2022/08/15

『日本古書通信』2022年5月号・6月号

『日本古書通信』の積ん読がたまってきたので、とりあえず、2022年5月号(1114号)と6月号(1115号)の気になった記事についてメモ。

まずは『日本古書通信』2022年5月号から。

岩切信一郎「石版画家・茂木習古と三宅克己」(p.2-4)は、明治・大正期に活躍した石版画の画工「習古」の謎を辿りつつ、石版カラー表紙を実現した出版における明治20年代の技術革新などにも言及。洋画家・三宅克己の調査の過程で「習古」に三宅が師事したという回想を手がかりに現在までに判明した事実を紹介している。しかしまだまだ謎は深まるばかり、という様子。なお、三宅克己については、次を参照するのが良いかと。「三宅克己 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8905.html

川本隆史「書痴六遷の教訓-仙台からのたより」(p.10-11)は、『風の便り』第7号(1997年6月)からの再録とのこと。著者の引っ越し遍歴を、段階的に増殖していく蔵書の様子と併せて回顧しつつ、書物がつなぐ縁(新明正道氏からの手紙が紹介されている)について語るエッセイ。文系の学者の増え続ける蔵書のありさまが、引っ越しの玄人ともに身に迫ってくる。その後の引っ越しについての補記もあり。

川口敦子「キリシタン資料を訪ねて② ポルトガル国立図書館2」(p.16-17)は、2007年のポルトガル国立図書館での調査の様子を紹介。一部の目録ではポルトガル国立図書館にあるとされていた『ぎやどぺかどる』がやはりなかった、という話が、目録情報の確実性という意味で考えさせられる。イラストで紹介されている、図書館内のレストランのランチがおいしそう。また、当時ポルトガルの書店で購入したルイス・フロイス『日本史』のCD-ROM版がWindows10では起動できなくなっている、という話もあって切ない。

青木正美「古本屋控え帳431 『世界はどうなる』」(p.35)は、『世界はどうなる』精文館,1932の紹介(なお、インターネット公開されている国立国会図書館所蔵本は一部欠落がある模様。)。第二次世界大戦の展開を予想しつつ「日米戦争に対しては、我が国は攻勢に出づるに最も有利な立場」と対米戦を煽っていて、なるほど、こういう書物によって、対米戦争に対する気分が積み重ねられていったんだろうな、という感じ。

八木正自「Bibliotheca Japonica CCXCIII 達摩屋五一遺稿集『瓦の響 しのふくさ』」(p.39)では、書物の価値が嵩で計られていた時代に、書物の価値を評価した古書肆の鼻祖、岩本五一(1817-1868)の生涯と、その遺稿集を紹介。五一の堂号、珍書屋待賈堂が、反町茂雄の古書販売目録、「待賈古書目」(JapanKnowledgeで提供されている電子版の解説参照。)の由来となったとのこと。

なお「受贈書目」(p.40-41)で、浅岡邦夫「禁書リストを筆写した図書館員」(『中京大学図書館紀要』42号抜き刷り)について紹介されている。同論文は中京大学の機関リポジトリで公開されており、東京帝国大学附属図書館に勤めていた佐藤邦一が書き写した禁書リストを軸にその生涯を辿るもの。

続いて、『日本古書通信』2022年6月号についてのメモ。

真田真治「小村雪岱の装幀原画① 内田誠『水中亭雑記』」(p.2-4)は、著者が入手した、小村雪岱の「装幀原画他装幀資料」と、その入手の経緯を語る連載の一回目。レア資料を巡る古書店主とコレクターの複雑な関係も読みどころかと。

樽見博「百年後の大樹」(p.6)は、長塚節(コトバンクの解説)が茨城県下妻市の古刹、光明寺で撮影したという写真の背景に写った大樹について、現地での状況を踏まえて考察した囲みコラム。確かに、現代の写真と比較すると、通説が正しいのかどうか、ちょっと疑問になってくる。

竹原千春「古本的往復書簡2 細川洋希さまへ 志賀直哉の初版本」(p.8-9)では、著者の入手した志賀直哉献呈本を題材に、細川護立(永青文庫の創設者)と志賀直哉の交流について紹介されている。小学校から大学までずっと一緒だったとはびっくり。

森登「銅・石版画万華鏡177 松本龍山『袖玉京都細絵図』」(p.15)は、著者の入手した、慶応4年の銅版京都図を紹介。袋付きで入手したとのことで、その図版も掲載されている。貴重かと。

「札幌・一古書店主の歩み 弘南堂店主高木庄治氏聞き書き(11)独立開店(札幌医大前)」(p.32-34)は、毎回貴重な証言の連続だが、今回は、末尾の詐欺事件の顛末が苦い。一方、『蝦夷地及唐太真景図巻』落札と、昭和37年ごろに、名取武光氏の研究費で北海道大学に入れることになった顛末の話が興味深い(その後一旦行方不明になったとのこと。なお現在は北海道大学北方資料データベースで所在を確認できる。)。こういう購入の仕方が許される時代だったんだなあ。

川口敦子「キリシタン資料を訪ねて③ アジュダ図書館(リスボン)」(p.36-37)は、ボルトガルの首都、リスボンの宮殿内にある図書館、アジュダ図書館の紹介とそこでの調査について。宮殿という古い建物だからこそのトイレのドアの罠?のエピソードがなんとも言えない。また、最初の訪問時(2007年)にはウェブサイトもなかった、というのがちょっと驚き。

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2022/08/07

稲田豊史『映画を早送りで観る人たち~ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形~』光文社,2022.(光文社新書)

稲田豊史『映画を早送りで観る人たち~ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形~』光文社,2022.(光文社新書)を読了……して、少し時間がたってしまったので、既に忘れかけだけど、印象だけでも書き残しておく。

セリフやキャプションによる過剰な分かりやすさの追求や、映画評論の衰退、時間面での効率性(タイパ)重視、監督へのこだわりの無さなど、次々と年寄りには受入れづらいネタが繰り出され、それをフックに、現代の映像作品受容の諸相に関するレポートとして読ませる一冊、という感じだったかと。

