2023/06/24

岡田弘子(和田収子)の『古京の芝草』について

先日立ち寄った古書店で入手した、

岡田弘子 著『古京の芝草』,立命館出版部,昭和16. https://id.ndl.go.jp/bib/000000683906

についてのメモ。

「日本の古本屋」を見る限り、本来は函付きのようだが、入手したものには函はなし。だからなのか、お手ごろな価格だった。

サイズとしてはB6判になるかと。ハードカバーで本文用紙の紙質は軽い。ところどころにモノクロだが精細な仏像の図版が複数挿入されている。

このB6判ハードカバーで、しかも軽い紙質を使う、という形式は、戦前・戦中期は、随筆的な作品にしばしば採用されていたようで、古書店の店頭や、古本まつり的なところで見かけると、とりあえず、手に取ってみるようにしている。今となってはあまり名を知られていない書き手が多いが、書き手の個性がうかがえる味わい深い内容であることが少なくない上に、装丁に力を入れた本も多い。特に戦時期に出されたものは、デジタル化されていたとしても、限られた条件下で造本にこだわる送り手の気概が感じられて、何となく好きだったりする。

さて、今回入手したのタイトル『古京の芝草』の「古京」というのは奈良のこと。奈良の名跡を巡り、仏像を拝観し、二月堂のお水取りや春日おん祭を見学した感想を綴りつつ、時に様々な背景として蘊蓄を披露する、という趣向。26枚の仏像図版は紙質が異なる別刷。刊行は昭和16年(1941)。序文に5月とあるので、対米開戦直前の時期、ということになる。奈良博物館で一節あったり、岩船寺や浄瑠璃寺も回っているのもまた良かったり。

ただ、出版時近辺の奈良訪問記、というわけではないようで、序文によると

「奈良京の廃都を嘆いた田辺福麿の『立ち易(かえ)り古きみやことなりぬれば道の芝草長く生ひにけり』といふ、その年毎に芽ぐむ古京の道辺の雑草に過ぎないもので、大正四年頃からの、其の折々のノートの断片を書き綴つたものである」

とのこと。かなり時期としては幅があるらしい。

印象的な箇所はいくつもあるのだけど、『鮮血遺書』で知られるフランス人宣教師ヴィリオンとばったり出会った時の様子を引いてみよう。特徴的なふりがなは( )で補記し、漢字は新字体に改めた。

 公演に沿つた下水の溝のはしを、私は下うつむいて歩いてきた。と、急に目(ま)のさきがぱつと明るくなつたやうな気がした。おや?と思つて見上げた瞳に、真赤な塊が飛びこんだ。火のやうに真赤な薔薇のかげから、皺に埋つた白皙の顔がにこやかに覗いてゐる。黒い長い法衣(スータン)を着た見知りごしのビリヨン老師だ。

 私の背後から一台の自働車が疾走してきた。老師はきつと立ち止まつて、右腕に抱へてゐたその薔薇の鉢をあわててゝ左腕に移して、その空いた右手をすくつと、若者のやうに元気よくさしあげた。空車はそれには一瞥も与へずに、疾走して行つてしまつた。

 老師は左腕に移した鉢を、またもとのやうに右腕に移し、それからいかにも重さうにもう一度持ちあげて抱へなほしてから歩み出した。私は老師の前を通りすぎて、五六歩行きすぎた。が、急に思ひ出したやうに踵をかへして、老師を追った。

と、こんな感じ。真赤の薔薇が視野に入る瞬間の鮮やかな印象と、タクシーを捕まえようとして失敗する、著名な老宣教師の姿を見てしまい、一度は行き過ぎようとしてしまって、でも、やはり立ち戻る、微妙な心の動きが書き込まれている。この部分は状況描写が少ないが、繊細な状況描写もまた良かったりするので、デジタルでもよいので、まずは中身を眺めてみてほしい。

なお、家に帰ってから確認すると、本書については、次の論考で紹介がされていた。

井上重信「 昭和十六年夏の立命館出版部(二) : 石原莞爾『国防論』発禁余話、松本清張の心に残りし岡田弘子『古京の芝草』」立命館百年史紀要. 10. p. 249 - 266.[2002-03] http://doi.org/10.34382/00015776

この井上氏の論考によると、松本清張の『清張日記』、昭和56年5月5日の項に、戦前この『古京の芝草』を読んで印象に残ったことが記載されているとのこと。実は、『古京の芝草』刊行当時、立命館出版部にいた井上氏が、最初に校正を担当した一冊だったとのことで、上記論考で当時が回想されている。それによると、図版はコロタイプ印刷で、井上氏は京都便利堂での印刷ではないかと推測している。しかも、「この『古京の芝草』は昭和十六年九月初版発行と同時に売行好評で二ヶ月たたないうちに売切れとなり十一月に再販した」とあり、どの程度の部数刷られたのかは判然としないが、売行き好調だったようだ(その好調ぶりのおかげて、金一封が出て奈良の料亭で天ぷらを食べたエピソードなども興味深い)。

さて、井上氏は、著者の岡田弘子についても検討を加えているのだが、その実像ははっきりしない。

とりあえず、自分でも調べてみたことを含めて,少しメモとして残しておきたい。

まずは、Web NDL Authoritiesを見ると、

岡田, 弘子, 1893-1983 https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00328624

とあり、1983年に亡くなられたことが分かる。生没年の典拠は「人物レファレンス事典 郷土人物編」とのこと。まだ確認してないが、それを見るともう少し何か分かるかも。なお、同名で北海道の図書館で石川啄木の顕彰などで活躍された方がおられるが、まったくの別人である。

『古京の芝草』の岡田弘子がかかれた別の著作としては、

岡田弘子 著『やせ猫 : 歌集』(地上叢書 ; 第10篇),立命館出版部,昭13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1256425

という短歌集があり、こちらは序文が窪田空穂と対馬完治、装幀が石井鶴三という豪華版。窪田空穂の序文では、岡田弘子が窪田空穂に師事して短歌に取り組んでいたこと、その前はフランス文学に専心していたこと、北信濃に生まれ女学校まではそこで過ごしたことが分かる。また、対馬完治の序文では、窪田空穂の紹介で地上社に入ったことが判明する。

さらに、同書の「父の旧友」という節には(p.100)「新渡戸博士を父と共に見舞ふ」という記述があったり、「噫、新渡戸博士」という節(p.168)には「昭和八年十一月十六日、米国にて客死されし新渡戸博士の御遺骨、秩父丸にて着きますを父と横浜埠頭に迎へまつる」という記述もあり、父親が新渡戸稲造と浅からぬ縁があったことがうかがえる。

また、

歌壇新報社 編『現代代表女流年刊歌集』第3輯,歌壇新報社,昭12. https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1228569/1/139

