2023/06/24

岡田弘子(和田収子)の『古京の芝草』について

先日立ち寄った古書店で入手した、

岡田弘子 著『古京の芝草』,立命館出版部,昭和16. https://id.ndl.go.jp/bib/000000683906

についてのメモ。

「日本の古本屋」を見る限り、本来は函付きのようだが、入手したものには函はなし。だからなのか、お手ごろな価格だった。

サイズとしてはB6判になるかと。ハードカバーで本文用紙の紙質は軽い。ところどころにモノクロだが精細な仏像の図版が複数挿入されている。

このB6判ハードカバーで、しかも軽い紙質を使う、という形式は、戦前・戦中期は、随筆的な作品にしばしば採用されていたようで、古書店の店頭や、古本まつり的なところで見かけると、とりあえず、手に取ってみるようにしている。今となってはあまり名を知られていない書き手が多いが、書き手の個性がうかがえる味わい深い内容であることが少なくない上に、装丁に力を入れた本も多い。特に戦時期に出されたものは、デジタル化されていたとしても、限られた条件下で造本にこだわる送り手の気概が感じられて、何となく好きだったりする。

さて、今回入手したのタイトル『古京の芝草』の「古京」というのは奈良のこと。奈良の名跡を巡り、仏像を拝観し、二月堂のお水取りや春日おん祭を見学した感想を綴りつつ、時に様々な背景として蘊蓄を披露する、という趣向。26枚の仏像図版は紙質が異なる別刷。刊行は昭和16年(1941)。序文に5月とあるので、対米開戦直前の時期、ということになる。奈良博物館で一節あったり、岩船寺や浄瑠璃寺も回っているのもまた良かったり。

ただ、出版時近辺の奈良訪問記、というわけではないようで、序文によると

「奈良京の廃都を嘆いた田辺福麿の『立ち易(かえ)り古きみやことなりぬれば道の芝草長く生ひにけり』といふ、その年毎に芽ぐむ古京の道辺の雑草に過ぎないもので、大正四年頃からの、其の折々のノートの断片を書き綴つたものである」

とのこと。かなり時期としては幅があるらしい。

印象的な箇所はいくつもあるのだけど、『鮮血遺書』で知られるフランス人宣教師ヴィリオンとばったり出会った時の様子を引いてみよう。特徴的なふりがなは( )で補記し、漢字は新字体に改めた。

 公演に沿つた下水の溝のはしを、私は下うつむいて歩いてきた。と、急に目(ま)のさきがぱつと明るくなつたやうな気がした。おや?と思つて見上げた瞳に、真赤な塊が飛びこんだ。火のやうに真赤な薔薇のかげから、皺に埋つた白皙の顔がにこやかに覗いてゐる。黒い長い法衣(スータン)を着た見知りごしのビリヨン老師だ。

 私の背後から一台の自働車が疾走してきた。老師はきつと立ち止まつて、右腕に抱へてゐたその薔薇の鉢をあわててゝ左腕に移して、その空いた右手をすくつと、若者のやうに元気よくさしあげた。空車はそれには一瞥も与へずに、疾走して行つてしまつた。

 老師は左腕に移した鉢を、またもとのやうに右腕に移し、それからいかにも重さうにもう一度持ちあげて抱へなほしてから歩み出した。私は老師の前を通りすぎて、五六歩行きすぎた。が、急に思ひ出したやうに踵をかへして、老師を追った。

と、こんな感じ。真赤の薔薇が視野に入る瞬間の鮮やかな印象と、タクシーを捕まえようとして失敗する、著名な老宣教師の姿を見てしまい、一度は行き過ぎようとしてしまって、でも、やはり立ち戻る、微妙な心の動きが書き込まれている。この部分は状況描写が少ないが、繊細な状況描写もまた良かったりするので、デジタルでもよいので、まずは中身を眺めてみてほしい。

なお、家に帰ってから確認すると、本書については、次の論考で紹介がされていた。

井上重信「 昭和十六年夏の立命館出版部(二) : 石原莞爾『国防論』発禁余話、松本清張の心に残りし岡田弘子『古京の芝草』」立命館百年史紀要. 10. p. 249 - 266.[2002-03] http://doi.org/10.34382/00015776

この井上氏の論考によると、松本清張の『清張日記』、昭和56年5月5日の項に、戦前この『古京の芝草』を読んで印象に残ったことが記載されているとのこと。実は、『古京の芝草』刊行当時、立命館出版部にいた井上氏が、最初に校正を担当した一冊だったとのことで、上記論考で当時が回想されている。それによると、図版はコロタイプ印刷で、井上氏は京都便利堂での印刷ではないかと推測している。しかも、「この『古京の芝草』は昭和十六年九月初版発行と同時に売行好評で二ヶ月たたないうちに売切れとなり十一月に再販した」とあり、どの程度の部数刷られたのかは判然としないが、売行き好調だったようだ(その好調ぶりのおかげて、金一封が出て奈良の料亭で天ぷらを食べたエピソードなども興味深い)。

さて、井上氏は、著者の岡田弘子についても検討を加えているのだが、その実像ははっきりしない。

とりあえず、自分でも調べてみたことを含めて,少しメモとして残しておきたい。

まずは、Web NDL Authoritiesを見ると、

岡田, 弘子, 1893-1983 https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00328624

とあり、1983年に亡くなられたことが分かる。生没年の典拠は「人物レファレンス事典 郷土人物編」とのこと。まだ確認してないが、それを見るともう少し何か分かるかも。なお、同名で北海道の図書館で石川啄木の顕彰などで活躍された方がおられるが、まったくの別人である。

『古京の芝草』の岡田弘子がかかれた別の著作としては、

岡田弘子 著『やせ猫 : 歌集』(地上叢書 ; 第10篇),立命館出版部,昭13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1256425

という短歌集があり、こちらは序文が窪田空穂と対馬完治、装幀が石井鶴三という豪華版。窪田空穂の序文では、岡田弘子が窪田空穂に師事して短歌に取り組んでいたこと、その前はフランス文学に専心していたこと、北信濃に生まれ女学校まではそこで過ごしたことが分かる。また、対馬完治の序文では、窪田空穂の紹介で地上社に入ったことが判明する。

さらに、同書の「父の旧友」という節には(p.100)「新渡戸博士を父と共に見舞ふ」という記述があったり、「噫、新渡戸博士」という節(p.168)には「昭和八年十一月十六日、米国にて客死されし新渡戸博士の御遺骨、秩父丸にて着きますを父と横浜埠頭に迎へまつる」という記述もあり、父親が新渡戸稲造と浅からぬ縁があったことがうかがえる。

また、

歌壇新報社 編『現代代表女流年刊歌集』第3輯,歌壇新報社,昭12. https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1228569/1/139

では、「岡田弘子(和田収子)」と紹介されており、どうやら岡田弘子はペンネーム、というか号で、本名は和田収子というらしい。窪田空穂氏に師事したのは昭和2年からで、昭和4年第二期地上に入社したこと、家族は「父、妹二人」、東京都在住であることが判明。