映像作品を倍速で視聴したり、間をすっとばしてラストを見たり、というのは、紙の本で斜め読みしたり、最後の方を先に見たり的なものが、映像作品でも手軽にできるようになったことの帰結かと思うので、そのこと自体は、なるほどなあ、という感じなのだけれど、むしろ、そうした視聴の仕方をする理由が、友人・知人との間のコミュニケーションのネタとして必要な情報を獲得するため(あるいは時にマウンティングに対抗するため)、という話に、少し驚いた。若い世代のコミュニケーション環境の過酷さに、自分なら生き延びられただろうか、と考え込んでしまう。

膨大な作品がフローとして供給されていく状況に、金銭的にも時間的にも余裕がない環境下で対応しようとすればこうなる、という話でもあるのだけれど、膨大な過去作品のストックに対応する際にも、それは同様であって、全部の作品をとにかく最初から最後まで見るべし、というのは、当然のことながら、単に時間的に不可能だろう。では、映像作品のアーカイブの蓄積が充実していった時に、どのような作品選択と、視聴のあり方がありうるのか、ということが問われるのでは、ということもちょっと考えたり。

また、「みんなが見ている」という選択軸が最優先になってしまうという話については、過去作品のアーカイブの蓄積へのアクセスを維持することの意味はどこにあるのか、ということを考えてしまった。

あるいは、むしろ、「みんな」から、何かの拍子にはみ出してしまった時に、「みんな」とは異なる道を選ぶ可能性を、どう維持し、提示するのかを考えるべきなのかもしれない。そうした、「みんな」からズレてしまって、市場の主流からも、「仲間」たちの人間関係からもこぼれ落ちていってしまう人たちが、なお映像作品を自分なりに楽しむことができる環境が維持されうるのか。本書の裏側に隠れているのはそうしたことなのでは、と思ったりもしたのだけど、それもまた、サブスクプラットフォームのロングテール的な標的の範囲内なのかも、と思ったりと頭がぐるぐる。

そういうことを色々考えるヒントをくれる一冊だった。

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2022/07/31

筒井清輝『人権と国家―理念の力と国際政治の現実』岩波書店,2022.(岩波新書)

『人権と国家』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

筒井清輝『人権と国家―理念の力と国際政治の現実』岩波書店,2022.(岩波新書)を読了。

これは面白い。国連の人権保護関連の各機関の勧告に対しては、権威主義的な国だけではなく、日本でも「内政干渉だ!」という反発が巻き起こることがある。各国の身体的・政治的、あるいは社会・文化的な人権保護のあり方に対して文句をつける、という行為には、「内政干渉」的な側面があるのは確かで、にも関わらず、多くの国がそうした「内政干渉」を前提とした条約に参加しているのは、何故なのか、という問いについて、本書は、第二次大戦後の変遷を辿りながら解き明かしている。

また、数々の虐殺を止めることができなかったという国連による人権保護の限界を論じつつ、その一方で各国で地道な人権状況の改善の取組みや、モニタリングの精緻化が進められ、そして何より、各国における現状に対する異議申し立てに力を与え、支える枠組みとして、少しずつ効果を上げていることを示して、国連による人権状況改善に向けた取組みが無駄ではないことを解説しているのも重要だろう。

本書における興味深い指摘は色々あるが、大国がスローガン的に「建前」として導入した理念が、その国の思惑を超えて、結果として、国際的に共通の理念となり、提唱したその国自身をも縛ることになっていった、という歴史的経緯から学ぶべきことは多いだろう。どんなに状況が悪く、絶望的になったとしても、「建前」や「偽善」であれ、一定の共通の理念が掲げられ続けることに意味はあるし、そこに機会はありうる、ということでもあるのだから(裏返せば、「建前」が投げ捨てられる時は、危機はより深刻だということでもあろう)。

もちろん、国際状況の動向に応じて取組みが後退したり、停滞したりという時期はあるし、今この瞬間にも世界中で、不当に差別され、拘束され、殺されていく人たちがいる。その事実と現状を認めた上で、第二次世界大戦後の国際社会が、戦争と植民地支配の経験と反省を踏まえて組み上げた、普遍的人権という理念と、その理念を現実のものとするために蓄積してきた様々な条約と、その条約に基づく取組みについて、限界があるから無駄と切り捨てるのではなく、経緯と限界を知った上で、それをどう生かしていくのかを本書は問いかけている。なお、このような普遍的に人間であれば誰でも持っている、という人権概念は20世紀半ばまで存在しなかった、と、20世紀前半までの限定的な人権概念との差異が本書は強調しているのも特徴かと。

普遍的人権の国際政治における重要性については、

「国際政治の理想と現実に深い洞察を示したE・H・カーは、軍事力と経済力とともに、「意見を支配する力」を国際社会で重要な力としてあげた。今日の国際情勢では、人権に関して適切に判断し行動する「人権力」は、意見を支配する力の中核をなしており、権威主義勢力でさえ人権理念を真っ向から否定することは少ない。この「人権力」をつけるためには、まず国際社会でどのように人権理念が発展し、国際政治システムにどうやって組み込まれてきたのかを理解しなければならない。」

と著者は指摘しており、単なる理念というよりは、国際的な交渉ツールとしての普遍的人権の側面にも目が配られている(だからこそ、各国での反発もあるわけだが)。

また、普遍的人権の成立について紹介されている議論も興味深い。特に、「自分とは違う社会集団に属する人間に対する共感」の成立と拡大について、リン・ハント『人権を創造する』(岩波書店,2011.原著は2007年刊)では、啓蒙主義の時代に西欧で流行した書簡体小説にその端緒があるとされているとのこと。サミュエル・リチャードソンやジャン゠ジャック・ルソーによる書簡体小説のナラティブ構成が、階級や性別を超えた外集団への共感を可能にした、という議論なのだが、フィクションは社会に影響を与えない(から、何らの制限も受けるべきではない)という議論の真逆を行く、むしろ、フィクションこそが人の世界認識を変革する契機となる、という議論になっていて興味深い。著者はハントの主張については、反対意見も多数あるとの留保をつけつつ紹介しているが、表現の自由の重要性をどこに求めるのか、という点でも、こうした議論を参照しておくのは意味がありそう。

この他、人権概念は西洋中心主義的だ、という批判も継続的に存在するが、世界人権宣言について、「最終案が固まるまでには、起草委員会から人権委員会、最後に総会の第三委員会で、様々な国、人種、宗教、言語、文化を代表する人々による熟議が何度も行われており、その過程で多様な視点が反映された文書が形成された」という指摘もあり、物事はそう単純なものではない、ということもよく分かる。