では、「岡田弘子(和田収子)」と紹介されており、どうやら岡田弘子はペンネーム、というか号で、本名は和田収子というらしい。窪田空穂氏に師事したのは昭和2年からで、昭和4年第二期地上に入社したこと、家族は「父、妹二人」、東京都在住であることが判明。

さらに、和田収子の方で探ってみると、『信濃教育』の石井鶴三追悼特集に、

和田収子「先生の思い出」『信濃教育』(1044). p.32-33. [1973-11] https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/6070609/1/19

という回想を寄せている。この回想、なんと先に触れた歌集『やせ猫』を巡るエピソードが含まれており、

  • 昭和13年の『やせ猫』刊行の10年ほど前に、アナトール・フランスの『やせ猫』と『ヂオカスト』を翻訳し、装幀として石井鶴三が木版を彫った。
  • 翻訳は「種々の事情」で出版に至らず、その装丁をそのまま歌集の装丁に使おうとして、題名を『やせ猫』とした。

ことなどが紹介されている(石井鶴三のわがままぶりがなかなかなのだが、そこは実際に読んでみてほしい)。

というわけで、まとめると、

岡田弘子(和田収子)。1893生〜1983没。 北信濃出身。女学校までは北信濃で過ごす。 父親は、新渡戸稲造と交流があり(記述ぶりによると、新渡戸より年上の模様)。 回想によれば、石井鶴三とも私的交流あり。 一時(大正期?)フランス文学に専心し、アナトール・フランスの翻訳などにも取り組んだが、刊行には至らず。 その後、短歌に転身し、昭和2年から窪田空穂に師事。昭和4年に第二期地上社に参加。

という感じになるだろうか。

『古京の芝草』の記述を読む限り、本人はクリスチャンではないとしているが、立命館出版部から本が出ていること、父親が新渡戸と交流があったこと、フランス文学への取り組みなど、クリスチャン人脈との関係もあるかもしれない。

なお、私家版と思われるが、刊行時期と出版者が「和田」姓であることから考えて、次の本はおそらく、同じ著者によるものだろう。

岡田弘子『遺稿集』和田富裕, 1984.7 https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB0237580X?l=ja

いつか、この『遺稿集』を読むことができたら,もう少し、どんな人だったのか、分かるかもしれない。

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2023/02/23

安東量子『スティーブ&ボニー:砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』晶文社, 2022.

『スティーブ&ボニー』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

また更新に間が空いてしまった。

安東量子『スティーブ&ボニー:砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』晶文社,2022.を読了。

ざっくりまとめると、ひょんなことから著者が参加し、登壇することになった、2018年の米国での原子力関係の会議をめぐる、渡米から日本に帰国するまでの体験に基づくエッセイ、ということになるのだと思う。

けれども、そこで描かれているものは、とても多面的で、複雑で、だからこそ人間的で、なんとも要約しがたいもので、著者があとがきで「考えた以上に長くなってしまいました」と書かれていることに納得しかない。例えば、米国における原子力産業あるいは関連する研究分野にかかわる人たちのことや、米国に長く暮らす日系人が語る歴史、あるいは、著者自身が関わってきた福島ダイアログを通じて出会った人々、また、会場となったワシントン州のハンフォード(マンハッタン計画の拠点の一つとして整備され、プルトニウム生成のための原子炉が設置された場所)を、自らの生きる土地として選んだ人々の姿、著者の生まれた広島のことなどなど、様々な要素が絡み合いつつ描き出されている。特に、会議開催中の滞在先のホストファミリーの夫婦(と、家族や友人たち)は印象的で、そのお二人の名前がタイトルになっていることにも、これまた納得しかない。

誰にお勧めするか、というのは難しいが、一例を挙げれば、科学史や、STSに関心のある向きは、読むと様々な示唆が得られると思う(例えば、科学史の語られ方自体にもナショナルな要素が入り込む、といった視点や、専門家がどのようにして信頼を失いがちなのか、という論点などが、体験を通じて実感を持って語られていたりする)。原子力問題についても単に批判・賛美に固定化するのではなく、そこに関わる人の視点から物事を捉え直すような視点が提示されていて、頭の中がぐるぐるかき混ぜられる感じもある。

といっても、あくまでエッセイ的な書き振りで、「ひとつの物語」と著者自身があとがきで書かれているとおり、語り口は平易。登場する人物たちもそれぞれ個性的、そして料理についての描写がいちいち、すごくおいしそうだったり、激烈にまずそうだったりするのがなんとも読んでて楽しい。

奇跡のような出会いや交流に、思わず泣けてくる場面もある。マンハッタン計画も、広島も長崎も、米国における日系人差別も、東日本大震災と東電福島第一原発事故も、今もそことつながったところで、自分たちが生きている、ということを、静かに教えてくれる一冊だと思う。

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2022/08/15

『日本古書通信』2022年5月号・6月号

『日本古書通信』の積ん読がたまってきたので、とりあえず、2022年5月号(1114号)と6月号(1115号)の気になった記事についてメモ。

まずは『日本古書通信』2022年5月号から。

岩切信一郎「石版画家・茂木習古と三宅克己」(p.2-4)は、明治・大正期に活躍した石版画の画工「習古」の謎を辿りつつ、石版カラー表紙を実現した出版における明治20年代の技術革新などにも言及。洋画家・三宅克己の調査の過程で「習古」に三宅が師事したという回想を手がかりに現在までに判明した事実を紹介している。しかしまだまだ謎は深まるばかり、という様子。なお、三宅克己については、次を参照するのが良いかと。「三宅克己 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8905.html

川本隆史「書痴六遷の教訓-仙台からのたより」(p.10-11)は、『風の便り』第7号(1997年6月)からの再録とのこと。著者の引っ越し遍歴を、段階的に増殖していく蔵書の様子と併せて回顧しつつ、書物がつなぐ縁(新明正道氏からの手紙が紹介されている)について語るエッセイ。文系の学者の増え続ける蔵書のありさまが、引っ越しの玄人ともに身に迫ってくる。その後の引っ越しについての補記もあり。

川口敦子「キリシタン資料を訪ねて② ポルトガル国立図書館2」(p.16-17)は、2007年のポルトガル国立図書館での調査の様子を紹介。一部の目録ではポルトガル国立図書館にあるとされていた『ぎやどぺかどる』がやはりなかった、という話が、目録情報の確実性という意味で考えさせられる。イラストで紹介されている、図書館内のレストランのランチがおいしそう。また、当時ポルトガルの書店で購入したルイス・フロイス『日本史』のCD-ROM版がWindows10では起動できなくなっている、という話もあって切ない。

青木正美「古本屋控え帳431 『世界はどうなる』」(p.35)は、『世界はどうなる』精文館,1932の紹介(なお、インターネット公開されている国立国会図書館所蔵本は一部欠落がある模様。)。第二次世界大戦の展開を予想しつつ「日米戦争に対しては、我が国は攻勢に出づるに最も有利な立場」と対米戦を煽っていて、なるほど、こういう書物によって、対米戦争に対する気分が積み重ねられていったんだろうな、という感じ。

