2024/08/24

国立西洋美術館「内藤コレクション 写本 — いとも優雅なる中世の小宇宙」展

国立西洋美術館「内藤コレクション 写本 — いとも優雅なる中世の小宇宙」

会期:2024年6月11日〜8月25日

https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2024manuscript.html

筑波大学・茨城県立医療大学名誉教授の内藤裕史氏が国立西洋美術館に寄贈した西洋中世彩飾写本の零葉コレクション(内藤コレクション)を大規模に紹介する初の展示会。小規模な展示はこれまでもあったとのことだけど、

『国立西洋美術館所蔵内藤コレクション写本カタログレゾネ』 https://www.nmwatokyo-shop.org/view/item/000000000266

刊行を期に大規模展示を展開ということの模様。同じ写本由来の他機関所蔵の零葉も同時に展示していたりと内容は充実。物量も大満足だった。ただ、一般1700円は結構強気の入場料設定のような……。また、図録はなく、ミュージアムショップでは各種グッズや過去の内藤コレクション紹介本などが販売されていた。その代わりなのか、他機関所蔵のものを除いては、個人利用に限定して撮影可となっていた。さらに、本気で詳細が知りたかったらカタログレゾネを買え、ということだろう。

展示解説はそれなりにあるのだけれど、聖書や時祷書などが多いので、キリスト教に関する基礎知識がないとなかなか楽しむのは難しい、とあらためて実感。また、一部の写本は作者(というか制作者?)が確認されていて、そうした制作過程についての知識も必要になる領域なのだな、ということもよく分かった。

年代順の展示ではないので、ちょっと分かりにくいのだけど、やはり12〜13世紀くらいの写本と、15世紀の写本では違うし、16世紀になるとぐっと近代的になる感じがちょっと面白い。これはコレクションを始めたら奥が深くて止まらなくなるのも何となく分かる。めちゃめちゃお金がかかりそうな趣味だけど……

あと、装飾写本ではなく、最後の方で紹介されていた教会法令集の写本がすごかった。法文本文の周りに注釈がレイアウトされている、というのは印刷本でも結構あるが、さらに所蔵者による書込みが加えられて、注釈の多層化が壮絶。単眼鏡で拡大してみて、やっと文字だと分かるくらいの細密さで、これまた迫力があった。

それにしても、西洋中世(ちょっと近代にかかるものもあり)写本を見に来る人がこんなにたくさんいるとは、驚愕。1枚1枚の零葉は結構小さなものが多く、同時に複数の人が見るのはなかなか厳しいので、見る人が多い特に込み合う最初の方はあんまりじっくり見られなかった。会期の頭に見に行くべきだったかも。美術館側も、この人数が来ることは想定していなかったのか、ミュージアムショップのレジの処理能力を完全に超えていたのが、どうしたものか、という感じだった。

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2024/08/13

板橋区立教育科学館企画展「いたばしアニメ博 自由研究スペシャル」

今日は暑さに負けそうになりつつ、

板橋区立教育科学館企画展「いたばしアニメ博 自由研究スペシャル」 (会期:2024年7月20日(土)~8月30日(金) )https://www.itbs-sem.jp/exhibition/special/2024itabashi-anime/

を覗きに。

2月にも同様の展示があって、その時の感想はブログに書いたので、概略はそちらもご参照を。

板橋区立教育科学館「いたばしアニメ博」(2024/02/04)https://tsysoba.txt-nifty.com/booklog/2024/02/post-801689.html

今回はさらに、アニメ史研究や、レトロアニメ動画制作で知られる、かねひさ和哉氏とのコラボもあり。新作紙フィルムアニメと、SP用カッティングマシーンで作成された音源を組合せて、1930年代の同時再生機を使って上映するという取組みで、これは嵌まりすぎなほど。

1930年代の紙フィルム玩具映写機「カテイトーキー」でレコードトーキー映画を作ってみた(動画)https://www.youtube.com/watch?v=6hQvCF5AEZs

さらに当時(1930年代)の紙フィルムアニメのデジタル化については、米国バックネル大学が積極的にプロジェクトとして取り組んでいて、担当の研究員の方も、素材の提供などで協力されているそう。

The Japanese Paper Film Projecthttps://kamifirumu.scholar.bucknell.edu

(日本語ページ) https://kamifirumu.scholar.bucknell.edu/japanese-home/

先ほど、同プロジェクトのウェブサイトを見たら、8月6日の上映会はSOLD OUT!とあったり、米国でも関心が盛り上がっている模様。1930年代のアニメーション作品をカラーで見られる、というのは、確かにちょっと熱いかも。板橋区立教育科学館では、デジタル化された映像が一部紹介されているので、この機会にぜひ。

前回のブログで、幻灯機やゾートロープ(回転のぞき絵)と、その後のフィルムとの関係について、「解説聞きながらでないと、なかなか分からなかったかも」と書いたところ、なんと、その両者をつなぐ当時の発明品の再現に取り組んだ、というお話を研究員の方からうかがって、恐縮してしまった。日本映像学会のサイトで、その成果を発表された際の要旨が公開されているので、参考に。

メディア考古学研究会(第3回)開催のお知らせ【7月13日】https://jasias.jp/archives/29554

映像表現の歴史はまだまだ掘り尽くされていないんだなあ、ということを改めて実感させられる展示なので、絵を動かす、という技法そのものに関心がある向きはぜひ。

3月の震災の展示(企画展「震災の記憶をつなぐ」会期:2024年3月2日~3月10日)は見に行き損ねてしまったのだけど、秋にまた開催予定があるとのことで、これは今度こそ行かねば……