さらに、和田収子の方で探ってみると、『信濃教育』の石井鶴三追悼特集に、

和田収子「先生の思い出」『信濃教育』(1044). p.32-33. [1973-11] https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/6070609/1/19

という回想を寄せている。この回想、なんと先に触れた歌集『やせ猫』を巡るエピソードが含まれており、

  • 昭和13年の『やせ猫』刊行の10年ほど前に、アナトール・フランスの『やせ猫』と『ヂオカスト』を翻訳し、装幀として石井鶴三が木版を彫った。
  • 翻訳は「種々の事情」で出版に至らず、その装丁をそのまま歌集の装丁に使おうとして、題名を『やせ猫』とした。

ことなどが紹介されている(石井鶴三のわがままぶりがなかなかなのだが、そこは実際に読んでみてほしい)。

というわけで、まとめると、

岡田弘子(和田収子)。1893生〜1983没。 北信濃出身。女学校までは北信濃で過ごす。 父親は、新渡戸稲造と交流があり(記述ぶりによると、新渡戸より年上の模様)。 回想によれば、石井鶴三とも私的交流あり。 一時(大正期?)フランス文学に専心し、アナトール・フランスの翻訳などにも取り組んだが、刊行には至らず。 その後、短歌に転身し、昭和2年から窪田空穂に師事。昭和4年に第二期地上社に参加。

という感じになるだろうか。

『古京の芝草』の記述を読む限り、本人はクリスチャンではないとしているが、立命館出版部から本が出ていること、父親が新渡戸と交流があったこと、フランス文学への取り組みなど、クリスチャン人脈との関係もあるかもしれない。

なお、私家版と思われるが、刊行時期と出版者が「和田」姓であることから考えて、次の本はおそらく、同じ著者によるものだろう。

岡田弘子『遺稿集』和田富裕, 1984.7 https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB0237580X?l=ja

いつか、この『遺稿集』を読むことができたら,もう少し、どんな人だったのか、分かるかもしれない。

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2022/08/15

『日本古書通信』2022年5月号・6月号

『日本古書通信』の積ん読がたまってきたので、とりあえず、2022年5月号(1114号)と6月号(1115号)の気になった記事についてメモ。

まずは『日本古書通信』2022年5月号から。

岩切信一郎「石版画家・茂木習古と三宅克己」(p.2-4)は、明治・大正期に活躍した石版画の画工「習古」の謎を辿りつつ、石版カラー表紙を実現した出版における明治20年代の技術革新などにも言及。洋画家・三宅克己の調査の過程で「習古」に三宅が師事したという回想を手がかりに現在までに判明した事実を紹介している。しかしまだまだ謎は深まるばかり、という様子。なお、三宅克己については、次を参照するのが良いかと。「三宅克己 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8905.html

川本隆史「書痴六遷の教訓-仙台からのたより」(p.10-11)は、『風の便り』第7号(1997年6月)からの再録とのこと。著者の引っ越し遍歴を、段階的に増殖していく蔵書の様子と併せて回顧しつつ、書物がつなぐ縁(新明正道氏からの手紙が紹介されている)について語るエッセイ。文系の学者の増え続ける蔵書のありさまが、引っ越しの玄人ともに身に迫ってくる。その後の引っ越しについての補記もあり。

川口敦子「キリシタン資料を訪ねて② ポルトガル国立図書館2」(p.16-17)は、2007年のポルトガル国立図書館での調査の様子を紹介。一部の目録ではポルトガル国立図書館にあるとされていた『ぎやどぺかどる』がやはりなかった、という話が、目録情報の確実性という意味で考えさせられる。イラストで紹介されている、図書館内のレストランのランチがおいしそう。また、当時ポルトガルの書店で購入したルイス・フロイス『日本史』のCD-ROM版がWindows10では起動できなくなっている、という話もあって切ない。

青木正美「古本屋控え帳431 『世界はどうなる』」(p.35)は、『世界はどうなる』精文館,1932の紹介(なお、インターネット公開されている国立国会図書館所蔵本は一部欠落がある模様。)。第二次世界大戦の展開を予想しつつ「日米戦争に対しては、我が国は攻勢に出づるに最も有利な立場」と対米戦を煽っていて、なるほど、こういう書物によって、対米戦争に対する気分が積み重ねられていったんだろうな、という感じ。

八木正自「Bibliotheca Japonica CCXCIII 達摩屋五一遺稿集『瓦の響 しのふくさ』」(p.39)では、書物の価値が嵩で計られていた時代に、書物の価値を評価した古書肆の鼻祖、岩本五一(1817-1868)の生涯と、その遺稿集を紹介。五一の堂号、珍書屋待賈堂が、反町茂雄の古書販売目録、「待賈古書目」(JapanKnowledgeで提供されている電子版の解説参照。)の由来となったとのこと。

なお「受贈書目」(p.40-41)で、浅岡邦夫「禁書リストを筆写した図書館員」(『中京大学図書館紀要』42号抜き刷り)について紹介されている。同論文は中京大学の機関リポジトリで公開されており、東京帝国大学附属図書館に勤めていた佐藤邦一が書き写した禁書リストを軸にその生涯を辿るもの。

続いて、『日本古書通信』2022年6月号についてのメモ。

真田真治「小村雪岱の装幀原画① 内田誠『水中亭雑記』」(p.2-4)は、著者が入手した、小村雪岱の「装幀原画他装幀資料」と、その入手の経緯を語る連載の一回目。レア資料を巡る古書店主とコレクターの複雑な関係も読みどころかと。

樽見博「百年後の大樹」(p.6)は、長塚節(コトバンクの解説)が茨城県下妻市の古刹、光明寺で撮影したという写真の背景に写った大樹について、現地での状況を踏まえて考察した囲みコラム。確かに、現代の写真と比較すると、通説が正しいのかどうか、ちょっと疑問になってくる。

竹原千春「古本的往復書簡2 細川洋希さまへ 志賀直哉の初版本」(p.8-9)では、著者の入手した志賀直哉献呈本を題材に、細川護立(永青文庫の創設者)と志賀直哉の交流について紹介されている。小学校から大学までずっと一緒だったとはびっくり。

森登「銅・石版画万華鏡177 松本龍山『袖玉京都細絵図』」(p.15)は、著者の入手した、慶応4年の銅版京都図を紹介。袋付きで入手したとのことで、その図版も掲載されている。貴重かと。

「札幌・一古書店主の歩み 弘南堂店主高木庄治氏聞き書き(11)独立開店(札幌医大前)」(p.32-34)は、毎回貴重な証言の連続だが、今回は、末尾の詐欺事件の顛末が苦い。一方、『蝦夷地及唐太真景図巻』落札と、昭和37年ごろに、名取武光氏の研究費で北海道大学に入れることになった顛末の話が興味深い(その後一旦行方不明になったとのこと。なお現在は北海道大学北方資料データベースで所在を確認できる。)。こういう購入の仕方が許される時代だったんだなあ。

川口敦子「キリシタン資料を訪ねて③ アジュダ図書館(リスボン)」(p.36-37)は、ボルトガルの首都、リスボンの宮殿内にある図書館、アジュダ図書館の紹介とそこでの調査について。宮殿という古い建物だからこそのトイレのドアの罠?のエピソードがなんとも言えない。また、最初の訪問時(2007年)にはウェブサイトもなかった、というのがちょっと驚き。