八木正自「Bibliotheca Japonica CCXCIII 達摩屋五一遺稿集『瓦の響 しのふくさ』」(p.39)では、書物の価値が嵩で計られていた時代に、書物の価値を評価した古書肆の鼻祖、岩本五一(1817-1868)の生涯と、その遺稿集を紹介。五一の堂号、珍書屋待賈堂が、反町茂雄の古書販売目録、「待賈古書目」(JapanKnowledgeで提供されている電子版の解説参照。)の由来となったとのこと。

なお「受贈書目」(p.40-41)で、浅岡邦夫「禁書リストを筆写した図書館員」(『中京大学図書館紀要』42号抜き刷り)について紹介されている。同論文は中京大学の機関リポジトリで公開されており、東京帝国大学附属図書館に勤めていた佐藤邦一が書き写した禁書リストを軸にその生涯を辿るもの。

続いて、『日本古書通信』2022年6月号についてのメモ。

真田真治「小村雪岱の装幀原画① 内田誠『水中亭雑記』」(p.2-4)は、著者が入手した、小村雪岱の「装幀原画他装幀資料」と、その入手の経緯を語る連載の一回目。レア資料を巡る古書店主とコレクターの複雑な関係も読みどころかと。

樽見博「百年後の大樹」(p.6)は、長塚節(コトバンクの解説)が茨城県下妻市の古刹、光明寺で撮影したという写真の背景に写った大樹について、現地での状況を踏まえて考察した囲みコラム。確かに、現代の写真と比較すると、通説が正しいのかどうか、ちょっと疑問になってくる。

竹原千春「古本的往復書簡2 細川洋希さまへ 志賀直哉の初版本」(p.8-9)では、著者の入手した志賀直哉献呈本を題材に、細川護立(永青文庫の創設者)と志賀直哉の交流について紹介されている。小学校から大学までずっと一緒だったとはびっくり。

森登「銅・石版画万華鏡177 松本龍山『袖玉京都細絵図』」(p.15)は、著者の入手した、慶応4年の銅版京都図を紹介。袋付きで入手したとのことで、その図版も掲載されている。貴重かと。

「札幌・一古書店主の歩み 弘南堂店主高木庄治氏聞き書き(11)独立開店(札幌医大前)」(p.32-34)は、毎回貴重な証言の連続だが、今回は、末尾の詐欺事件の顛末が苦い。一方、『蝦夷地及唐太真景図巻』落札と、昭和37年ごろに、名取武光氏の研究費で北海道大学に入れることになった顛末の話が興味深い(その後一旦行方不明になったとのこと。なお現在は北海道大学北方資料データベースで所在を確認できる。)。こういう購入の仕方が許される時代だったんだなあ。

川口敦子「キリシタン資料を訪ねて③ アジュダ図書館(リスボン)」(p.36-37)は、ボルトガルの首都、リスボンの宮殿内にある図書館、アジュダ図書館の紹介とそこでの調査について。宮殿という古い建物だからこそのトイレのドアの罠?のエピソードがなんとも言えない。また、最初の訪問時(2007年)にはウェブサイトもなかった、というのがちょっと驚き。

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2022/07/18

『学士会会報』no.955(2022-IV)

學士會会報』no.955(2022-IV)を斜め読みしたら面白かったので印象に残った記事をメモ。

宇山智彦「ロシアは何をめぐってウクライナ・米欧と対立しているのか」(p.16-20)は、ロシアの主張を分析して、ウクライナ侵攻の理由としてよく言われるNATO拡大という主張を「額面通りに受け取ることはできない」とした上で、特に米国との関係の中で、ロシアが国際社会における特別な権利がある、という主張や米国中心の国際秩序のゆらぎ、ウクライナとの一方的な一体性認識などを背景として分析している。バランス感覚も含めて、短く読める論説としてお勧めかと。

中山洋平「二〇二二年大統領選挙後のフランス政治――「ポピュリズム」から分極化へ?」(p.21-27)は、先日のフランス大統領選挙を分析し、かつては極右のものだった、移民排斥という主張を、幅広い勢力が取り込むことが容認されるようになっているなど、「EU統合推進、市場自由化、共和制原則に基づく意味統合」という統治エリートのコンセンサスが突き崩されてきている状況を論じている。興味深いのは、イタリアの政治学者サルトーリの描いた「分極的多党制」と同様の力学が働いているという話。「分極的多党制」というのは、

「左右両極に無視できない反体制政党を抱えている上に、中央の位置が独立の勢力によって占められていると、左右の穏健な政党は両極に吸い寄せられていく。こうした「遠心的競合」によって左右両翼への「分極化」が進めば、最終的には民主制の存続が危ぶまれる段階に至る。」

という話で、フランスでは、左右の両極が、EU統合に反対、市場自由主義路線を批難するという状況で、中道の独立政党であるマクロン党がこれまでのコンセンサスを維持する、という構図になっているとのこと。日本との比較という意味でも興味深い。

大塚美保「没後百年目の森鷗外」(p.42-46)は、今年没後百年となる森鴎外の最新の研究動向を紹介する一本。フェミニズムの理解者・支援者としての鴎外、文化の翻訳者としての鴎外、鴎外による国家批判と体制変革を通じた国家維持構想など、鴎外の持つ多面性を積極的に評価する近年の研究動向をコンパクトに紹介していて、最近はこんな議論になっているのか、と勉強になった。

北村陽子「戦争障害者からみる社会福祉の源流」(p.47-51)は、第一次大戦後のドイツで発展した、「戦争によって傷ついた人(Kriegsbeschädigter)」への支援策が、リハビリや障害者スポーツの発展、義手・義肢の技術革新、盲導犬の導入(軍用犬の戦後の活躍の場として発展したとのこと)など、現代につながる様々な障害者支援の仕組みにつながっていることが紹介されていて、まったく知らないことだらけで驚いた。

山田慎也「民俗を尋ねて《第VI期》第4回 変わりゆく葬送儀礼」(p.85-90)は、新潟県佐渡島北西部の、自宅を中心的な場として行われていた葬送儀礼を紹介するとともに、2000年代以降、公民館、そして2014年に改行した葬儀場を利用する形で変化するとともに、地域共同体から個人化の方向に向かっていった過程を紹介している。

なお、表紙の図版は東京大学総合研究博物館所蔵三宅一族旧蔵コレクションから、貴族院議員だった三宅秀(1848-1938)が貴族院議員有志から送られた、服部時計店製「帝国議会議事堂模型」。表紙裏の解説(西野嘉章「かたちの力(連載79)」)と併せて、現在の国会議事堂が完成した直後の議事堂が持っていた象徴性も含めて、興味深い。

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2022/07/10

水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)