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2024/05/03

板橋区立美術館「『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本」展

既に会期が終わってしばらくたってしまったけれど、やっと図録を一通り読み終わったのでざっくり感想を。時間がたって、展示自体の印象はだいぶ薄れてしまったのだけれど。

ちなみに、巡回展で、2024年5月5日現在、三重県立美術館で開催中。先行して開催された京都文化博物館も含め、図録も3館共通。青幻舎から刊行されているので、比較的入手は容易かと。

展示としては、絵画作品が中心でありつつ、関連する出版物や、展覧会関連の印刷物、日記、メモ類など、近年の近代美術展の潮流を踏まえた、周辺資料への目配りが周到で、それぞれの作品がどの地域で、どのような人々・団体との関連で制作されたのか、ということにかなり意識的な展示になっていたように思う。

タイトルから分かるように、1924年のアンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』から100年を記念するタイトルではあるけれど、今回の展示では、それを受け止めた日本での様々な動きを多面的に捉えることに重点が置かれていた、という印象。若干とまどったのは、展示を見ても、シュルレアリスムが何なのはよく分からない、というところかも。シュルレアリスムに関する説明自体があまりないということもあるし、そもそも発祥の地である欧州におけるシュルレアリスム自体が、時期によって大きく変化している(らしい)ということもあるのかも。

欧州のシュルレアリスム運動が、第一次大戦後の深刻な知的・精神的危機に対する反応一つであったとすれば、今回の展示では、日中戦争から第二次大戦に向かう徐々に閉塞していく知的・精神的環境の中で展開され、そして、1941年4月に福沢一郎、滝口修造という代表的作家が治安維持法容疑で逮捕され実質的に終焉を迎えるまでの過程と、戦前にシュルレアリスムから受けた影響を、壮絶な従軍体験を経て生き残った作家たちの戦後の作品と接続する、という、形で、戦争を軸の一つとして構成されているのが特徴といえるかもしれない。特に図録掲載論文の弘中智子「シュルレアリスムと画家たちの戦争・戦後体験」(図録p.260-275)は、戦争による創作活動の中断が、画家としての形成期と重なっていたかどうかによって、戦後への接続に大きな差が生じたという議論を展開していて、興味深かった。

なお、たまたま、関連してそうだな、と思って

中村義一 著『日本の前衛絵画 : その反抗と挫折-Kの場合』,美術出版社,1968. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2518414 (参照 2024-05-03)

を斜め読みしていたところ、103コマ目(p.174)で、釈放された直後の福沢一郎が、作品についていかに時局に協力したものかを無表情に語る姿についての、土方定一による回想を紹介していた。回想なので、記憶の中で誇張された面はあるかもしれないが、印象に残ったので、ついでに紹介しておく。なお、本のタイトルにある、Kというのは、本展でもとりあげられている北脇昇のこと。

あと、展示されていたもので面白かったのは、シュルレアリスムでは、個々の描かれている事物は具象で、その配置と組合せが超現実、だったりすることがあるわけだけど、それを写真でやってた、というところ。写真の前衛表現となると、本展でも取上げられている瑛九のフォト・デッサンのように、直接フィルムや印画紙に露光させていく手法がすぐ浮かぶけれど、撮影する題材の組合せやレイアウトでシュルレアリスム的構図を実現する、というのはなるほどだった。

全然知らなかった作家の作品にもたくさん出会えたし、総じて、満足度が高い展示だったかと。日本における前衛芸術の展開に関心があれば、少なくとも図録は入手した方がよいと思うし、戦争と美術との関係に関心がある向きにもお勧め。

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2024/04/11

慶應義塾ミュージアム・コモンズ「エフェメラ:印刷物と表現」/慶應義塾大学アート・センター「Published by KUAC ── 出版物でたどる慶應義塾大学アート・センターの30年」

慶應義塾ミュージアム・コモンズ「エフェメラ:印刷物と表現」/慶應義塾大学アート・センター「Published by KUAC ── 出版物でたどる慶應義塾大学アート・センターの30年」

どちらも土日祝日は基本開いてないので(ミュージアム・コモンズは土曜開館日もちょっとだけあり)、平日たまたま休みが取れた際に行ってきた。 それぞれ会期は次の通り。

まずは慶應義塾ミュージアム・コモンズ(KeMCo)の「エフェメラ:印刷物と表現」の感想から。

2023年9月16日に開催された、トーク・イベント「エフェメラの住み処」(慶應義塾ミュージアム・コモンズとNPO法人Japan Cultural Research Instituteの共催)を受けた展示。トークイベントについては、レポートがカレントアウェアネス-Eで公開されている。

今回の展示は特に展覧会やイベントに関するお知らせ的な機能を持った印刷物が中心。雑誌も展示されていて、それをエフェメラと言ってよいのかどうか、という感じもあるけど、揃いの残存が少なければ確かにエフェメラ的なものと言ってよいのかもしれない。

展示は、二つの部屋に分かれていて、Room1では、現代美術を積極的に発信した南画廊のカタログや案内状(1950年代から1970年代)と、言わずとしれた?草月アートセンターの刊行物(SAC Journal)やポスター・案内状等(1960年代)、そして、オランダにおけるコンセプチュアルアートの発進地となった画廊Art & Projectがその展示を知らせる媒体として刊行したbulletin(1960年代から1980年代)がコンパクトな空間にずらりと並んでいた。

Art & Projectについては正直知らなかったのだけど、bulletin全号がずらりと並んでいたのは壮観。おそらくそこに示された名前を知っていればさらに楽しめたかも。どの人の展覧会の号を開いているのか、というところに、おそらく意味があったんだろうと思うのだけど、知識がないので分からん……