また、国際人権規約については、ソ連と東側諸国が経済権・社会権を推し(A条約)、米国等西側諸国が政治権・市民権を推す(B条約)という構図があったことが紹介されていて、結果として両方が成立するという、複雑な経緯を辿っていることが紹介されている。これまた、国際政治における駆け引きの一側面だろう。

(ちなみにまったくの余談になるだけれど、一般論としての表現の自由はB条約に、科学研究及び創作活動に不可欠な自由はA条約の方に含まれており、微妙に性格が異なっているのだけれど、最近の「表現の自由」に関する議論は、このあたりがごちゃまぜになっているような。表現の自由にも、こうした様々な立場や対立を踏まえた議論と駆け引きがあったことは、覚えておいた方がよいかも。)

普遍的人権概念と、それを支える様々な条約、それに基づくNGOなどの活動が、状況の変化に力を与えた事例も紹介されており、その一つは、日本のアイヌの人々の粘り強い活動とその成果だったりする。考えてみると、本書で紹介されているような枠組みと、その枠組みを生かしたアイヌの人々の取組みがなければ、アイヌ文化を題材として取り込んだ、野田サトル『ゴールデンカムイ』は、少なくともあのような作品にはならなかったかもしれない、ともいえるわけで、普遍的人権がもたらすものが多様であることがよく分かる事例かもしれない。

他にも、「移行期の正義」つまり、人権侵害か起きてしまった後に、その加害者の責任をどのように問い、また、社会の中で和解を達成していくのか、という課題に、日本がどう取り組むのか(少なくとも、第二次大戦の人権侵害もこの「移行期の正義」の議論の対象となっている)、という問いや、安倍政権が「価値観外交」というリベラルな価値観を前面に出した外交を展開したことの価値(それによって、日本がジェノサイド条約を批准していないことなどが、裏返しで問われる状況となっていることも含めて)が論じられていることなど、現在改めて考えるべき課題にも多く言及されている。

実態と建前にかい離があったとしても、建前が前面に出されることが、状況を動かすことがある、という近現代史の経験を、今後も生かすことができるのか、色々な知見と問いが組み込まれた一冊。

ちょっと我田引水かもしれないが、一定の立場に立って発言する時、現実が理想とはほど遠いと分かった上であっても、なお、理想を述べることは未来の可能性への投資になりうる、ということでもあるのだろう。肝に銘じておきたい。

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2022/07/24

小田嶋隆『東京四次元紀行』イースト・プレス,2022.

『東京四次元紀行』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

小田嶋隆『東京四次元紀行』イースト・プレス,2022.を読了。これが小田嶋隆氏の遺作、ということになるのだろうか。

小田嶋隆氏のことをどう語れば良いのか、正直なところよく分からない。

面識があったわけでもなく、間接的にその人柄を知っているとか、そういうわけでもない。ただ、小田嶋氏がデビューした初期の1980年代、『遊撃手』や『Bug News』といったコンピュータ系の雑誌で、そのコラムを読んでいた。自分にとって、その面白さは格別だった。その後、大学のサークルで出していた同人誌に自分が書いた原稿は基本全て、小田嶋氏のように書きたい、と思って書き、そしてもちろん、実際にはそれとは似ても似つかぬものになり果てた文章だと言って良い。

本書を読んだ時、そうしたデビュー当初の小田嶋氏が書いていたものに、何故か近いような印象を受けた。コラムではなく、小説(らしきもの)として書かれた本書で、どうしてそんな印象を受けたのだろう。

たぶんだけれど、ある意味でどうでも良いこと、多くの人にとって意味のないことが書かれているから、かもしれない。

近年の小田嶋氏は、もともと好きなスポーツに関連するものを除けば、政治的・社会的事件・発言に対する批判的な視点からのコラムを中心に活躍されていたように思う。そのことを支持する読者がいた一方で、SNSでの陰湿な攻撃の対象にもなっていた。そのことに関連して、小田嶋氏は、『その「正義」があぶない。』日経BP社,2011.の「発刊によせて」で次のように書いている。

「元来、私はカタい話を好まない。というよりも、原稿を書く人間として出発して以来30年、私は、熱弁を揶揄し、力説に水をかけ、甲論を黙殺し、乙駁を聞き流しながら、観察者の立場を防衛してきた者だ。もう少し手加減のない言い方をするなら、私は、論壇のチキンレースから逃れたい一心で、面倒くさい話題から距離を置いていたのである。逃げていたという言い方をしてもらってもかまわない。栄光ある撤退。逃走に至る三十六計。私のペン先は、いつも退路を描いていた。」

しかし、小田嶋氏が「面倒くさい話題から距離を置いていた」などという本人の言をそのまま信じるわけにはいかない。むしろ、世間の常識や、著名人相手にけんかを売りまくっていたように思うし、それもまた一つの芸になっていたと思う。とはいえ、自虐を交えることで攻撃的な印象を中和する、という技も使ってはいたように思うので、そういう意味では逃げ道を用意はしていたのかもしれない。しかし、相当のリスクを負って、自分の文章の力で勝負をかける勝負師ではあり続けていたように思う。

ただ、初期の小田嶋氏は、もっと意味がないことを書いていたような気がする。気がする、というのは、最初の単行書である『我が心はICにあらず』が手元で見つからないからで、こういう時に見つからないのも、なんとはなしに自分の持っている小田嶋氏のイメージと合致しているのでそれはそれで良いのかも(これがちゃんとした書評ならここで落第だが)。

もう少し付け加えるとすれば、意味がない、というのは、ちょっと正確ではないかもしれない。ほとんどの人にとって、それに何の意味があるのか分からない、という方が、もう少し、本書の感じに近いかもしれない。

本書で描かれるのは、社会的な意義や政治的な意味とは離れたところで、多くの人にとってどうでも良いことにこだわってしまい、どうでも良いことに躓き、どうでも良い(あるいはどうにもならない)結果を迎えたり、どうでも良い一時の救いを得たりする、一般的に言えばダメな人たちの物語である。読んだら必ず泣けるような物語ではないし、何かを学べる類いのものでもない。

けれど、多くの人にとってどうでも良いことが、自分にとってはどうでも良くない、ということから逃れられず、そのことを引受けて生きていく(あるいは生きていくことができなくなる)、このどうしようもなくダメな登場人物たちを、小田嶋氏は否定することがない。