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2022/07/10

水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)

『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

断続的に読んでいた、水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)をようやく読了。良い本でした。元版は『知の商人 近代ヨーロッパ思想史の周辺』筑摩書房,1985.で、「あとがき」によると、筑摩書房の第二版『経済学全集』の月報での連載をまとめたものとのこと。学術文庫版のあとがきによれば、元版で月報連載から落としたものも今回収録しようと探したが見つけられずに収録を断念、という話が書いてあるのだけど、編集者はそういうの探してくれないんだ……ということにちょっとがっかりしたり。

思想関連の書物と著者、そして出版社・書店の経営者・編集者たちとの様々な関わりや、書物を集めたコレクターたちの活躍を描き出す、学術的エッセイ、という趣で、一つ一つの節が独立した読み物として読めるようになっている。注記は部分的に付けられてはいるものの、探求のヒント的な扱いのような感じ。あとがきで

「全体にわたって参考文献を主とした注をつけたが、参考文献には、特定の問題についてだけ利用したものと、全般的に利用したものがあり、その区別は注ではかならずしも明らかになっていない。また、一次資料にさかのぼって確認した記述と、そうでないものとの区別も、同様である。」

と敢えて書かれているゆえんでもある。

内容は多岐に亙るので、紹介しきれないが、例えば、最初に置かれている「エルセフィエル書店」というのは、今風にいえば「エルゼビア」。近代初期の元祖エルセフィエルが手を広げ、その後消えていった過程と「商品としての思想」を広めたその功罪を、歴史的背景も含めて紹介している。

とはいえ、こうした比較的よく知られた名前が出てくる話は一部に過ぎず、もちろん、それぞれの専門分野では知られているのだろうけれど、浅学の自分には知らないことだらけだった。

例えば、「ハーリーとソマーズ」では、著者所蔵の『ハーリアン・ミセラニー』("The Harleian miscellany"。記述内容からすると1808-1813刊行の10巻本の様子。)を取り上げているが、そもそもこれってなんだろう、と思ったら、「オクスフォード伯ロバート・ハーリー(一六六一─一七二四年)、エドワード・ハーリー(一六八九─一七四一年)が、二代にわたって集めた四〇万冊ちかいパンフレットの一部分の復刻」とのこと。説明を読んでもよく分からなかったが、読み進めるうちに、ハーリー二代のコレクションの形成と散佚の過程が、コレクターの動向の変化とともに語られていて、読まされてしまう。

「アメリカ革命の導火線」では、アメリカ独立のうねりを生んだ源流の一つに、「神学の本拠であるハーヴァード・カレジに対して、大西洋を越えて二〇年にわたって送りつづけられた、五〇〇〇冊をこえる急進主義文献」があることを指摘し、その送り手であるトマス・ホリス(Thomas Hollis)について、紹介している。ちなみに、ハーバード大学図書館の検索システムの名称がHOLLISなのは、トマス・ホリスにちなんでいるのだろうか。と思ってFAQをみたら、ちなんでいるのだけど、生没年が本書で紹介されているホリスと違うので、同姓同名の別人(あるいは代違い)かもしれない(本書では1720-1774、HOLLISのFAQでは1659-1731)。

……と、ここまで書くだけで1時間近くかかってしまった。とにかく詰め込まれている情報量が多いので、これなんだろう、と、ちょっと確認しているだけで、えらいことになる。まあ、ちょっと確認できるような世の中になったというだけで、ありがたいのだけれど、裏返せば、さらに掘っていくためのネタの宝庫のような本でもある、ということでもある。

また、出版史ばかりではなく、経済と国際政治との関係を特定の商品(ワイン、ジン、紅茶)と絡めて論じる話もあったりして、話題の幅広さ尋常ではない。その中で、特に今、読み直してほしい話を、もう少しだけ紹介しておきたい。

一つ目は、「マクス・ヴェーバーをめぐる女性」という節。ここでは、ヴェバー(日本語だとマックス・ウェーバー表記が多いか)の妻であった、マリアンネ・ヴェーバー(コトバンクの解説参照)の『フィヒテの社会主義とそのマルクス学説への関係』(1900年)という著書から話がはじまる。この著書の中に、マクスの影響について言及する文言が登場することを取り上げつつ、そもそも大学のゼミに女性が参加する嚆矢であったマリアンネ(ただし聴講生として。次の世代の女性たちがようやく正式に大学に入学を許可される。)の置かれた状況を解説し、女性解放の闘士であったマリアンネと、マクスとの関係の複雑性を描き出している。特に、マリアンネの性に関する議論の歯切れの悪さを分析した、

「マリアンネは、女性の解放が性の解放に直面せざるをえないこと、「エロティークだけが両性の結合の価値を最終的にきめるものではない」にしても、エロティークを無視しえないことを知っていたし、しかも、性の解放が、男性支配のもとでは、女性の地位の低下を意味することも知っていたのである。」

という一節に表現された構造は、20世紀初頭の状況を1980年代に描写したものであるにも関わらず、現在でも玩味に値するのではないだろか。例えば、性表現の開放においても、類似の構造があるのではないか、という問いは、現在でも十分に成り立つように思う。

ちなみにその後、ヴェーバー夫妻に影響を受けた、ハイデルベルク大学の最初の女子学生であったエルゼ・ヤッフェに、マクスが接近し、それをマリアンネも知っていた、みたいな話まで出てきて、なんだこのハーレム系展開は、みたいになってしまって、こうした構造の中で女性の権利について議論していた、マリアンネすごいな、となったりも。

なお、マリアンネ・ヴェーバーについては、昭和女子大学女性文化研究所紀要に、掛川典子氏による主要論文の翻訳が掲載されているようなので、そちらも併せて確認されると良いかもしれない。

もう一つ、イギリスのピアニスト、マイラ・ヘス(コトバンクの解説参照)による、第二次大戦中の戦時下のナショナル・ギャラリーでのコンサートについて紹介した、「空襲下のコンサート」は、別の意味で、今読まれるべき一篇かと。一旦は、戦時は演奏する時ではない、と考えてピアノから離れたヘスが、かつて自分の演奏を聴いたという亡命ユダヤ人一家からの要望を受けて、演奏会を開くための会場探しをした時、受け入れたのが作品を疎開させ、ほとんど空になったナショナル・ギャラリーだった。演奏会に殺到した人々が、そこで一時の安らぎを取り戻す様子や、シューマンの歌曲をドイツ語で歌うことをためらう歌手を勇気づける話など、戦争に対して、芸術が持つ意味ということについて、改めて問いかける内容になっている。

なお、マイラ・ヘスによるコンサートについては、ナショナル・ギャラリーのサイトでも詳しく紹介(The Myra Hess concerts)されているので、そちらも併せてぜひ。例えば、最初のコンサートの入場待ちの人々の写真なども紹介されていて、当時のロンドンの人々がコンサートを待ち望んでいた様子がよく分かる。

こうしたコンサートの経験を踏まえて、ヘスが「われわれは、おそらく史上かつてなかったほどしっかりと、人類の進歩の真の本質をつかんでいます」と語ったことを、著者は紹介している。その後に、