そういう意味では、南画廊や、草月アートセンター関連の資料の方が少しは分かったかも。特に草月アートセンター関連では、草月会館ホールで開催された久里洋二・真鍋博・柳原良平による1960年の「3人のアニメーション」や、1967年の「アニメーションへの招待」と題された、ピエール・エベールらのアート系作品と並んでディズニーやハンナ・バーベラ、そしてポール・グリモー「やぶにらみの暴君」などが延々と上映された上映会のポスターなどもあって、アニメ史的にも草月大事だなあ、とあらためて認識したり。その他、現代音楽のコンサートイベントがらみの資料もあって、国立国会図書館に手稿譜が所蔵されている林光の名前などもあった。

Room2は河口龍夫と冨井大裕による現代美術の二人展。どちらも、既存の印刷物を題材にしつつ、まったく異なるアプローチの作品を展開していて、面白かった。

どちらの部屋も、解説などはあまりなく、たぶん、ギャラリートーク付きで見たらまた印象が違うかも。あるいは、別のフロアの事務室で販売されている、図録を先に入手した方がよいかもしれない。

特にRoom1に展示された「エフェメラ」は、その資料が結びつく様々な文脈が提示されないと、その面白さが分かりにくい、というのが資料の特性でもあるので、もうちょっと文脈提示が展示に組み込まれていると楽しみやすかったかも。

慶應義塾大学アート・センター(KUAC)の「Published by KUAC」は、KUACの刊行物やポスター、チラシ、そしてイベントでの配布物を一気に並べた展示。過去の図録・パンフは全部手に取って見られるということで、いちいち開いて見てたら結構時間かかった。しかも一部在庫があるものは、展示室とは別の階にあるオフィスで購入可能なものもあったり。この手の展示で、現物を手に取れるのはやはり強い。

イベントでの配布資料などは、手に取るというわけにはいかなかったが、例えば、2003年12月20日開催のシンポジウム「アート・アーカイブ活動のための基礎的理論整備」(開催案内でのタイトルは(仮)だった最終的にはどうなったんだろう)は、進行役が高山正也先生、講演者として八重樫純樹先生、田窪直規先生が登場していて、特に八重樫先生の当日の配布資料があって目を引かれた。中身まで詳しく見れたわけではないが、その後のデジタルアーカイブにつながる議論がここで展開されていたことがうかがえる。

どちらの展示も、とにかく部屋の広さに比して展示点数が多いので、時間的には油断大敵かと。

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2024/02/04

板橋区立教育科学館「いたばしアニメ博」

会期最終日駆け込みで、板橋区立教育科学館「いたばしアニメ博」(会期:2023年12月23日(土)-2024年2月4日(日) )を見に行ってきた。

最寄り駅は東武東上線上板橋駅。駅から歩いて5分ほどで到着。

前日に上映イベントがあったそうだけど、そもそもこういった展示を開催していることに気付いたのが最終日当日だったので、これはやむなし。板橋区立教育科学館には初来訪。プラネタリウム中心に、子ども向けのプログラムが充実しているようで、おっさん一人でふらりと行った自分は大変浮いてた気がする。

展示自体は2階の教材製作室という部屋一室での展開で、小さい展示ではあるものの、中身はめちゃめちゃ濃かった。しかも、展示を担当された研究員の方が会場におられて、解説までしていただけたという贅沢体験。

中心になるのは、戦前期の日本で、一時期家庭用の動画映像上映媒体として流通していた紙フィルムに残れたアニメ作品。紙なのに「フィルム」とはこれいかに、なのだけど、映画フィルムと同様の形式で、連続するコマを紙に印刷し、一コマずつ送るための穴があいている、というもの。フィルムを転写したものが多く、現在フィルムが未発見の作品が、この紙フィルムで発見される、といったこともあるとのこと。

紙フィルムは最初は大日本印刷が開発したそうで、その後、複数の追随するメーカーが現れたとのこと。普通のフィルム式の映写機は光をフィルムに透過したものを拡大して映写するわけだけど、紙フィルム用の映写機は強い光を当てて反射した画像を拡大して映写するわけで、フィルムとは似て非なる映写機構になっているところが面白いところ。また、紙なので色つきで印刷できるので、カラーというのも面白い。

そして紙なので、紙に複製が可能! というわけで、手作業で紙にコピーしたものを切っては貼って繋いで穴を開け……という作業を行った復元紙フィルムを上映可能にしたり、スキャンしてモニターに動画として上映、といったことも行われていた。復元には延々と単純作業が続くわけで、結果的に当時の作業に近いものを実体験することにもなったというお話もうかがった。モニターでいくつか動画も上映されていて、当時の色つき動画というのを疑似体験できたのも大変ありがたし。

さらに、1930年代、映画にトーキーが登場したことを受けて、家庭でも動画と音を一緒に楽しもうと、開発された上映機器の実機も展示されていた。蓄音機と映写機の合体機構や、蓄音機の動力を映写にも活用しようという映写機など、発想はわかるけど……という感じのものも。実際にちゃんと動いたかどうかは別にして、チャレンジ精神がすごい。一方で、映写機も戦時期の物資統制の影響を受けて金属がほとんど使えなくなったり、フィルムの素材でありるセルロースが火薬の原材料に回されていった、といった、戦争の影響のお話もうかがったり。

映像と音との連動、という点では、スタートのタイミングを合わせるために、内側から再生する特殊な蓄音機も紹介されていて(レーベルにスタートする場所を印刷できるためとのこと)、なんと、音も聞かせていただくことができたのだけど、音量も音質も良質で、ちょっとびっくり。映画上映用にはもっと大きな盤面で高速回転のものがあって、現存は非常に希であることや、内側から再生する蓄音機は、溝が横方向ではなく縦方向に振動する仕組みで、そのためにノイズが少ないが、深い溝を作る必要があるために、コスト面では不利だったという話もうかがって、これまたなるほどだった。