小田嶋氏自信がそういう方だったの可能性もあるし(アルコール中毒だった時期があったことや、締め切り破りの常習犯であったことは良く知られている)、そういったタイプの人たちと接する機会が多かったのかもしれない。それは分からない。これは(一応)小説ということなのだし、小田嶋氏自身、本書の冒頭で「この文章を書きはじめるにあたって、私は、これまでコラムやエッセイを書く上で自らに課していた決まりごとをひとつ解除している。それは「本当のことを書く」という縛りだ。」と書いているくらいなので、本書には「本当のこと」は書かれていないのかもしれない。とはいえ、この序文自体が「本当のこと」なのかどうか、どこまで信じてよいのかも、私には分からない。

いずれにしても、本書で描かれた、多くの人にとって意味がないことにこだわり、躓きながら、それでも生きているし、存在しているし、その事自体が実は語るに値することなんじゃないか、という感覚は、1980年代半ばから後半の、デビュー当初の小田嶋氏とどこかつながっているような気がして、とても懐かしく読みふけってしまった。年月が経ち、今の時代にこれを書くには、小説、という形が必要であった、ということなのかもしれない。それが、書き手にとって幸福なことだったのかどうかは分からないけれど、本書が刊行されたのは、(他の人にとってどうなのかは分からないが)少なくとも自分にとっては幸福だった。

これが最後でさえなければ、もっと良かったのだけれど。

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2022/07/18

『学士会会報』no.955(2022-IV)

學士會会報』no.955(2022-IV)を斜め読みしたら面白かったので印象に残った記事をメモ。

宇山智彦「ロシアは何をめぐってウクライナ・米欧と対立しているのか」(p.16-20)は、ロシアの主張を分析して、ウクライナ侵攻の理由としてよく言われるNATO拡大という主張を「額面通りに受け取ることはできない」とした上で、特に米国との関係の中で、ロシアが国際社会における特別な権利がある、という主張や米国中心の国際秩序のゆらぎ、ウクライナとの一方的な一体性認識などを背景として分析している。バランス感覚も含めて、短く読める論説としてお勧めかと。

中山洋平「二〇二二年大統領選挙後のフランス政治――「ポピュリズム」から分極化へ?」(p.21-27)は、先日のフランス大統領選挙を分析し、かつては極右のものだった、移民排斥という主張を、幅広い勢力が取り込むことが容認されるようになっているなど、「EU統合推進、市場自由化、共和制原則に基づく意味統合」という統治エリートのコンセンサスが突き崩されてきている状況を論じている。興味深いのは、イタリアの政治学者サルトーリの描いた「分極的多党制」と同様の力学が働いているという話。「分極的多党制」というのは、

「左右両極に無視できない反体制政党を抱えている上に、中央の位置が独立の勢力によって占められていると、左右の穏健な政党は両極に吸い寄せられていく。こうした「遠心的競合」によって左右両翼への「分極化」が進めば、最終的には民主制の存続が危ぶまれる段階に至る。」

という話で、フランスでは、左右の両極が、EU統合に反対、市場自由主義路線を批難するという状況で、中道の独立政党であるマクロン党がこれまでのコンセンサスを維持する、という構図になっているとのこと。日本との比較という意味でも興味深い。

大塚美保「没後百年目の森鷗外」(p.42-46)は、今年没後百年となる森鴎外の最新の研究動向を紹介する一本。フェミニズムの理解者・支援者としての鴎外、文化の翻訳者としての鴎外、鴎外による国家批判と体制変革を通じた国家維持構想など、鴎外の持つ多面性を積極的に評価する近年の研究動向をコンパクトに紹介していて、最近はこんな議論になっているのか、と勉強になった。

北村陽子「戦争障害者からみる社会福祉の源流」(p.47-51)は、第一次大戦後のドイツで発展した、「戦争によって傷ついた人(Kriegsbeschädigter)」への支援策が、リハビリや障害者スポーツの発展、義手・義肢の技術革新、盲導犬の導入(軍用犬の戦後の活躍の場として発展したとのこと)など、現代につながる様々な障害者支援の仕組みにつながっていることが紹介されていて、まったく知らないことだらけで驚いた。

山田慎也「民俗を尋ねて《第VI期》第4回 変わりゆく葬送儀礼」(p.85-90)は、新潟県佐渡島北西部の、自宅を中心的な場として行われていた葬送儀礼を紹介するとともに、2000年代以降、公民館、そして2014年に改行した葬儀場を利用する形で変化するとともに、地域共同体から個人化の方向に向かっていった過程を紹介している。

なお、表紙の図版は東京大学総合研究博物館所蔵三宅一族旧蔵コレクションから、貴族院議員だった三宅秀(1848-1938)が貴族院議員有志から送られた、服部時計店製「帝国議会議事堂模型」。表紙裏の解説(西野嘉章「かたちの力(連載79)」)と併せて、現在の国会議事堂が完成した直後の議事堂が持っていた象徴性も含めて、興味深い。

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2022/07/10

水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)

『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

断続的に読んでいた、水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)をようやく読了。良い本でした。元版は『知の商人 近代ヨーロッパ思想史の周辺』筑摩書房,1985.で、「あとがき」によると、筑摩書房の第二版『経済学全集』の月報での連載をまとめたものとのこと。学術文庫版のあとがきによれば、元版で月報連載から落としたものも今回収録しようと探したが見つけられずに収録を断念、という話が書いてあるのだけど、編集者はそういうの探してくれないんだ……ということにちょっとがっかりしたり。

思想関連の書物と著者、そして出版社・書店の経営者・編集者たちとの様々な関わりや、書物を集めたコレクターたちの活躍を描き出す、学術的エッセイ、という趣で、一つ一つの節が独立した読み物として読めるようになっている。注記は部分的に付けられてはいるものの、探求のヒント的な扱いのような感じ。あとがきで

「全体にわたって参考文献を主とした注をつけたが、参考文献には、特定の問題についてだけ利用したものと、全般的に利用したものがあり、その区別は注ではかならずしも明らかになっていない。また、一次資料にさかのぼって確認した記述と、そうでないものとの区別も、同様である。」