『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

断続的に読んでいた、水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)をようやく読了。良い本でした。元版は『知の商人 近代ヨーロッパ思想史の周辺』筑摩書房,1985.で、「あとがき」によると、筑摩書房の第二版『経済学全集』の月報での連載をまとめたものとのこと。学術文庫版のあとがきによれば、元版で月報連載から落としたものも今回収録しようと探したが見つけられずに収録を断念、という話が書いてあるのだけど、編集者はそういうの探してくれないんだ……ということにちょっとがっかりしたり。

思想関連の書物と著者、そして出版社・書店の経営者・編集者たちとの様々な関わりや、書物を集めたコレクターたちの活躍を描き出す、学術的エッセイ、という趣で、一つ一つの節が独立した読み物として読めるようになっている。注記は部分的に付けられてはいるものの、探求のヒント的な扱いのような感じ。あとがきで

「全体にわたって参考文献を主とした注をつけたが、参考文献には、特定の問題についてだけ利用したものと、全般的に利用したものがあり、その区別は注ではかならずしも明らかになっていない。また、一次資料にさかのぼって確認した記述と、そうでないものとの区別も、同様である。」

と敢えて書かれているゆえんでもある。

内容は多岐に亙るので、紹介しきれないが、例えば、最初に置かれている「エルセフィエル書店」というのは、今風にいえば「エルゼビア」。近代初期の元祖エルセフィエルが手を広げ、その後消えていった過程と「商品としての思想」を広めたその功罪を、歴史的背景も含めて紹介している。

とはいえ、こうした比較的よく知られた名前が出てくる話は一部に過ぎず、もちろん、それぞれの専門分野では知られているのだろうけれど、浅学の自分には知らないことだらけだった。

例えば、「ハーリーとソマーズ」では、著者所蔵の『ハーリアン・ミセラニー』("The Harleian miscellany"。記述内容からすると1808-1813刊行の10巻本の様子。)を取り上げているが、そもそもこれってなんだろう、と思ったら、「オクスフォード伯ロバート・ハーリー(一六六一─一七二四年)、エドワード・ハーリー(一六八九─一七四一年)が、二代にわたって集めた四〇万冊ちかいパンフレットの一部分の復刻」とのこと。説明を読んでもよく分からなかったが、読み進めるうちに、ハーリー二代のコレクションの形成と散佚の過程が、コレクターの動向の変化とともに語られていて、読まされてしまう。

「アメリカ革命の導火線」では、アメリカ独立のうねりを生んだ源流の一つに、「神学の本拠であるハーヴァード・カレジに対して、大西洋を越えて二〇年にわたって送りつづけられた、五〇〇〇冊をこえる急進主義文献」があることを指摘し、その送り手であるトマス・ホリス(Thomas Hollis)について、紹介している。ちなみに、ハーバード大学図書館の検索システムの名称がHOLLISなのは、トマス・ホリスにちなんでいるのだろうか。と思ってFAQをみたら、ちなんでいるのだけど、生没年が本書で紹介されているホリスと違うので、同姓同名の別人(あるいは代違い)かもしれない(本書では1720-1774、HOLLISのFAQでは1659-1731)。

……と、ここまで書くだけで1時間近くかかってしまった。とにかく詰め込まれている情報量が多いので、これなんだろう、と、ちょっと確認しているだけで、えらいことになる。まあ、ちょっと確認できるような世の中になったというだけで、ありがたいのだけれど、裏返せば、さらに掘っていくためのネタの宝庫のような本でもある、ということでもある。

また、出版史ばかりではなく、経済と国際政治との関係を特定の商品(ワイン、ジン、紅茶)と絡めて論じる話もあったりして、話題の幅広さ尋常ではない。その中で、特に今、読み直してほしい話を、もう少しだけ紹介しておきたい。

一つ目は、「マクス・ヴェーバーをめぐる女性」という節。ここでは、ヴェバー(日本語だとマックス・ウェーバー表記が多いか)の妻であった、マリアンネ・ヴェーバー(コトバンクの解説参照)の『フィヒテの社会主義とそのマルクス学説への関係』(1900年)という著書から話がはじまる。この著書の中に、マクスの影響について言及する文言が登場することを取り上げつつ、そもそも大学のゼミに女性が参加する嚆矢であったマリアンネ(ただし聴講生として。次の世代の女性たちがようやく正式に大学に入学を許可される。)の置かれた状況を解説し、女性解放の闘士であったマリアンネと、マクスとの関係の複雑性を描き出している。特に、マリアンネの性に関する議論の歯切れの悪さを分析した、

「マリアンネは、女性の解放が性の解放に直面せざるをえないこと、「エロティークだけが両性の結合の価値を最終的にきめるものではない」にしても、エロティークを無視しえないことを知っていたし、しかも、性の解放が、男性支配のもとでは、女性の地位の低下を意味することも知っていたのである。」

という一節に表現された構造は、20世紀初頭の状況を1980年代に描写したものであるにも関わらず、現在でも玩味に値するのではないだろか。例えば、性表現の開放においても、類似の構造があるのではないか、という問いは、現在でも十分に成り立つように思う。

ちなみにその後、ヴェーバー夫妻に影響を受けた、ハイデルベルク大学の最初の女子学生であったエルゼ・ヤッフェに、マクスが接近し、それをマリアンネも知っていた、みたいな話まで出てきて、なんだこのハーレム系展開は、みたいになってしまって、こうした構造の中で女性の権利について議論していた、マリアンネすごいな、となったりも。

なお、マリアンネ・ヴェーバーについては、昭和女子大学女性文化研究所紀要に、掛川典子氏による主要論文の翻訳が掲載されているようなので、そちらも併せて確認されると良いかもしれない。

もう一つ、イギリスのピアニスト、マイラ・ヘス(コトバンクの解説参照)による、第二次大戦中の戦時下のナショナル・ギャラリーでのコンサートについて紹介した、「空襲下のコンサート」は、別の意味で、今読まれるべき一篇かと。一旦は、戦時は演奏する時ではない、と考えてピアノから離れたヘスが、かつて自分の演奏を聴いたという亡命ユダヤ人一家からの要望を受けて、演奏会を開くための会場探しをした時、受け入れたのが作品を疎開させ、ほとんど空になったナショナル・ギャラリーだった。演奏会に殺到した人々が、そこで一時の安らぎを取り戻す様子や、シューマンの歌曲をドイツ語で歌うことをためらう歌手を勇気づける話など、戦争に対して、芸術が持つ意味ということについて、改めて問いかける内容になっている。

なお、マイラ・ヘスによるコンサートについては、ナショナル・ギャラリーのサイトでも詳しく紹介(The Myra Hess concerts)されているので、そちらも併せてぜひ。例えば、最初のコンサートの入場待ちの人々の写真なども紹介されていて、当時のロンドンの人々がコンサートを待ち望んでいた様子がよく分かる。