また、幻灯機や、それまでの動く絵が横方向に連続するものが多かった(ゾートロープ(回転のぞき絵)とか)ことから、連続するコマ(画像)を横の水平方向に並べたフィルムが初期には多かったのが、フィルムを垂らす形の縦の垂直方向に変化したといった話や、初期(20世紀初頭)のアニメーション作品で水平方向のものと、垂直方向のもので、重ねてみるとまったく同じ絵のものがあることが確認された事例の紹介もあったり。これは解説聞きながらでないと、なかなか分からなかったかも。

総じて、限られたスペースの中で、動く映像の発展史を、音や媒体なども含めて、多様な可能性が探求された過程として描き出す意欲的な展示で、これは上映イベントも観たかったなあ。解説リーフレット4種のうち、一つはもうなくなっていたのは残念だったけど、これまた凝った作りだったり。

なお、解説をしてくださった研究員の方は、昨年、関東大震災の津波被害を記録した映像のフィルムを発見した方でした。今度はそちらの関連の展示も企画されているそうで、これはまた上板橋に行かねばならぬでしょう。

(参考)関東大震災100年 発掘された記録映像 知られざる津波の脅威(NHKニューウオッチ9)2023年9月19日

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2022/08/15

『日本古書通信』2022年5月号・6月号

『日本古書通信』の積ん読がたまってきたので、とりあえず、2022年5月号(1114号)と6月号(1115号)の気になった記事についてメモ。

まずは『日本古書通信』2022年5月号から。

岩切信一郎「石版画家・茂木習古と三宅克己」(p.2-4)は、明治・大正期に活躍した石版画の画工「習古」の謎を辿りつつ、石版カラー表紙を実現した出版における明治20年代の技術革新などにも言及。洋画家・三宅克己の調査の過程で「習古」に三宅が師事したという回想を手がかりに現在までに判明した事実を紹介している。しかしまだまだ謎は深まるばかり、という様子。なお、三宅克己については、次を参照するのが良いかと。「三宅克己 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8905.html

川本隆史「書痴六遷の教訓-仙台からのたより」(p.10-11)は、『風の便り』第7号(1997年6月)からの再録とのこと。著者の引っ越し遍歴を、段階的に増殖していく蔵書の様子と併せて回顧しつつ、書物がつなぐ縁(新明正道氏からの手紙が紹介されている)について語るエッセイ。文系の学者の増え続ける蔵書のありさまが、引っ越しの玄人ともに身に迫ってくる。その後の引っ越しについての補記もあり。

川口敦子「キリシタン資料を訪ねて② ポルトガル国立図書館2」(p.16-17)は、2007年のポルトガル国立図書館での調査の様子を紹介。一部の目録ではポルトガル国立図書館にあるとされていた『ぎやどぺかどる』がやはりなかった、という話が、目録情報の確実性という意味で考えさせられる。イラストで紹介されている、図書館内のレストランのランチがおいしそう。また、当時ポルトガルの書店で購入したルイス・フロイス『日本史』のCD-ROM版がWindows10では起動できなくなっている、という話もあって切ない。

青木正美「古本屋控え帳431 『世界はどうなる』」(p.35)は、『世界はどうなる』精文館,1932の紹介(なお、インターネット公開されている国立国会図書館所蔵本は一部欠落がある模様。)。第二次世界大戦の展開を予想しつつ「日米戦争に対しては、我が国は攻勢に出づるに最も有利な立場」と対米戦を煽っていて、なるほど、こういう書物によって、対米戦争に対する気分が積み重ねられていったんだろうな、という感じ。

八木正自「Bibliotheca Japonica CCXCIII 達摩屋五一遺稿集『瓦の響 しのふくさ』」(p.39)では、書物の価値が嵩で計られていた時代に、書物の価値を評価した古書肆の鼻祖、岩本五一(1817-1868)の生涯と、その遺稿集を紹介。五一の堂号、珍書屋待賈堂が、反町茂雄の古書販売目録、「待賈古書目」(JapanKnowledgeで提供されている電子版の解説参照。)の由来となったとのこと。

なお「受贈書目」(p.40-41)で、浅岡邦夫「禁書リストを筆写した図書館員」(『中京大学図書館紀要』42号抜き刷り)について紹介されている。同論文は中京大学の機関リポジトリで公開されており、東京帝国大学附属図書館に勤めていた佐藤邦一が書き写した禁書リストを軸にその生涯を辿るもの。

続いて、『日本古書通信』2022年6月号についてのメモ。

真田真治「小村雪岱の装幀原画① 内田誠『水中亭雑記』」(p.2-4)は、著者が入手した、小村雪岱の「装幀原画他装幀資料」と、その入手の経緯を語る連載の一回目。レア資料を巡る古書店主とコレクターの複雑な関係も読みどころかと。

樽見博「百年後の大樹」(p.6)は、長塚節(コトバンクの解説)が茨城県下妻市の古刹、光明寺で撮影したという写真の背景に写った大樹について、現地での状況を踏まえて考察した囲みコラム。確かに、現代の写真と比較すると、通説が正しいのかどうか、ちょっと疑問になってくる。

竹原千春「古本的往復書簡2 細川洋希さまへ 志賀直哉の初版本」(p.8-9)では、著者の入手した志賀直哉献呈本を題材に、細川護立(永青文庫の創設者)と志賀直哉の交流について紹介されている。小学校から大学までずっと一緒だったとはびっくり。

森登「銅・石版画万華鏡177 松本龍山『袖玉京都細絵図』」(p.15)は、著者の入手した、慶応4年の銅版京都図を紹介。袋付きで入手したとのことで、その図版も掲載されている。貴重かと。