と敢えて書かれているゆえんでもある。

内容は多岐に亙るので、紹介しきれないが、例えば、最初に置かれている「エルセフィエル書店」というのは、今風にいえば「エルゼビア」。近代初期の元祖エルセフィエルが手を広げ、その後消えていった過程と「商品としての思想」を広めたその功罪を、歴史的背景も含めて紹介している。

とはいえ、こうした比較的よく知られた名前が出てくる話は一部に過ぎず、もちろん、それぞれの専門分野では知られているのだろうけれど、浅学の自分には知らないことだらけだった。

例えば、「ハーリーとソマーズ」では、著者所蔵の『ハーリアン・ミセラニー』("The Harleian miscellany"。記述内容からすると1808-1813刊行の10巻本の様子。)を取り上げているが、そもそもこれってなんだろう、と思ったら、「オクスフォード伯ロバート・ハーリー(一六六一─一七二四年)、エドワード・ハーリー(一六八九─一七四一年)が、二代にわたって集めた四〇万冊ちかいパンフレットの一部分の復刻」とのこと。説明を読んでもよく分からなかったが、読み進めるうちに、ハーリー二代のコレクションの形成と散佚の過程が、コレクターの動向の変化とともに語られていて、読まされてしまう。

「アメリカ革命の導火線」では、アメリカ独立のうねりを生んだ源流の一つに、「神学の本拠であるハーヴァード・カレジに対して、大西洋を越えて二〇年にわたって送りつづけられた、五〇〇〇冊をこえる急進主義文献」があることを指摘し、その送り手であるトマス・ホリス(Thomas Hollis)について、紹介している。ちなみに、ハーバード大学図書館の検索システムの名称がHOLLISなのは、トマス・ホリスにちなんでいるのだろうか。と思ってFAQをみたら、ちなんでいるのだけど、生没年が本書で紹介されているホリスと違うので、同姓同名の別人(あるいは代違い)かもしれない(本書では1720-1774、HOLLISのFAQでは1659-1731)。

……と、ここまで書くだけで1時間近くかかってしまった。とにかく詰め込まれている情報量が多いので、これなんだろう、と、ちょっと確認しているだけで、えらいことになる。まあ、ちょっと確認できるような世の中になったというだけで、ありがたいのだけれど、裏返せば、さらに掘っていくためのネタの宝庫のような本でもある、ということでもある。

また、出版史ばかりではなく、経済と国際政治との関係を特定の商品(ワイン、ジン、紅茶)と絡めて論じる話もあったりして、話題の幅広さ尋常ではない。その中で、特に今、読み直してほしい話を、もう少しだけ紹介しておきたい。

一つ目は、「マクス・ヴェーバーをめぐる女性」という節。ここでは、ヴェバー(日本語だとマックス・ウェーバー表記が多いか)の妻であった、マリアンネ・ヴェーバー(コトバンクの解説参照)の『フィヒテの社会主義とそのマルクス学説への関係』(1900年)という著書から話がはじまる。この著書の中に、マクスの影響について言及する文言が登場することを取り上げつつ、そもそも大学のゼミに女性が参加する嚆矢であったマリアンネ(ただし聴講生として。次の世代の女性たちがようやく正式に大学に入学を許可される。)の置かれた状況を解説し、女性解放の闘士であったマリアンネと、マクスとの関係の複雑性を描き出している。特に、マリアンネの性に関する議論の歯切れの悪さを分析した、

「マリアンネは、女性の解放が性の解放に直面せざるをえないこと、「エロティークだけが両性の結合の価値を最終的にきめるものではない」にしても、エロティークを無視しえないことを知っていたし、しかも、性の解放が、男性支配のもとでは、女性の地位の低下を意味することも知っていたのである。」

という一節に表現された構造は、20世紀初頭の状況を1980年代に描写したものであるにも関わらず、現在でも玩味に値するのではないだろか。例えば、性表現の開放においても、類似の構造があるのではないか、という問いは、現在でも十分に成り立つように思う。

ちなみにその後、ヴェーバー夫妻に影響を受けた、ハイデルベルク大学の最初の女子学生であったエルゼ・ヤッフェに、マクスが接近し、それをマリアンネも知っていた、みたいな話まで出てきて、なんだこのハーレム系展開は、みたいになってしまって、こうした構造の中で女性の権利について議論していた、マリアンネすごいな、となったりも。

なお、マリアンネ・ヴェーバーについては、昭和女子大学女性文化研究所紀要に、掛川典子氏による主要論文の翻訳が掲載されているようなので、そちらも併せて確認されると良いかもしれない。

もう一つ、イギリスのピアニスト、マイラ・ヘス(コトバンクの解説参照)による、第二次大戦中の戦時下のナショナル・ギャラリーでのコンサートについて紹介した、「空襲下のコンサート」は、別の意味で、今読まれるべき一篇かと。一旦は、戦時は演奏する時ではない、と考えてピアノから離れたヘスが、かつて自分の演奏を聴いたという亡命ユダヤ人一家からの要望を受けて、演奏会を開くための会場探しをした時、受け入れたのが作品を疎開させ、ほとんど空になったナショナル・ギャラリーだった。演奏会に殺到した人々が、そこで一時の安らぎを取り戻す様子や、シューマンの歌曲をドイツ語で歌うことをためらう歌手を勇気づける話など、戦争に対して、芸術が持つ意味ということについて、改めて問いかける内容になっている。

なお、マイラ・ヘスによるコンサートについては、ナショナル・ギャラリーのサイトでも詳しく紹介(The Myra Hess concerts)されているので、そちらも併せてぜひ。例えば、最初のコンサートの入場待ちの人々の写真なども紹介されていて、当時のロンドンの人々がコンサートを待ち望んでいた様子がよく分かる。

こうしたコンサートの経験を踏まえて、ヘスが「われわれは、おそらく史上かつてなかったほどしっかりと、人類の進歩の真の本質をつかんでいます」と語ったことを、著者は紹介している。その後に、

「その後四〇年のあいだに、人類の進歩ということばは、すくなからず色あせてしまったが、ヘスがこう語ったときの日本には、このことばも音楽も存在の余地がなかったのである。」

と続けて書いていることの重みが、著者がこう書いてからさらに40年近くがたった今、さらに増しているのでは。

というわけで、全部通して読まなくても、拾い読みでもじっくり楽しめる一冊かと。こうした、研究者による専門分野のエッセイは、論文と違って業績としては、軽く見られがちだし、最初に書いたように、注記も十分には付されてはいないのだけれど、様々な検索ツールが整備された今だからこそ、興味関心を広げるための入り口として、とても有効だと思う。