こうしたコンサートの経験を踏まえて、ヘスが「われわれは、おそらく史上かつてなかったほどしっかりと、人類の進歩の真の本質をつかんでいます」と語ったことを、著者は紹介している。その後に、

「その後四〇年のあいだに、人類の進歩ということばは、すくなからず色あせてしまったが、ヘスがこう語ったときの日本には、このことばも音楽も存在の余地がなかったのである。」

と続けて書いていることの重みが、著者がこう書いてからさらに40年近くがたった今、さらに増しているのでは。

というわけで、全部通して読まなくても、拾い読みでもじっくり楽しめる一冊かと。こうした、研究者による専門分野のエッセイは、論文と違って業績としては、軽く見られがちだし、最初に書いたように、注記も十分には付されてはいないのだけれど、様々な検索ツールが整備された今だからこそ、興味関心を広げるための入り口として、とても有効だと思う。

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水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)

『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

断続的に読んでいた、水田洋『「知の商人」たちのヨーロッパ近代史』講談社,2021.(講談社学術文庫)をようやく読了。良い本でした。元版は『知の商人 近代ヨーロッパ思想史の周辺』筑摩書房,1985.で、「あとがき」によると、筑摩書房の第二版『経済学全集』の月報での連載をまとめたものとのこと。学術文庫版のあとがきによれば、元版で月報連載から落としたものも今回収録しようと探したが見つけられずに収録を断念、という話が書いてあるのだけど、編集者はそういうの探してくれないんだ……ということにちょっとがっかりしたり。

思想関連の書物と著者、そして出版社・書店の経営者・編集者たちとの様々な関わりや、書物を集めたコレクターたちの活躍を描き出す、学術的エッセイ、という趣で、一つ一つの節が独立した読み物として読めるようになっている。注記は部分的に付けられてはいるものの、探求のヒント的な扱いのような感じ。あとがきで

「全体にわたって参考文献を主とした注をつけたが、参考文献には、特定の問題についてだけ利用したものと、全般的に利用したものがあり、その区別は注ではかならずしも明らかになっていない。また、一次資料にさかのぼって確認した記述と、そうでないものとの区別も、同様である。」

と敢えて書かれているゆえんでもある。

内容は多岐に亙るので、紹介しきれないが、例えば、最初に置かれている「エルセフィエル書店」というのは、今風にいえば「エルゼビア」。近代初期の元祖エルセフィエルが手を広げ、その後消えていった過程と「商品としての思想」を広めたその功罪を、歴史的背景も含めて紹介している。

とはいえ、こうした比較的よく知られた名前が出てくる話は一部に過ぎず、もちろん、それぞれの専門分野では知られているのだろうけれど、浅学の自分には知らないことだらけだった。

例えば、「ハーリーとソマーズ」では、著者所蔵の『ハーリアン・ミセラニー』("The Harleian miscellany"。記述内容からすると1808-1813刊行の10巻本の様子。)を取り上げているが、そもそもこれってなんだろう、と思ったら、「オクスフォード伯ロバート・ハーリー(一六六一─一七二四年)、エドワード・ハーリー(一六八九─一七四一年)が、二代にわたって集めた四〇万冊ちかいパンフレットの一部分の復刻」とのこと。説明を読んでもよく分からなかったが、読み進めるうちに、ハーリー二代のコレクションの形成と散佚の過程が、コレクターの動向の変化とともに語られていて、読まされてしまう。

「アメリカ革命の導火線」では、アメリカ独立のうねりを生んだ源流の一つに、「神学の本拠であるハーヴァード・カレジに対して、大西洋を越えて二〇年にわたって送りつづけられた、五〇〇〇冊をこえる急進主義文献」があることを指摘し、その送り手であるトマス・ホリス(Thomas Hollis)について、紹介している。ちなみに、ハーバード大学図書館の検索システムの名称がHOLLISなのは、トマス・ホリスにちなんでいるのだろうか。と思ってFAQをみたら、ちなんでいるのだけど、生没年が本書で紹介されているホリスと違うので、同姓同名の別人(あるいは代違い)かもしれない(本書では1720-1774、HOLLISのFAQでは1659-1731)。

……と、ここまで書くだけで1時間近くかかってしまった。とにかく詰め込まれている情報量が多いので、これなんだろう、と、ちょっと確認しているだけで、えらいことになる。まあ、ちょっと確認できるような世の中になったというだけで、ありがたいのだけれど、裏返せば、さらに掘っていくためのネタの宝庫のような本でもある、ということでもある。

また、出版史ばかりではなく、経済と国際政治との関係を特定の商品(ワイン、ジン、紅茶)と絡めて論じる話もあったりして、話題の幅広さ尋常ではない。その中で、特に今、読み直してほしい話を、もう少しだけ紹介しておきたい。

一つ目は、「マクス・ヴェーバーをめぐる女性」という節。ここでは、ヴェバー(日本語だとマックス・ウェーバー表記が多いか)の妻であった、マリアンネ・ヴェーバー(コトバンクの解説参照)の『フィヒテの社会主義とそのマルクス学説への関係』(1900年)という著書から話がはじまる。この著書の中に、マクスの影響について言及する文言が登場することを取り上げつつ、そもそも大学のゼミに女性が参加する嚆矢であったマリアンネ(ただし聴講生として。次の世代の女性たちがようやく正式に大学に入学を許可される。)の置かれた状況を解説し、女性解放の闘士であったマリアンネと、マクスとの関係の複雑性を描き出している。特に、マリアンネの性に関する議論の歯切れの悪さを分析した、

「マリアンネは、女性の解放が性の解放に直面せざるをえないこと、「エロティークだけが両性の結合の価値を最終的にきめるものではない」にしても、エロティークを無視しえないことを知っていたし、しかも、性の解放が、男性支配のもとでは、女性の地位の低下を意味することも知っていたのである。」

という一節に表現された構造は、20世紀初頭の状況を1980年代に描写したものであるにも関わらず、現在でも玩味に値するのではないだろか。例えば、性表現の開放においても、類似の構造があるのではないか、という問いは、現在でも十分に成り立つように思う。

ちなみにその後、ヴェーバー夫妻に影響を受けた、ハイデルベルク大学の最初の女子学生であったエルゼ・ヤッフェに、マクスが接近し、それをマリアンネも知っていた、みたいな話まで出てきて、なんだこのハーレム系展開は、みたいになってしまって、こうした構造の中で女性の権利について議論していた、マリアンネすごいな、となったりも。

なお、マリアンネ・ヴェーバーについては、昭和女子大学女性文化研究所紀要に、掛川典子氏による主要論文の翻訳が掲載されているようなので、そちらも併せて確認されると良いかもしれない。