「札幌・一古書店主の歩み 弘南堂店主高木庄治氏聞き書き(11)独立開店(札幌医大前)」(p.32-34)は、毎回貴重な証言の連続だが、今回は、末尾の詐欺事件の顛末が苦い。一方、『蝦夷地及唐太真景図巻』落札と、昭和37年ごろに、名取武光氏の研究費で北海道大学に入れることになった顛末の話が興味深い(その後一旦行方不明になったとのこと。なお現在は北海道大学北方資料データベースで所在を確認できる。)。こういう購入の仕方が許される時代だったんだなあ。

川口敦子「キリシタン資料を訪ねて③ アジュダ図書館(リスボン)」(p.36-37)は、ボルトガルの首都、リスボンの宮殿内にある図書館、アジュダ図書館の紹介とそこでの調査について。宮殿という古い建物だからこそのトイレのドアの罠?のエピソードがなんとも言えない。また、最初の訪問時(2007年)にはウェブサイトもなかった、というのがちょっと驚き。

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2022/08/07

稲田豊史『映画を早送りで観る人たち~ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形~』光文社,2022.(光文社新書)

稲田豊史『映画を早送りで観る人たち~ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形~』光文社,2022.(光文社新書)を読了……して、少し時間がたってしまったので、既に忘れかけだけど、印象だけでも書き残しておく。

セリフやキャプションによる過剰な分かりやすさの追求や、映画評論の衰退、時間面での効率性(タイパ)重視、監督へのこだわりの無さなど、次々と年寄りには受入れづらいネタが繰り出され、それをフックに、現代の映像作品受容の諸相に関するレポートとして読ませる一冊、という感じだったかと。

映像作品を倍速で視聴したり、間をすっとばしてラストを見たり、というのは、紙の本で斜め読みしたり、最後の方を先に見たり的なものが、映像作品でも手軽にできるようになったことの帰結かと思うので、そのこと自体は、なるほどなあ、という感じなのだけれど、むしろ、そうした視聴の仕方をする理由が、友人・知人との間のコミュニケーションのネタとして必要な情報を獲得するため(あるいは時にマウンティングに対抗するため)、という話に、少し驚いた。若い世代のコミュニケーション環境の過酷さに、自分なら生き延びられただろうか、と考え込んでしまう。

膨大な作品がフローとして供給されていく状況に、金銭的にも時間的にも余裕がない環境下で対応しようとすればこうなる、という話でもあるのだけれど、膨大な過去作品のストックに対応する際にも、それは同様であって、全部の作品をとにかく最初から最後まで見るべし、というのは、当然のことながら、単に時間的に不可能だろう。では、映像作品のアーカイブの蓄積が充実していった時に、どのような作品選択と、視聴のあり方がありうるのか、ということが問われるのでは、ということもちょっと考えたり。

また、「みんなが見ている」という選択軸が最優先になってしまうという話については、過去作品のアーカイブの蓄積へのアクセスを維持することの意味はどこにあるのか、ということを考えてしまった。

あるいは、むしろ、「みんな」から、何かの拍子にはみ出してしまった時に、「みんな」とは異なる道を選ぶ可能性を、どう維持し、提示するのかを考えるべきなのかもしれない。そうした、「みんな」からズレてしまって、市場の主流からも、「仲間」たちの人間関係からもこぼれ落ちていってしまう人たちが、なお映像作品を自分なりに楽しむことができる環境が維持されうるのか。本書の裏側に隠れているのはそうしたことなのでは、と思ったりもしたのだけど、それもまた、サブスクプラットフォームのロングテール的な標的の範囲内なのかも、と思ったりと頭がぐるぐる。

そういうことを色々考えるヒントをくれる一冊だった。

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2022/07/18

『学士会会報』no.955(2022-IV)

學士會会報』no.955(2022-IV)を斜め読みしたら面白かったので印象に残った記事をメモ。

宇山智彦「ロシアは何をめぐってウクライナ・米欧と対立しているのか」(p.16-20)は、ロシアの主張を分析して、ウクライナ侵攻の理由としてよく言われるNATO拡大という主張を「額面通りに受け取ることはできない」とした上で、特に米国との関係の中で、ロシアが国際社会における特別な権利がある、という主張や米国中心の国際秩序のゆらぎ、ウクライナとの一方的な一体性認識などを背景として分析している。バランス感覚も含めて、短く読める論説としてお勧めかと。

中山洋平「二〇二二年大統領選挙後のフランス政治――「ポピュリズム」から分極化へ?」(p.21-27)は、先日のフランス大統領選挙を分析し、かつては極右のものだった、移民排斥という主張を、幅広い勢力が取り込むことが容認されるようになっているなど、「EU統合推進、市場自由化、共和制原則に基づく意味統合」という統治エリートのコンセンサスが突き崩されてきている状況を論じている。興味深いのは、イタリアの政治学者サルトーリの描いた「分極的多党制」と同様の力学が働いているという話。「分極的多党制」というのは、

「左右両極に無視できない反体制政党を抱えている上に、中央の位置が独立の勢力によって占められていると、左右の穏健な政党は両極に吸い寄せられていく。こうした「遠心的競合」によって左右両翼への「分極化」が進めば、最終的には民主制の存続が危ぶまれる段階に至る。」

という話で、フランスでは、左右の両極が、EU統合に反対、市場自由主義路線を批難するという状況で、中道の独立政党であるマクロン党がこれまでのコンセンサスを維持する、という構図になっているとのこと。日本との比較という意味でも興味深い。

大塚美保「没後百年目の森鷗外」(p.42-46)は、今年没後百年となる森鴎外の最新の研究動向を紹介する一本。フェミニズムの理解者・支援者としての鴎外、文化の翻訳者としての鴎外、鴎外による国家批判と体制変革を通じた国家維持構想など、鴎外の持つ多面性を積極的に評価する近年の研究動向をコンパクトに紹介していて、最近はこんな議論になっているのか、と勉強になった。