「その後四〇年のあいだに、人類の進歩ということばは、すくなからず色あせてしまったが、ヘスがこう語ったときの日本には、このことばも音楽も存在の余地がなかったのである。」

と続けて書いていることの重みが、著者がこう書いてからさらに40年近くがたった今、さらに増しているのでは。

というわけで、全部通して読まなくても、拾い読みでもじっくり楽しめる一冊かと。こうした、研究者による専門分野のエッセイは、論文と違って業績としては、軽く見られがちだし、最初に書いたように、注記も十分には付されてはいないのだけれど、様々な検索ツールが整備された今だからこそ、興味関心を広げるための入り口として、とても有効だと思う。

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水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)

『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

断続的に読んでいた、水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)をようやく読了。良い本でした。元版は『知の商人 近代ヨーロッパ思想史の周辺』筑摩書房,1985.で、「あとがき」によると、筑摩書房の第二版『経済学全集』の月報での連載をまとめたものとのこと。学術文庫版のあとがきによれば、元版で月報連載から落としたものも今回収録しようと探したが見つけられずに収録を断念、という話が書いてあるのだけど、編集者はそういうの探してくれないんだ……ということにちょっとがっかりしたり。

思想関連の書物と著者、そして出版社・書店の経営者・編集者たちとの様々な関わりや、書物を集めたコレクターたちの活躍を描き出す、学術的エッセイ、という趣で、一つ一つの節が独立した読み物として読めるようになっている。注記は部分的に付けられてはいるものの、探求のヒント的な扱いのような感じ。あとがきで

「全体にわたって参考文献を主とした注をつけたが、参考文献には、特定の問題についてだけ利用したものと、全般的に利用したものがあり、その区別は注ではかならずしも明らかになっていない。また、一次資料にさかのぼって確認した記述と、そうでないものとの区別も、同様である。」

と敢えて書かれているゆえんでもある。

内容は多岐に亙るので、紹介しきれないが、例えば、最初に置かれている「エルセフィエル書店」というのは、今風にいえば「エルゼビア」。近代初期の元祖エルセフィエルが手を広げ、その後消えていった過程と「商品としての思想」を広めたその功罪を、歴史的背景も含めて紹介している。

とはいえ、こうした比較的よく知られた名前が出てくる話は一部に過ぎず、もちろん、それぞれの専門分野では知られているのだろうけれど、浅学の自分には知らないことだらけだった。

例えば、「ハーリーとソマーズ」では、著者所蔵の『ハーリアン・ミセラニー』("The Harleian miscellany"。記述内容からすると1808-1813刊行の10巻本の様子。)を取り上げているが、そもそもこれってなんだろう、と思ったら、「オクスフォード伯ロバート・ハーリー(一六六一─一七二四年)、エドワード・ハーリー(一六八九─一七四一年)が、二代にわたって集めた四〇万冊ちかいパンフレットの一部分の復刻」とのこと。説明を読んでもよく分からなかったが、読み進めるうちに、ハーリー二代のコレクションの形成と散佚の過程が、コレクターの動向の変化とともに語られていて、読まされてしまう。

「アメリカ革命の導火線」では、アメリカ独立のうねりを生んだ源流の一つに、「神学の本拠であるハーヴァード・カレジに対して、大西洋を越えて二〇年にわたって送りつづけられた、五〇〇〇冊をこえる急進主義文献」があることを指摘し、その送り手であるトマス・ホリス(Thomas Hollis)について、紹介している。ちなみに、ハーバード大学図書館の検索システムの名称がHOLLISなのは、トマス・ホリスにちなんでいるのだろうか。と思ってFAQをみたら、ちなんでいるのだけど、生没年が本書で紹介されているホリスと違うので、同姓同名の別人(あるいは代違い)かもしれない(本書では1720-1774、HOLLISのFAQでは1659-1731)。

……と、ここまで書くだけで1時間近くかかってしまった。とにかく詰め込まれている情報量が多いので、これなんだろう、と、ちょっと確認しているだけで、えらいことになる。まあ、ちょっと確認できるような世の中になったというだけで、ありがたいのだけれど、裏返せば、さらに掘っていくためのネタの宝庫のような本でもある、ということでもある。

また、出版史ばかりではなく、経済と国際政治との関係を特定の商品(ワイン、ジン、紅茶)と絡めて論じる話もあったりして、話題の幅広さ尋常ではない。その中で、特に今、読み直してほしい話を、もう少しだけ紹介しておきたい。

一つ目は、「マクス・ヴェーバーをめぐる女性」という節。ここでは、ヴェバー(日本語だとマックス・ウェーバー表記が多いか)の妻であった、マリアンネ・ヴェーバー(コトバンクの解説参照)の『フィヒテの社会主義とそのマルクス学説への関係』(1900年)という著書から話がはじまる。この著書の中に、マクスの影響について言及する文言が登場することを取り上げつつ、そもそも大学のゼミに女性が参加する嚆矢であったマリアンネ(ただし聴講生として。次の世代の女性たちがようやく正式に大学に入学を許可される。)の置かれた状況を解説し、女性解放の闘士であったマリアンネと、マクスとの関係の複雑性を描き出している。特に、マリアンネの性に関する議論の歯切れの悪さを分析した、

「マリアンネは、女性の解放が性の解放に直面せざるをえないこと、「エロティークだけが両性の結合の価値を最終的にきめるものではない」にしても、エロティークを無視しえないことを知っていたし、しかも、性の解放が、男性支配のもとでは、女性の地位の低下を意味することも知っていたのである。」

という一節に表現された構造は、20世紀初頭の状況を1980年代に描写したものであるにも関わらず、現在でも玩味に値するのではないだろか。例えば、性表現の開放においても、類似の構造があるのではないか、という問いは、現在でも十分に成り立つように思う。

ちなみにその後、ヴェーバー夫妻に影響を受けた、ハイデルベルク大学の最初の女子学生であったエルゼ・ヤッフェに、マクスが接近し、それをマリアンネも知っていた、みたいな話まで出てきて、なんだこのハーレム系展開は、みたいになってしまって、こうした構造の中で女性の権利について議論していた、マリアンネすごいな、となったりも。

なお、マリアンネ・ヴェーバーについては、昭和女子大学女性文化研究所紀要に、掛川典子氏による主要論文の翻訳が掲載されているようなので、そちらも併せて確認されると良いかもしれない。

もう一つ、イギリスのピアニスト、マイラ・ヘス(コトバンクの解説参照)による、第二次大戦中の戦時下のナショナル・ギャラリーでのコンサートについて紹介した、「空襲下のコンサート」は、別の意味で、今読まれるべき一篇かと。一旦は、戦時は演奏する時ではない、と考えてピアノから離れたヘスが、かつて自分の演奏を聴いたという亡命ユダヤ人一家からの要望を受けて、演奏会を開くための会場探しをした時、受け入れたのが作品を疎開させ、ほとんど空になったナショナル・ギャラリーだった。演奏会に殺到した人々が、そこで一時の安らぎを取り戻す様子や、シューマンの歌曲をドイツ語で歌うことをためらう歌手を勇気づける話など、戦争に対して、芸術が持つ意味ということについて、改めて問いかける内容になっている。