もう一つ、イギリスのピアニスト、マイラ・ヘス(コトバンクの解説参照)による、第二次大戦中の戦時下のナショナル・ギャラリーでのコンサートについて紹介した、「空襲下のコンサート」は、別の意味で、今読まれるべき一篇かと。一旦は、戦時は演奏する時ではない、と考えてピアノから離れたヘスが、かつて自分の演奏を聴いたという亡命ユダヤ人一家からの要望を受けて、演奏会を開くための会場探しをした時、受け入れたのが作品を疎開させ、ほとんど空になったナショナル・ギャラリーだった。演奏会に殺到した人々が、そこで一時の安らぎを取り戻す様子や、シューマンの歌曲をドイツ語で歌うことをためらう歌手を勇気づける話など、戦争に対して、芸術が持つ意味ということについて、改めて問いかける内容になっている。

なお、マイラ・ヘスによるコンサートについては、ナショナル・ギャラリーのサイトでも詳しく紹介(The Myra Hess concerts)されているので、そちらも併せてぜひ。例えば、最初のコンサートの入場待ちの人々の写真なども紹介されていて、当時のロンドンの人々がコンサートを待ち望んでいた様子がよく分かる。

こうしたコンサートの経験を踏まえて、ヘスが「われわれは、おそらく史上かつてなかったほどしっかりと、人類の進歩の真の本質をつかんでいます」と語ったことを、著者は紹介している。その後に、

「その後四〇年のあいだに、人類の進歩ということばは、すくなからず色あせてしまったが、ヘスがこう語ったときの日本には、このことばも音楽も存在の余地がなかったのである。」

と続けて書いていることの重みが、著者がこう書いてからさらに40年近くがたった今、さらに増しているのでは。

というわけで、全部通して読まなくても、拾い読みでもじっくり楽しめる一冊かと。こうした、研究者による専門分野のエッセイは、論文と違って業績としては、軽く見られがちだし、最初に書いたように、注記も十分には付されてはいないのだけれど、様々な検索ツールが整備された今だからこそ、興味関心を広げるための入り口として、とても有効だと思う。

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2022/04/24

『日本古書通信』2022年4月号

『日本古書通信』2022年4月号(87巻4号)をぱらぱらと読んだ。どうも集中力が続かないので、簡単に。

田坂憲二「吉井勇の自筆歌集(上)吉井勇と臼井書房」(p.2-4)には驚いた。影印本ではなく、作者自選による歌集を作者の自筆で複数部作成し、頒布する、ということが昭和21年ごろに行われていた、とはまったく知らなかった。広告によれば200部刊行予定だったそうで、それを丹念に書いた吉井勇、すごい。なお、収録歌の選定過程を示す資料が、京都府立京都学・歴彩館の吉井勇資料中に残されている、というのも興味深い。

飯澤文夫「続PR誌探索(37)」(p.4-5)は三省堂の書店部門、出版部門それぞれの戦前のPR誌を紹介。戦時下の出版統制で消えた『書斎』など。

新連載、川口敦子「キリシタン資料を訪ねて(1)ポルトガル国立図書館」(p.16-17)は、形こそ新連載だが、実際には、著者の「パスポートと入館証、準備よし!」の続編かと。引き続き、各国それぞれの貴重書の扱いが分かって面白い。毎度のことながら、マイクロ資料や、昨今のデジタル化されたものを見るだけではなく、現地でカード目録を確認し、原物を請求することによる発見がある、というのが興味深いが、図書館屋的には頭が痛い。

三坂剛「福永武彦自筆識語・署名本収集について3」(p.30-31)は、紙の原物ならではのコレクションの魅力を示す切り口では。また、各版と福永武彦電子全集におけるテキストとの関係についても言及があるのがポイントかと。

森登「銅・石版画万華鏡 175 福島中佐単騎横断」(p.35)では江戸から明治の日露関係を概観しつつ、明治25年から26年にかけて、ドイツからシベリアまで、馬で横断して実地調査を行い、帰国した福島安正を描いた版画を紹介。

これも新連載の小林信行「平田禿木をめぐる人々 尾崎紅葉1」(p.38-39)は、淡々と尾崎紅葉の生い立ちから、作家に専念、活躍を広げていく過程をたどりつつ、そこに並走していく平田禿木に言及していく、というスタイルで、近代文学音痴の自分としては、ああ、そういうことだったのか、という感じの話も多くて勉強になった。こういうのを何の気なしに読んでしまって、何となく勉強になってしまうのが、雑誌の良いところでもあるが、自分の知識が貧弱なだけという話もあるか。

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2022/02/13

芝健介『ヒトラー:虚像の独裁者』岩波書店,2021.(岩波新書)

『ヒトラー』表紙

(表紙画像はopenBDから。)

芝健介『ヒトラー:虚像の独裁者』岩波書店,2021.(岩波新書)を読了。

「ヒトラー」というキーワードが世間でやけに話題になっていたので、積ん読から取り出して読んだ。「ヒトラー」について、どのような言及をするにしても、その前にこれは読んでおいた方がよい、という一冊だと思う。

単なる伝記ではなく、それぞれの時代の社会、政治、国際関係を踏まえつつ、どのようにヒトラーが政治的に台頭し、政権を奪取し、他の政治勢力を圧倒するに至り、そして、最終的に敗北していったのか、最新の研究動向を踏まえた上で、短い記述の中に様々な関連する情報が整理されていて、分かりやすい。これ一冊読んでおくと、大抵の雑なヒトラー関連言説を、ニワカ扱いできそうな気がしてくる(いや、もちろん、そんな簡単な話では実際にはないと思うけど)。

ただ、特に前半、ヒトラーが政権を奪取するまでの過程は、なんとも読むのがつらかった。嘘とでたらめ、そして、現実離れしたロジックで「敵」を名指しすることで、第一次大戦における屈辱的な敗北と経済的苦境に陥ったドイツの人々を引きつけ、期待を集めていく過程は、その類似版、ミニチュア版を今も(いや、今こそか)あちこちで見ることができる気がして、読みながら憂鬱な気分になってしまった。失った「誇り」を取り戻せ、本来あるべきだった「未来」を取り戻せ、そのためには、その「誇り」と「未来」を簒奪する「奴ら」を排除し、「奴ら」から全てを奪え、というプロパガンダが、経済的に困窮し、自分たちを救わなかった政党政治に絶望した人々をどれほど引きつけたのかは、今、この状況下で読むと、ああ、こりゃ人気でるよなー、と想像できる感じでもあったり。

ちなみに、プロパガンダといえば、『我が闘争』から本書に引用されている部分には驚いた。「真実を追い求めることも相手に好都合にはたらくだけの場合が多く、大衆に向けては非現実であれ何であれ、教義・主義一点ばりの主張を通して絶えず自分が有利になるようにしなければならない」というテーゼや、「事実がどうであったか、は問題でなく、本当の経過がそうでなくても問題はない」と本人が書いているとのこと。そう書いてあっても、多くの人が、進んでそれに乗っかっていった、というのがまた気持ちが暗くなる。