北村陽子「戦争障害者からみる社会福祉の源流」(p.47-51)は、第一次大戦後のドイツで発展した、「戦争によって傷ついた人(Kriegsbeschädigter)」への支援策が、リハビリや障害者スポーツの発展、義手・義肢の技術革新、盲導犬の導入(軍用犬の戦後の活躍の場として発展したとのこと)など、現代につながる様々な障害者支援の仕組みにつながっていることが紹介されていて、まったく知らないことだらけで驚いた。

山田慎也「民俗を尋ねて《第VI期》第4回 変わりゆく葬送儀礼」(p.85-90)は、新潟県佐渡島北西部の、自宅を中心的な場として行われていた葬送儀礼を紹介するとともに、2000年代以降、公民館、そして2014年に改行した葬儀場を利用する形で変化するとともに、地域共同体から個人化の方向に向かっていった過程を紹介している。

なお、表紙の図版は東京大学総合研究博物館所蔵三宅一族旧蔵コレクションから、貴族院議員だった三宅秀(1848-1938)が貴族院議員有志から送られた、服部時計店製「帝国議会議事堂模型」。表紙裏の解説(西野嘉章「かたちの力(連載79)」)と併せて、現在の国会議事堂が完成した直後の議事堂が持っていた象徴性も含めて、興味深い。

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2022/07/10

水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)

『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

断続的に読んでいた、水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)をようやく読了。良い本でした。元版は『知の商人 近代ヨーロッパ思想史の周辺』筑摩書房,1985.で、「あとがき」によると、筑摩書房の第二版『経済学全集』の月報での連載をまとめたものとのこと。学術文庫版のあとがきによれば、元版で月報連載から落としたものも今回収録しようと探したが見つけられずに収録を断念、という話が書いてあるのだけど、編集者はそういうの探してくれないんだ……ということにちょっとがっかりしたり。

思想関連の書物と著者、そして出版社・書店の経営者・編集者たちとの様々な関わりや、書物を集めたコレクターたちの活躍を描き出す、学術的エッセイ、という趣で、一つ一つの節が独立した読み物として読めるようになっている。注記は部分的に付けられてはいるものの、探求のヒント的な扱いのような感じ。あとがきで

「全体にわたって参考文献を主とした注をつけたが、参考文献には、特定の問題についてだけ利用したものと、全般的に利用したものがあり、その区別は注ではかならずしも明らかになっていない。また、一次資料にさかのぼって確認した記述と、そうでないものとの区別も、同様である。」

と敢えて書かれているゆえんでもある。

内容は多岐に亙るので、紹介しきれないが、例えば、最初に置かれている「エルセフィエル書店」というのは、今風にいえば「エルゼビア」。近代初期の元祖エルセフィエルが手を広げ、その後消えていった過程と「商品としての思想」を広めたその功罪を、歴史的背景も含めて紹介している。

とはいえ、こうした比較的よく知られた名前が出てくる話は一部に過ぎず、もちろん、それぞれの専門分野では知られているのだろうけれど、浅学の自分には知らないことだらけだった。

例えば、「ハーリーとソマーズ」では、著者所蔵の『ハーリアン・ミセラニー』("The Harleian miscellany"。記述内容からすると1808-1813刊行の10巻本の様子。)を取り上げているが、そもそもこれってなんだろう、と思ったら、「オクスフォード伯ロバート・ハーリー(一六六一─一七二四年)、エドワード・ハーリー(一六八九─一七四一年)が、二代にわたって集めた四〇万冊ちかいパンフレットの一部分の復刻」とのこと。説明を読んでもよく分からなかったが、読み進めるうちに、ハーリー二代のコレクションの形成と散佚の過程が、コレクターの動向の変化とともに語られていて、読まされてしまう。

「アメリカ革命の導火線」では、アメリカ独立のうねりを生んだ源流の一つに、「神学の本拠であるハーヴァード・カレジに対して、大西洋を越えて二〇年にわたって送りつづけられた、五〇〇〇冊をこえる急進主義文献」があることを指摘し、その送り手であるトマス・ホリス(Thomas Hollis)について、紹介している。ちなみに、ハーバード大学図書館の検索システムの名称がHOLLISなのは、トマス・ホリスにちなんでいるのだろうか。と思ってFAQをみたら、ちなんでいるのだけど、生没年が本書で紹介されているホリスと違うので、同姓同名の別人(あるいは代違い)かもしれない(本書では1720-1774、HOLLISのFAQでは1659-1731)。

……と、ここまで書くだけで1時間近くかかってしまった。とにかく詰め込まれている情報量が多いので、これなんだろう、と、ちょっと確認しているだけで、えらいことになる。まあ、ちょっと確認できるような世の中になったというだけで、ありがたいのだけれど、裏返せば、さらに掘っていくためのネタの宝庫のような本でもある、ということでもある。

また、出版史ばかりではなく、経済と国際政治との関係を特定の商品(ワイン、ジン、紅茶)と絡めて論じる話もあったりして、話題の幅広さ尋常ではない。その中で、特に今、読み直してほしい話を、もう少しだけ紹介しておきたい。

一つ目は、「マクス・ヴェーバーをめぐる女性」という節。ここでは、ヴェバー(日本語だとマックス・ウェーバー表記が多いか)の妻であった、マリアンネ・ヴェーバー(コトバンクの解説参照)の『フィヒテの社会主義とそのマルクス学説への関係』(1900年)という著書から話がはじまる。この著書の中に、マクスの影響について言及する文言が登場することを取り上げつつ、そもそも大学のゼミに女性が参加する嚆矢であったマリアンネ(ただし聴講生として。次の世代の女性たちがようやく正式に大学に入学を許可される。)の置かれた状況を解説し、女性解放の闘士であったマリアンネと、マクスとの関係の複雑性を描き出している。特に、マリアンネの性に関する議論の歯切れの悪さを分析した、