なお、マイラ・ヘスによるコンサートについては、ナショナル・ギャラリーのサイトでも詳しく紹介(The Myra Hess concerts)されているので、そちらも併せてぜひ。例えば、最初のコンサートの入場待ちの人々の写真なども紹介されていて、当時のロンドンの人々がコンサートを待ち望んでいた様子がよく分かる。

こうしたコンサートの経験を踏まえて、ヘスが「われわれは、おそらく史上かつてなかったほどしっかりと、人類の進歩の真の本質をつかんでいます」と語ったことを、著者は紹介している。その後に、

「その後四〇年のあいだに、人類の進歩ということばは、すくなからず色あせてしまったが、ヘスがこう語ったときの日本には、このことばも音楽も存在の余地がなかったのである。」

と続けて書いていることの重みが、著者がこう書いてからさらに40年近くがたった今、さらに増しているのでは。

というわけで、全部通して読まなくても、拾い読みでもじっくり楽しめる一冊かと。こうした、研究者による専門分野のエッセイは、論文と違って業績としては、軽く見られがちだし、最初に書いたように、注記も十分には付されてはいないのだけれど、様々な検索ツールが整備された今だからこそ、興味関心を広げるための入り口として、とても有効だと思う。

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2022/04/24

『日本古書通信』2022年4月号

『日本古書通信』2022年4月号(87巻4号)をぱらぱらと読んだ。どうも集中力が続かないので、簡単に。

田坂憲二「吉井勇の自筆歌集(上)吉井勇と臼井書房」(p.2-4)には驚いた。影印本ではなく、作者自選による歌集を作者の自筆で複数部作成し、頒布する、ということが昭和21年ごろに行われていた、とはまったく知らなかった。広告によれば200部刊行予定だったそうで、それを丹念に書いた吉井勇、すごい。なお、収録歌の選定過程を示す資料が、京都府立京都学・歴彩館の吉井勇資料中に残されている、というのも興味深い。

飯澤文夫「続PR誌探索(37)」(p.4-5)は三省堂の書店部門、出版部門それぞれの戦前のPR誌を紹介。戦時下の出版統制で消えた『書斎』など。

新連載、川口敦子「キリシタン資料を訪ねて(1)ポルトガル国立図書館」(p.16-17)は、形こそ新連載だが、実際には、著者の「パスポートと入館証、準備よし!」の続編かと。引き続き、各国それぞれの貴重書の扱いが分かって面白い。毎度のことながら、マイクロ資料や、昨今のデジタル化されたものを見るだけではなく、現地でカード目録を確認し、原物を請求することによる発見がある、というのが興味深いが、図書館屋的には頭が痛い。

三坂剛「福永武彦自筆識語・署名本収集について3」(p.30-31)は、紙の原物ならではのコレクションの魅力を示す切り口では。また、各版と福永武彦電子全集におけるテキストとの関係についても言及があるのがポイントかと。

森登「銅・石版画万華鏡 175 福島中佐単騎横断」(p.35)では江戸から明治の日露関係を概観しつつ、明治25年から26年にかけて、ドイツからシベリアまで、馬で横断して実地調査を行い、帰国した福島安正を描いた版画を紹介。

これも新連載の小林信行「平田禿木をめぐる人々 尾崎紅葉1」(p.38-39)は、淡々と尾崎紅葉の生い立ちから、作家に専念、活躍を広げていく過程をたどりつつ、そこに並走していく平田禿木に言及していく、というスタイルで、近代文学音痴の自分としては、ああ、そういうことだったのか、という感じの話も多くて勉強になった。こういうのを何の気なしに読んでしまって、何となく勉強になってしまうのが、雑誌の良いところでもあるが、自分の知識が貧弱なだけという話もあるか。

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2022/04/10

『美しい暮しのための少女年鑑 1957年』(「少女ブック」新年号(第7巻第1号)ふろく)集英社,1957.

先日某所の古本まつりで『美しい暮しのための少女年鑑 1957年』(「少女ブック」新年号(第7巻第1号)ふろく)集英社,1957.を入手。状態はそれほど良くはないのだけど、監修の一人が「国会図書館長 金森徳次郎」とあったので、つい手が伸びてしまった。なお、もう一人の監修は日本女子大教授の上田柳子。家政学の第一人者で服飾関係の著作が多数ある。

内容は、ファッションを前面に出しつつも、芸術・文化に関する基礎強要や、手紙の書き方、職業案内なども含んでいて、要するに女子用往来物の戦後版か……という感じ。

大きさは縦16.5cm×横9.0cm。216ページ。赤を基調にした表紙には、表面加工を施されていて、手帖風を狙った作りなのだろうか。

金森は巻頭の「りっぱな少女となるために」と題する序文も担当している。そこでは、時代が少女に求めるものを、

「肉体も精神も健全であることはいうまでもなく、学問も必要です。職業能力も必要です。趣味も美容も、文学音楽芸術もわからなくてはならない。どんな身の上の変化にぶつかっても、これをのりきっていくだけの人生能力が必要です。」

と語りつつ、この『少女年鑑』について「これらの性能を身にそなえるように企画した」とその企画意図を記している。

趣味に関する部分では、「読書」についても取り上げられていて、「図書館自動車」や「図書閲覧室」の図版も掲載。ただ、中を読むと図書館ではなく、本を大切に扱う方法や、本の選び方が中心。「出版社から出版目録をとりよせてから買うのはもっとも良い方法です」とあったり。「破損したページはセロテープで修理しましょう」とあるのは、これはいかん、とか思ったり。その一方で、「へんなつみかたをして本をいためぬよう、本棚を整理しましょう」と書かれていて、すみません、すみません、いう気持ちに……。

また、進学案内が「めぐまれた環境にある人のために」と「私はめぐまれないと思っている人のために」に分けて書かれているのが生々しい。後者では「皆さんの年ごろでは、進学か就職かがきまるときなどに、急に人生のはかなさが身にしみて、泣きわめいて両親をこまらせ」たりするかもしれないが、勉強をやめてはいけない、と呼びかけ、定時制高校や職業学校について記載している。前半の華やかなファッションや、クラシックやジャズ、絵画やバレエといった芸術、読書やカメラといった趣味などについての知識と、現実とのギャップを、書き手の側も認識しつつ、将来への希望をつなぎとめようとしている姿勢がうかがえる。

当時の金森徳次郎が若年女性の教育について、積極的に関わっていたのかどうか知識がないのだが、少なくとも、こうした場に上田柳子と名を並べて、文化芸術に関する権威づけになりうる人物として扱われていたことはうかがえる。と、同時に、この時代に求められていた教養と、そしてこのふろくがターゲットにしていた読者層が直面していた現実も。それにしても、よくこれだけの情報をコンパクトにまとめたものだ。ところどころに執筆者名が入っている記事もあり、どういうチームで書かれたものなのかも気になるところ。

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2022/03/27

『日本古書通信』2022年2月号(87(2))、2022年3月号(87(3))