さらにつらかったのが、決定的なタイミングで、司法が十分に機能しなかった(ヒトラーに同情的な人物が司法の要所要所にいたということでもあり)ことが、ヒトラーの政治生命を延命させ、政治的躍進を許してしまった、という部分で、本来罪を問われるべき人物が、政治的理由で罪が問われない(あるいは不当に軽い罪にしか問われない)状況が生じた時点で、その国の命運は割と尽きてしまっているんだなあ、ということを突きつけられて、これまた憂鬱な気分になったりしたのだった。

ちなみに、ヒトラーが政権を獲得してから、ナチ党以外の政党が全て解体されるまで、半年しかかかっていない。国民の支持を取り付けつつ、様々な謀略や暴力を駆使して、もともとナチ党の政権獲得を支援した勢力まで含めて、権力の独占に邪魔な勢力全てが着実に狩られていく過程が冷静に記述されている。読んでいると、気分はもう絶望である。

後半、戦争に突入すると、当初ははったりで勝ち続けつつ、独ソ戦以降はとにかく人が死んでいく。いやその前から、ユダヤ人を対象にした暴動・暴力は繰り返し推奨されていたし、占領地域が増えるごとに、ユダヤ人を中心に劣悪な環境下に追いやられる人々がすさまじい勢いで増えていっている。ここにイギリスが支援するシオニズム(イスラエル建国運動)と、中東諸国との対立なども絡んで、複雑怪奇な情勢の中で事態がどんどん悪化していくのもまた、読んでいてつらいのだった。

戦争の仕方もすさまじく、例えば、1942年の記述として

「例えば、独軍はセルビアでパルチザン戦に手を焼いていたが、独軍兵士に死者が一人出れば人質にしたセルビアの住民一〇〇名を殺害、負傷者が一人出れば五〇名を殺害するというやり方で、ユダヤ人、共産主義者、民族主義者の順に、その家族ごと「片付け」ていった。」

という話がさらりと出てきて、がく然とする。とにかく、万単位、いや、10万人単位で人がどんどん死んでいく。そして著者はその過程を淡々と記述していく。

近年の研究に基づきつつ、ヒトラーを中心にしつつ、ヒトラーの意図や指示を「忖度」して、誰が、どの組織が最もヒトラーの意思を体現しているかを競い合う構造が、虐殺へと極端化していく施策や、自国の戦力の正確な状況把握を妨げて敗北の傷を深めていったのかについても論じられており、「忖度」を軸にしたシステムがいかに政府機構の判断能力を破壊していくかも見せつけられる。

そしてそれだけ、内外で人が死んでいっても、ヒトラーの人気は根強く、1943年に批判ビラをまいた学生たち(いわゆる「白バラ」)が裁判後当日処刑された際、密告した大学職員は他の学生たちに歓呼で迎えられたという。本当に救いがない。

また異なる観点での議論になるが、ドイツの歴史教育や、歴史に対する姿勢は、割と日本では高く評価されているが、そんな単純なものではない、ということも、本書の第6章「ヒトラー像の変遷をめぐって――生き続ける「ヒトラー」」を読むとよく分かる。興味深いのは、ドイツにおけるヒトラーやホロコースト認識の転換点には、ドラマや映画が影響を与えている、という指摘で、そもそも「ホロコースト」という用語自体、1979年にドイツで放映された米国製作テレビドラマ『ホロコースト』によって広まった、とは知らなかった。また『シンドラーのリスト』などの映画が話題になったことが、どれだけ虐殺が当時ドイツの人々に知られていたのかについての研究上の関心を呼び起こす、といったこともあったとのこと。歴史学は歴史ドラマなどのフィクションとは関係ない、といういった意見もたまにネット上では見かけるが、そんなに単純な話ではない、ということもよく分かる。

一度普及してしまった嘘とでたらめで塗り固められたプロパガンダは、それが国民の間に広く普及してしまったが故に、ぬぐい去るのが困難であることも、同時に語られている。フィクションが、プロパガンダに染まった視点を相対化する機会にもなりうる可能性も本書では示されているが、それは逆の効果も持ちうる、ということでもあるだろう。

だらだらと書いてきたが、こんなのは本書で示された論点の氷山の一角に過ぎない。この一冊にどれほど論点が詰め込まれているのか、たぶん、自分には読めてない部分も大量にあるだろう。読み手に応じて、色々な見え方ををする本でもあるかと。歴史について考える際のヒントという意味でも、読む価値がある一冊だと思う。

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2022/01/23

ウィリアム・モリス,エメリー・ウォーカー著・はやみずあゆみ訳『書物印刷概論』万象堂, 2021.

ウィリアム・モリス,エメリー・ウォーカー著・はやみずあゆみ訳『書物印刷概論』万象堂, 2021.を読了。といっても短いけど…

万象堂さんは、美術・音楽系の出版社で、最近、電子書籍のみで、ウィリアム・モリスの著作の翻訳を立て続けに出している。その中の一冊。ここでは、ウィリアム・モリス(William Morris)が、その書物印刷・タイポグラフィ面での協力者であり、書物コレクターでもあったエメリー・ウォーカー(Emery Walker)とともに、当時(19世紀後半)の書物の堕落ぶり難じつつ、活版印刷以降の西洋の書物史をたどりながら、美しい書物とはいかなるものかを論じている。

アメリカで出版された書物の低評価っぷりがすごかったり、インキュナブラだからといって何でも評価するわけではなく、結構、評価の高低があったりするのが興味深い。また、モリスたちの評価を絶対視するのは実は微妙で、特に書体に顕著だが、モリスたちの評価がめちゃ低い書体が、現在も結構人気があったりするのもまた面白い。

そうした現代の状況を注で丁寧に補っているのも本書の特徴で、単なる翻訳で終わらない編集ぶりがありがたい。参考として示されているのがネット情報ばかりではあるのだけど、例えば、日本語であれば国立国会図書館の電子展示会「インキュナブラ 西洋印刷術の黎明」だったり、その他、英語の情報源(例えば、A Dictionary of the Art of Printingなど)を色々組み合わせると、こうした解説が書ける環境ができてきている、ということでもあるかと。電子書籍による、古典的テキストの翻訳復刊の事例としても要注目では。

また、内容的にも、こうした書物印刷における議論の蓄積を電子書籍の時代にどう活かしていくのかという観点や、電子書籍ビューアにおける美しい「版面」とは何か、ということを考えるヒントになるかもしれない。読みながら、電子書籍ビューアで、フォントもそうだけど、レンダリングエンジンも(出版社側が指定したり、読者側が選んだりと)選択できるような未来が来ると面白いのに、などと思ったりしていた。

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2022/01/15

『日本古書通信』2021年12月号(86巻12号)・2022年1月号(87巻1号)