「マリアンネは、女性の解放が性の解放に直面せざるをえないこと、「エロティークだけが両性の結合の価値を最終的にきめるものではない」にしても、エロティークを無視しえないことを知っていたし、しかも、性の解放が、男性支配のもとでは、女性の地位の低下を意味することも知っていたのである。」

という一節に表現された構造は、20世紀初頭の状況を1980年代に描写したものであるにも関わらず、現在でも玩味に値するのではないだろか。例えば、性表現の開放においても、類似の構造があるのではないか、という問いは、現在でも十分に成り立つように思う。

ちなみにその後、ヴェーバー夫妻に影響を受けた、ハイデルベルク大学の最初の女子学生であったエルゼ・ヤッフェに、マクスが接近し、それをマリアンネも知っていた、みたいな話まで出てきて、なんだこのハーレム系展開は、みたいになってしまって、こうした構造の中で女性の権利について議論していた、マリアンネすごいな、となったりも。

なお、マリアンネ・ヴェーバーについては、昭和女子大学女性文化研究所紀要に、掛川典子氏による主要論文の翻訳が掲載されているようなので、そちらも併せて確認されると良いかもしれない。

もう一つ、イギリスのピアニスト、マイラ・ヘス(コトバンクの解説参照)による、第二次大戦中の戦時下のナショナル・ギャラリーでのコンサートについて紹介した、「空襲下のコンサート」は、別の意味で、今読まれるべき一篇かと。一旦は、戦時は演奏する時ではない、と考えてピアノから離れたヘスが、かつて自分の演奏を聴いたという亡命ユダヤ人一家からの要望を受けて、演奏会を開くための会場探しをした時、受け入れたのが作品を疎開させ、ほとんど空になったナショナル・ギャラリーだった。演奏会に殺到した人々が、そこで一時の安らぎを取り戻す様子や、シューマンの歌曲をドイツ語で歌うことをためらう歌手を勇気づける話など、戦争に対して、芸術が持つ意味ということについて、改めて問いかける内容になっている。

なお、マイラ・ヘスによるコンサートについては、ナショナル・ギャラリーのサイトでも詳しく紹介(The Myra Hess concerts)されているので、そちらも併せてぜひ。例えば、最初のコンサートの入場待ちの人々の写真なども紹介されていて、当時のロンドンの人々がコンサートを待ち望んでいた様子がよく分かる。

こうしたコンサートの経験を踏まえて、ヘスが「われわれは、おそらく史上かつてなかったほどしっかりと、人類の進歩の真の本質をつかんでいます」と語ったことを、著者は紹介している。その後に、

「その後四〇年のあいだに、人類の進歩ということばは、すくなからず色あせてしまったが、ヘスがこう語ったときの日本には、このことばも音楽も存在の余地がなかったのである。」

と続けて書いていることの重みが、著者がこう書いてからさらに40年近くがたった今、さらに増しているのでは。

というわけで、全部通して読まなくても、拾い読みでもじっくり楽しめる一冊かと。こうした、研究者による専門分野のエッセイは、論文と違って業績としては、軽く見られがちだし、最初に書いたように、注記も十分には付されてはいないのだけれど、様々な検索ツールが整備された今だからこそ、興味関心を広げるための入り口として、とても有効だと思う。

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水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)

『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

断続的に読んでいた、水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)をようやく読了。良い本でした。元版は『知の商人 近代ヨーロッパ思想史の周辺』筑摩書房,1985.で、「あとがき」によると、筑摩書房の第二版『経済学全集』の月報での連載をまとめたものとのこと。学術文庫版のあとがきによれば、元版で月報連載から落としたものも今回収録しようと探したが見つけられずに収録を断念、という話が書いてあるのだけど、編集者はそういうの探してくれないんだ……ということにちょっとがっかりしたり。

思想関連の書物と著者、そして出版社・書店の経営者・編集者たちとの様々な関わりや、書物を集めたコレクターたちの活躍を描き出す、学術的エッセイ、という趣で、一つ一つの節が独立した読み物として読めるようになっている。注記は部分的に付けられてはいるものの、探求のヒント的な扱いのような感じ。あとがきで

「全体にわたって参考文献を主とした注をつけたが、参考文献には、特定の問題についてだけ利用したものと、全般的に利用したものがあり、その区別は注ではかならずしも明らかになっていない。また、一次資料にさかのぼって確認した記述と、そうでないものとの区別も、同様である。」

と敢えて書かれているゆえんでもある。

内容は多岐に亙るので、紹介しきれないが、例えば、最初に置かれている「エルセフィエル書店」というのは、今風にいえば「エルゼビア」。近代初期の元祖エルセフィエルが手を広げ、その後消えていった過程と「商品としての思想」を広めたその功罪を、歴史的背景も含めて紹介している。

とはいえ、こうした比較的よく知られた名前が出てくる話は一部に過ぎず、もちろん、それぞれの専門分野では知られているのだろうけれど、浅学の自分には知らないことだらけだった。

例えば、「ハーリーとソマーズ」では、著者所蔵の『ハーリアン・ミセラニー』("The Harleian miscellany"。記述内容からすると1808-1813刊行の10巻本の様子。)を取り上げているが、そもそもこれってなんだろう、と思ったら、「オクスフォード伯ロバート・ハーリー(一六六一─一七二四年)、エドワード・ハーリー(一六八九─一七四一年)が、二代にわたって集めた四〇万冊ちかいパンフレットの一部分の復刻」とのこと。説明を読んでもよく分からなかったが、読み進めるうちに、ハーリー二代のコレクションの形成と散佚の過程が、コレクターの動向の変化とともに語られていて、読まされてしまう。

