺体と植民地国家の罪:タニヤ・タラガ著『命を落とした七つの羽根—カナダ先住民とレイシズム、死、そして「真実」』」p.260-263.

村上佳代訳、青土社2021年刊の書評を通じて、カナダの先住民政策政策の問題点についても紹介。

カナダでは、今年、19世紀末から設置された先住民向けの学校である「インディアン寄宿学校」において、劣悪な環境で多くの先住民がそこで死に追いやられ、遺体が敷地内に大量に埋められていたことが明らかになったとのこと。多文化共生というカナダの人々のセルフイメージに対して深刻な疑問が突きつけられているという(その一方で、追悼のために州議事堂が人々が持ち寄った子ども靴やぬいぐるみで埋め尽くされたという話も紹介されている)。

評されている書物自体は、2000年から2011年に行方不明となり、亡くなった7人の若者の足跡を追い、その中で、先住民に対する制度的な人種差別の状況を描き出しているという。こうした書物の刊行が、近年のインディアン寄宿学校の調査につながっているとのこと。

差別などない(自分は見たことがない)という言葉を軽々しく語ってはいけない、ということでもあるだろう。一度不可視化された構造的差別の実態を明らかにするためには、そのために相当の努力が必要であることも分かる。


その他、東京オリンピック特集は「敗戦」と戦争の比喩を使っている時点で今一つピンと来ない感じ。

「脱成長」特集は、評価が難しい。市場の暴走を抑えつつ、格差を拡大させず、かつ循環がうまくまわる経済システムをどう構想するのか、というのは、簡単な話ではなさそう。

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