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水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)

『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

断続的に読んでいた、水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)をようやく読了。良い本でした。元版は『知の商人 近代ヨーロッパ思想史の周辺』筑摩書房,1985.で、「あとがき」によると、筑摩書房の第二版『経済学全集』の月報での連載をまとめたものとのこと。学術文庫版のあとがきによれば、元版で月報連載から落としたものも今回収録しようと探したが見つけられずに収録を断念、という話が書いてあるのだけど、編集者はそういうの探してくれないんだ……ということにちょっとがっかりしたり。

思想関連の書物と著者、そして出版社・書店の経営者・編集者たちとの様々な関わりや、書物を集めたコレクターたちの活躍を描き出す、学術的エッセイ、という趣で、一つ一つの節が独立した読み物として読めるようになっている。注記は部分的に付けられてはいるものの、探求のヒント的な扱いのような感じ。あとがきで

「全体にわたって参考文献を主とした注をつけたが、参考文献には、特定の問題についてだけ利用したものと、全般的に利用したものがあり、その区別は注ではかならずしも明らかになっていない。また、一次資料にさかのぼって確認した記述と、そうでないものとの区別も、同様である。」

と敢えて書かれているゆえんでもある。

内容は多岐に亙るので、紹介しきれないが、例えば、最初に置かれている「エルセフィエル書店」というのは、今風にいえば「エルゼビア」。近代初期の元祖エルセフィエルが手を広げ、その後消えていった過程と「商品としての思想」を広めたその功罪を、歴史的背景も含めて紹介している。

とはいえ、こうした比較的よく知られた名前が出てくる話は一部に過ぎず、もちろん、それぞれの専門分野では知られているのだろうけれど、浅学の自分には知らないことだらけだった。

例えば、「ハーリーとソマーズ」では、著者所蔵の『ハーリアン・ミセラニー』("The Harleian miscellany"。記述内容からすると1808-1813刊行の10巻本の様子。)を取り上げているが、そもそもこれってなんだろう、と思ったら、「オクスフォード伯ロバート・ハーリー(一六六一─一七二四年)、エドワード・ハーリー(一六八九─一七四一年)が、二代にわたって集めた四〇万冊ちかいパンフレットの一部分の復刻」とのこと。説明を読んでもよく分からなかったが、読み進めるうちに、ハーリー二代のコレクションの形成と散佚の過程が、コレクターの動向の変化とともに語られていて、読まされてしまう。

「アメリカ革命の導火線」では、アメリカ独立のうねりを生んだ源流の一つに、「神学の本拠であるハーヴァード・カレジに対して、大西洋を越えて二〇年にわたって送りつづけられた、五〇〇〇冊をこえる急進主義文献」があることを指摘し、その送り手であるトマス・ホリス(Thomas Hollis)について、紹介している。ちなみに、ハーバード大学図書館の検索システムの名称がHOLLISなのは、トマス・ホリスにちなんでいるのだろうか。と思ってFAQをみたら、ちなんでいるのだけど、生没年が本書で紹介されているホリスと違うので、同姓同名の別人(あるいは代違い)かもしれない(本書では1720-1774、HOLLISのFAQでは1659-1731)。

……と、ここまで書くだけで1時間近くかかってしまった。とにかく詰め込まれている情報量が多いので、これなんだろう、と、ちょっと確認しているだけで、えらいことになる。まあ、ちょっと確認できるような世の中になったというだけで、ありがたいのだけれど、裏返せば、さらに掘っていくためのネタの宝庫のような本でもある、ということでもある。

また、出版史ばかりではなく、経済と国際政治との関係を特定の商品(ワイン、ジン、紅茶)と絡めて論じる話もあったりして、話題の幅広さ尋常ではない。その中で、特に今、読み直してほしい話を、もう少しだけ紹介しておきたい。

一つ目は、「マクス・ヴェーバーをめぐる女性」という節。ここでは、ヴェバー(日本語だとマックス・ウェーバー表記が多いか)の妻であった、マリアンネ・ヴェーバー(コトバンクの解説参照)の『フィヒテの社会主義とそのマルクス学説への関係』(1900年)という著書から話がはじまる。この著書の中に、マクスの影響について言及する文言が登場することを取り上げつつ、そもそも大学のゼミに女性が参加する嚆矢であったマリアンネ(ただし聴講生として。次の世代の女性たちがようやく正式に大学に入学を許可される。)の置かれた状況を解説し、女性解放の闘士であったマリアンネと、マクスとの関係の複雑性を描き出している。特に、マリアンネの性に関する議論の歯切れの悪さを分析した、

「マリアンネは、女性の解放が性の解放に直面せざるをえないこと、「エロティークだけが両性の結合の価値を最終的にきめるものではない」にしても、エロティークを無視しえないことを知っていたし、しかも、性の解放が、男性支配のもとでは、女性の地位の低下を意味することも知っていたのである。」

という一節に表現された構造は、20世紀初頭の状況を1980年代に描写したものであるにも関わらず、現在でも玩味に値するのではないだろか。例えば、性表現の開放においても、類似の構造があるのではないか、という問いは、現在でも十分に成り立つように思う。

ちなみにその後、ヴェーバー夫妻に影響を受けた、ハイデルベルク大学の最初の女子学生であったエルゼ・ヤッフェに、マクスが接近し、それをマリアンネも知っていた、みたいな話まで出てきて、なんだこのハーレム系展開は、みたいになってしまって、こうした構造の中で女性の権利について議論していた、マリアンネすごいな、となったりも。

なお、マリアンネ・ヴェーバーについては、昭和女子大学女性文化研究所紀要に、掛川典子氏による主要論文の翻訳が掲載されているようなので、そちらも併せて確認されると良いかもしれない。

もう一つ、イギリスのピアニスト、マイラ・ヘス(コトバンクの解説参照)による、第二次大戦中の戦時下のナショナル・ギャラリーでのコンサートについて紹介した、「空襲下のコンサート」は、別の意味で、今読まれるべき一篇かと。一旦は、戦時は演奏する時ではない、と考えてピアノから離れたヘスが、かつて自分の演奏を聴いたという亡命ユダヤ人一家からの要望を受けて、演奏会を開くための会場探しをした時、受け入れたのが作品を疎開させ、ほとんど空になったナショナル・ギャラリーだった。演奏会に殺到した人々が、そこで一時の安らぎを取り戻す様子や、シューマンの歌曲をドイツ語で歌うことをためらう歌手を勇気づける話など、戦争に対して、芸術が持つ意味ということについて、改めて問いかける内容になっている。