つらいニュースばかり流れてくるし、頼まれていた原稿は進まないしで、なかなかブログを書く気になれなかったのだけど、とりあえず原稿の方は何とかなりそうな目処が立ったので、ブログ更新を再開してみる。

2022年1月号からカラーページが登場した『日本古書通信』だが、2月号以降も引き続きカラーページあり。またため込んでしまったので、2号分の感想をまとめて。

まずは2月号から。川島幸希「無削除版」(p.2-3)は、著者の所蔵資料、実見経験を元に、削除することで発禁を免れたり、それでもさらに発禁になったりした文学作品の無削除版と削除版の差異を簡潔に解説したもの。伝存は極めてまれだが無削除版が存在するという小林多喜二『蟹工船』について、日本近代文学館復刻本がその存在を知らずに削除版を原本としいたことについての指摘もあり。

福田博「和書蒐集夢現幻譚 119 『深川新地の月』珍品掘出し物語」(p.8-9)は、蒐集の過程でとある錦絵に三度出会い、その全貌を把握するまでが綴られている(とはいえ詳細はまだ分からないとも)。これぞ古書蒐集の醍醐味、とも言えるエピソードかと。この図版は、カラーページが生きる。

石川透「奈良絵本・絵巻の研究と収集 29 伊勢物語」(p.20-21)は、「江戸時代前期に制作された奈良絵本・絵巻として最も多く制作されたのは『伊勢物語』かもしれない」と指摘し、また、嵯峨本が作らた以後はほとんどの奈良絵本・絵巻の影響を受けていると分析した上で、「挿絵の数が合計四十九枚の時には、間違いなく嵯峨本を元に」しているとの知見も披露されている。これは覚えておきたいところ。

牧村健一郎「社会的弱者へのまなざし―渋沢栄一、山尾庸三、伊藤博文の生き方」(p.22-24)では、大正10年の塙保己一百年祭・忠宝(ただとみ)六十年祭の際、渋沢栄一が、挨拶で、塙保己一の嗣子・忠宝を暗殺したのは山尾庸三と伊藤博文であったことに言及したエピソードから、罪のない忠宝を殺してしまったことを忘れず、後に訓盲院の設立に尽力するなど障害者教育に力を入れた山尾と、東京養育院を支えた渋沢の活動を紹介。その一方で、障害者教育とも福祉とも無縁であった伊藤を対比的に描いている。「伊藤は今もって、殺人の経歴を持つ唯一の総理大臣である」という一文が著者の伊藤評価を示している感じ。

鈴木紗江子「北米における日本の古書研究3 ビデオプロジェクトの話(3)」(p.25)は、ブリティッシュコロンビア大学(UBC)の講義動画「物語文学と写本」の制作プロジェクトにおける、特にデジタル画像の活用について紹介。画像自体の探索、許可手続など、その苦労がうかがえる。なお、前回は2021年11月号に掲載。

蓜島亙「『露西亜評論』の時代(54) 一九一七年革命前夜のロシヤ観」(p.30-31)は、本題よりも、2015年に事業停止した東洋書店と、その出版事業を継承したサイゾー、そして東洋書店新社との関係についての話が面白い。実際、東洋書店新社のサイトを見てみると、東洋書店新社は「屋号」であって、その住所には「株式会社サイゾー 東洋書店事業部」とある。これは「出版者」名とは何か、という意味で、図書館泣かせの事例でもあるかと。

小田光雄「古本屋散策(239) みずず書房と『資料 下山事件』」(p.37)では、1949年の下山事件に関する著作を紹介しつつ、下山事件研究会に参加した研究者、文学者に言及。同研究会が後世に検証を託す形で編んだ『資料 下山事件』の意義について語られている。

続いて2022年3月号へ。

森登「銅・石版画万華鏡 174 『銅版細絵図』」(p.7)は、著者が新たに入手した江戸期の小型の銅版絵図を紹介しつつ、同版から刷られた別の絵図との比較を行なっている。こうした関連する異版の比較が様々な知見をもたらしてくれる、という良い実例かと。

川島幸希「復刻版の展示について」(p.8-10)は、某文学館での装丁をテーマにした展示で、肝心な資料について復刻版が使われていたことを批判する内容。記事では文学館名、展示会名も名指しなので、気になる方はご確認を。原資料の魅力を知り尽くした著者だからこその重みがある。

北原尚彦「リレー連載ミステリ懐旧三面鏡その六 《十六歳の掘り出し物》」(p.14-15)は、コナン・ドイル自伝を巡る話。現在は電子書籍版も出てるものの、初版との違いについても言及されている。割とこういう基本的な資料が入手困難になりがち、ということも含めて、興味深し。

出久根達郎「本卦還りの本と卦 179 菊池寛」(p.15)は、菊池寛作品を元にした新作落語の話から、菊池寛の図書館通いの話を絡めつつ、最後に、昭和12、13年ごろに、自宅の通用門外で蔵書を並べてその場で安価に売りつつ、買いに来た大学教授や学生たちとの会話を楽しんでいた、というエピソードが紹介されている。よい話だなあ。

蓜島亙「『露西亜評論』の時代(55) 一九一七年革命前夜のロシヤ観」(p.28-29)は、近年のロシア研究やロシアとの交流についての、著者からの批判と直言、といった趣。近年のロシア研究の質の低下や、ロシアにおける日本宣伝のあり方についての批判もあり。

編集後記である*「談話室」*(p.47)では、かつての夢の技術が実現した現在を喜びつつ、ウクライナ侵攻を受けて「戦争」が現実に身近に現れた現状への「震撼」が語られている。もちろん、実際には紛争やそれによる死は常に世界各地で存在していて、それが目に入っていなかっただけなのだろうとも思うけれど、実感としてはよく分かる。

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2022/01/15

『日本古書通信』2021年12月号(86巻12号)・2022年1月号(87巻1号)

ためこんでしまっていた、『日本古書通信』2021年12月号(86巻12号)と、2022年1月号(87巻1号)の感想をまとめて。

まずは、2021年12月号から。

特に巻頭の、塩村耕「虫だらけの伊東玄朴書簡—コレラと闘う蘭医」(p.2-3)が重要かと。著者が入手した伊東玄朴から大槻俊斎宛の書簡を解読しつつ、その背景を含めて解き明かしていくもので、断片的に現れる情報と知られている史実を組み合わせつつ、時期や状況を推定していく。末尾では、デジタル化の重要性と効果について言及されていて、書簡資料のネット公開を推奨している。また、早稲田大学図書館や東京都立中央図書館の取り組みを評価しつつ「今や、先人のかつて経験することができなかった夢のような研究基盤」が実現しつつあり、「人文学の質を書き換えるほどの事態をもたらす可能性がある」と指摘し、「書簡文化研究の機運」の再来への期待も述べられている。原資料の面白さと、それを読み解くためのツールとしてのデジタル化資料の重要性の両面が語られていて、重要な記事かと。

田坂憲二「『短歌風土記山城の巻(一)』漫歩—城南吉井勇紀行」(p.4-6)は、歌人・劇作家の吉井勇が、戦後まもなく、京都府八幡市に住んでいた時代の短歌集『短歌風土記山城の巻(一)』をひも解きつつ、関連の文献も紹介しつつ、京阪電車八幡市周辺のゆかりの地をめぐる一本。当時の文化人たちとの交流も興味深いが、現地の和菓子が何ともおいしそう。