ためこんでしまっていた、『日本古書通信』2021年12月号(86巻12号)と、2022年1月号(87巻1号)の感想をまとめて。

まずは、2021年12月号から。

特に巻頭の、塩村耕「虫だらけの伊東玄朴書簡—コレラと闘う蘭医」(p.2-3)が重要かと。著者が入手した伊東玄朴から大槻俊斎宛の書簡を解読しつつ、その背景を含めて解き明かしていくもので、断片的に現れる情報と知られている史実を組み合わせつつ、時期や状況を推定していく。末尾では、デジタル化の重要性と効果について言及されていて、書簡資料のネット公開を推奨している。また、早稲田大学図書館や東京都立中央図書館の取り組みを評価しつつ「今や、先人のかつて経験することができなかった夢のような研究基盤」が実現しつつあり、「人文学の質を書き換えるほどの事態をもたらす可能性がある」と指摘し、「書簡文化研究の機運」の再来への期待も述べられている。原資料の面白さと、それを読み解くためのツールとしてのデジタル化資料の重要性の両面が語られていて、重要な記事かと。

田坂憲二「『短歌風土記山城の巻(一)』漫歩—城南吉井勇紀行」(p.4-6)は、歌人・劇作家の吉井勇が、戦後まもなく、京都府八幡市に住んでいた時代の短歌集『短歌風土記山城の巻(一)』をひも解きつつ、関連の文献も紹介しつつ、京阪電車八幡市周辺のゆかりの地をめぐる一本。当時の文化人たちとの交流も興味深いが、現地の和菓子が何ともおいしそう。

加藤詔士「明治16年度『工部大学校学課並諸規則』」(p.14-15)は、後に帝国大学工学部となる工部大学校の教職員、学課目の編成、諸規則をまとめ、ほぼ毎年刊行されたと見られる『工部大学校学課並諸規則』の英語版を含む現存諸本の概要を整理しつつ、著者が入手した明治16年度版について、他の諸本との異同などの分析が行われている。基本資料の紹介として重要だと思われるが、伝存がこれほど少ないとはちょっと驚き。

福田博「和書蒐集夢幻譚 117 左右にブレる出版人成史書院關根喜太郎」(p.20-21)は、宮澤賢治『春と修羅』を発行し、販路を提供した關根書店の代表、關根喜太郎が、後に立ち上げた出版社、成史書院で昭和14年に刊行した『紙 資源愛読本』を取り上げたもの。実は關根自身が執筆・刊行した奇妙な本で、特に一部が引用されている、紙を種類別に解説した文言中の詩のような部分が何ともいえない味わい。

小田光雄「古本屋散策(237) 山辺健太郎と『現代史資料』」(p.22)は、前号(感想)に続き、『現代史資料』について。今回は『社会主義運動』7冊、『台湾』2冊の編集解説者であった山辺健太郎について、「独学者ならではの図書館と文書館(アーカイブ)の徹底的利用」によるその仕事が紹介されている。特に、国立国会図書館の憲政資料室には開設直後の1950年当初から1968年にかけて、毎日のように通っていたことが紹介されている。「憲政資料室の牢名主」と自称していたとは。図書館・アーカイブズによる蓄積と、そこに蓄積された資料を活用した出版の一事例でもあり。

川口敦子「パスポートと入館証、準備よし!(36)」(p.24-25)は、2016年のマドリードのスペイン国立図書館とも近い公園で開催された、マドリード秋の古書市(Feria de Otoño del Libro Viejo y Antiguo de Madrid)の様子を紹介。こういう記事が読めるのも、古通ならでは。

森登「『浦上玉堂関係叢書』刊行について」(p.28-29)は、浦上家史編纂委員会が刊行した『浦上玉堂関係叢書』全3巻4冊編纂の裏話的一本。特に第3巻に当たる『浦上玉堂父子の藝術』における、琴譜からの全曲録音(CD付き)の話や、様々な呼称を網羅したという人名索引作成の苦労話が興味深い。

巻末の編集後記的コラム「談話室」(p.47)では、天理図書館開館91執念記念「書物の歴史」展や、深井人詩氏追悼文集に言及されている。

続いて2022年1月号について。なんと、一部ページの図版がカラーになり、紙質も変わった。

早速、川島幸希「外装の下 泉鏡花の極美本」(p.2-3)では、著者所蔵の美本の図版を掲載。「現物の色とはかなり違う」とのことだが、保存状態の良さはうかがうことができる。

森登「銅・石版画万華鏡 172 正月の引き札」(p.7)もカラー図版。これは確かにカラーがありがたい。当時皇太子妃だった九条節子(後の大正天皇皇后)が描かれた引札を取り上げている。多色石版と空押しの組み合わせとかあるんだ、という感じ。また、岩切信一郎氏が監修されたという『引札 資料集』(海の見える杜美術館,2021)の紹介もあって、「引札の資料集としては出色の図録」とのこと。

竹居明男「「七福神」と「宝船」に関する文献抄—架蔵の稀覯資料から—」(p.10-11)は、七福神、宝船についての図録や解説書の紹介。これでもおそらくコレクションの一部なのだと思われるが、こんなにあるのか、という感じ。特に宝船コレクターによる図録が複数あり、「明らかに大正と昭和一桁代にピークがあった」宝船ブームがあり、「その中心は京都・大阪・名古屋にあったように思われる」という分析が興味深い。

松竹京子「文筆家としての小早川秋聲」(p.14-15)は、小早川秋聲が美術雑誌に寄稿した大量の文章について、その一端を紹介したもの。「日本画家小早川秋聲の御長女山内和子先生から父秋聲について」話を聞く機会があったことが、秋聲の文章を追い始めた契機とのこと。

茅原健「珈琲店—獏さんの思い出」(p.15)は、沖縄出身の詩人、山之口獏氏の思い出を綴った囲みコラムだが、1950年代の池袋北口の喫茶店についての話でもあり。

小田光雄「古本屋散策(238) 姜徳相と『現代史資料』」(p.22)は引き続き、みすず書房の『現代史資料』について。今回は、1963年の『関東大震災と朝鮮人』と、その月報掲載の山辺健太郎「震災と日本の労働運動—朝鮮人問題と関連して」が取り上げられている。また、同巻の編者である姜徳相の『関東大震災』中央公論社,1975.(中公新書)も参照しつつ、朝鮮人虐殺事件の背景が論じられている。1960年代、70年代の蓄積がいかに現在忘れ去られているか、ということを痛感させられる話でもあり。それにしても、三一書房・三一新書の三一って、三・一運動が由来だったのか……知らなかった(これはちょっと恥ずかしいかも……)。

巻末の「談話室」では、古書業界の店舗から目録販売、そしてネットへという流れから、再び店舗志向の若手古本屋の動向に触れつつ「更にネット外の世界に活路を見いだそうとしているのが現在かもしれない」という示唆があり。また「蔵書を持つことがステイタスでなくなってしまった社会の中の古本屋」がどうなっていくのか、その問いかけも重い。

(2022-01-16 誤字を一ヶ所修正しました。「室」→「質」)

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