なお、マイラ・ヘスによるコンサートについては、ナショナル・ギャラリーのサイトでも詳しく紹介(The Myra Hess concerts)されているので、そちらも併せてぜひ。例えば、最初のコンサートの入場待ちの人々の写真なども紹介されていて、当時のロンドンの人々がコンサートを待ち望んでいた様子がよく分かる。

こうしたコンサートの経験を踏まえて、ヘスが「われわれは、おそらく史上かつてなかったほどしっかりと、人類の進歩の真の本質をつかんでいます」と語ったことを、著者は紹介している。その後に、

「その後四〇年のあいだに、人類の進歩ということばは、すくなからず色あせてしまったが、ヘスがこう語ったときの日本には、このことばも音楽も存在の余地がなかったのである。」

と続けて書いていることの重みが、著者がこう書いてからさらに40年近くがたった今、さらに増しているのでは。

というわけで、全部通して読まなくても、拾い読みでもじっくり楽しめる一冊かと。こうした、研究者による専門分野のエッセイは、論文と違って業績としては、軽く見られがちだし、最初に書いたように、注記も十分には付されてはいないのだけれど、様々な検索ツールが整備された今だからこそ、興味関心を広げるための入り口として、とても有効だと思う。

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2022/06/10

『世界』(岩波書店)2022年6月号(通巻958号)

何号かすっとばして、『世界』(岩波書店)2022年6月号(通巻958号)を斜め読み。以下、印象に残った論考についてざっくりメモ。

登利谷正人「アフガニスタンに迫る人道危機――ウクライナ戦争の陰で」(p.16-19)は、国外に関する報道がウクライナ情勢に集中する中で、アフガニスタンがどのような状況に置かれているのか、2001年以降の経緯をコンパクトに整理しつつ論じたもの。タリバン政権の女性政策には比較的関心が寄せられる一方で「国民の約半数が深刻な飢餓に直面」している人道危機が十分に認識されていない状況に警鐘を鳴らしている。

大橋由香子「時の壁を破った高裁判決――優性保護法国賠訴訟」(p.20-25)は、大阪高裁、東京高裁で相次いで出された原告勝訴判決の意義を、被害者側の視点から解説したもの。これまで「除斥期間」により訴えを却下してきたその「時間の壁」を、どのようなロジックで乗り越えたのかの解説も興味深いが、東京高裁の裁判長が所感で「この問題への憤りのあまり、子どものいない人生を不幸だとする情緒的な表現は避けるよう、報道などの際に留意してほしい」等と述べたという話が印象的。

若江雅子「デジタル日本 その政策形成における課題」(p.26-39)は、総務省が進めていた電気通信事業法の改正によるインターネット利用者情報に関する規制が企業側のロビーイングにより骨抜きになった、という議論で、ここは他の論者の意見も確認しておきたいところ。総務省の動きへの対抗として、個人情報保護委員会を担ぎ上げる、という導入部の話が生々しくて、さすが新聞記者、という感じ。

内田聖子「デジタル・デモクラシー――ビッグ・テックとの闘い 第6回 監視広告を駆逐せよ」(p.40-49)は、Google、Facebookなどが中小の企業や団体の広告主向けに提供する広告サービスの問題点を指摘。その効果の不透明さや、広告の配信可否基準の不明瞭さが、ビッグ・テックに依存せざるをえない、中小企業・団体を追いつめている状況を論じている。末尾で紹介されている、「ビッグ・テックのサービスが『不可欠』なのは、それが唯一の選択肢であることを確実にするために、限りない反競争的な行為が行われてきたからです」という批判者の言葉を読んで、かつてのMS批判を思い出してしまった。

池田徹朗「旧ソ連の軛(くびき) ウクライナ戦争と中央アジア」(p.50-61)は、一読を強くお勧め。ロシアと歴史的にも経済的にも強く結びついている中央アジア5カ国(カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、クルグズスタン、タジキスタン)が、ソ連崩壊後に辿った軌跡を紹介しつつ、ウクライナ戦争におけるそれぞれの対応を分かりやすくまとめている。国連における決議で、ロシアを批難する決議に対して、棄権や反対票を投ずる国々が置かれている複雑な状況(と、それらの国々に対してロシアが突きつけている「踏み絵」)がよく分かる。最近の中国と中央アジア諸国との関係を考える参考にもなるかと。

大門正克「生きる現場からの憲法 第2回 「戦争」と「女性」を地域から問う」(p.83-91)は、岩手県で地域に根ざした読書会活動を行なってきた小原麗子氏の取組みを紹介するもの。六〇年安保の反省を経て「地域」にこだわり、「戦争」と「女性」(小原氏は地元の「おなご」という言葉にこだわる)を問い続ける小原氏が、活動の柱の一つとしているのが読書会、というのが興味深い。読書会とそこから生まれるミニコミ誌が、地域に暮らす一人一人と世界を結ぶ回路として機能する、一つのあり方を示すものとして読んだ。

特集というわけではないのだが、差別に関する論考として、安田菜津紀「ルーツを巡る旅、ヘイトに抗う道 第4回(最終回)」(p.156-165)と、ロクサーヌ・ゲイ,訳・解説KANA「ジェイダ・ピンケット・スミスは〈冗談を笑って受け流す〉必要はない。そう、あなたも。」(p.266-270)は、それぞれ日本と米国における根深い差別と向き合う論考で、併せて読むことで、差別される側が一方的に耐えることを強いられる状況自体の非対称性の理不尽さと、それが今ここの問題であることを突きつけられる。

岡田晴恵・田代眞人「新型コロナ対策の妥当性を問う 特措法制定の当事者として」(p.250-261)は、新型インフルエンザ等対策特別措置法制定に関わった著者らが、その新型インフルエンザの世界的流行を踏まえた背景を振り返りつつ、事前の準備と発生時の強力な対処を可能にするよう設計された(少なくとも制定当時はそう意図された)特措法が新型コロナウイルス感染症対策において十分に活用されていない現状について、問題提起をしたもの。現在、新型コロナ対策政策に関わる人物が「パンデミックは100年に一度ですから」と、対策推進に水を差す発言をしていたことが紹介されていたり、なかなか複雑な背景もうかがえるが、特措法のポテンシャルを改めて考える材料になるかと。