「アメリカ革命の導火線」では、アメリカ独立のうねりを生んだ源流の一つに、「神学の本拠であるハーヴァード・カレジに対して、大西洋を越えて二〇年にわたって送りつづけられた、五〇〇〇冊をこえる急進主義文献」があることを指摘し、その送り手であるトマス・ホリス(Thomas Hollis)について、紹介している。ちなみに、ハーバード大学図書館の検索システムの名称がHOLLISなのは、トマス・ホリスにちなんでいるのだろうか。と思ってFAQをみたら、ちなんでいるのだけど、生没年が本書で紹介されているホリスと違うので、同姓同名の別人(あるいは代違い)かもしれない(本書では1720-1774、HOLLISのFAQでは1659-1731)。

……と、ここまで書くだけで1時間近くかかってしまった。とにかく詰め込まれている情報量が多いので、これなんだろう、と、ちょっと確認しているだけで、えらいことになる。まあ、ちょっと確認できるような世の中になったというだけで、ありがたいのだけれど、裏返せば、さらに掘っていくためのネタの宝庫のような本でもある、ということでもある。

また、出版史ばかりではなく、経済と国際政治との関係を特定の商品(ワイン、ジン、紅茶)と絡めて論じる話もあったりして、話題の幅広さ尋常ではない。その中で、特に今、読み直してほしい話を、もう少しだけ紹介しておきたい。

一つ目は、「マクス・ヴェーバーをめぐる女性」という節。ここでは、ヴェバー(日本語だとマックス・ウェーバー表記が多いか)の妻であった、マリアンネ・ヴェーバー(コトバンクの解説参照)の『フィヒテの社会主義とそのマルクス学説への関係』(1900年)という著書から話がはじまる。この著書の中に、マクスの影響について言及する文言が登場することを取り上げつつ、そもそも大学のゼミに女性が参加する嚆矢であったマリアンネ(ただし聴講生として。次の世代の女性たちがようやく正式に大学に入学を許可される。)の置かれた状況を解説し、女性解放の闘士であったマリアンネと、マクスとの関係の複雑性を描き出している。特に、マリアンネの性に関する議論の歯切れの悪さを分析した、

「マリアンネは、女性の解放が性の解放に直面せざるをえないこと、「エロティークだけが両性の結合の価値を最終的にきめるものではない」にしても、エロティークを無視しえないことを知っていたし、しかも、性の解放が、男性支配のもとでは、女性の地位の低下を意味することも知っていたのである。」

という一節に表現された構造は、20世紀初頭の状況を1980年代に描写したものであるにも関わらず、現在でも玩味に値するのではないだろか。例えば、性表現の開放においても、類似の構造があるのではないか、という問いは、現在でも十分に成り立つように思う。

ちなみにその後、ヴェーバー夫妻に影響を受けた、ハイデルベルク大学の最初の女子学生であったエルゼ・ヤッフェに、マクスが接近し、それをマリアンネも知っていた、みたいな話まで出てきて、なんだこのハーレム系展開は、みたいになってしまって、こうした構造の中で女性の権利について議論していた、マリアンネすごいな、となったりも。

なお、マリアンネ・ヴェーバーについては、昭和女子大学女性文化研究所紀要に、掛川典子氏による主要論文の翻訳が掲載されているようなので、そちらも併せて確認されると良いかもしれない。

もう一つ、イギリスのピアニスト、マイラ・ヘス(コトバンクの解説参照)による、第二次大戦中の戦時下のナショナル・ギャラリーでのコンサートについて紹介した、「空襲下のコンサート」は、別の意味で、今読まれるべき一篇かと。一旦は、戦時は演奏する時ではない、と考えてピアノから離れたヘスが、かつて自分の演奏を聴いたという亡命ユダヤ人一家からの要望を受けて、演奏会を開くための会場探しをした時、受け入れたのが作品を疎開させ、ほとんど空になったナショナル・ギャラリーだった。演奏会に殺到した人々が、そこで一時の安らぎを取り戻す様子や、シューマンの歌曲をドイツ語で歌うことをためらう歌手を勇気づける話など、戦争に対して、芸術が持つ意味ということについて、改めて問いかける内容になっている。

なお、マイラ・ヘスによるコンサートについては、ナショナル・ギャラリーのサイトでも詳しく紹介(The Myra Hess concerts)されているので、そちらも併せてぜひ。例えば、最初のコンサートの入場待ちの人々の写真なども紹介されていて、当時のロンドンの人々がコンサートを待ち望んでいた様子がよく分かる。

こうしたコンサートの経験を踏まえて、ヘスが「われわれは、おそらく史上かつてなかったほどしっかりと、人類の進歩の真の本質をつかんでいます」と語ったことを、著者は紹介している。その後に、

「その後四〇年のあいだに、人類の進歩ということばは、すくなからず色あせてしまったが、ヘスがこう語ったときの日本には、このことばも音楽も存在の余地がなかったのである。」

と続けて書いていることの重みが、著者がこう書いてからさらに40年近くがたった今、さらに増しているのでは。

というわけで、全部通して読まなくても、拾い読みでもじっくり楽しめる一冊かと。こうした、研究者による専門分野のエッセイは、論文と違って業績としては、軽く見られがちだし、最初に書いたように、注記も十分には付されてはいないのだけれど、様々な検索ツールが整備された今だからこそ、興味関心を広げるための入り口として、とても有効だと思う。

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