加藤詔士「明治16年度『工部大学校学課並諸規則』」(p.14-15)は、後に帝国大学工学部となる工部大学校の教職員、学課目の編成、諸規則をまとめ、ほぼ毎年刊行されたと見られる『工部大学校学課並諸規則』の英語版を含む現存諸本の概要を整理しつつ、著者が入手した明治16年度版について、他の諸本との異同などの分析が行われている。基本資料の紹介として重要だと思われるが、伝存がこれほど少ないとはちょっと驚き。

福田博「和書蒐集夢幻譚 117 左右にブレる出版人成史書院關根喜太郎」(p.20-21)は、宮澤賢治『春と修羅』を発行し、販路を提供した關根書店の代表、關根喜太郎が、後に立ち上げた出版社、成史書院で昭和14年に刊行した『紙 資源愛読本』を取り上げたもの。実は關根自身が執筆・刊行した奇妙な本で、特に一部が引用されている、紙を種類別に解説した文言中の詩のような部分が何ともいえない味わい。

小田光雄「古本屋散策(237) 山辺健太郎と『現代史資料』」(p.22)は、前号(感想)に続き、『現代史資料』について。今回は『社会主義運動』7冊、『台湾』2冊の編集解説者であった山辺健太郎について、「独学者ならではの図書館と文書館(アーカイブ)の徹底的利用」によるその仕事が紹介されている。特に、国立国会図書館の憲政資料室には開設直後の1950年当初から1968年にかけて、毎日のように通っていたことが紹介されている。「憲政資料室の牢名主」と自称していたとは。図書館・アーカイブズによる蓄積と、そこに蓄積された資料を活用した出版の一事例でもあり。

川口敦子「パスポートと入館証、準備よし!(36)」(p.24-25)は、2016年のマドリードのスペイン国立図書館とも近い公園で開催された、マドリード秋の古書市(Feria de Otoño del Libro Viejo y Antiguo de Madrid)の様子を紹介。こういう記事が読めるのも、古通ならでは。

森登「『浦上玉堂関係叢書』刊行について」(p.28-29)は、浦上家史編纂委員会が刊行した『浦上玉堂関係叢書』全3巻4冊編纂の裏話的一本。特に第3巻に当たる『浦上玉堂父子の藝術』における、琴譜からの全曲録音(CD付き)の話や、様々な呼称を網羅したという人名索引作成の苦労話が興味深い。

巻末の編集後記的コラム「談話室」(p.47)では、天理図書館開館91執念記念「書物の歴史」展や、深井人詩氏追悼文集に言及されている。

続いて2022年1月号について。なんと、一部ページの図版がカラーになり、紙質も変わった。

早速、川島幸希「外装の下 泉鏡花の極美本」(p.2-3)では、著者所蔵の美本の図版を掲載。「現物の色とはかなり違う」とのことだが、保存状態の良さはうかがうことができる。

森登「銅・石版画万華鏡 172 正月の引き札」(p.7)もカラー図版。これは確かにカラーがありがたい。当時皇太子妃だった九条節子(後の大正天皇皇后)が描かれた引札を取り上げている。多色石版と空押しの組み合わせとかあるんだ、という感じ。また、岩切信一郎氏が監修されたという『引札 資料集』(海の見える杜美術館,2021)の紹介もあって、「引札の資料集としては出色の図録」とのこと。

竹居明男「「七福神」と「宝船」に関する文献抄—架蔵の稀覯資料から—」(p.10-11)は、七福神、宝船についての図録や解説書の紹介。これでもおそらくコレクションの一部なのだと思われるが、こんなにあるのか、という感じ。特に宝船コレクターによる図録が複数あり、「明らかに大正と昭和一桁代にピークがあった」宝船ブームがあり、「その中心は京都・大阪・名古屋にあったように思われる」という分析が興味深い。

松竹京子「文筆家としての小早川秋聲」(p.14-15)は、小早川秋聲が美術雑誌に寄稿した大量の文章について、その一端を紹介したもの。「日本画家小早川秋聲の御長女山内和子先生から父秋聲について」話を聞く機会があったことが、秋聲の文章を追い始めた契機とのこと。

茅原健「珈琲店—獏さんの思い出」(p.15)は、沖縄出身の詩人、山之口獏氏の思い出を綴った囲みコラムだが、1950年代の池袋北口の喫茶店についての話でもあり。

小田光雄「古本屋散策(238) 姜徳相と『現代史資料』」(p.22)は引き続き、みすず書房の『現代史資料』について。今回は、1963年の『関東大震災と朝鮮人』と、その月報掲載の山辺健太郎「震災と日本の労働運動—朝鮮人問題と関連して」が取り上げられている。また、同巻の編者である姜徳相の『関東大震災』中央公論社,1975.(中公新書)も参照しつつ、朝鮮人虐殺事件の背景が論じられている。1960年代、70年代の蓄積がいかに現在忘れ去られているか、ということを痛感させられる話でもあり。それにしても、三一書房・三一新書の三一って、三・一運動が由来だったのか……知らなかった(これはちょっと恥ずかしいかも……)。

巻末の「談話室」では、古書業界の店舗から目録販売、そしてネットへという流れから、再び店舗志向の若手古本屋の動向に触れつつ「更にネット外の世界に活路を見いだそうとしているのが現在かもしれない」という示唆があり。また「蔵書を持つことがステイタスでなくなってしまった社会の中の古本屋」がどうなっていくのか、その問いかけも重い。

(2022-01-16 誤字を一ヶ所修正しました。「室」→「質」)

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2021/11/20

『日本古書通信』2021年11月号(86巻11号)

『日本古書通信』2021年11月号(86巻11号)を少し前に読了したので忘れないうちに感想をメモ。

とにかく、川島幸希「日本近代文学館への提言」(p.8-9)が重い。「所蔵資料のデジタル化の遅れ・利用者への高額な各種サービス提供・情報発進力の弱さ」等の課題や、その前提となっている収益構造の問題点を指摘しつつ、改善策を提言している。その一方で「スタッフの一人ひとりが文学へのリスペクトと、近文にアクセスする人への愛情を持つこと」の重要性を強調するなど、単なる運営論に終わらない観点も提示。他の文学館と比較しての議論などもあり、文学館に関心を持つ方は必読ではないか。

また、タイトルからは分かりにくいが、佐々木靖章「キヌタ文庫創設者 永島不二男はモダンボーイだった」(p.10-11)は、東京銀座の文化史の話でもあり。個人的には「ルパシカを身にまとい、両手・両足・腰に鈴をつけて、毎日提示に銀座を往来」という、ストリートパフォーマンスを関東大震災前に行っていた、という話に驚いた。また、銀座のカフェ「クロネコ」による雑誌『クロネコ』『船のクロネコ』の紹介もあり。