連載もので、前の回を読んでなくて飛ばしたものもあるので、また後日単発で拾うかも(拾わないかも)。

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2022/05/23

下斗米伸夫『ソビエト連邦史 1917-1991』講談社,2017.(講談社学術文庫)

『ソビエト連邦史 1917-1991

(表紙画像はopenBDから。)

下斗米伸夫『ソビエト連邦史 1917-1991』講談社,2017.(講談社学術文庫)を読了。

かなり前に購入して、電子積ん読状態だったのだけど、そういう時節かな、と思い読んでみた。ロシア革命以降、ソビエト連邦の歴史をその崩壊に至るまで、レーニン時代から頭角を現しスターリンの右腕となって活躍した、ビャチェスラフ・モロトフ(1890~1986)の活躍や発言を参照軸にしつつ論じる、という一冊。

読んではみたが、これはきつかった。とにかく理不尽に人が死んでいく。権力闘争に破れれば待つのは死だし、方針に従順でも調子に乗ってやり過ぎると逮捕されて銃殺になる。外貨獲得のために農村から穀物を収奪したことで農民が各地で餓死し、反乱を起こせば弾圧されてやはり死んでいく。生き残っても強制収容所で強制労働に投入され、それによって維持された生産力で国の経済が維持されていく。

自分の指示で万の単位で人が死んでいっても、ためらうことなく突き進むのは、レーニンもスターリンも変わらない。「1938年11月12日だけで、スターリンとモロトフのたった二人で3167名への銃殺指示を出した。」という一節だけでもすさまじいが、この程度、氷山の一角に過ぎない。時に国際社会の動向に応じて方針を転換する柔軟性もスターリンの持ち味だが、その方針転換についていけない原理主義者をまた粛正して自らの正当性を揺るぎないものにしていくのもスターリンである。

興味深かったのは、ロシア革命は、広範な支持基盤がない状態で、実際には少数派だった勢力が、様々な勢力の協力を得て権力を獲得した、という構図だったことで、本書で初めて認識した。リーダーとして担ぎ上げられた少数派勢力が、政権についた途端、対抗者になりうるかつての協力者たちを次々と屠って絶対的な権力を確立していく、という構造なので、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』から笑いと涙を抜いた感じの展開が延々と続く、といえば、『鎌倉殿』を見ている人には何となくどんな感じか想像がつくかもしれない。

大木毅『独ソ戦』(岩波新書)や、芝健介『ヒトラー:虚像の独裁者』(岩波新書)を読んでいたので、分かってはいたものの、第二次大戦の死者の数もやはりすさまじい。「なかでもドイツの九〇〇日にわたるレニングラード包囲では、革命の都を守るということで、スターリンは降伏を許さなかった。…(中略)…レニングラードの戦前人口は264万であったが、1943年には60万となっていた。」という一節には一瞬固まってしまった。

その後、ブレジネフ時代にようやくある意味での安定を獲得するものの、それは停滞と裏表一体、というのが本書の評価で、ゴルバチョフのペレストロイカについても、割と辛口の評価だったりする。情報公開を進めたことで、スターリン時代に行われた各地域併合の正当性の根拠が次々と崩壊し、各地の独立運動に直結していく中で、保守派と改革派の狭間で無力化していくゴルバチョフ、という感じで描き出されている。

なお、本書は、ソ連崩壊後に公開された様々な資料や、そうした資料に基づく歴史研究の成果に基づいているようで、ロシアにおいてもソ連時代に対する反省と検証が進んでいたことが反映されていると思われる。今のロシアでは、そうした文書の扱いや、歴史研究はどうなっているのだろう、というのが、気になるところでもある。

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2022/04/24

『日本古書通信』2022年4月号

『日本古書通信』2022年4月号(87巻4号)をぱらぱらと読んだ。どうも集中力が続かないので、簡単に。

田坂憲二「吉井勇の自筆歌集(上)吉井勇と臼井書房」(p.2-4)には驚いた。影印本ではなく、作者自選による歌集を作者の自筆で複数部作成し、頒布する、ということが昭和21年ごろに行われていた、とはまったく知らなかった。広告によれば200部刊行予定だったそうで、それを丹念に書いた吉井勇、すごい。なお、収録歌の選定過程を示す資料が、京都府立京都学・歴彩館の吉井勇資料中に残されている、というのも興味深い。

飯澤文夫「続PR誌探索(37)」(p.4-5)は三省堂の書店部門、出版部門それぞれの戦前のPR誌を紹介。戦時下の出版統制で消えた『書斎』など。

新連載、川口敦子「キリシタン資料を訪ねて(1)ポルトガル国立図書館」(p.16-17)は、形こそ新連載だが、実際には、著者の「パスポートと入館証、準備よし!」の続編かと。引き続き、各国それぞれの貴重書の扱いが分かって面白い。毎度のことながら、マイクロ資料や、昨今のデジタル化されたものを見るだけではなく、現地でカード目録を確認し、原物を請求することによる発見がある、というのが興味深いが、図書館屋的には頭が痛い。

三坂剛「福永武彦自筆識語・署名本収集について3」(p.30-31)は、紙の原物ならではのコレクションの魅力を示す切り口では。また、各版と福永武彦電子全集におけるテキストとの関係についても言及があるのがポイントかと。

森登「銅・石版画万華鏡 175 福島中佐単騎横断」(p.35)では江戸から明治の日露関係を概観しつつ、明治25年から26年にかけて、ドイツからシベリアまで、馬で横断して実地調査を行い、帰国した福島安正を描いた版画を紹介。

これも新連載の小林信行「平田禿木をめぐる人々 尾崎紅葉1」(p.38-39)は、淡々と尾崎紅葉の生い立ちから、作家に専念、活躍を広げていく過程をたどりつつ、そこに並走していく平田禿木に言及していく、というスタイルで、近代文学音痴の自分としては、ああ、そういうことだったのか、という感じの話も多くて勉強になった。こういうのを何の気なしに読んでしまって、何となく勉強になってしまうのが、雑誌の良いところでもあるが、自分の知識が貧弱なだけという話もあるか。

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