鈴木紗江子「北米における日本の古書研究2」(p.16-17)は、ブリティッシュコロンビア大学(UBC)の講義動画「物語文学と写本」の制作プロジェクトで苦心した点を紹介。日本の古典文学研究における概念を英語で紹介するために様々な工夫がなされたことが分かる。最も難しかったという「池田亀鑑が大島本を最前本とした」という一節をどう提示するかのくだりなど、目的に合わせた翻訳のあり方として重要かと。また、「作ることが目的のデジタル化事業から、デジタル化したものを最大限に活用することを目標とする時代になった」という一節は、デジタル化をめぐる状況の変化を端的に著していて、印象的。ちなみに、当該の動画は"Exploring Premodern Japan Series Vol. 4 – Tale Literature (monogatari bungaku) and Manuscripts: The Case of The Tale of Genji"(リンク先は早稲田大のサイトでの紹介)ではないか。

日本研究といえば、川口敦子「パスポートと入館証、準備よし!(35)」(p.32-33)も興味深い。スペイン国立図書館での2回目の調査でのエピソード。データベースにないものはない、と主張する書誌情報室の担当者と、古い冊子目録に遡って確認して当該資料を発見するベテラン司書、という、類似したエピソードに覚えのある図書館関係者も多いのでは、というお話。遡及入力を過信してはいかんのですよね……

小田光雄「古本屋散策(236) 『現代史資料』別巻『索引』」(p.35)は、『現代史資料』の別巻「索引」について。その重要性と、それが国会図書館に通い詰め、記憶力と紙のカードによって編纂された、高橋正衛という編集者「個人の作品」であることが語られている。コンピュータ時代以前のこうした成果をどう継承するのか、という問題でもあるかと。

その他、「書物の周囲 特殊文献の紹介」(p.40-41)では、香川県立ミュージアムの「自然に挑む 江戸の超(スーパー)グラフィック—高松松平家博物図譜」展の図録が紹介されていて、見たかったなあ……としみじみ。あと、青裳堂書店の日本書誌学大系の広告(p.41)で、大小暦の図録である岩崎均史編『大小図輯』と、永井一彰『版木の諸相』の刊行を知る。すごい価格になっているが、何部刷ってるんだろう…

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2021/10/30

『日本古書通信』2021年10月号(86巻10号)

『日本古書通信』2021年10月号(86巻10号)を読んだのでざっくり気になった記事についてメモ。

  • 塩村耕「足代弘訓『学問答書』のこと」p.2-4

まだまだ出てくる岩瀬文庫の未整理資料。今回は、伊勢外宮の神職で国学者でもあったという、足代弘訓(ひろのり・1784-1856)が文政9年(1826)に著した学問論に関する小冊子について。特に、当時の国学者についての悪しき風評を伝える部分が興味深く、事実かどうかはともかく、国学者を山師的な存在として叩く人たちがいた、というのが面白かった。

  • 中澤伸弘「二題 撰集『雨夜の友』について/古書と教師とその行方」p.4-6

後半では、北野克『墨林閑歩』研文社,1992.について、小出昌洋氏の編によること、北野翁が都立千歳高校の定時制教員であることなどに触れ、昭和の都立高校で、校長も他の教員も古書に理解があったことを紹介しつつ、自身の教員生活を振り返ってどうであったかを語っている。

昔は良かった的な印象を受ける話もあるものの、「教員は研究と研修が大切であると奉職早々に先輩教員から諭され、研修日もあつた都立高校が懐かしい」という指摘は、現在の教員が置かれている状況を表していて、切ない。

  • 川島幸希「近代作家の資料4 夏目漱石の森田草平宛献呈本」p.8-10

これは詳細は読んでもらうほかないと思うが、ネットオークションで示された断片的な情報から、これを見いだす眼力がすごい、としか言い様がない。それだけ常に資料をきっちり見て分析している、ということでもあるかと。その種明かしをこれだけオープンにしてくれる、というのがまたすごい。

  • 田坂憲二「雑誌『エトアール』のこと—吉井勇周遊—」p.10-12

プランゲ文庫のマイクロ資料に含まれている雑誌『エトアール』について、著者所蔵の現物から詳細を紹介したもの。実はこの雑誌、第一工業製薬と深いかかわりがあることが論じられており、戦後初期の京都文化人と地元企業との関係、という面からも興味深い。

  • 森登「銅・石版画万華鏡170 明治の小型洋装本」p.13

明治期の小型英和辞書を中心に、その装丁と、組み版の工夫について紹介している。小さな版面に小型の活字で情報をいかに圧縮して詰め込むか、という活版におけるレイアウト技術の話でもあり。

  • 蓜島亙「『露西亜評論』の時代(50) 一九一七年革命前後のロシア観」p.14-15

特に終盤の、既刊の雑誌の売れ残りを合冊して合本として販売する習慣が、明治期から大正12年前後まで多くあり、時にタイトルも変えて売られていた、という話や、さらにいくつかの雑誌の抜粋を簡易表紙をつけて書籍として販売した、という話が面白かった。刷ったものは再利用してたんだなあ…

  • 川口敦子「パスポートと入館証、準備よし!34」p.30-31

各国の図書館、文書館での調査時の経験を語る連載。今回からスペイン国立図書館の話に。2012年から2014年まで、毎年ルールが細かく変わっていた、という話が興味深い。また、持ち込むことができるものの制限がどんどん厳しくなっていった、という話も。

  • 小田光雄「古本屋散策235 高橋正衛と『現代史資料』」p.33

みすず書房の『現代史資料』についての話。現代史資料の右翼関連担当だったという、高橋正衛について。松本清張への情報提供者でもあった、という話も。1974年第40回配本(『国家主義運動3』)の『現代史資料月報』掲載の、伊藤隆氏の言葉が紹介されている。

  • 八木正自「Bibliotheca Japonica CCLXXXVI 『蘭科内外三法方典』と橋本宗吉について」p.38

大阪蘭学の祖と呼ばれる橋本宗吉(1763-1836)とその著作の紹介。

橋本宗吉については、関西・大阪21世紀協会「なにわ大坂をつくった100人」でも紹介されているので、そちらも併せて。

  • 青木正美「古本屋控え帳424 鹿島茂氏と私」p.39

出会いそうで出会わない、著者と、書評の書き手の話。「もはやお会いする機会はないであろう」という言葉が、良い意味で裏切れらることを祈るばかり。

  • 「書物の周囲 特殊文献の紹介」

紹介されていた、次の資料が気になった。

小澤健志 編『江戸時代輸入蘭医書要覧』青史出版, 2020. https://id.ndl.go.jp/bib/030796315

富山県「立山博物館」編『かがやく天産物 : 時代を越える立山ブランドを求めて… : 富山県「立山博物館」令和元年度後期特別企画展』富山県「立山博物館」, 2019. https://id.ndl.go.jp/bib/030063083 ※前田利保など越中の本草・物産学について大きく取り上げている模様。

  • 「談話室」

いわゆる編集後記。古通で何度か拝読していた、川和孝氏の訃報をここで知った。日本の秀作一幕劇百本の上演をライフワークにされていて、2020年4月14日~19日に予定されていながら、上演中止になったシアターΧ『鰤』『貧乏神物語』で百本達成予定だったとのこと。新型コロナで失われたものの大きさを思う。

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